僕と風景

東雲一

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「僕と風景」

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 薄暗い部屋の中、カーテンから、差し込むわずかな斜光に照らされ、僕は、本棚にあった小説を読んでいた。

 ずっと、僕の心の中に、空白があり、どうしてか何か満たされない気がして、僕は小説を耽読するが、いまだに、心は満たされず、なんともいえない、もやもやとした気持ちを拭い去ることができずにいた。

 一体、僕は、何を求め、何のために生きているのだろうか。何かが足りない。満たされない。何が足りないのだろう。分からない。

 そんなふうに、何度も自分に問いかけてはみるが、一向に答えは見つからなかった。気持ちが晴れない日々の連続。ただ、狭い部屋の中にとじ込もるばかりの自分に、もどかしさを感じるが、外に出ることはしなかった。

「一歩、今日も、学校行かないの?」

 部屋の外から、母親の声がした。僕は、いつものように、同じ言葉を返した。

「行かない」

 僕がそう言うと、母親は、何かを言うでもなく、僕の部屋から去っていった。いつものことだ。最初は、母親も、心配して学校に行かせようとしていたが、いつからか、何も言わず、立ち去るようになっていた。

 僕は、一人でいるのが好きだ。でも、不思議だった。学校にいると、一人の自分が、惨めで、情けなく感じられた。周りは、友達と楽しそうに話しているのに、僕だけなんで一人なんだろうかと思うようになった。結局、僕は、孤独が嫌だったのだと気づかされた。

 それから、僕は、愛想笑いを浮かべるようになった。面白くもないのに、笑ったり、場を盛り上げようと、無理やり、気分よく話したりした。その甲斐あってか、一人だった僕は、友達が何人かできた。

 だけど、僕の心は、満たされることはなかった。絶えず、正体の分からない何かに飢え、求め続けた。

 いつからか、誰からも慕われ、愛される自分を演じることに疲れてしまっていた。笑顔に満ち溢れた顔のうらで、心は、それとは、裏腹に徐々に、腐敗していくのを感じた。

 僕は、一体、どうすればよいのか分からなくなっていた。僕の心は、何を求めているのだろうか。完全に歩むべき道を失い、気づいた時には、引きこもり生活が始まっていた。

 このままではいけない。そんなこと分かりきってるんだよ。

 自分にやるせなさを感じ、布団にくるまった直後、外から、急に雨音が聞こえた。

 突然の雨音に、僕は思わず、部屋の窓から外を見た。空は、雲に覆われ、街中に、大量の雨粒が降り注いでいた。

 すごい雨だ。

 そんな街の光景を見て、ゆっくりカーテンを閉めようとしたときだ。家の近くに、一人の女性が立っているのが見えた。

 あんなところで、このどしゃ降りの雨の中、何をしているんだ、あの人は。

 女性は、学校の制服を来ており、通学中のようだったが、立ち止まり、何かをしているふうだった。

 よく見てみると、彼女の足元には、子犬が、雨に打たれ、寒さで震えていた。子犬は、衰弱しており、目からは輝きが失われていた。

 女性は、びしょびしょの子犬を、ためらうことなく、抱き抱えた。

 笑顔を浮かべ、子犬に「大丈夫だよ」と声をかけた後、急いで子犬をつれ、どこかへ向かった。

 学校とは違う方向だ。彼女の制服から、通学している学校が分かった。

 今の時間帯からして、子犬を助ければ、遅刻してしまうだろう。遅刻すれば、学校の先生に怒られるかもしれない。

 彼女は、衰弱した犬を放っておくことはできなかったのだ。

 彼女が来る前にも、何人かこの子犬を見つけているだろうが、見て見ぬふりをしていたのだと思う。自分のことで精一杯で、子犬を気にかけることをしないのだろうか。僕も、きっと、その一人だ。自分の不幸しか見ていない。自分以外の不幸から目を背けてきた。

 どうして、彼女は、自分が不利益を被るかもしれないのに、誰かのために、行動できるのだろうか。

 僕は、思わず、犬を抱き抱え、どこかへ向かう彼女の姿を目で追っていた。彼女の姿を見て、心温まる気持ちになった。何より、彼女の明るい笑顔が忘れられず、頭から離れなかった。

 この日以降、僕は、外の景色を見るようになった。まだ、外に出る勇気はないけれど、外の世界に興味を持つようになった。

 雲が形を変えて動く様子や、風に揺られ音を立てる木々、会話をしながら話す人々など、外の世界は、当たり前だが、部屋の中とは違い、変化にあふれていた。僕は、改めて変化を伴う世界の中で生きているのだと思えた。

 犬を救った彼女は、今まで知らなかったのだが、毎朝、僕の家の前を通って学校に通学しているようだった。

 彼女のすごいところは、いつ見ても、人生を楽しんでいて、他人への気遣いを忘れないところだ。彼女は、道に迷っている人を助けたり、足が悪いお年寄りと一緒に付き添って歩いたりしていた。周りの幸福を自分のことのように考えていた。

 劣等感に苛まれ歩むべき道を失った僕とは正反対だ。だけど、妬みの気持ちを不思議と抱かなかった。活発な彼女の姿を見ていると、こちらも元気がもらえて、むしろ楽しい気持ちになった。

 純粋に、自分の幸せを他人にも分け与える彼女のような人間に僕はなりたいと思った。

 ある日のことだ。

 彼女が家の前を歩いていた時、彼女が何かを落としたのが見えた。彼女は、落としたことに気づいていない。

 彼女にとって大切なものかもしれない。

 そんなことが頭に過り、僕は、気づいた時には、家を出ていた。今までの僕では考えられないことだった。彼女との出会いが、僕を少しずつ変えたのだと思う。

 彼女の落とし物は、お守りだった。僕はお守りを拾い、彼女に声をかけた。

「あ、あの.......」

 緊張で、うまいこと話せない。どう話せばよいのか分からなかった。

 僕の声に、彼女は立ち止まり、こちらを振り向いた。彼女が振り向いた瞬間、急に熱をおびはじめ、顔が真っ赤になっていくのを感じた。

 もともと、人との会話が苦手で、人と話す時に、顔が赤くなることがあったが、今回は、いつもより顔の赤みがひどかった。

 今までに味わったこともない幸せな気持ちになっていた。今まで空いていた心の穴が埋まっていくのを感じた。

 顔に赤みをおび、緊張のあまり挙動不審な、この男を見ても、彼女は、笑顔を浮かべ澄んだ目で僕を見ていた。

 彼女のそんな姿を見て、渦巻いていた僕の不安は、どこかに吹き飛んでしまった。

「お守り落としましたよ」

 
「ありがとう!全然、気づかなかった」


 彼女は、僕が持つお守りを見て、感謝の言葉を述べた。彼女の言葉は、ごくありふれたものだったけれど、僕の心奥深くまで刺さった。

 人に感謝されることがこんなにも、嬉しくこんなにも幸せに感じることだなんて知らなかった。

 僕は、彼女に抱く特別な気持ちの正体が分かった。僕は、彼女に恋をしていたのだ。心臓が、激しく鼓動して、胸が苦しくなるけれど、幸せな気持ちで溢れていた。

 彼女は、僕から、お守りをもらうと、どこかへ行ってしまった。たいした話もできない自分を、情けなく感じた。もっと話をすることだってできたはずなのだ。

 自分を変えたいと思ったけれど、現実は、そんなに簡単ではないことを身をもって知っている。今までの自分がしがみついてきて、頭では変えたいと思っても自分を簡単には変えさせてはくれない。

 お前は変わらなくてもいい。

 そのままでいい。

 ただ、傷つくだけだ。

 自分の声に飲まれて、相変わらず、引きこもり生活を続けていた。ただ、彼女に対する思いだけが積もった。

 ※※※

 ある日、僕は彼女に向けてラブレターを書くことにした。きっと、僕のことだ。彼女の前だと、緊張して、自分の気持ちをうまく伝えられないだろう。だけど、文章ならば、自分の思いを彼女に伝えることができると思った。

 どうせ、無理だ。彼女が、こんな引きこもりの僕なんかを好きになってくれるわけない。
 
 何度も、心の中で、否定的な言葉が浮かんだ。

 駄目だ、これじゃあ。

 何度も、ラブレターの文章を書き直し、紙を丸めて、ゴミ箱に捨てた。

 いつもの僕なら、途中で諦めていただろう。だけど、今回は、彼女のことを思い、少しずつだが文章を書き進めることができた。日が暮れた頃、なんとか、ラブレターを書き終えた。

 あとは、このラブレターを彼女に渡すだけだ。どうしよう。考えるだけで、胸が張り裂けそうな思いだ。

 ラブレターを書き終えたが、翌朝になって、彼女に手紙を渡すとなると、足が止まった。結局、彼女にラブレターを渡して、思いを伝えることは出来ずに、部屋の床に膝から崩れ落ちた。

 時間は、自分の気持ちなんて無視して相変わらず進み続ける。僕は、ふと、部屋の外の景色を見た。外の景色は、変わっているのに、閉塞した空間の中、僕だけが変わらない。変われないでいる。

 思いを告げよう。変わるんだ。僕も。

 さらに一日が過ぎ、今日こそはと決意を決めて、彼女が姿を現すのを待った。だけど、待てども、待てども、一向に彼女は現れない。

 あれ、どうしたのかな。いつもだったら、すでに、家の前を通っている頃なのに。

 明日、きっと、彼女に会えるよね......。

 しかし、彼女は、明日になっても姿を現さなかった。そればかりか、明後日も、明明後日も、彼女は、現れない。彼女に会えない日が続き、次第に彼女に対する思いが強くなっていったが、そんな思いも虚しく、彼女を最後に目にしてから、ついに1ヶ月ぐらいが経った。

 今日も、会えないのか。

 と、半分諦めていた頃だった。彼女が家の前を歩いているのが見えた。

 手紙を手に持ち、外に出ようとするが、やはり、簡単には行かない。体が、自分の思いに反して、外に出ることを拒絶し、思わず、立ち止まった。心臓の鼓動が乱れ、生きている心地がしなかった。

 なにもできずに終わるのか。僕は、所詮、僕なのか。

「行きなさい。あの子に、思いを伝えたいんでしょ」
 
 母親の声が、聞こえた。突然の母親の声に、驚いたが、お陰で、躊躇いの気持ちが、なくなった。

「ありがとう。行ってくるよ」
 
 手紙を持って、部屋の扉付近に立っている母親に、感謝すると、彼女のもとに急いだ。母親は、引きこもりになった今でも、僕のことを見てくれていた。

 駄目かもしれない。嫌われるかもしれない。だけど、やらずに後悔して終わるのだけは絶対に嫌だ。

 家から出ると、青一色で、雲ひとつもない空が飛び込んできた。部屋との中とは、違い、輝いて見えた。

 日が射す、通路に、歩いている彼女の後ろ姿が見えた。ここまで来たら、あとは、手紙を渡すしかない。

 僕は、彼女に、勇気をふりしぼって話しかけた。

「すみません......」

 僕の声に反応して、彼女は、こちらを振り返った。僕は、彼女の姿を見た瞬間、思わず立ち止まった。

 違う。彼女じゃない。

 僕が話しかけた相手は、いつも、家の前を歩いていた彼女ではなかった。容貌は似ているが、明らかに彼女ではなかった。

 僕自身も、驚いていたが、話しかけられた女性も、驚いた様子だった。それもそのはずだ。全く知らない相手から、突然、話しかけられたのだから、無理もないことだった。

「何でしょうか?」

 目の前の女性は、若干、こちらを警戒しつつ言った。

「間違いました。人違いです、気にしないでください」

 彼女に会えると心を弾ましていたが、彼女でないことを知り、僕が心虚ろになって家に戻ろうとした時、後ろから、先ほどの女性が声をかけてきた。

「あ、あの、もしかして、姉に用があるのではないですか」

「姉......あなたは、彼女の妹さんなんですか」

 彼女と目の前の女性は、雰囲気が似ていた。姉妹ということなら、納得がいった。

「やはり、姉のことをご存知なのですね。申し上げにくいのですが、先日、姉は子供を助けようとして事故に遇い、病院に運ばれましたが、まだ意識を取り戻していません。医者からは、おそらくもう目を覚まさないだろうと言われました」

 僕は、女性の言葉をすぐに理解できなかった。目の前の女性はなんと言ったのだ。

 姉が事故にあった......。まさか、そんな。何かの聞き間違いに決まっている。つい、この間まで、元気にこの家の近くを歩いていたではないか。そんな人が、事故に遇い、意識を失っているなどにわかに信じることなんてできなかった。

 あまりに唐突な事実に、頭が混乱し、何も話せなくなっていると、女性が話始めた。

「あなたと、姉との関係は分かりませんが、あなたが、何か姉に伝えようとしていたようなので、伝えるべきだと思いました。あなたと姉は、どのような関係だったのですか」

 彼女の妹である女性は、僕に問いかけてきた。改めて、聞かれると、僕は彼女とろくに話をしたことはない。関わりという関わりを持っていなかった。

 ただ、家の近くに、歩いている彼女を見て、元気をもらっていた。ただそれだけの希薄な関係だ。

「彼女とは......知り合いです。ただ、それだけの関係なんです」

「あなたは、嘘をついています」 

「何で、そう思うんですか......」

「だって、とても悲しい表情を浮かべているんですもの」
 
 女性が言うように、僕は嘘をついていた。ただの知り合いなどではなかった。彼女は初恋の人で、僕の生き甲斐そのものだった。きっと、僕の片思いだと思うけれど、僕にとってかけがえのない特別な人であるのは確かだった。

「彼女のことが好きだったんです。確かに、たいした話をしたりはしていなかったけれど、自分に生きる希望を与えてくれた特別な人だったんです。妹さんの方が、ずっと彼女と長いときを過ごし、つらい思いをされているはずなのに。すみません、こんなにも取り乱してしまって......」

 女性は今にも泣き出しそうな情けない僕の姿を変な顔ひとつせず言った。

「いえ、あなたの純粋に姉を思う気持ちは、伝わりましたから。あなたは田月さんですよね。姉が前に、この辺で会ったと言っていたので」

 僕は、女性が自分の名前を知っていることに、驚いた。彼女にも、目の前の女性にも、名前を話した覚えがなかった。

「どうして、僕の名前を」

「以前、この辺で、落とし物をした時に、拾ってくれた男性が、田月さんだったと姉は言っていました。家の標識が田月になっていたので男性が田月さんだと分かったようです」

「たった1日、ほんの数分だけ会っただけなのに、彼女は、僕のことを覚えてくれたんですね。それなのに、僕は、彼女の名前すら知らない」

「姉は、明日野飛鳥と言います。田月さんに初めて、会った時のこと話していました。とても笑顔のすてきな方と聞きました。彼の笑顔に、元気をもらえて、印象残っていたみたいです」

「そうだったのか......」

 僕は、その事実に、思わず声を漏らした。

 彼女は、明日野飛鳥は、僕のことなんて、ちっとも覚えていないだろうと思っていた。だけど、違った。

 僕が彼女に話しかけた時、自分では全く気づかなかったけれど、僕は笑っていた。引きこもりであまり感情を表に出さない僕が、思わず笑顔を浮かべてしまうくらい、彼女とのあの瞬間は、僕にとって、特別で幸せな時間だったのだ。

 彼女の笑顔から、元気をもらったように、僕の笑顔で、彼女に元気を与えていたなんて考えもしなかった。

 僕でも、誰かに元気を与えることができる。ただ、生きているだけで、誰の役にも立てないのだと思っていたけれど、こうした形で、大切な人の役に立てていたことは、嬉しい気持ちになった。

「そろそろ、行きますね。姉のいる病院に、行かないといけないので」

「すみません、いきなり、呼び止めたりして。飛鳥さんが、目を覚ますことを願っています」

 女性は、悲しげな表情を浮かべて、ゆっくりと、去っていった。その表情から、病院に眠る飛鳥さんの状態が、芳しくないことが見てとれた。

 現実は、残酷だ。いくら、願っても、祈っても、自分の思うようには、大概、動いてはくれない。だけど、彼女が、深い眠りから目覚めることを願わずには、いられなかった。願うことしか、僕のできることが思い当たらなかった。例え、願いが無意味なことだったとしても、僕は、願い続ける。

 世界は、変わり続ける。僕が苦しもうと、苦しまずとも、何事もなかったように平然と、いいようにも悪い方にも変わって行く。今ある、当たり前も、ほんの一瞬で、消えてなくなってしまう、危うさが常にあった。

 僕は、彼女のように生きたいと思った。彼女のように、誰かのために、何かをするということが、この満たされない気持ちを唯一、満たしてくれるのだと彼女と出会い気づかされたから。

 誰かのために、何かをするなんて、偽善者がやることじゃないかと思っていた。きっと、誰かを守ろうと思う気持ちすらも、自分のエゴなのではないかと思っていた。

 だけど、自分のためだけに生きるのは、つまらなく、空虚だった。際限のない自分の欲望は満たしても、また、満たしたつもりになっているだけで、ただ、蓋をして、虚しい気持ちを覆い隠しているだけに過ぎなかった。誰かのために生きることで、自分という存在を強く感じられるのだと知った。こんな自分でも、誰かを笑顔にできるなら、生きていたって、いいよなって思えた。

 僕は、青く澄み渡った大空を仰ぐと、心の中で誓った。

 明日から、学校に行こう。変わりたいんだ。自分だけが、殻にとじ込もって、変われないでいるのは、もう嫌なんだ。殻から抜け出して、もっと自由な世界に飛び立ちたい。

 ※※※

「行ってきます」

 僕は、後ろにいる母親にそう言うと、久しぶりに、学校に行った。なんとなく、その時、彼女が、僕の背中を押してくれたような気がした。

 学校のみんなは、久しぶりに僕の姿を見て、少し驚いた様子を見せたが、変な目で、見たりはせず、ごく普通に接してくれた。

 正直、ずっと、怖かった。引き込んでいた僕を、受け入れてくれるのか、変な目で、見られるのではないかと内心震えていた。

 僕は、僕の作り上げた物語の中で生きてきたのだと思う。自分で勝手に、馬鹿にされるだとか、変な目で見られるだとか、そういう物語を作って苦しんでいた。

 だけど、現実は、自分が思い描いた物語みたいにはならなかった。それもそのはずだ。すべて、僕が作り上げた物語は妄想なのだから、当たり前のことだった。

 学校に通い始めて、数日たったけれど、なんの変哲もなく、当たり前のように、時間が流れた。時々、彼女のことを思い出す。彼女は、今もまだ病院で意識が戻らないまま、眠り続けているのだろうか。彼女に関する情報が全くなかった。彼女の妹にも、あの時に出会って以降、会っていない。

 僕は、雪が降っている通学路を歩きながら、駅に向かった。今日は、特に寒い。息を吐き、すっかり、かじかんだ両手を温めた。吐いた息も、白くなっていた。

 雪が降っているが、積もるほどの量ではない、なんとか、電車に乗って自宅に帰れそうだった。駅のベンチに座り、ぼんやり、駅から見える街の景色を眺めながら、電車が来るのを待った。

 座っていると、お年寄りの女性が、何かに躓いて、転んだのが見えた。僕は、すかさず、お年寄りの女性に寄り添い、「大丈夫ですか」と声をかけていた。ごく自然に、何も考えることもなく、そんな行動に出ていたことは、自分でも驚きだった。

「心配してもらわなくても結構です」

 お年寄りの女性は、不機嫌な様子で、自ら立ち上がると、どこかへ立ち去っていった。僕は、女性が、何も怪我をしていない様子を見て、安心すると、また、椅子に座って、電車が来るのを待った。

 僕は少しでも、彼女に近づけただろうか。一人の女性としてではなく、一人の人間として、僕は、彼女のことが好きだ。

 いつか、また、彼女に会えたなら......。

 電車が、線路の上を走る音が聞こえてきた。
電光掲示板で、学校まで行く電車かどうかを念のため確認してベンチから立ち上がり、乗り場の黄色い線の手前まで歩いた。

 立ち止まっていると、突如、耳をつんざくような叫び声が響き渡った。

 すかさず、叫び声がした方向を見てみると、先程のお年寄りの女性が、乗り場から線路に落ちて、足が悪いのか身動きがとれなくなっていた。

 助けなければ。

 僕は、乗り場から、飛び降りて、線路にいるお年寄りのところまで急いで行った。早速、お年寄りを乗り場まで持ち上げようとするが、寒さで手がかじかんでいて、力が入らない。何度も、力を入れてみるものの、やはり一人では、持ち上げることができなかった。

 そうしている間にも、電車は、音を立てて、すぐそこまで来ていた。このままでは、二人とも、電車に轢かれてしまう。この人だけでも、なんとか助けたい。

 すると、僕たちの様子を見ていた人たちが次第に集まってきて、お年寄りの女性を線路から乗り場に上げるのを手伝ってくれた。そのお陰で、無事に女性を乗り場に持ち上げて、助け出すことができた。

 あと、線路に残っているのは僕だけだ。

 そう思った瞬間、電車が急ブレーキをかけ、火花を散らしながら線路を削る鋭利な音が耳に突き刺さった。
 
 僕は、横を振り向くまでもなく、死を直感した。こんなにも突然に、なんの前触れもなく、その時が来るなんて思いもしなかった。

 ああ、ここで死ぬんだな、僕は。

 半ば、諦めかけたところに、女性の声が、聞こえた。

「生きて!田月くん、私の手に捕まって」

 この懐かしく、暖かみのある声はまさか......。僕の方までまっすぐ差し伸べられた手を自ずと、掴んでいた。そのまま、乗り場まで、引き上げられた直後、線路に電車がものすごい勢いで通過した。

 間一髪のところだった。先ほどの声は彼女だ。飛鳥さんのおかげで助かった。病院で意識を失っていた彼女は、生きていたのだ。やっと、彼女に会えた。伝えるんだ、思いを。もう覚悟は、できている。ラブレターがなくたって、自分の言葉で思いを伝えてみせる。

 僕は、彼女に思いを伝えようと彼女の姿を探した。人が多くて、すぐには見つからない。

 人の波を掻き分けて、辺りをひととおり見渡した。だけど、いない。先ほどまで確かにいた彼女の姿はなかった。

「あの......先ほどまで、ここにいた僕と同い年くらいの女性を知りませんか」

 僕は、思いきって近くにいた人に彼女のことを聞いた。

「いや、知らないな。そんな人いたかな。ここに」

 どういうことなのか、僕は、にわかに状況を理解することができなかった。ふと、駅の床に、何かが落ちているのに気づいた。そして、不意にそれを見て彼女の優しい笑顔が頭に浮かんだ。

「そうか、そうだったのか......彼女は、もう......」

 床に落ちていたものは、彼女のお守りだった。僕は、お守りを拾うと、優しく握りしめた。

 最後の最後まで、僕は、彼女に救われてしまった。本当にどこまでも、世界は、空気を読まず、平然と、移ろって、残酷な現実を突きつけてくる。

 正直、くじけそうで、胸が苦しく、悲しみの涙がこぼれそうになったけれど、最後に聞いた「生きて!」という言葉を思い出し、耐え忍んだ。

 彼女が、せっかく救ってくれた命だ。救ってくれたのに、苦しみながら、生きるなんて、彼女の行いを無駄にすることだ。そんなこと、あってはいけない。

 生きるよ。自分らしく、君に負けない笑顔を浮かべられるくらい、幸せに生きる。誰かに、自分の幸せをお裾分けできるくらい幸せになる。

 僕は、いつものように、電車に乗って、学校へと向かった。電車の扉には、幸せな顔をした僕が映っていたーー。

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