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第二章 過去との対峙編
83.その〝過去〟は、如何にして彼らの運命を変えたのか9
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鬱陶しい程の暖かさと、頭に居座り続ける鈍い痛みに耐えられず、ハヤテはそっと瞼を開いた。毎日目にする天井が視界に映るが、部屋が妙に明るいことにハヤテは疑問を覚えた。ふと視線を右側に向けると、俯きがちに編み物をしているロクヤの姿が映る。
すると、目線を少し上げたロクヤと目が合い、ハヤテは少しだけ目を見開いた。
「っ!ハヤテくん……おはよう」
「……おはよう。ロクヤ」
未だに状況を把握しきれていないハヤテは、呆けた表情で挨拶すると、徐に起き上がる。ズキっと痛む頭を押さえながら、開かれた襖の向こう側を見つめると、外はすっかり明るくなっており、昼を回っているのは明らかであった。
「ロクヤ、今……何時だ?」
「十四時だよ。ふふっ、ぐっすりだったね」
「……はぁ。何時間寝ていたんだ俺は」
赤子のように寝入ってしまった自分が情けなく、ハヤテはため息交じりに頭を抱えた。同時に、起床前からハヤテを苦しめていた頭痛は、寝過ぎたことが原因であることを理解する。
「こんなだらしのない日を過ごすのは初めてだ……」
「えぇっ……ハヤテくん真面目過ぎだよ……。しばらくはゆっくり休まないと。少し熱もあるんだよ?」
「……それでこんな分厚い毛布を掛けられているのか、俺は」
自らの下半身を覆い隠す分厚い毛布を見下ろすと、身体が暑すぎる程に温まっていた理由をハヤテは悟った。熱を出したハヤテを心配して、ユウタロウあたりが過剰な程毛布を運んできたのだろう。
ハヤテは部屋の中を見回すと、ふと思い出したように尋ねる。
「そういえば、ユウタロウたちは?」
「夜はみんな、この部屋でハヤテくんと一緒に寝てたんだけど、朝になったらいつも通り訓練に行っちゃったよ。お休みが許されてるの、ハヤテくんだけだから」
「……よく、この部屋で寝泊まりすることを許されたな」
「……うん。そう、だね」
ハヤテが意外そうに呟くと、ロクヤはどこか気まずそうに俯いて答えた。そんなロクヤの様子を見たハヤテは、何となく察してしまった。
修行を開始した勇者一族の子供たちは、基本的に自室で寝泊まりしなければならず、他の子供の部屋に泊まることも許されていない。故に本来であれば、ユウタロウたちが看病の為にハヤテの部屋で寝泊まりすることも、重鎮らにとっては咎めるべき行為なのだ。
にも拘らず、今に至るまで何事も無かったということは、一族の最高権力者であるツキマが口添えしたからなのだろう。
母を殺した張本人に情けをかけられたことが口惜しく、部屋には何とも言えない静寂が流れた。
しばらくして、ロクヤはハッとした表情を浮かべると、話題を変えるように口を開く。
「ハヤテくん。お粥作ったんだけど、食べられそう?」
「……すまない。あまり食欲が……」
「じゃあ寒天菓子は?食べやすいと思うけど……」
「……それなら」
「っ!分かった!すぐ用意するね!」
ぱぁっと表情を綻ばせると、ロクヤは嬉々とした様子で立ち上がった。忙しなく台所へ向かうロクヤの背中をボーっと見つめるハヤテの瞳はどこか焦がれているようで、ロクヤを通して別の人を見つめているようでもあった。
ロクヤはお盆に寒天菓子と、温かいレモネードを乗せて運んでくると、布団の傍に置いたちゃぶ台の上にそれらを並べた。寒天菓子は、牛乳色の寒天の中に、色々な果物が小さくカットされた物が散りばめられており、見た目だけでも美味しそうな色鮮やかな物である。
ロクヤはその寒天菓子をスプーンで掬うと、ハヤテの口元に向かってそれを差し出した。
「はい」
「……流石に自分で食べられるぞ」
「そう?」
「ロクヤは世話好きだな」
「お節介ってよく言われる」
「優しいんだよ、ロクヤは」
穏やかな相好で言ったハヤテだが、その奥底には滲むような哀愁が漂っていた。優しい表情なのに、ハヤテはピクリとも笑っておらず、ロクヤは言いようの無い不安を覚える。
ロクヤから器とスプーンを受け取ったハヤテは、寒天菓子を一口頬張る。牛乳の優しい甘みと、果実のほのかな酸味が口に広がり、ハヤテはホッと息をついた。
そして、マグカップに注がれたレモネードを一口飲むと、甘さと酸味の調和のとれた美味しさと、胸がじんわりする程の温かさに、ハヤテは茫然自失としてしまう。
「……優しい、味がするな……」
「っ!ハヤテくんっ」
悲鳴にも似た、ロクヤの切羽詰まった声を聞いたハヤテは、当惑気味にキョトンと首を傾げた。刹那、ハヤテは自らの頬に妙な湿り気を感じ、ロクヤが吃驚した原因を悟る。
「……すまない。俺……もしかして泣いていたか?」
泣いた自覚がない――何故自分が涙を流したのか分からないハヤテは、酷く困惑した様子で尋ねた。こんな状態でも誰かに謝るハヤテを前に、ロクヤは居ても立っても居られなくなり、激流のような感情のままハヤテを抱き寄せた。
「いいんだよっ。いいんだよ……ハヤテくん、今までずっと、ずぅっと我慢してきたんだからっ……」
「……お母さんの手料理なんて、一度も食べたこと無いんだ」
「えっ?」
唐突に耳元で呟かれ、ロクヤは思わず抱擁を解いて首を傾げた。
「覚えていないぐらい小さな頃は分からないけど、俺……食事はいつも屋敷の食堂で済ませていたから」
「そっか……」
「もし……俺が忌み色持ちじゃなかったら。……お母さんが、俺を愛してくれていたら、こんな手料理を食べさせてもらえたのかなって……考えてしまった」
「ハヤテくん……」
ハヤテは、どこを見つめているのか分からない眼差しを空に向けると、自嘲するかのように呟いた。
一方のロクヤは、何も言ってやることが出来なかった。
二人の親子関係を大して知りもしない自分が「母はハヤテのことを愛していた」と安易に言うことも。ハヤテの主張を肯定した上で、励ましの言葉をかけてやることも。
幼いロクヤには、何と声をかけるのが最善なのか分からなかった。そんな自分が情けなく、歯痒く、ロクヤは涙を滲ませる。俯くロクヤを横目に、ハヤテは少しずつ食事を喉に通していくのだった。
********
それから五日経っても、ハヤテが精神的に回復することは無かった。
ユウタロウたちは出来るだけハヤテの傍にいようと、訓練の時以外はハヤテの元を訪れ、食事も睡眠も彼の部屋でとった。
これ以上心配を掛けたくなかったのか、ハヤテは時折作り笑いを浮かべていたが、それが心からの笑みで無いことぐらい、子供の彼らにも理解できた。
不幸中の幸いだったのは、ハヤテの体調が少しずつ回復に向かっていたことだ。熱は下がり、食欲も少しずつ増しており、ロクヤはホッと胸を撫で下ろしている。
ただ、ハヤテは夜中よく魘されており、悪夢を見て飛び起きることも多々あった。母親が殺された時の夢を見ているのか。それとも、母親に罵詈雑言を浴びせられ、暴力を受けている時の夢を見ているのか。どちらにしろハヤテにとっては辛い記憶だろう。
皆が内心、ハヤテのことを心配しながらも、それを表には出さず、普段通り接し始めてから五日――それは、ユウタロウたちの昼休み中の出来事であった。
「――でさぁ。俺が短距離で一着だったのに、セッコウの奴が何癖つけやがったんだよ」
「いーや!あれは完全にフライングだった。その証拠に次の短距離走では俺が一着だっただろうが」
「それはてめぇがフライングしたからだろうが」
「あ゛ぁ!?ふざけんなよてめぇ!」
ハヤテのお見舞いに来たユウタロウたちだったが、訓練の話をしている内に雲行きが怪しくなってきた。ユウタロウとセッコウは、訓練で行った短距離走の勝敗について口論を始めてしまい、そんな二人の様子をハヤテはどこか呆然とした様子で眺めていた。
「あ、あの……ふ、二人とも多分互角だと思う、よ?」
「お前な。そういうことじゃねぇだろうが」
「あぁ。そういうことじゃない」
「えぇっ……そんなぁ……」
折角喧嘩を仲裁しようとしたというのに、ユウタロウに続いて、兄のセッコウにまで否定されてしまい、ササノは困ったように眉を落としてたじろいだ。
「ってかササノ。お前俺の弟なんだから俺の肩持てよ」
「おいおい。身内びいきはよくねぇだろ」
「け、喧嘩、しないで?」
「そもそもてめぇがうじうじとはっきりしねぇのが悪いんだろうが」
「えぇっ!?」
「ササノ。お前いい加減その優柔不断な性格何とかしろよ」
セッコウの冷たい眼差しで見下ろされ、見放すように咎められたのが、止めの一発であった。ピクっと、一瞬、ササノの身体が硬直したかと思うと、両目一杯に涙が溜まっていき、決壊した様にそれが放出されてしまう。
「う……うぅっ……うわああああああああああああああんっっ」
「二人とも!ササノくんを泣かせるんじゃありませんっ!二人の喧嘩にササノくん巻き込んで、ササノくんを悪者扱いして、ササノくんに八つ当たりしてどうするの?今回は完全に二人の問題でしょうが」
「一番の年下が一番正論言ってんぞ」
咽び泣くササノを庇うように抱き込むと、ロクヤは母親のような顔で諸悪の根源に立ち向かった。ぐうの音も出ない正論をぶつけられたセッコウは、年下に叱られて情けないやら、ササノに泣かれて困り果てるやらで、どこか遠い目をして呟いた。
すると――。
「……ふふっ」
「「っ!?」」
ハヤテの口から漏れた失笑を、四人は聞き逃さなかった。目のも止まらぬ速さでバッと振り向くと、口元に手を添えて微笑むハヤテの姿が映り、ユウタロウたちはその光景をしっかりと目に焼き付ける。
そして、それが繕った笑みなどでは無く、心の底から零れ落ちた笑いであることを悟ると、彼らは嬉々とした相好を露わにした。
「ハヤテが、笑った……!笑ったぞっ」
「よ、良かったぁ……良かったよぉ、ハヤテくんっ」
興奮のあまり立ち上がったユウタロウとは対照的に、ロクヤは安堵のあまり肩の力が抜けてしまい、へにゃっと座り込んでしまった。
「ったく心配させんなよ……まぁ今回はササノのお手柄だな。お前の涙が、ハヤテの笑顔を引き出したんだから」
「は、初めて人様のお役に立てた……!そ、それにしても……ハヤテくんが笑ってくれて、本当に良かったですぅ……」
ササノは涙を浮かべながら、感激の声を漏らした。
ユウタロウも、ロクヤも、セッコウも、ササノも。ハヤテがたった一瞬微笑んだだけで、まるで自分のことのように大喜びしていて、そんな彼らの様子を、ハヤテはどこか呆けた表情で眺めていた。
他人のことでこんなにも屈託ない笑みを浮かべる彼らを眺めていると、ハヤテは不意に、ツーっと涙を流した。思わず彼らはギョッと血相を変え、一瞬にして慌てふためき始める。
「おい何で泣くっ?さっきまで笑ってただろうがっ!」
狼狽のあまり、ユウタロウは怒鳴ってしまったが、それでもハヤテが泣き止むことは無い。目元を覆い隠して泣きじゃくるハヤテを前に、ユウタロウはオロオロと周章狼狽とすることしか出来ない。そんな中、ハヤテは息を詰まらせながら、震える唇を開いた。
「ユウタロウがっ、俺たちじゃ駄目かって言ってくれて……嬉しかった。でもっ……もう一人は嫌なんだっ」
「っ……」
ハヤテの悲痛な思いを受けたユウタロウは、辛そうに顔を顰めた。あの日の夜、ハヤテは朦朧とした意識の中、ユウタロウの切実な問いかけをキチンと受け止めていたのだろう。
「こんな風に、誰かから優しくされたのは初めてで……。こんな風に、誰かと笑い合ったのも初めてで……。ずっと、ずっとこうしていたいっ……。お前たちとずっと一緒にいたいっ!……っ、でも……それを失うのが、怖いんだっ」
「ハヤテ……」
涙声で告げられたその思いを前に、ユウタロウは何か言いたげな声音で彼の名前を呼んだ。それでも、それが嘘偽りない丸裸の感情だと理解できるからこそ、それを否定することなど誰にもできない。
「お前と血の契約を交わして、完全にお前のものになってしまったら、失った時……俺は立ち直れない。……もう、あんな風に誰かを……大切な人を失いたくないっ……怖いっ、怖い……怖くて、仕方が無いんだ」
ハヤテの脳裏に思い浮かぶのは、ツキマに殺されてしまった母親の姿。
動かない身体はどんどん冷たくなり、切り離された頭は無機物のように転がり、見たこともない表情は、トラウマになる程の恐怖をハヤテに植え付けた。
――もう二度と、あんな思いはしたくない。
もし、ユウタロウやロクヤが、ハヤテにとって、母親以上に大事な存在になれば。そして、そんな二人をまた失ってしまったら。
一度経験しているからこそ、ハヤテの恐怖は切実であった。
自らの身体を抱き込み、震えながら俯くハヤテ。そんな彼の恐怖を吹き飛ばすように。ユウタロウは揺るがない気持ちを、精悍な声に乗せて降り注いだ。
すると、目線を少し上げたロクヤと目が合い、ハヤテは少しだけ目を見開いた。
「っ!ハヤテくん……おはよう」
「……おはよう。ロクヤ」
未だに状況を把握しきれていないハヤテは、呆けた表情で挨拶すると、徐に起き上がる。ズキっと痛む頭を押さえながら、開かれた襖の向こう側を見つめると、外はすっかり明るくなっており、昼を回っているのは明らかであった。
「ロクヤ、今……何時だ?」
「十四時だよ。ふふっ、ぐっすりだったね」
「……はぁ。何時間寝ていたんだ俺は」
赤子のように寝入ってしまった自分が情けなく、ハヤテはため息交じりに頭を抱えた。同時に、起床前からハヤテを苦しめていた頭痛は、寝過ぎたことが原因であることを理解する。
「こんなだらしのない日を過ごすのは初めてだ……」
「えぇっ……ハヤテくん真面目過ぎだよ……。しばらくはゆっくり休まないと。少し熱もあるんだよ?」
「……それでこんな分厚い毛布を掛けられているのか、俺は」
自らの下半身を覆い隠す分厚い毛布を見下ろすと、身体が暑すぎる程に温まっていた理由をハヤテは悟った。熱を出したハヤテを心配して、ユウタロウあたりが過剰な程毛布を運んできたのだろう。
ハヤテは部屋の中を見回すと、ふと思い出したように尋ねる。
「そういえば、ユウタロウたちは?」
「夜はみんな、この部屋でハヤテくんと一緒に寝てたんだけど、朝になったらいつも通り訓練に行っちゃったよ。お休みが許されてるの、ハヤテくんだけだから」
「……よく、この部屋で寝泊まりすることを許されたな」
「……うん。そう、だね」
ハヤテが意外そうに呟くと、ロクヤはどこか気まずそうに俯いて答えた。そんなロクヤの様子を見たハヤテは、何となく察してしまった。
修行を開始した勇者一族の子供たちは、基本的に自室で寝泊まりしなければならず、他の子供の部屋に泊まることも許されていない。故に本来であれば、ユウタロウたちが看病の為にハヤテの部屋で寝泊まりすることも、重鎮らにとっては咎めるべき行為なのだ。
にも拘らず、今に至るまで何事も無かったということは、一族の最高権力者であるツキマが口添えしたからなのだろう。
母を殺した張本人に情けをかけられたことが口惜しく、部屋には何とも言えない静寂が流れた。
しばらくして、ロクヤはハッとした表情を浮かべると、話題を変えるように口を開く。
「ハヤテくん。お粥作ったんだけど、食べられそう?」
「……すまない。あまり食欲が……」
「じゃあ寒天菓子は?食べやすいと思うけど……」
「……それなら」
「っ!分かった!すぐ用意するね!」
ぱぁっと表情を綻ばせると、ロクヤは嬉々とした様子で立ち上がった。忙しなく台所へ向かうロクヤの背中をボーっと見つめるハヤテの瞳はどこか焦がれているようで、ロクヤを通して別の人を見つめているようでもあった。
ロクヤはお盆に寒天菓子と、温かいレモネードを乗せて運んでくると、布団の傍に置いたちゃぶ台の上にそれらを並べた。寒天菓子は、牛乳色の寒天の中に、色々な果物が小さくカットされた物が散りばめられており、見た目だけでも美味しそうな色鮮やかな物である。
ロクヤはその寒天菓子をスプーンで掬うと、ハヤテの口元に向かってそれを差し出した。
「はい」
「……流石に自分で食べられるぞ」
「そう?」
「ロクヤは世話好きだな」
「お節介ってよく言われる」
「優しいんだよ、ロクヤは」
穏やかな相好で言ったハヤテだが、その奥底には滲むような哀愁が漂っていた。優しい表情なのに、ハヤテはピクリとも笑っておらず、ロクヤは言いようの無い不安を覚える。
ロクヤから器とスプーンを受け取ったハヤテは、寒天菓子を一口頬張る。牛乳の優しい甘みと、果実のほのかな酸味が口に広がり、ハヤテはホッと息をついた。
そして、マグカップに注がれたレモネードを一口飲むと、甘さと酸味の調和のとれた美味しさと、胸がじんわりする程の温かさに、ハヤテは茫然自失としてしまう。
「……優しい、味がするな……」
「っ!ハヤテくんっ」
悲鳴にも似た、ロクヤの切羽詰まった声を聞いたハヤテは、当惑気味にキョトンと首を傾げた。刹那、ハヤテは自らの頬に妙な湿り気を感じ、ロクヤが吃驚した原因を悟る。
「……すまない。俺……もしかして泣いていたか?」
泣いた自覚がない――何故自分が涙を流したのか分からないハヤテは、酷く困惑した様子で尋ねた。こんな状態でも誰かに謝るハヤテを前に、ロクヤは居ても立っても居られなくなり、激流のような感情のままハヤテを抱き寄せた。
「いいんだよっ。いいんだよ……ハヤテくん、今までずっと、ずぅっと我慢してきたんだからっ……」
「……お母さんの手料理なんて、一度も食べたこと無いんだ」
「えっ?」
唐突に耳元で呟かれ、ロクヤは思わず抱擁を解いて首を傾げた。
「覚えていないぐらい小さな頃は分からないけど、俺……食事はいつも屋敷の食堂で済ませていたから」
「そっか……」
「もし……俺が忌み色持ちじゃなかったら。……お母さんが、俺を愛してくれていたら、こんな手料理を食べさせてもらえたのかなって……考えてしまった」
「ハヤテくん……」
ハヤテは、どこを見つめているのか分からない眼差しを空に向けると、自嘲するかのように呟いた。
一方のロクヤは、何も言ってやることが出来なかった。
二人の親子関係を大して知りもしない自分が「母はハヤテのことを愛していた」と安易に言うことも。ハヤテの主張を肯定した上で、励ましの言葉をかけてやることも。
幼いロクヤには、何と声をかけるのが最善なのか分からなかった。そんな自分が情けなく、歯痒く、ロクヤは涙を滲ませる。俯くロクヤを横目に、ハヤテは少しずつ食事を喉に通していくのだった。
********
それから五日経っても、ハヤテが精神的に回復することは無かった。
ユウタロウたちは出来るだけハヤテの傍にいようと、訓練の時以外はハヤテの元を訪れ、食事も睡眠も彼の部屋でとった。
これ以上心配を掛けたくなかったのか、ハヤテは時折作り笑いを浮かべていたが、それが心からの笑みで無いことぐらい、子供の彼らにも理解できた。
不幸中の幸いだったのは、ハヤテの体調が少しずつ回復に向かっていたことだ。熱は下がり、食欲も少しずつ増しており、ロクヤはホッと胸を撫で下ろしている。
ただ、ハヤテは夜中よく魘されており、悪夢を見て飛び起きることも多々あった。母親が殺された時の夢を見ているのか。それとも、母親に罵詈雑言を浴びせられ、暴力を受けている時の夢を見ているのか。どちらにしろハヤテにとっては辛い記憶だろう。
皆が内心、ハヤテのことを心配しながらも、それを表には出さず、普段通り接し始めてから五日――それは、ユウタロウたちの昼休み中の出来事であった。
「――でさぁ。俺が短距離で一着だったのに、セッコウの奴が何癖つけやがったんだよ」
「いーや!あれは完全にフライングだった。その証拠に次の短距離走では俺が一着だっただろうが」
「それはてめぇがフライングしたからだろうが」
「あ゛ぁ!?ふざけんなよてめぇ!」
ハヤテのお見舞いに来たユウタロウたちだったが、訓練の話をしている内に雲行きが怪しくなってきた。ユウタロウとセッコウは、訓練で行った短距離走の勝敗について口論を始めてしまい、そんな二人の様子をハヤテはどこか呆然とした様子で眺めていた。
「あ、あの……ふ、二人とも多分互角だと思う、よ?」
「お前な。そういうことじゃねぇだろうが」
「あぁ。そういうことじゃない」
「えぇっ……そんなぁ……」
折角喧嘩を仲裁しようとしたというのに、ユウタロウに続いて、兄のセッコウにまで否定されてしまい、ササノは困ったように眉を落としてたじろいだ。
「ってかササノ。お前俺の弟なんだから俺の肩持てよ」
「おいおい。身内びいきはよくねぇだろ」
「け、喧嘩、しないで?」
「そもそもてめぇがうじうじとはっきりしねぇのが悪いんだろうが」
「えぇっ!?」
「ササノ。お前いい加減その優柔不断な性格何とかしろよ」
セッコウの冷たい眼差しで見下ろされ、見放すように咎められたのが、止めの一発であった。ピクっと、一瞬、ササノの身体が硬直したかと思うと、両目一杯に涙が溜まっていき、決壊した様にそれが放出されてしまう。
「う……うぅっ……うわああああああああああああああんっっ」
「二人とも!ササノくんを泣かせるんじゃありませんっ!二人の喧嘩にササノくん巻き込んで、ササノくんを悪者扱いして、ササノくんに八つ当たりしてどうするの?今回は完全に二人の問題でしょうが」
「一番の年下が一番正論言ってんぞ」
咽び泣くササノを庇うように抱き込むと、ロクヤは母親のような顔で諸悪の根源に立ち向かった。ぐうの音も出ない正論をぶつけられたセッコウは、年下に叱られて情けないやら、ササノに泣かれて困り果てるやらで、どこか遠い目をして呟いた。
すると――。
「……ふふっ」
「「っ!?」」
ハヤテの口から漏れた失笑を、四人は聞き逃さなかった。目のも止まらぬ速さでバッと振り向くと、口元に手を添えて微笑むハヤテの姿が映り、ユウタロウたちはその光景をしっかりと目に焼き付ける。
そして、それが繕った笑みなどでは無く、心の底から零れ落ちた笑いであることを悟ると、彼らは嬉々とした相好を露わにした。
「ハヤテが、笑った……!笑ったぞっ」
「よ、良かったぁ……良かったよぉ、ハヤテくんっ」
興奮のあまり立ち上がったユウタロウとは対照的に、ロクヤは安堵のあまり肩の力が抜けてしまい、へにゃっと座り込んでしまった。
「ったく心配させんなよ……まぁ今回はササノのお手柄だな。お前の涙が、ハヤテの笑顔を引き出したんだから」
「は、初めて人様のお役に立てた……!そ、それにしても……ハヤテくんが笑ってくれて、本当に良かったですぅ……」
ササノは涙を浮かべながら、感激の声を漏らした。
ユウタロウも、ロクヤも、セッコウも、ササノも。ハヤテがたった一瞬微笑んだだけで、まるで自分のことのように大喜びしていて、そんな彼らの様子を、ハヤテはどこか呆けた表情で眺めていた。
他人のことでこんなにも屈託ない笑みを浮かべる彼らを眺めていると、ハヤテは不意に、ツーっと涙を流した。思わず彼らはギョッと血相を変え、一瞬にして慌てふためき始める。
「おい何で泣くっ?さっきまで笑ってただろうがっ!」
狼狽のあまり、ユウタロウは怒鳴ってしまったが、それでもハヤテが泣き止むことは無い。目元を覆い隠して泣きじゃくるハヤテを前に、ユウタロウはオロオロと周章狼狽とすることしか出来ない。そんな中、ハヤテは息を詰まらせながら、震える唇を開いた。
「ユウタロウがっ、俺たちじゃ駄目かって言ってくれて……嬉しかった。でもっ……もう一人は嫌なんだっ」
「っ……」
ハヤテの悲痛な思いを受けたユウタロウは、辛そうに顔を顰めた。あの日の夜、ハヤテは朦朧とした意識の中、ユウタロウの切実な問いかけをキチンと受け止めていたのだろう。
「こんな風に、誰かから優しくされたのは初めてで……。こんな風に、誰かと笑い合ったのも初めてで……。ずっと、ずっとこうしていたいっ……。お前たちとずっと一緒にいたいっ!……っ、でも……それを失うのが、怖いんだっ」
「ハヤテ……」
涙声で告げられたその思いを前に、ユウタロウは何か言いたげな声音で彼の名前を呼んだ。それでも、それが嘘偽りない丸裸の感情だと理解できるからこそ、それを否定することなど誰にもできない。
「お前と血の契約を交わして、完全にお前のものになってしまったら、失った時……俺は立ち直れない。……もう、あんな風に誰かを……大切な人を失いたくないっ……怖いっ、怖い……怖くて、仕方が無いんだ」
ハヤテの脳裏に思い浮かぶのは、ツキマに殺されてしまった母親の姿。
動かない身体はどんどん冷たくなり、切り離された頭は無機物のように転がり、見たこともない表情は、トラウマになる程の恐怖をハヤテに植え付けた。
――もう二度と、あんな思いはしたくない。
もし、ユウタロウやロクヤが、ハヤテにとって、母親以上に大事な存在になれば。そして、そんな二人をまた失ってしまったら。
一度経験しているからこそ、ハヤテの恐怖は切実であった。
自らの身体を抱き込み、震えながら俯くハヤテ。そんな彼の恐怖を吹き飛ばすように。ユウタロウは揺るがない気持ちを、精悍な声に乗せて降り注いだ。
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小さい体でチートな力は使えない中、どうにか生きる知恵を出し生活する。
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お知らせ
「転生者はめぐりあう」 始めました。
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注意
作者の暇つぶし、気分転換中の自己満足で公開する作品です。
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異世界転生したらよくわからない騎士の家に生まれたので、とりあえず死なないように気をつけていたら無双してしまった件。
星の国のマジシャン
ファンタジー
引きこもりニート、40歳の俺が、皇帝に騎士として支える分家の貴族に転生。
そして魔法剣術学校の剣術科に通うことなるが、そこには波瀾万丈な物語が生まれる程の過酷な「必須科目」の数々が。
本家VS分家の「決闘」や、卒業と命を懸け必死で戦い抜く「魔物サバイバル」、さらには40年の弱男人生で味わったことのない甘酸っぱい青春群像劇やモテ期も…。
この世界を動かす、最大の敵にご注目ください!
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