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第一章 世界の終わり、世界の始まり
カミロとアリアナ2
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それからというもの、アリアナは毎日のようにカミロのもとを訪れていた。
最初のうちは靴磨きという口実でカミロに会っていたアリアナだったが、途中からその口実も無くなりただただカミロと会話をするためだけに毎日足を運ぶようになっていた。
それに関してカミロも一切不満を持っていなかった。というのも、アリアナに告白をされてからカミロは、少なからずアリアナのことを異性として意識し始めていたことが理由の一つにあったのだ。
二人が会って話す内容は本当に他愛もないことから、カミロの辛い過去の話まで様々なものがあったが、そのどれにおいてもアリアナはカミロの話を優しげな表情で真摯に聞いていた。
そんな二人が互いに惹かれ合うのは必然だったのかもしれない。その先に、どれ程の絶望が待っているかなんて、二人に知る術はなかったのだから。
「どうした?顔色が優れないが」
二人が出会ってから三か月ほどたったある日。いつも笑顔を絶やさないアリアナの表情が暗くなっていることに気づいたカミロはそう尋ねた。
確かに表面上では笑っているのだが、それが上辺だけのものだということに気づけない程、カミロの目は節穴では無かったのだ。
「あー…………私が頻繁にここを訪れていることを、親が良く思っていなくて……」
「……そうか」
アリアナは気まずそうに家の事情を話した。カミロもそれぐらいは覚悟していたが、いざ本人にその現実を突きつけられると何とも言えない、やるせない思いが湧いてきてしまったのだ。
アリアナはそれ以上何も言わなかったが、カミロには現在のアリアナの状況に大体の目星がついていた。
おそらく毎日毎日街に出ていく娘の動向を使用人にでも調べさせたのだろう。そして街を訪れている目的が平民であるカミロに会う為だと知ったアリアナの両親はそのことを咎めた。
この世界の常識を考えるとそれは当然の結果だった。平民は平民と、貴族は貴族と結婚するというのがこの世界の一般常識なのだから。
それに加え、今までアリアナから聞いてきた両親像は平民への差別が激しい方だったので、両親からすればアリアナの行動は目に余るものだったのだろう。
「あっ……でも大丈夫よ!両親は何とか説得させるし、ここに来るのをやめるつもりはないもの」
「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。カミロに迷惑はかけないわ」
カミロは自分が心配しているのはそんなことではないと心の中でツッコんだ。
カミロが心配しているの自身ではなく、他でもないアリアナだったのだから。確かに貴族であるアリアナと親しくしているカミロの存在は、アリアナの親からすれば目の上のたん瘤だろう。たん瘤といっても、貴族の力を使えば簡単に潰すことのできるたん瘤だが。
だがそれは平民として生きているカミロにとっては常に付きまとっている危険でしかなく、大した問題では無かった。平民は貴族の機嫌を損ねただけで、簡単にその命を散らすことが出来るのだから。
カミロが危惧しているのはそこではなく、最悪の場合を想定した時に思い付いた考えだった。
それは、アリアナの両親がアリアナを家に閉じ込め二度とここに来られないようにする、というものだ。
こうなってしまえば、アリアナはカミロのもとを訪れることが出来ないだけでなく、その自由さえも奪われてしまうのだ。それだけは阻止したいとカミロは考え、アリアナの身を案じているのだ。
「……しばらくここに来るのはやめろ」
「嫌…………と言いたいところだけど、その方が安全ね。私のせいであなたに何かあったら生きていけないもの」
アリアナはカミロの提案に賛成はできなかったが、今現在とるべき行動としてはそれがベストであることを理解できない馬鹿ではなかった。
アリアナとカミロの頭の中で構築されている最悪の事態は互いに違ってはいたが、互いにその最悪の事態を避けるための手段は一致していた。
「会えない間は文通しない?」
「文通?」
「カミロって文字は書けたわよね?それなら手紙でコミュニケーションをとるのが良いと思うの。場所と時間を決めておいて、手紙を置いておくの。直接会わないように調整してね。どうかしら?」
アリアナの提案はこうだ。
どちらかがまず手紙を書き、あらかじめ決めておいた時間の少し前に所定の位置に手紙を置く。少し前に置けば手紙を取りに来た相手と鉢合わせることが無いからだ。
そしてその手紙には次の手紙を取りに行く時間を書いておく。相手はその時間の少し前に返事の手紙を置いておけばいい……これを繰り返すというものだった。
これなら例えアリアナを監視する者がいたとしても、所定の場所に行くのは他の用事があるからだと見せかければいいだけなのでリスクも少ないのだ。
「そうだな。それでいこう」
「なら最初の手紙は私が書くわね!時間と場所は……」
こうして始まった文通は何と三年も続いた。
お互いに最近あった出来事、他愛もない内容の日もあれば、相手への思いを永遠に書き綴った時もあった。
そんな手紙をカミロ、そしてアリアナもいつも楽しみにしていて、カミロにとってそれは生きる希望にもなっていた。
そしてとある冬のとある日。カミロはいつも通り所定の場所にアリアナの手紙を取りに行くことにした。前の手紙でカミロが指定した時間は昼の三時。
その時刻通りに所定の場所である裏路地の街灯に向かうと、張り付けてあるはずのアリアナからの手紙が無かった。
「……どうしたんだろうか?アリアナ」
時刻を勘違いしたのか、何か事情があって時間通りに来られなかったのか。カミロは頭の中で様々な可能性を思案した。
「まさか……バレたのか?」
様々な可能性の中で、もっとも当たって欲しくない最悪がそれだった。アリアナの親に文通のことを知られ怒りを買ったなら、ここに来られないのも頷けるのだ。
カミロが冷や汗を流しながら固まっていると、何者かの気配を感じそちらへ目を向けた。
「!アリアナ、と……」
そこにいたのは三年間文通だけで交流していたアリアナと、アリアナの父親と思われる男だった。アリアナはカミロの方へ歩を進めようとする父親を必死に止めようとしているが、父親は構うことなくどんどん近づいてきた。
父親はまるで虫けらでも見るような目でカミロを見下していて、その表情はカミロが貴族に向けられ続けたものだった。
「貴様か!私の娘に手を出したゴミは!」
「父上やめてください!」
「お前は黙っていろ!」
カミロはアリアナの父親に暴言を浴びせられている間、沸々と腹の底から湧き上がる黒い感情とは対照的に頭はとてもすっきりとしていた。
(俺はコイツを、知ってる?)
理由は、アリアナの父親の顔を知っていたからだ。途中からカミロの耳には何の音も入っていなかった。ただ呆然と目の前の男を凝視していたからだ。
絶対に忘れるわけがない、忘れたくても忘れられない顔。悪夢で何度も見たその顔を、カミロは瞬きすることもなく見つめていた。
「お前、は…………」
「カ、ミロ…………?」
カミロの様子がおかしいことに気づいたアリアナは、その名を震える声で呼んだ。だがそんなアリアナの声もカミロの耳には届いていなかった。
カミロは確信したのだ。
目の前にいる男は、自分の両親を殺した憎くて憎くてたまらない貴族であることを。
「お前ええええええええええええええ!!」
カミロは目の前が真っ赤になるような錯覚に陥った。そして頭の中には両親が殺された時の記憶が一気に巡り、それ以外何も考えられなかった。
(…………殺す、絶対に!)
カミロの身体の中は両親を殺された時の憎しみと怒りが全てを支配していた。理性などどこにもなく、自分の両親を手にかけたのが、愛するアリアナの父親だという事実さえも、その頭の中には綺麗になくなっていた。
その時のカミロに映った光景は全てがスローモーションのようで、現実味がなかった。それなのに自分の動きを封じることはできなかった。
カミロは胸元から護身用のナイフを取り出すと、体勢を低く倒して素早く仇の心臓に向かった。
確実にその刃を仇の胸に突き刺せるように。無我夢中で。
気づいた時には、遅かったのだ。
スローモーションの世界で、漸く仇を殺すことが出来ると思ったその時。
カミロの目に映ったのは
アリアナだった。
「ぐっ、は…………」
「…………アリ、アナ……?」
苦しげに漏れたその声の人物は、力尽きたようにカミロに寄り掛かった。カミロはその重みを感じるのと同時に、自分の両手に伝わる生暖かい液体の感触に思わず鳥肌を立てた。
我に返ったカミロが見たのは、地獄だった。
目の前にいるのは憎い両親の仇と、カミロからその仇を守るように目の前に現れた、もう虫の息のアリアナ。
アリアナの腹部にはカミロが普段持ち歩いている護身用のナイフが、奥までしっかりと刺さっていた。カミロの両手を伝って地面にポトリポトリと雫を落とすのは、アリアナが先刻まで確かに生きていた証だった。
その生き地獄を目の当たりにしたカミロは、倒れそうになるアリアナの身体を抱きしめるように支えることしかできなかった。
「アリアナ……?…………アリアナ!」
「……カ、ミロ」
アリアナの後ろで仇が何やら叫んでいる気がしたが、カミロにはその内容を頭で理解するほどの余裕などなかった。
泣き叫ぶような声でカミロはアリアナの名前を呼び続けた。すると僅かに息をしているアリアナが、掻き消えそうなその声でカミロの名前を呼び返した。
「アリアナ!」
「カミロ…………ごめん、なさい……」
「っ……」
何についての謝罪なのか。それについて考えることはその時のカミロにはできなかった。
「カミロ…………一目惚れ、なんて言ったら、信じられないかしら?」
「アリアナ?」
カミロが尋ねた時は秘密と言って答えをはぐらかした、カミロを好きになった理由をアリアナは呟いた。
それが、最期の言葉だった。
その後、カミロは自分の身体に圧し掛かったアリアナの重みが増したように感じた。カミロがアリアナに呼び掛けても反応など一向に来なかった。
自然とカミロは涙が流れたのを感じた。
カミロはしばらく放心した後、ふと思い立ったようにアリアナを抱えるとその場を離れた。
その時にはアリアナの父親の姿はなかった。ただひたすら歩み続ける中、空っぽの頭で自分を捕えるために兵士でも呼んだのだろうとカミロは考えた。
どんどんその身体を冷たくさせていくアリアナの感触を感じながら、カミロは考え続けた。
カミロの両親を殺した貴族が、己の愛した女の父親だったこと。
カミロとアリアナが文通していることがその父親にバレてしまったこと。恐らくカミロからの手紙の内容を見られたのだろう。
カミロが仇であるアリアナの父親を殺そうとしたこと。
そしてそれをアリアナが防ぎ、カミロがアリアナを殺してしまったこと。
自分の自由を奪おうとする父親でも、アリアナにとってはそれなりに大事な父親だったのかもしれないこと。命を張って守る程度には。
もしかすればカミロを人殺しにしたくなくて、咄嗟にあんな行動をとったのかもしれないこと。
もしそうだったのなら、アリアナの行動は無駄になってしまったこと。
アリアナがカミロを愛していたこと。
カミロがアリアナを愛していたこと。
カミロがそんなアリアナをその手で殺してしまったこと。
カミロが今、静かに涙を流し続けていること。
そんなカミロの頭が思い立った、これからとるべき行動は必然的に一つしかなかった。
次の瞬間、カミロという一人の男の人生は終幕を迎える。
その記憶を、今のカミロは全て思い出した。
カミロが死ぬ間際に抱いた、世界への憎しみと共に。
最初のうちは靴磨きという口実でカミロに会っていたアリアナだったが、途中からその口実も無くなりただただカミロと会話をするためだけに毎日足を運ぶようになっていた。
それに関してカミロも一切不満を持っていなかった。というのも、アリアナに告白をされてからカミロは、少なからずアリアナのことを異性として意識し始めていたことが理由の一つにあったのだ。
二人が会って話す内容は本当に他愛もないことから、カミロの辛い過去の話まで様々なものがあったが、そのどれにおいてもアリアナはカミロの話を優しげな表情で真摯に聞いていた。
そんな二人が互いに惹かれ合うのは必然だったのかもしれない。その先に、どれ程の絶望が待っているかなんて、二人に知る術はなかったのだから。
「どうした?顔色が優れないが」
二人が出会ってから三か月ほどたったある日。いつも笑顔を絶やさないアリアナの表情が暗くなっていることに気づいたカミロはそう尋ねた。
確かに表面上では笑っているのだが、それが上辺だけのものだということに気づけない程、カミロの目は節穴では無かったのだ。
「あー…………私が頻繁にここを訪れていることを、親が良く思っていなくて……」
「……そうか」
アリアナは気まずそうに家の事情を話した。カミロもそれぐらいは覚悟していたが、いざ本人にその現実を突きつけられると何とも言えない、やるせない思いが湧いてきてしまったのだ。
アリアナはそれ以上何も言わなかったが、カミロには現在のアリアナの状況に大体の目星がついていた。
おそらく毎日毎日街に出ていく娘の動向を使用人にでも調べさせたのだろう。そして街を訪れている目的が平民であるカミロに会う為だと知ったアリアナの両親はそのことを咎めた。
この世界の常識を考えるとそれは当然の結果だった。平民は平民と、貴族は貴族と結婚するというのがこの世界の一般常識なのだから。
それに加え、今までアリアナから聞いてきた両親像は平民への差別が激しい方だったので、両親からすればアリアナの行動は目に余るものだったのだろう。
「あっ……でも大丈夫よ!両親は何とか説得させるし、ここに来るのをやめるつもりはないもの」
「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。カミロに迷惑はかけないわ」
カミロは自分が心配しているのはそんなことではないと心の中でツッコんだ。
カミロが心配しているの自身ではなく、他でもないアリアナだったのだから。確かに貴族であるアリアナと親しくしているカミロの存在は、アリアナの親からすれば目の上のたん瘤だろう。たん瘤といっても、貴族の力を使えば簡単に潰すことのできるたん瘤だが。
だがそれは平民として生きているカミロにとっては常に付きまとっている危険でしかなく、大した問題では無かった。平民は貴族の機嫌を損ねただけで、簡単にその命を散らすことが出来るのだから。
カミロが危惧しているのはそこではなく、最悪の場合を想定した時に思い付いた考えだった。
それは、アリアナの両親がアリアナを家に閉じ込め二度とここに来られないようにする、というものだ。
こうなってしまえば、アリアナはカミロのもとを訪れることが出来ないだけでなく、その自由さえも奪われてしまうのだ。それだけは阻止したいとカミロは考え、アリアナの身を案じているのだ。
「……しばらくここに来るのはやめろ」
「嫌…………と言いたいところだけど、その方が安全ね。私のせいであなたに何かあったら生きていけないもの」
アリアナはカミロの提案に賛成はできなかったが、今現在とるべき行動としてはそれがベストであることを理解できない馬鹿ではなかった。
アリアナとカミロの頭の中で構築されている最悪の事態は互いに違ってはいたが、互いにその最悪の事態を避けるための手段は一致していた。
「会えない間は文通しない?」
「文通?」
「カミロって文字は書けたわよね?それなら手紙でコミュニケーションをとるのが良いと思うの。場所と時間を決めておいて、手紙を置いておくの。直接会わないように調整してね。どうかしら?」
アリアナの提案はこうだ。
どちらかがまず手紙を書き、あらかじめ決めておいた時間の少し前に所定の位置に手紙を置く。少し前に置けば手紙を取りに来た相手と鉢合わせることが無いからだ。
そしてその手紙には次の手紙を取りに行く時間を書いておく。相手はその時間の少し前に返事の手紙を置いておけばいい……これを繰り返すというものだった。
これなら例えアリアナを監視する者がいたとしても、所定の場所に行くのは他の用事があるからだと見せかければいいだけなのでリスクも少ないのだ。
「そうだな。それでいこう」
「なら最初の手紙は私が書くわね!時間と場所は……」
こうして始まった文通は何と三年も続いた。
お互いに最近あった出来事、他愛もない内容の日もあれば、相手への思いを永遠に書き綴った時もあった。
そんな手紙をカミロ、そしてアリアナもいつも楽しみにしていて、カミロにとってそれは生きる希望にもなっていた。
そしてとある冬のとある日。カミロはいつも通り所定の場所にアリアナの手紙を取りに行くことにした。前の手紙でカミロが指定した時間は昼の三時。
その時刻通りに所定の場所である裏路地の街灯に向かうと、張り付けてあるはずのアリアナからの手紙が無かった。
「……どうしたんだろうか?アリアナ」
時刻を勘違いしたのか、何か事情があって時間通りに来られなかったのか。カミロは頭の中で様々な可能性を思案した。
「まさか……バレたのか?」
様々な可能性の中で、もっとも当たって欲しくない最悪がそれだった。アリアナの親に文通のことを知られ怒りを買ったなら、ここに来られないのも頷けるのだ。
カミロが冷や汗を流しながら固まっていると、何者かの気配を感じそちらへ目を向けた。
「!アリアナ、と……」
そこにいたのは三年間文通だけで交流していたアリアナと、アリアナの父親と思われる男だった。アリアナはカミロの方へ歩を進めようとする父親を必死に止めようとしているが、父親は構うことなくどんどん近づいてきた。
父親はまるで虫けらでも見るような目でカミロを見下していて、その表情はカミロが貴族に向けられ続けたものだった。
「貴様か!私の娘に手を出したゴミは!」
「父上やめてください!」
「お前は黙っていろ!」
カミロはアリアナの父親に暴言を浴びせられている間、沸々と腹の底から湧き上がる黒い感情とは対照的に頭はとてもすっきりとしていた。
(俺はコイツを、知ってる?)
理由は、アリアナの父親の顔を知っていたからだ。途中からカミロの耳には何の音も入っていなかった。ただ呆然と目の前の男を凝視していたからだ。
絶対に忘れるわけがない、忘れたくても忘れられない顔。悪夢で何度も見たその顔を、カミロは瞬きすることもなく見つめていた。
「お前、は…………」
「カ、ミロ…………?」
カミロの様子がおかしいことに気づいたアリアナは、その名を震える声で呼んだ。だがそんなアリアナの声もカミロの耳には届いていなかった。
カミロは確信したのだ。
目の前にいる男は、自分の両親を殺した憎くて憎くてたまらない貴族であることを。
「お前ええええええええええええええ!!」
カミロは目の前が真っ赤になるような錯覚に陥った。そして頭の中には両親が殺された時の記憶が一気に巡り、それ以外何も考えられなかった。
(…………殺す、絶対に!)
カミロの身体の中は両親を殺された時の憎しみと怒りが全てを支配していた。理性などどこにもなく、自分の両親を手にかけたのが、愛するアリアナの父親だという事実さえも、その頭の中には綺麗になくなっていた。
その時のカミロに映った光景は全てがスローモーションのようで、現実味がなかった。それなのに自分の動きを封じることはできなかった。
カミロは胸元から護身用のナイフを取り出すと、体勢を低く倒して素早く仇の心臓に向かった。
確実にその刃を仇の胸に突き刺せるように。無我夢中で。
気づいた時には、遅かったのだ。
スローモーションの世界で、漸く仇を殺すことが出来ると思ったその時。
カミロの目に映ったのは
アリアナだった。
「ぐっ、は…………」
「…………アリ、アナ……?」
苦しげに漏れたその声の人物は、力尽きたようにカミロに寄り掛かった。カミロはその重みを感じるのと同時に、自分の両手に伝わる生暖かい液体の感触に思わず鳥肌を立てた。
我に返ったカミロが見たのは、地獄だった。
目の前にいるのは憎い両親の仇と、カミロからその仇を守るように目の前に現れた、もう虫の息のアリアナ。
アリアナの腹部にはカミロが普段持ち歩いている護身用のナイフが、奥までしっかりと刺さっていた。カミロの両手を伝って地面にポトリポトリと雫を落とすのは、アリアナが先刻まで確かに生きていた証だった。
その生き地獄を目の当たりにしたカミロは、倒れそうになるアリアナの身体を抱きしめるように支えることしかできなかった。
「アリアナ……?…………アリアナ!」
「……カ、ミロ」
アリアナの後ろで仇が何やら叫んでいる気がしたが、カミロにはその内容を頭で理解するほどの余裕などなかった。
泣き叫ぶような声でカミロはアリアナの名前を呼び続けた。すると僅かに息をしているアリアナが、掻き消えそうなその声でカミロの名前を呼び返した。
「アリアナ!」
「カミロ…………ごめん、なさい……」
「っ……」
何についての謝罪なのか。それについて考えることはその時のカミロにはできなかった。
「カミロ…………一目惚れ、なんて言ったら、信じられないかしら?」
「アリアナ?」
カミロが尋ねた時は秘密と言って答えをはぐらかした、カミロを好きになった理由をアリアナは呟いた。
それが、最期の言葉だった。
その後、カミロは自分の身体に圧し掛かったアリアナの重みが増したように感じた。カミロがアリアナに呼び掛けても反応など一向に来なかった。
自然とカミロは涙が流れたのを感じた。
カミロはしばらく放心した後、ふと思い立ったようにアリアナを抱えるとその場を離れた。
その時にはアリアナの父親の姿はなかった。ただひたすら歩み続ける中、空っぽの頭で自分を捕えるために兵士でも呼んだのだろうとカミロは考えた。
どんどんその身体を冷たくさせていくアリアナの感触を感じながら、カミロは考え続けた。
カミロの両親を殺した貴族が、己の愛した女の父親だったこと。
カミロとアリアナが文通していることがその父親にバレてしまったこと。恐らくカミロからの手紙の内容を見られたのだろう。
カミロが仇であるアリアナの父親を殺そうとしたこと。
そしてそれをアリアナが防ぎ、カミロがアリアナを殺してしまったこと。
自分の自由を奪おうとする父親でも、アリアナにとってはそれなりに大事な父親だったのかもしれないこと。命を張って守る程度には。
もしかすればカミロを人殺しにしたくなくて、咄嗟にあんな行動をとったのかもしれないこと。
もしそうだったのなら、アリアナの行動は無駄になってしまったこと。
アリアナがカミロを愛していたこと。
カミロがアリアナを愛していたこと。
カミロがそんなアリアナをその手で殺してしまったこと。
カミロが今、静かに涙を流し続けていること。
そんなカミロの頭が思い立った、これからとるべき行動は必然的に一つしかなかった。
次の瞬間、カミロという一人の男の人生は終幕を迎える。
その記憶を、今のカミロは全て思い出した。
カミロが死ぬ間際に抱いた、世界への憎しみと共に。
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