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一九六五年一二月八日 東ベルリン市『リーゼル=アッヘンヴァルの夢』

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 旧型のラジオが暗い部屋の中で、小さな音楽を奏でていた。
 それをじっと見つめる灰色の目。
 聞いたことのない音楽。テンポが早く、今まで聞いたことのないような情熱的な曲。五分も聞いたくらいだったろうか。少女は周りを見回し、そっとラジオの電源を消す。
 この国には、秘密警察が存在する。
 社会主義の理念にそぐわない、資本主義的な娯楽はすべて悪とされ、またそれを好んで楽しむものも悪とされるのだ。
 秘密警察――この国では『シュタージ』と呼んでいた、それはあらゆる手段を用いて反革命分子の摘発を行う。
 たとえその対象が少女だっとしても――もしかしたら友人がシュタージの『非公式協力者』である可能性すらあるのだから。
 少女はカーテンを開ける。ゴミゴミとした町並み。
 授業では『モスクワを除いて、社会主義国上最も繁栄している首都』らしい。東ベルリン。
 彼女が生まれたのも、育ったのもこの街であった。
 そして、彼女の住んでいる家からぼんやりと見える要塞のような建物。その前にある広い空き地には市民といえども立ち入ることはできない。
 『資本主義の害悪から我が国の治安を守る最後の防波堤』と、中学の地理の先生がよく言っていた。その先生もある日を境に、学校に来なくなったが。『政治的』な罪で収容所に連れていかれたとの、もっぱらの噂であった。
 一つ、はっきりしていることはその壁の向こうには『西ドイツの西ベルリンがあるということ』、そしてそこには少なくとも少女――リーゼル=アッヘンヴァルが夢見る、熱狂的な世界があるということだった――

 朝の教室。寒いせいか、教室の中でもマフラーをしている生徒がいる。リーゼルはそっとノートを開く。
 数学の予習。今年度で卒業ということもあり、成績は重要な進路選択のファクターとなる。
 この国――東ドイツでは社会主義の理念に則り、基本男女ともに社会へ出て働くことを求められる。
「どうした?元気がないな」
 隣の席に、男子生徒が座る。中学からの友人のスヴェン。嫌いでも好きでもない。多分向こうもそうだろう――
「今日放課後、青年団の集まりがあるって。行くんだろ」
 リーゼルは機械的にうなずく。
 多分どうでもいいような、レクリエーション。全く刺激のないダンスややり飽きたスポーツと相場が決まっていた。
「熱心だからな。地区青年委員のヘルフリート。オルグの力量を市の党担当者に見せつけて、卒業後の進路を狙っているらしいから――」
 そんなどうでもいい話をしていると、いつの間にか授業が始まる。
 退屈にまして退屈な歴史の授業。眼鏡の中年の教員は、元モスクワ留学を誇るしかない化石のような教員。
 地方の学校で優秀な成績をおさめ、推薦されてモスクワのどこかの大学に二年間留学していたらしいが――なんとなくのロシア語と、その時の思い出話が留学唯一の収穫だったらしい。
「今日は先生がソ連で気になった歴史の話を授業で使いたい」
 ガリ版ですられた茶色い紙。普段の教科書とは違い、手製のプリントらしい。
「校長先生と市教委には許可をちゃんととってある。友邦ソ連の女性戦士のお話だ。このクラスでも同学年の女子生徒がいることから、共感すべき点も多い。まずは読んでもらおう」
 ごますりか、とリーゼルは嫌な気分になる。ソ連びいきにも程があるだろう、と。
 とはいえ、積極的にサボタージュすることも、進路が大事なこの時期にかなわないことである。渋々ながら、そのプリントを読み始める。
『主人公は十代半ばの少女ユーリヤ=ベロドブコフ准尉。日本人の血を引く彼女は、狙撃兵として祖国に奉仕する。呪うべきファシスト=ドイツと禍々しい同盟を結んだ、同じくファシスト日本の血を引く彼女はその贖罪をすべく、日々献身的に党に尽くす。最後、スターリングラードで戦友たちが次から次へと名誉の戦死を遂げるなか、愛用の狙撃銃モシン・ナガンが焼ききれるまで、戦いを続けそして祖国へのささやかな義務を果たしたのだった――』
「この話は、モスクワの図書館で公式記録から先生が掘り出したものだ。これを見つけたときに大学の教授からも――」
 どうでもいい教員の話が続く。内容もほぼプロパガンダに近いものであった。
 しかし、リーゼルは別な思いを抱く。それは『彼女は何を思って生きていたのか』という疑問であった。

 窓の外には雪が降る。小音量でラジオをつけ、西ベルリンから流れてくる西側の歌謡曲を流す。
 リーゼルの机の上には書類の束が一つ。うまく取り入って、かの教員から借り受けることに成功した『公文書』である。
 それはユーリヤ=ベロドブコフ准尉の英雄的な活躍を、上官がしたためたエッセイであった。
 当然公的な文書であるので、教員のまとめたものとそんな違いはないのだが文章の端々に記されたその上官の感想がいやに心の琴線に触れた。
『同士ユーリヤ=ベロドブコフ准尉は優秀な兵士であった。彼女のその外見が日本人的だったことについて、まわりは一切偏見を持つことはなかった。それは、彼女の行動が素晴らしいものであったからだろう。ただ――心の中はどうだったのだろうか。憎むべき敵とはいえ、十五歳の少女が日々、人を殺すだけの毎日に何の目標を見出していたのか――同年代の娘を持つ父親としては複雑な気持ちである。このような状況を打破するべく、我々は党の大義に殉じこの大祖国戦争貫徹に向け――』
 この上官――名前はペトロヴィッチ=アウナーホフ中尉となっていた――は極めて利口な人間らしい。決して頭の固い上層部に睨まれることなく、ユーリヤ=ベロドブコフ准尉の心の中を部分部分で表現していた。
 ふと、窓の外を見るリーゼル。雪が少しちらつく。ユーリヤ=ベロドブコフ准尉はその雪を見ることなくスターリングラードでその生涯を終えた。そしてその二十年以上後に自分はここにいる。
 高鳴る、ジャズの音楽。そっとリーゼルはラジオのスイッチを切った。

 教室の机の上。リーゼルは書類をまとめる。市立大学への進学願書である。
 希望学部は『国際学部日本語学科』。最初両親に相談したときは困惑されたが、急速に経済発展を遂げる西側の言語を学ぶことは、有意義であることを説明するとすんなり了承してくれた。あわせて教員からも、
『日本語ができると外交でもビジネスでも、我が国にとって有意な人材を確保できるね。特に、あなたのような志ある自由ドイツ青年団の少女が世界を舞台に活躍することは、社会主義の理念にとっても――』
 学力的には問題はない。語学は英語、フランス語ともに遜色ないレベルでできていた。
「リーゼルは頭いいからな。俺は工場で働こうと思う」
 隣のスヴェンがそう言いながら、手製のチケットをそっとリーゼルの机の上に忍ばせる。
「みんなで卒業前にこっそりと遊ばないかって、パーティーのお誘い。いつものおとなしいダンスとは違って、『壁の向こう』のものがいっぱい用意してあるってさ。どうだい?」
 その紙をそっと折りたたみ、スヴェンの方に突き返す。苦々しい顔でそのチケットをスヴェンは受け取り教室から出ていった。
 数日後。地区青年委員のヘルフリートが収容所に入れられたという噂をリーゼルはスヴェンから聞いた。『退廃的な西側文化』を若者に広めた罪を問われて。

 一九六三年六月二十六日、ベルリンの壁の前でアメリカ合衆国大統領ケネディは演説する。

『Ich bin ein Berliner 』

と。
 そんな彼は、キューバ危機の後暗殺される。そのわずか五ヶ月後に、アメリカのダラスで。

 リーゼルはその五年後に大学生として、アメリカや日本に留学することとなる。ユーリヤ=ベロドブコフ准尉の思い出を胸にして――
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