紅き鬣と真珠の鱗

緋宮閑流

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第5章 龍神の贄

5-5 秋空2

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 冬籠りの時期が近づいていた。
 ワダツミが開いてくれた泉のおかげで準備は滞り無く進んでいる。冬が終わるまで商人は来ないし、海が荒れてマモノが増えるため漁には出られない。内浜に避難してくる魚達も居るが流石に豊漁を招くような代物ではなく、その量ではとても集落の者すべての腹を満たすことはできない。寒さで畑も殆ど働かなくなる。故に実りの季節が終わるまでは保存食を作り衣服や布団を繕って冬に備える必要があった。
 そして、そうなってしまえば暫くは海に近づくことができない。

「ねぇ、ツミ」
 麺砲と花蜜、醍醐を乗せた盆をワダツミに渡す。
「海、行かなくていいの?」
「……ここんトコいっつもソレ聞くが……なんで行かなきゃならねぇと思うンだ?」
 麺砲をだぷだぷと花蜜に浸すワダツミから質問が返ってくる。イスカは息を吐いてその向かいに座った。
「祠に居たときはお日様が登ってから沈むまで岸壁に居たじゃない。急にやらなくなったら、そりゃ気になるわよ」
 椀に注がれた茶を啜る。
 ワダツミはうーん、と小さく唸った。
「あンま気が向かねぇ。外出るとお前の仲間がわらわら寄ってくるし」
 あまり人付き合いが得意ではない……ということなのだろうか。
「みんな良い人よ?」
「ニンゲンの中で群れに相応しい性質かどうかはあんまり問題じゃねぇンだ。ニンゲンであることが問題なンだよ」
「よく解らないわね」
 自ら口に出した言葉通り、言っている意味がわからない。自分も麺砲を頬張る。
「……ケラは働いて動き回ってるからあんまり会わないだろうけど……私やお兄様は大丈夫なの?」
「この巣にはコルリが居るからな」
 ますます訳がわからない。更に問おうと乗り出した身を、背後からの足音が止めた。
「そう突っ込んで訊くものではないよ、イスカ」
「お兄様!」
 慌てて背後を振り向けば、兄は穏やかな、けれど少し困ったような笑みを浮かべる。
「お前にはお前の考えがあるように、ワダツミ様にはワダツミ様のお考えがある。仰りたくないことも、我々に理解し難い考えもおありだろう。あまり強引にお聞きしようとするのははしたないよ」
 はしたない。
 即ち、その状況には似つかわしくない言動だということだ。イスカは腰を下ろした。喉につかえる異物めいた蟠りを、残りの麺砲とぬるい茶で飲み下す。
 兄とワダツミは何やら難しい話を始めたようだ。
 こうなるとイスカには居場所が無い。最近はいつもこうだった。兄は自分の兄であり、ワダツミは自分が拾ったはずなのに。
 皿に残った麺砲、最後のひとかけらで掬った花蜜が指に滴る。ぺろりと舐めた指はいつもより苦く感じた。
 話はまた長くなるだろう。
 イスカはそっと立ち上がり、玄関へ向かって歩き出した。

 外は晴れていた。
 実りの季節も終盤の優しい日差しと、弾くことができたなら高く澄んだ音がしそうな、透明な空気。
 玄関脇に干された新しい藁束がよく乾燥して良い香りを放っている。さぞや暖かい敷物になるだろう。
 イスカの足は自然と祠へ向いた。
 浜を通り、岩の裂け目から外へ。断崖を少し登り、龍神を彫り込んだ扉を開けた。差し込んだ日差しに敷きっぱなしの布団が浮かび上がる。きらりと光るそれに目を留め、近づいて拾い上げた。
 首に下がっているのと同じ、ワダツミの鱗だ。
「……やっぱり、綺麗」
 声に出して微笑めば、何故かほろりと涙が零れた。初冬の海風に冷やされた頬に、水滴が熱い。
「……ふふ……確かに『熱い水』だわ……」
 出会った日、この涙をそう呼んだ彼はもうここには居ない。自分の家という最も身近な場所に移ったというのに、家から離れたこの祠に通っていたときよりも何故か遠くにいるように感じる。
「……私、ヘンよね……お兄様もツミも大変な思いをしているのよ?」
 指で拭った水滴にはもう最初の熱さは無くて。
「私だって……私にできることをしなければならないわ。お祈りして、お勉強して、ケラを手伝って冬支度を……」
 せっかく拭った頬に次々と熱い水が流れては落ちる。
「……私だけが知らなかった……気付かなかった……お兄様は龍神様を知っていて、ツミは直ぐお兄様の身体が悪いことに気付いたのに」
 握り締めた薄い鱗の切先がきつく喰い込む掌よりも、胸の奥が、痛い。
「……もう、解ったから……もう何も知らない私ではないのよ……?……私にも手伝わせてほしいの……役に立つから、だから」
 ぎゅっと目を閉じる。

「……私を置いていかないで……」

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