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16 獲物は獲物

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 霧崎キリエは、強く後悔していた。

(私、なんで……)

 涼介を部屋に招いてしまったあの日のことを悔やみ、絶望していた。

(なんで、どうして……。どうして……『涼くん』なんて!)

 思い出すと体が火照って、頭の中が熱くなる。思いついた途端、ふいに口から出た彼の呼び名。

 その呼び名を頭のなかで反芻するたび、そして、彼から自分の名を呼ばれたときの気持ちを見つめ直すたび、むず痒い恥ずかしさだけでなく、喜びも胸に湧き上がってくる。

 さらには――
 あの時の快感も思い出してしまうのだから、本当に厄介だった。

 恋人が出来たことだけでも思いがけない大事(おおごと)だったのに、処女を奪われ、あげくに自分から腰を振ったのだ。

(…………)

 あれから2日が経過している。
 もう2日、とも思えるし、まだ2日しか経っていないのか、とも思う。

 まだ信じられないという思いと、自身の下腹部に残る、生々しい疼き。

 彼の名を呼ぶ自分の声と、自分の名を呼ぶ彼の声を思い出すだけで、キリエの中で、あの時の感覚が、いつでも鮮烈に蘇ってくる。

 かつてキリエの中でくすぶっていた火種は、今やはっきりと、彼女の体を支配するに至っていた。


  + + +


 この日、キリエは涼介と会うことになっていた。

 有り体に言うと、デートの約束をしていた。

 交際関係を結んでから、外で顔を合わせるのは初めてになる。

 涼介はキリエの『まだ恥ずかしいから』という意向を汲んで、また現地集合でのデートを提案してきた。

 以前、2人で買い物に行ったときと同じルートで現地に向かい、落ち合って、商業ビルの中にある水族館を訪う予定だ。

 前日から、キリエは落ち着かなかった。
 あんなことをした相手とどんな顔をして会えばいいのか、さっぱり分からなかった。

 煩悶としてベッドに倒れ込んでも、そこでも涼介を思い出してしまう。いやむしろ、その場所は余計に――

 そうして、寝不足のままデートの朝を迎えていた。
 ずっとドギマギしながら支度を調えて、家を出る。

(さすがに和樹とは……会わないよね)

 幼馴染の家を通るとき、つい意識してしまう。
 そう、涼介に対してだけではない。和樹や、他の友人たちと会うにも、なんだか戸惑ってしまいそうだ。もう、以前の自分ではないのだからと――。

(自意識過剰かな……)

 なんてことはない、ただ恋人ができて、初体験を終えただけ。ただそれだけのことだ。

 そうやってさざめく心を落ち着かせようとしても、道を行く自分の足が、なんだかフワフワしている。
 浮かれているような、後戻り出来ない場所に来てしまったような。
 そんな、おぼろげな感覚だった。

 ――和樹もこんな気持ちだったんだろうか。

 と、考えが巡る。
 和樹と愛花が付き合い始めて、1月以上が経っているはずだ。

 キリエですらあんな経験を済ませてしまったのだから、きっとあの2人も、それなりの行為には及んでいるはずだ。

(和樹と志乃原しのはらさん――)

 電車を待つホームで、ふいに、2人の並ぶ姿が脳裏をよぎる。
 その途端、ぐつぐつと煮え立つような感情が、熱を伴って全身に巡った。

 嫉妬ではない。
 屈辱感でもなかった。

 ただ、想像してしまったのだ。見知った2人が――しかもそのうち1人は、ずっと思い焦がれていた相手が――一糸まとわぬ姿で、交わり合っている姿を。

 どんな顔をして、どんな声で、どんなふうに――

 以前のキリエなら、絶対に思い至ることのなかった妄想。それが、なぜか強い現実感をもって湧き上がってきた。

(っ、私、こんなところで、なにを……!)

 誰に思考を覗かれているでもないのに、あまりの恥ずかしさにキリエはうつむいてしまう。

 その恥ずかしさをごまかすため、ちょうどホームに滑り込んできた電車に飛び乗り、空席にも座らず、向かいのドア付近に立って、ひたすら心を鎮めることに注力した。

 が。
 押さえ込もうとすればするほど、はしたない妄想は加速していく。

 和樹と愛花が、お互いを求め合っている姿。
 それがいつのまにか、自分と涼介に置き換わって――キリエが見ているキリエは、淫らに涼介と繋がり合っていて――
 
「…………ッッ」

 車内は冷房が効いているのに、太ももの内側がじっとりと熱い。不埒な湿り気が、スカートの中に充満していく。

(最低だ……私……っ)


 自己嫌悪に苛まれて嫌な汗をかきながら、目的の駅に着く。

 今回も、待ち合わせ場所には涼介が先に到着していた。
 以前と同じシチュエーション。嬉しそうな涼介の顔。どんな顔をして会えばいいかなんて、ちっとも思い悩んでいなかっただろう、朗らかな笑顔だった。

 一方で、酷い妄想のせいでキリエの心は必要以上に打ちのめされていたのだが――

「ご、ごめんね。時間かかっちゃって……」

 なぜか涼介の顔を見た途端、それまでの不快感が、丸ごと裏返ったような気分になった。

 心臓はバクバクと鳴っていて、涼介に気取られないかと不安になるほど。
 耳まで熱いし、視界が狭くなったような気がする。

「ん、気分悪い? 大丈夫?」
「そ、そんなことないから――」

 取り繕うために顔を逸らすが、あまり効果的ではなかった。

「そう? じゃあ行こうか」

 と、さりげなくキリエの手を取ろうとした涼介の指が、手の甲に触れて、

「やっ!? な、なにするのっ――」

 つい、大声が出てしまい、通りがかりのサラリーマンから不審げな視線を向けられてしまう。
 この場合、不審者扱いされるのは涼介のほうだ。
 それで、さすがの彼も居心地の悪そうな苦笑顔になる。

「ごめんごめん……俺、また調子に乗りすぎた? はは、まあ浮かれてたってことで大目に見てよ」
「う、ううん……私こそ、ごめんなさい」

 せっかくの初デートだというのに、ぎこちないスタートになってしまった。それも、自分のせいで……。


 ■ ■ ■


 水族館の中は薄暗い。
 真夏の日差しから一転して、異世界に入り込んだような気分だ。

 涼介は、伏し目がちに隣を歩く『恋人』を横目で見て、胸中で苦笑する。

(ガチガチだな……)

 見ているこちらが緊張してしまいそうなほどの、初々しい態度だ。

 デートを提案したのは涼介のほうだったし、水族館を指定したのも涼介だ。

 ――正直、彼自身も少し意外に感じていた。

 手っ取り早く、キリエを自宅に連れ込むという選択肢もあった。

 他の肉体関係を持った女子が相手なら、そうしていたはず――。

 なのに、そうしなかった自分の行動が、自分でも不思議だった。

 夏休みの真凜は在宅の可能性も高いが、彼女は障害になり得ない。
 あの義妹は、むしろ涼介とキリエの関係を喜ばしく思うだろうし、それどころか、積極的に場を整えようとすらして来そうだ。

 だから、昼間からキリエをベッドに押し倒し、事を成してもいいのだが――

「な、なに?」
「いいや。俺の恋人、可愛いなと思って」
「ば、ばかじゃないの!?」

 この反応をただ見ているのも悪くないかもしれない――
 自身の妙な心境は横に置いておいて、今はこの感覚を楽しむことにした。

 
 ビル内にあることもあり、さほど広くはない水族館。
 涼介たちは夏休みだが、世間は平日。
 客層は、同世代の女性同士のグループだったり、涼介たちよりいくつか年嵩のカップルが目に付く。

 ひときわ大きな水槽の前で立ち止まる。
 静かにライトアップされた中で気ままなふうに魚たちが揺蕩(たゆた)っている。

「…………」

 これも、涼介にしては珍しく、感傷的な気分に浸っていた。
 ずっとずっと幼い頃、両親に連れられて行った水族館の遠い記憶が、ふいに横切るような思いだった。

 ――しかし。

 沈黙する涼介のことをどう捉えていたのかは分からないが、キリエがそっと身を寄せてきた。
「あ、あの、さっきは……ホントにごめんね」
「は?」

 一瞬、本気で意図が読めなかったが、すぐに待ち合わせ場所でのことだと思い至る。

「ああ、そんなこと――」

 気にするようなことじゃない。
 そう言おうとした涼介の左手に、キリエの右手が触れてきた。

 手の甲がほんの少し擦り合わされるだけの、軽い接触。
 
「い、イヤとかじゃ……ないから」

 手を繋ごう、という意思表示のつもりらしい。

「無理しなくていいのに」
「無理じゃない……! 無理じゃないの、本当に。その……りょ、涼くんとなら、いいから……」

 あまりのいじらしさに噴き出しそうになるのを必死で堪えて、万が一にも、顔には表さないように努力する。

「キリエって、本当にタイミングが――」
「え?」
「いや、何でもない。じゃあお言葉に甘えて」

 キリエの手を取る。これもまた信じられないほど緊張でこわばっていて、また笑いが漏れそうになる。
 代わりに、

「キリエってさ、やっぱ意外と汗っかきだよね」
「なっ――、さ、最低! やっぱり手離して!」
「駄目駄目。さっき、思い切り傷つけられたしなぁ」
「ほ、本当にあなたって――」
「ん? 2人きりなんだし、名前呼んでくれないわけ?」
「呼ばないから!」

 ぶんぶんと振りほどこうとするキリエの手を半ば強引に引いて、順路を進んでいった。


  + + +


「キリエ、あの旅行どうする?」

 熱帯魚の水槽が並ぶ部屋で、ふいに涼介がそう切り出してきた。
 まだ、繋いだ手の違和感は大きい。だが、嫌な気はもうしない。

「旅行って……ああ、あれ」

 
 それは、夏休みに入る前。
 キリエたちのクラスメイトがある企画を思いついて、仲間たちに提案していたものだった。
 
 1泊2日で、旅行に出かけようという誘い。キリエも、仲の良い女友達を経由して、メンバー候補ということで巻き込まれていた。

 声が掛けられているのは、男女がそれぞれ十名程度。
 時期は、部活動のあるメンバーの兼ね合いもあって、8月の後半だ。安い宿を探して大部屋にでも泊まって、楽しく騒ごうという提案だった。

 ちなみに、表向きは『男子だけ』『女子だけ』で宿泊すると、口裏を合わせることが条件に挙げられていた。
 同性だけのほうが、親から許可を取りやすくなるだろうという意図だ。

 実際には男女で部屋は別々にする予定だが、それでも同じ宿に泊まることに違いはない。
 
「ああいうのって……」

 ハメを外しすぎるのは、苦手だ。

 男女それぞれの中心人物は妙な行為に走るようなタイプではないから、非行方面での心配はないだろうが――
 男女別で、という悪知恵が働くあたり、全面的に信用していいのかは疑問が残る。

 それに。
 良心がチクリと痛むし、もし何かあったらと、怖い気持ちもある。

 問題点はそれだけではない。
 他のクラスも巻き込むその旅行企画には、和樹と志乃原愛花の名前も、メンバーに含まれていたのだ。

 ――冗談じゃない。

 話を聞いたときのキリエは、当然ながら断る気持ちを固めていた。

 だが、友人はしつこく誘ってくるし……さらには、涼介も旅行メンバーの1人なのだ。

 今なら。
 涼介と恋人関係になった今なら、キリエも楽しめるかもしれなかった。

 もちろん、変なことはしない。
 まずもって、2人きりになることもないだろう。まだ交際をオープンにしていないから、旅行中はあくまでただのクラスメイトとして振る舞う。

 そんな演技下であっても、もしかしたら、楽しい時間を過ごせるのかもしれない――
 やはり、どこか浮ついた気分がキリエの中にはあったのだろう。

「でも……水着ないし」

 断ると決めていた割には、曖昧な反応が出てしまった。

「そっか。じゃあこのあと買いに行こうか」

 さらりと、何事もないかのように涼介が言う。

「え?」
「だから、このあと。ランチ食べてからの予定決めてなかったじゃん。うん、それがいい。水着を見に行こう」
「だ、誰の?」
「だから――キリエの」

 涼介の笑顔にありありと浮かぶ意地悪っぽい色に、キリエは、

(やっぱりこいつ……嫌いっ!)

 胸中で叫びつつも、もう逃げられないことを悟るのだった。



――――――

7時・12時・17時・22時に更新します。

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