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4章
14 散歩道の二人
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「なー、行こうぜ海」
「行かない」
今日は山村と一緒に、詩季先生の夏期講習を受けていた。詩季の家のリビングの広いテーブルを使わせてもらっている。例によって山村の声がにぎやかだ。
「さのっちたちなら平気だって。お前が恋愛興味ないってんなら押してこないよ」
「何を言われても行かない」
(狭野さんのグループか)
女子グループと海に行く計画なんて、どういう話の流れで持ちあがってくるのだろう。想像がつかない。
「うう……。ところでタロウは来るの?」
「えっ」
僕も誘っていたんだ。
山村たちと海は楽しそうだが、交友のない狭野たちとは気後れする。タロウが迷っていると、
「タロウは俺と行く約束しているからだめ」
と詩季が断ってしまった。
ほっとした。行くなら少人数がいい。詩季と別行動になったりしないように。
「なにそれ。俺も行っていい?」
「タロウ、どうする?」
「いいよ。ヤマくん二回行くの?」
「それ含めて三回」
「すごい」
「ただし俺たちと行きたかったら、日曜までに数学の宿題終わらせような」
「鬼!」
「休憩ー」
山村がラグの上に寝転がる。
「昼寝したいです、先生」
「どうぞ」
詩季は壁掛け時計を見て、すぐ許した。
(人の家のリビングで眠れる?)
と思っていたらもう寝息が聞こえてくる。
「タロウも楽にしていて」
そう言って詩季は立ち上がり、リビングから出ていった。タロウがもらったお茶を飲んでいると、詩季が戻ってきた。
「俺の部屋来て。今、マメがいる」
ついていくと、詩季のベッドで可愛い黒猫がリラックスしていた。
「おやつあげてみて」
ジャーキーのようなものを渡された。美味しそう。
「目の前に出して待っていればいいから」
ベッドに肘をついて手を伸ばす。マメはすぐには来ないが、おやつは気になるようで、ちょっとずつ近づいてきて、やがてタロウの手から食べた。
「……っ」
可愛らしさに震えそうになるのを抑える。マメのおやつ係を全うしなくては。
おやつを食べ終わると、マメは再びベッドの中央に寝そべった。
「詩季、ありがとうっ……」
「すごいな。凝視されていたのに食べた」
「え、何か悪いことした?」
「大丈夫だよ」
「ほんとかな……。ヤマくんはあげたことあるの?」
「ないよ。あいつうるさいからマメが近寄らない」
「そっか。僕は運が良かったのかな」
タロウの撫でる手から、マメは逃げないで触らせてくれた。ふかふかの手触り。
詩季と二人でベッドに頭を預けて、マメの様子を観察する。
「かわいいねー……」
タロウもいつのまにか眠ってしまっていた。
起きた後、リビングで人間用のおやつもくれた。美味しかった。
「じゃあなー」
山村が原付バイクで帰っていく。
「詩季はこれからジョギングなんだ」
「うん。タロウはまっすぐ帰る?」
「図書館でも寄っていこうかな」
「あ、ちょっと待って」
詩季が家の中に入り、少しして出てくる。
「これ、ありがとう。返すの遅くなってごめん」
詩季が手にしていたのは、『恋はねむる』の小説だった。
「そういえば貸していたね。どうだった? 映画と同じ流れだけど、ところどころ心情が言葉に起こされていたよね」
作者が映画脚本家、原案が監督なので、かなり映画に近い小説だった。
「うん。綺麗な文章の人ですごく合っていたね。……でも、ごめん、最後まで読んでいない」
「え……」
意外だ。癖のない文体だし、詩季の本棚に並ぶ本の趣味からしても、苦手だとは思わなかった。
「ゆっくり読んでもいいけど」
「いい。ありがとう」
読む時間がなかったわけではないようだ。細かな趣味があるのだろうと、タロウが本をしまおうとしたとき、
「……映画の最後、結ばれなかったから……」
詩季がぽつんと呟いた。
「それで、読まなかったの?」
詩季が頷く。
「読めなかったんだ。ページがだんだん減っていって、もうすぐあのシーンだと思うと、読むのが遅くなった。それとその頃……。……いや、なんでもない。ごめん」
「紫は……断ったわけじゃない」
声が震えた。
「でも長房は、もうあの場所に来ない」
(もう来ない?)
映画のラストシーン。主人公の長房は列車に乗って都会へ帰り、彼の愛する紫はその姿を見送った。列車が見えなくなる前に、映画の幕は閉じた。
紫はもう二度と、長房が乗る列車を迎えることができないのだろうか……。
「ちがうっ」
タロウは詩季に本を押し返した。
「読んで」
ぐいぐいと押しつけて、詩季に無理矢理持たせた。
「タロウ?」
「この本の最後で結ばれなかったのは、そうだけど……」
それだけじゃない。
「紫の心は、動いたよ」
「――……」
詩季はきっと、困った顔をしているだろう。
(僕は、自分の気持ちも決まらないのに……)
言うだけ言って、タロウは走ってその場を後にした。
『恋はねむる』
物語の語り手で主人公の長房は、都会と仕事から離れて、山を越えた先の地に静養に訪れた。
近くのあぜ道を散歩して、診療所へ顔を出す。
広々として素朴な庭。藤の花が盛りで、その下で長房は、紫に出会った。
とても綺麗に、柔らかく微笑む紫。
朴訥な長房が恋に戸惑う様子を、気にもしない。
乏しい体力で、凛と軽やかに、紫は一人の時間を楽しんでいた。
長房は彼女の散歩についていく。心配と同時に、敬愛の気持ちで。
彼女の歩く先は、どこも美しく見えた。
(映画では……)
異郷の客人に対するお人形のような微笑みが、やがて陽の光のような表情に変化した。
恋に戸惑っていた長房も、戸惑いは薄れて、ただ愛しい人との散歩を楽しむようになった。
他の人とのエピソードもあったけれど、二人を変えていったのは、お互いの存在だった。
映画と小説のストーリーは同じ。
最後に、長房は都会へ戻る。また君に会いに来る、そう言って抱きしめようとした長房から一歩離れた紫。
紫は、その季節に集められるだけの野の花を長房に贈った。
――映画の最後、結ばれなかったから……。
(違う。あの二人は……)
長房はきっと何度でも来るし、紫は手紙を送る。
タロウはそう信じている。
詩季の方が細かい心情を……、特に長房の心情を読み解くことが上手と知っているけれど。
それでもタロウは信じている。
小説に答えがあったわけではない。ただ、読み進めれば進めるほど、二人の幸せな気持ちが溢れかえってくる文章だった。
(紫は……)
紫の好きを表現した。
素朴な花を、朴訥な青年に贈った。
近くにしかいけない紫の散歩に、楽しそうに付き合ってくれた特別な人に……。
(友だち……、好きな人……)
どちらと思えばいいのか、よく分からないけれど、
(詩季……)
タロウの胸を、特別に温めてくれる人だ。
(……詩季の目には、やっぱり別れるように見えるのかな)
映画の感想を言い合っていたときは出てこなかった。今度は、詩季の本の感想を訊いて、タロウの感想も訊いてほしい。
次の約束は三日後。あの丘で会う。
「行かない」
今日は山村と一緒に、詩季先生の夏期講習を受けていた。詩季の家のリビングの広いテーブルを使わせてもらっている。例によって山村の声がにぎやかだ。
「さのっちたちなら平気だって。お前が恋愛興味ないってんなら押してこないよ」
「何を言われても行かない」
(狭野さんのグループか)
女子グループと海に行く計画なんて、どういう話の流れで持ちあがってくるのだろう。想像がつかない。
「うう……。ところでタロウは来るの?」
「えっ」
僕も誘っていたんだ。
山村たちと海は楽しそうだが、交友のない狭野たちとは気後れする。タロウが迷っていると、
「タロウは俺と行く約束しているからだめ」
と詩季が断ってしまった。
ほっとした。行くなら少人数がいい。詩季と別行動になったりしないように。
「なにそれ。俺も行っていい?」
「タロウ、どうする?」
「いいよ。ヤマくん二回行くの?」
「それ含めて三回」
「すごい」
「ただし俺たちと行きたかったら、日曜までに数学の宿題終わらせような」
「鬼!」
「休憩ー」
山村がラグの上に寝転がる。
「昼寝したいです、先生」
「どうぞ」
詩季は壁掛け時計を見て、すぐ許した。
(人の家のリビングで眠れる?)
と思っていたらもう寝息が聞こえてくる。
「タロウも楽にしていて」
そう言って詩季は立ち上がり、リビングから出ていった。タロウがもらったお茶を飲んでいると、詩季が戻ってきた。
「俺の部屋来て。今、マメがいる」
ついていくと、詩季のベッドで可愛い黒猫がリラックスしていた。
「おやつあげてみて」
ジャーキーのようなものを渡された。美味しそう。
「目の前に出して待っていればいいから」
ベッドに肘をついて手を伸ばす。マメはすぐには来ないが、おやつは気になるようで、ちょっとずつ近づいてきて、やがてタロウの手から食べた。
「……っ」
可愛らしさに震えそうになるのを抑える。マメのおやつ係を全うしなくては。
おやつを食べ終わると、マメは再びベッドの中央に寝そべった。
「詩季、ありがとうっ……」
「すごいな。凝視されていたのに食べた」
「え、何か悪いことした?」
「大丈夫だよ」
「ほんとかな……。ヤマくんはあげたことあるの?」
「ないよ。あいつうるさいからマメが近寄らない」
「そっか。僕は運が良かったのかな」
タロウの撫でる手から、マメは逃げないで触らせてくれた。ふかふかの手触り。
詩季と二人でベッドに頭を預けて、マメの様子を観察する。
「かわいいねー……」
タロウもいつのまにか眠ってしまっていた。
起きた後、リビングで人間用のおやつもくれた。美味しかった。
「じゃあなー」
山村が原付バイクで帰っていく。
「詩季はこれからジョギングなんだ」
「うん。タロウはまっすぐ帰る?」
「図書館でも寄っていこうかな」
「あ、ちょっと待って」
詩季が家の中に入り、少しして出てくる。
「これ、ありがとう。返すの遅くなってごめん」
詩季が手にしていたのは、『恋はねむる』の小説だった。
「そういえば貸していたね。どうだった? 映画と同じ流れだけど、ところどころ心情が言葉に起こされていたよね」
作者が映画脚本家、原案が監督なので、かなり映画に近い小説だった。
「うん。綺麗な文章の人ですごく合っていたね。……でも、ごめん、最後まで読んでいない」
「え……」
意外だ。癖のない文体だし、詩季の本棚に並ぶ本の趣味からしても、苦手だとは思わなかった。
「ゆっくり読んでもいいけど」
「いい。ありがとう」
読む時間がなかったわけではないようだ。細かな趣味があるのだろうと、タロウが本をしまおうとしたとき、
「……映画の最後、結ばれなかったから……」
詩季がぽつんと呟いた。
「それで、読まなかったの?」
詩季が頷く。
「読めなかったんだ。ページがだんだん減っていって、もうすぐあのシーンだと思うと、読むのが遅くなった。それとその頃……。……いや、なんでもない。ごめん」
「紫は……断ったわけじゃない」
声が震えた。
「でも長房は、もうあの場所に来ない」
(もう来ない?)
映画のラストシーン。主人公の長房は列車に乗って都会へ帰り、彼の愛する紫はその姿を見送った。列車が見えなくなる前に、映画の幕は閉じた。
紫はもう二度と、長房が乗る列車を迎えることができないのだろうか……。
「ちがうっ」
タロウは詩季に本を押し返した。
「読んで」
ぐいぐいと押しつけて、詩季に無理矢理持たせた。
「タロウ?」
「この本の最後で結ばれなかったのは、そうだけど……」
それだけじゃない。
「紫の心は、動いたよ」
「――……」
詩季はきっと、困った顔をしているだろう。
(僕は、自分の気持ちも決まらないのに……)
言うだけ言って、タロウは走ってその場を後にした。
『恋はねむる』
物語の語り手で主人公の長房は、都会と仕事から離れて、山を越えた先の地に静養に訪れた。
近くのあぜ道を散歩して、診療所へ顔を出す。
広々として素朴な庭。藤の花が盛りで、その下で長房は、紫に出会った。
とても綺麗に、柔らかく微笑む紫。
朴訥な長房が恋に戸惑う様子を、気にもしない。
乏しい体力で、凛と軽やかに、紫は一人の時間を楽しんでいた。
長房は彼女の散歩についていく。心配と同時に、敬愛の気持ちで。
彼女の歩く先は、どこも美しく見えた。
(映画では……)
異郷の客人に対するお人形のような微笑みが、やがて陽の光のような表情に変化した。
恋に戸惑っていた長房も、戸惑いは薄れて、ただ愛しい人との散歩を楽しむようになった。
他の人とのエピソードもあったけれど、二人を変えていったのは、お互いの存在だった。
映画と小説のストーリーは同じ。
最後に、長房は都会へ戻る。また君に会いに来る、そう言って抱きしめようとした長房から一歩離れた紫。
紫は、その季節に集められるだけの野の花を長房に贈った。
――映画の最後、結ばれなかったから……。
(違う。あの二人は……)
長房はきっと何度でも来るし、紫は手紙を送る。
タロウはそう信じている。
詩季の方が細かい心情を……、特に長房の心情を読み解くことが上手と知っているけれど。
それでもタロウは信じている。
小説に答えがあったわけではない。ただ、読み進めれば進めるほど、二人の幸せな気持ちが溢れかえってくる文章だった。
(紫は……)
紫の好きを表現した。
素朴な花を、朴訥な青年に贈った。
近くにしかいけない紫の散歩に、楽しそうに付き合ってくれた特別な人に……。
(友だち……、好きな人……)
どちらと思えばいいのか、よく分からないけれど、
(詩季……)
タロウの胸を、特別に温めてくれる人だ。
(……詩季の目には、やっぱり別れるように見えるのかな)
映画の感想を言い合っていたときは出てこなかった。今度は、詩季の本の感想を訊いて、タロウの感想も訊いてほしい。
次の約束は三日後。あの丘で会う。
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