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第二章 過去との対峙編
82.その〝過去〟は、如何にして彼らの運命を変えたのか8
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「これは一体、どういうことだ?」
「「っ……!」」
聞き馴染みのある、全身が粟立つ程の重みを感じるその声に、三人はビクッと肩を震わせた。振り返らずとも、その人から発せられるオーラだけで、正体など明々白々である。
襖の向こう側に佇んでいたのは、勇者一族現当主――ツキマであった。
何故ここにツキマがいるのか?誰もがそんな疑問を覚える中、ツキマは不機嫌そうにハヤテを見下ろしている。
「……何の用ですか。ご当主様よ」
「尋ねているのは俺の方なんだが……。端的に答えるのなら、ハヤテの父親が縋って来たんだ」
「えっ……?」
悲鳴のような震えた声で疑問を呈したのは、ハヤテの母親である。その声音には、純粋な驚きと、信じたくないという切実な思いが込められていた。
「ハヤテが今妻と一緒にいるが、妻は今不安定な状態で、ハヤテに手を出しかねない。だけど自分では止めることが出来ないから、どうか様子を見てきてくれないか。と、俺に懇願してきてな」
「……」
父親の行動に対してハヤテが抱いたのは感謝などでは無く、どうしようもない憤りであった。今まで何もしてこなかったくせに、今更一体何のつもりなんだ?と、ハヤテは絶句してしまう。
ハヤテには、何となく分かっていたのだ。父は本気でハヤテを救いたかったわけでは無い。もしそんな意思が少しでもあったのであれば、今こんな状況にはなっていないから。恐らく父は、母の虐待をツキマに知らしめて、彼女を一族から厄介払いしたかったのかもしれない。
ハヤテが訪れるまでに、父と母がどんな会話を交わしていたのかは分からないが、恐らく先の出来事が引き金を引いてしまったのだろう。
「ハヤテ。その首の締め痕は、母親にやられたのか?」
「っ……ち、ちがっ……」
「では誰にやられたというんだ。ユウタロウは、母親からお前を庇っているように見えるが?」
「それは……」
この状況で言い逃れなど出来るはずも無く、ハヤテは俯きがちに目を泳がせた。
ツキマは目線をハヤテから母親の方に移すと、絶対零度の凍てつく眼差しで彼女を見下ろす。その眼には呆れと侮蔑がたっぷりと込められており、母親は形容しがたい恐怖に全身を粟立たせた。
「この様子だと、お前は日常的にハヤテに手をあげていたのか?」
「あ、あ……あぁっ……」
「否定しないということは、そうなのだな」
「もっ、申し訳ありませんっ!申し訳ありませんっ……」
震えが止まらない程の威圧感に押し潰されるように土下座すると、彼女は取り憑かれた様に謝罪の言葉を紡ぎ続けた。
勇者一族において、当主であるツキマは絶対君主のようなもの。国で言うところの王であり、勇者一族という世界の神だ。そんなツキマに疎まれれば最後、一族内で生きていくことは出来ない。彼女が焦るのも無理はなかった。
頻りに陳謝し続ける彼女を、まるで汚物でも見るかのような冷え切った眼で見下ろすと、ツキマは静かに口を開いた。
「ハヤテは確かに忌み色持ちだが、一族の人間の中でも吐出した戦闘スキルと技術を持っている。将来は、この一族を支える強者となることだろう。醜い忌み色持ちだったとしても、勇者になれなかったとしても。ハヤテは悪魔を討伐する際に必要な戦力になりうる。そんなハヤテを、何の力もないお前如き弱者が害するなど以ての外……」
「「っ」」
本能的に、咄嗟に。三人は途轍もない嫌な予感を察知した。理由は分からない。ただ、ツキマが自身の中で決定づけられた結論に向かって、その言葉を吐いているように思えたのだ。そして、その結論は絶対に阻止しなければならないと。彼らの本能が大音量で警鐘を鳴らしていた。
だが、ユウタロウもハヤテも、微かな挙動も見せられない。指先一つでも動かそうものなら、ツキマの鋭い殺気に呑まれて、何をされるか分かったものでは無かった。それ以前に、彼らが「動かなければ」と頭で理解した時にはもう、時既に遅しであった。
震えながら頭を上げると、彼女はあまりの恐ろしさにひゅっと息を呑む。
「……一族の繁栄を害する者は、万死に値する」
シュ、と。目にも止まらぬ速さで、ツキマは右手を真横に滑らせた。左から右に向かって円弧を描いた右手は空中で停止し、鋭いその爪には、微かな血の雫が垂れていた。
刹那――。
ぶしゃあああああああああああああああああ……。
部屋中に、噴水のような血の雨が降る。同時に、ハヤテの視界は真っ黒に染め上げられた。
虚ろなその瞳に映るのは、切断され、重力に抗えず畳に転がる母の頭部。力無く項垂れる胴体。
何が起きたのか。ツキマは何をしたのか。何もかも分からず、理解しようとする余裕すら無い。
いつの間にか、首から流れていた血の雨は止んでおり、ハヤテは目の前の光景――現実と無理矢理向き合わされる。
転がった母は、見たこともない顔をしていた。そこにおよそ表情と呼べるものはなく、顔のパーツとパーツが合わさっただけの、人形のような母がいるだけ。生気のない表情と言えば、そういう顔なのだろう。だが、そんな生易しい言葉で表現できるはずも無かった。
何処を見ているのか分からない目は開いたまま。呆けている様に口は半開き。恐怖で歪み切った顔には、たくさんの皺が寄っている。
まるで、知らない人のようであった。だが、ハヤテがそう思ってしまうのも無理はない。何せハヤテは、生まれて初めて死んだ母親の顔を目の当たりにしているのだから。
「っ……」
それが母であること理解した瞬間、喉の奥から唾液が滝のようにせり上がり、ハヤテは必死にそれを飲み込もうとした。飲み込んでも飲み込んでも、止めどなく溢れ出てくる唾液は収まるところを知らず、口の端から零れ出たかと思った途端、喉の奥から酸っぱいものがこみ上げ、ハヤテはそれを抑え込むことが出来なかった。
「うっ……おえっ、うぇ……ゴホッゴホッ」
「ハヤテっ」
嘔吐してしまったハヤテは苦しげに咳き込むと、目尻に涙を浮かべて俯いた。ユウタロウは一瞬にして青ざめると、彼の背を必死に摩ってやる。
身体の中に渦巻く気持ちの悪いものを全て吐き出したい衝動に駆られながら、自身の嘔吐物でシミを作っていく畳を見下ろすと、ハヤテは朦朧とした頭で「何とか止めなければ」と苦悶した。
「ケホッ、ケホッ……」
「どうしたハヤテ。具合が悪いのか?まぁ無理も無いか。母親に殺されかけたのだからな。可哀想に」
「……は?」
不思議そうにハヤテを見下ろすと、ツキマは憐れみの言葉を投げかけた。どこか他人事のような口ぶりに、思わずユウタロウは怪訝な声を上げてしまう。
「誰のせいでハヤテがこんな目に遭っていると思っているんだ」と、ユウタロウは大声で怒鳴り散らしてやりたかったが、睨み据える先のツキマの表情を見て、その行為が不毛であることを悟る。
ツキマは、悪意でとぼけているわけでは無く、ハヤテが苦しんでいる理由――ハヤテの思いを、本気で理解していないのだ。そして、分かろうともしていない。寧ろツキマは、虐待を繰り返していた母親を殺してやったのだから、ハヤテはさぞ安心し、喜んでいることだろうと、信じて疑おうともしていない。
だから、いくらここでユウタロウがツキマを責め立てても、何の意味もないどころか、彼は自身が責められる理由すら理解できないだろう。
「ユウタロウ。ハヤテのことはお前に任せるぞ。あと、そこの死体は後で大人が回収するから気にする必要は無い。ハヤテは具合が悪いようだから、一週間ほど訓練を休むといい。俺が直々に許可しよう」
「……」
淡々と、事後報告を済ませるように言うと、ツキマは踵を返して部屋から出て行った。ユウタロウは、その背中をただ呆然と眺めることしか出来ず、自らの不甲斐無さに打ちのめされた。
ふと、腕の中のハヤテを見下ろすと、彼はいつの間にか意識を失っていた。だが、その呼吸は決して穏やかなものでは無く、ハヤテは悪夢でも見ているかのように「ひゅー……ひゅー……」と、苦しげに呼吸している。
ハヤテがこんなにも苦しんでいるというのに、自分は何もしてやれないことが歯痒く、ユウタロウはグッと唇を噛みしめた。そのままハヤテを力強く抱き寄せると、眠る彼の耳元で囁く。
「大丈夫……大丈夫だ、ハヤテ。お前は、俺が絶対に守ってやるから」
********
それからユウタロウは、急いでハヤテを彼の部屋に連れて行き、まずはそのまま布団に寝かせてやった。それから、ロクヤ、セッコウ、ササノに事情を説明し、双子たちの訓練が終わった後、看病を手伝ってもらうことになった。
ハヤテの身体を拭いてやった後、部屋にあった寝巻きに着替えさせ、再び布団に寝かせたのはロクヤ以外の三人。そしてロクヤは、ハヤテが起きた後食べられるような食事と、温かい飲み物を用意してやった。
三人がハヤテの身を案じる中、彼が目を覚ましたのは、その日の夜のことだった。
「ん……」
「ハヤテっ!」
「ハヤテくんっ!」
ゆっくりと瞼を開いたハヤテに逸早く反応したのはユウタロウとロクヤで、二人は必死に彼の名を呼んだ。すると、段々と視界がはっきりとしてきたのか、ハヤテはユウタロウの顔を見上げると、呆けた表情で首を傾げる。
「ゆう、たろう……?」
「大丈夫か?ハヤテ」
「っ……あ……」
ユウタロウに尋ねられた瞬間、意識を失う以前のことを思い出し、ハヤテはうっすらとしか開かれていなかった瞼を見開いた。その瞳は絶望の黒に染まり、今にも涙が零れてしまいそう。
「ユウタロウ……お母さんは……」
「っ……。……当主に、殺された」
ユウタロウが絞りだした声で告げると、ハヤテはひゅっと息を呑み、ポロポロと涙を零した。横になっているので、涙は蟀谷を通り、枕に染みを作っていく。堪え切れなくなったように顔を歪めると、ハヤテは嗚咽を漏らした。
「ふっ……うぅっ……ふぅっ……なん、でぇ……」
「……ハヤテ。お前のせいじゃないからな」
「っ!」
悲痛な表情のハヤテを直視するのが堪えたのか、ユウタロウは顔を顰めたが、それでも目を逸らさずに告げた。すると、ハヤテは涙で滲んだ目を丸くした。
「お前の母ちゃんを殺したのは当主だ。だから、母ちゃんが死んだのはアイツのせいだ。アイツを呼んだお前の父ちゃんのせいだ。お前のせいじゃない。それだけは忘れるなよ」
「ふっ……なんで……なんで、なんでっ……なんで、お母さんばっかりこんな目に遭うんだ……ひっ……なんでっ……」
ユウタロウの言葉のおかげで、自分を責めることは無かったが、ハヤテはまだ現実を受け入れきれておらず、両手で目元を覆い隠しながら泣きじゃくった。
「そんなに、母親のこと好きだったのか?酷いこと、されてたんだろ?」
普段よりも優しい声音で問いかけたセッコウは、困ったように首を傾げた。するとハヤテは、グッと奥歯を噛みしめて声を震わせる。
「俺を、産んでくれたのも……、ここまで育ててくれたのも、お母さんだっ。忌み色だったのに、見捨てないでくれた……俺を育てたのは一族じゃないっ……お母さんだっ!
お母さんだけだったのに……お母さんしか、いなかったのに……。俺……もう、一人だっ……」
「……俺たちがいる」
「っ!」
ユウタロウが精悍に言い放った刹那、ハヤテは目元を覆う手を剥がして目を見開いた。茫然自失としているようにも見える表情だが、その眼には縋るような希望の光が灯っていた。
ユウタロウはハヤテの腕を引き、身体を起こさせると、そのまま彼を抱き寄せた。
「俺たちが絶対、お前を一人にさせない。俺たちが絶対、お前を傷つける者から守ってやる。だから、一人なんて言うな」
「っ……うわぁぁぁぁぁぁぁっ……」
決壊した様に咽び泣いてしまうと、もう歯止めが効かなかった。ぎゅっとユウタロウの背中に縋りつき、涙を流すのを止めることが出来ない。
ずっとずっと、忌み色持ちとして生まれてきた時からずっと。色々なことを我慢し続けてきたハヤテにとって、こんな情けない姿を誰かに晒すのは初めてで、どうやって止めればいいのかも、彼には分からなかった。
普段は大人びているハヤテが、まるで赤子のように泣きじゃくる姿を目の当たりにしたロクヤも、次第に泣き出してしまい、ユウタロウと同じようにハヤテをぎゅっと抱きしめた。
どれぐらい泣き続けていたのか。涙が枯れ、泣き疲れてしまったハヤテは再び横になると、朦朧とした意識の中、ユウタロウを見上げる。
「……なぁ、ハヤテ。俺たちじゃ、駄目か?……俺たちが、お前の家族になったら駄目か?」
「……」
ボソッと、小さな声で紡がれた問いかけが、ハヤテの耳に届いていたのか、誰にも分からなかった。直後、ハヤテはスッと瞼を閉じて眠ってしまい、問いに対する答えを貰うことが出来なかったから。
「「っ……!」」
聞き馴染みのある、全身が粟立つ程の重みを感じるその声に、三人はビクッと肩を震わせた。振り返らずとも、その人から発せられるオーラだけで、正体など明々白々である。
襖の向こう側に佇んでいたのは、勇者一族現当主――ツキマであった。
何故ここにツキマがいるのか?誰もがそんな疑問を覚える中、ツキマは不機嫌そうにハヤテを見下ろしている。
「……何の用ですか。ご当主様よ」
「尋ねているのは俺の方なんだが……。端的に答えるのなら、ハヤテの父親が縋って来たんだ」
「えっ……?」
悲鳴のような震えた声で疑問を呈したのは、ハヤテの母親である。その声音には、純粋な驚きと、信じたくないという切実な思いが込められていた。
「ハヤテが今妻と一緒にいるが、妻は今不安定な状態で、ハヤテに手を出しかねない。だけど自分では止めることが出来ないから、どうか様子を見てきてくれないか。と、俺に懇願してきてな」
「……」
父親の行動に対してハヤテが抱いたのは感謝などでは無く、どうしようもない憤りであった。今まで何もしてこなかったくせに、今更一体何のつもりなんだ?と、ハヤテは絶句してしまう。
ハヤテには、何となく分かっていたのだ。父は本気でハヤテを救いたかったわけでは無い。もしそんな意思が少しでもあったのであれば、今こんな状況にはなっていないから。恐らく父は、母の虐待をツキマに知らしめて、彼女を一族から厄介払いしたかったのかもしれない。
ハヤテが訪れるまでに、父と母がどんな会話を交わしていたのかは分からないが、恐らく先の出来事が引き金を引いてしまったのだろう。
「ハヤテ。その首の締め痕は、母親にやられたのか?」
「っ……ち、ちがっ……」
「では誰にやられたというんだ。ユウタロウは、母親からお前を庇っているように見えるが?」
「それは……」
この状況で言い逃れなど出来るはずも無く、ハヤテは俯きがちに目を泳がせた。
ツキマは目線をハヤテから母親の方に移すと、絶対零度の凍てつく眼差しで彼女を見下ろす。その眼には呆れと侮蔑がたっぷりと込められており、母親は形容しがたい恐怖に全身を粟立たせた。
「この様子だと、お前は日常的にハヤテに手をあげていたのか?」
「あ、あ……あぁっ……」
「否定しないということは、そうなのだな」
「もっ、申し訳ありませんっ!申し訳ありませんっ……」
震えが止まらない程の威圧感に押し潰されるように土下座すると、彼女は取り憑かれた様に謝罪の言葉を紡ぎ続けた。
勇者一族において、当主であるツキマは絶対君主のようなもの。国で言うところの王であり、勇者一族という世界の神だ。そんなツキマに疎まれれば最後、一族内で生きていくことは出来ない。彼女が焦るのも無理はなかった。
頻りに陳謝し続ける彼女を、まるで汚物でも見るかのような冷え切った眼で見下ろすと、ツキマは静かに口を開いた。
「ハヤテは確かに忌み色持ちだが、一族の人間の中でも吐出した戦闘スキルと技術を持っている。将来は、この一族を支える強者となることだろう。醜い忌み色持ちだったとしても、勇者になれなかったとしても。ハヤテは悪魔を討伐する際に必要な戦力になりうる。そんなハヤテを、何の力もないお前如き弱者が害するなど以ての外……」
「「っ」」
本能的に、咄嗟に。三人は途轍もない嫌な予感を察知した。理由は分からない。ただ、ツキマが自身の中で決定づけられた結論に向かって、その言葉を吐いているように思えたのだ。そして、その結論は絶対に阻止しなければならないと。彼らの本能が大音量で警鐘を鳴らしていた。
だが、ユウタロウもハヤテも、微かな挙動も見せられない。指先一つでも動かそうものなら、ツキマの鋭い殺気に呑まれて、何をされるか分かったものでは無かった。それ以前に、彼らが「動かなければ」と頭で理解した時にはもう、時既に遅しであった。
震えながら頭を上げると、彼女はあまりの恐ろしさにひゅっと息を呑む。
「……一族の繁栄を害する者は、万死に値する」
シュ、と。目にも止まらぬ速さで、ツキマは右手を真横に滑らせた。左から右に向かって円弧を描いた右手は空中で停止し、鋭いその爪には、微かな血の雫が垂れていた。
刹那――。
ぶしゃあああああああああああああああああ……。
部屋中に、噴水のような血の雨が降る。同時に、ハヤテの視界は真っ黒に染め上げられた。
虚ろなその瞳に映るのは、切断され、重力に抗えず畳に転がる母の頭部。力無く項垂れる胴体。
何が起きたのか。ツキマは何をしたのか。何もかも分からず、理解しようとする余裕すら無い。
いつの間にか、首から流れていた血の雨は止んでおり、ハヤテは目の前の光景――現実と無理矢理向き合わされる。
転がった母は、見たこともない顔をしていた。そこにおよそ表情と呼べるものはなく、顔のパーツとパーツが合わさっただけの、人形のような母がいるだけ。生気のない表情と言えば、そういう顔なのだろう。だが、そんな生易しい言葉で表現できるはずも無かった。
何処を見ているのか分からない目は開いたまま。呆けている様に口は半開き。恐怖で歪み切った顔には、たくさんの皺が寄っている。
まるで、知らない人のようであった。だが、ハヤテがそう思ってしまうのも無理はない。何せハヤテは、生まれて初めて死んだ母親の顔を目の当たりにしているのだから。
「っ……」
それが母であること理解した瞬間、喉の奥から唾液が滝のようにせり上がり、ハヤテは必死にそれを飲み込もうとした。飲み込んでも飲み込んでも、止めどなく溢れ出てくる唾液は収まるところを知らず、口の端から零れ出たかと思った途端、喉の奥から酸っぱいものがこみ上げ、ハヤテはそれを抑え込むことが出来なかった。
「うっ……おえっ、うぇ……ゴホッゴホッ」
「ハヤテっ」
嘔吐してしまったハヤテは苦しげに咳き込むと、目尻に涙を浮かべて俯いた。ユウタロウは一瞬にして青ざめると、彼の背を必死に摩ってやる。
身体の中に渦巻く気持ちの悪いものを全て吐き出したい衝動に駆られながら、自身の嘔吐物でシミを作っていく畳を見下ろすと、ハヤテは朦朧とした頭で「何とか止めなければ」と苦悶した。
「ケホッ、ケホッ……」
「どうしたハヤテ。具合が悪いのか?まぁ無理も無いか。母親に殺されかけたのだからな。可哀想に」
「……は?」
不思議そうにハヤテを見下ろすと、ツキマは憐れみの言葉を投げかけた。どこか他人事のような口ぶりに、思わずユウタロウは怪訝な声を上げてしまう。
「誰のせいでハヤテがこんな目に遭っていると思っているんだ」と、ユウタロウは大声で怒鳴り散らしてやりたかったが、睨み据える先のツキマの表情を見て、その行為が不毛であることを悟る。
ツキマは、悪意でとぼけているわけでは無く、ハヤテが苦しんでいる理由――ハヤテの思いを、本気で理解していないのだ。そして、分かろうともしていない。寧ろツキマは、虐待を繰り返していた母親を殺してやったのだから、ハヤテはさぞ安心し、喜んでいることだろうと、信じて疑おうともしていない。
だから、いくらここでユウタロウがツキマを責め立てても、何の意味もないどころか、彼は自身が責められる理由すら理解できないだろう。
「ユウタロウ。ハヤテのことはお前に任せるぞ。あと、そこの死体は後で大人が回収するから気にする必要は無い。ハヤテは具合が悪いようだから、一週間ほど訓練を休むといい。俺が直々に許可しよう」
「……」
淡々と、事後報告を済ませるように言うと、ツキマは踵を返して部屋から出て行った。ユウタロウは、その背中をただ呆然と眺めることしか出来ず、自らの不甲斐無さに打ちのめされた。
ふと、腕の中のハヤテを見下ろすと、彼はいつの間にか意識を失っていた。だが、その呼吸は決して穏やかなものでは無く、ハヤテは悪夢でも見ているかのように「ひゅー……ひゅー……」と、苦しげに呼吸している。
ハヤテがこんなにも苦しんでいるというのに、自分は何もしてやれないことが歯痒く、ユウタロウはグッと唇を噛みしめた。そのままハヤテを力強く抱き寄せると、眠る彼の耳元で囁く。
「大丈夫……大丈夫だ、ハヤテ。お前は、俺が絶対に守ってやるから」
********
それからユウタロウは、急いでハヤテを彼の部屋に連れて行き、まずはそのまま布団に寝かせてやった。それから、ロクヤ、セッコウ、ササノに事情を説明し、双子たちの訓練が終わった後、看病を手伝ってもらうことになった。
ハヤテの身体を拭いてやった後、部屋にあった寝巻きに着替えさせ、再び布団に寝かせたのはロクヤ以外の三人。そしてロクヤは、ハヤテが起きた後食べられるような食事と、温かい飲み物を用意してやった。
三人がハヤテの身を案じる中、彼が目を覚ましたのは、その日の夜のことだった。
「ん……」
「ハヤテっ!」
「ハヤテくんっ!」
ゆっくりと瞼を開いたハヤテに逸早く反応したのはユウタロウとロクヤで、二人は必死に彼の名を呼んだ。すると、段々と視界がはっきりとしてきたのか、ハヤテはユウタロウの顔を見上げると、呆けた表情で首を傾げる。
「ゆう、たろう……?」
「大丈夫か?ハヤテ」
「っ……あ……」
ユウタロウに尋ねられた瞬間、意識を失う以前のことを思い出し、ハヤテはうっすらとしか開かれていなかった瞼を見開いた。その瞳は絶望の黒に染まり、今にも涙が零れてしまいそう。
「ユウタロウ……お母さんは……」
「っ……。……当主に、殺された」
ユウタロウが絞りだした声で告げると、ハヤテはひゅっと息を呑み、ポロポロと涙を零した。横になっているので、涙は蟀谷を通り、枕に染みを作っていく。堪え切れなくなったように顔を歪めると、ハヤテは嗚咽を漏らした。
「ふっ……うぅっ……ふぅっ……なん、でぇ……」
「……ハヤテ。お前のせいじゃないからな」
「っ!」
悲痛な表情のハヤテを直視するのが堪えたのか、ユウタロウは顔を顰めたが、それでも目を逸らさずに告げた。すると、ハヤテは涙で滲んだ目を丸くした。
「お前の母ちゃんを殺したのは当主だ。だから、母ちゃんが死んだのはアイツのせいだ。アイツを呼んだお前の父ちゃんのせいだ。お前のせいじゃない。それだけは忘れるなよ」
「ふっ……なんで……なんで、なんでっ……なんで、お母さんばっかりこんな目に遭うんだ……ひっ……なんでっ……」
ユウタロウの言葉のおかげで、自分を責めることは無かったが、ハヤテはまだ現実を受け入れきれておらず、両手で目元を覆い隠しながら泣きじゃくった。
「そんなに、母親のこと好きだったのか?酷いこと、されてたんだろ?」
普段よりも優しい声音で問いかけたセッコウは、困ったように首を傾げた。するとハヤテは、グッと奥歯を噛みしめて声を震わせる。
「俺を、産んでくれたのも……、ここまで育ててくれたのも、お母さんだっ。忌み色だったのに、見捨てないでくれた……俺を育てたのは一族じゃないっ……お母さんだっ!
お母さんだけだったのに……お母さんしか、いなかったのに……。俺……もう、一人だっ……」
「……俺たちがいる」
「っ!」
ユウタロウが精悍に言い放った刹那、ハヤテは目元を覆う手を剥がして目を見開いた。茫然自失としているようにも見える表情だが、その眼には縋るような希望の光が灯っていた。
ユウタロウはハヤテの腕を引き、身体を起こさせると、そのまま彼を抱き寄せた。
「俺たちが絶対、お前を一人にさせない。俺たちが絶対、お前を傷つける者から守ってやる。だから、一人なんて言うな」
「っ……うわぁぁぁぁぁぁぁっ……」
決壊した様に咽び泣いてしまうと、もう歯止めが効かなかった。ぎゅっとユウタロウの背中に縋りつき、涙を流すのを止めることが出来ない。
ずっとずっと、忌み色持ちとして生まれてきた時からずっと。色々なことを我慢し続けてきたハヤテにとって、こんな情けない姿を誰かに晒すのは初めてで、どうやって止めればいいのかも、彼には分からなかった。
普段は大人びているハヤテが、まるで赤子のように泣きじゃくる姿を目の当たりにしたロクヤも、次第に泣き出してしまい、ユウタロウと同じようにハヤテをぎゅっと抱きしめた。
どれぐらい泣き続けていたのか。涙が枯れ、泣き疲れてしまったハヤテは再び横になると、朦朧とした意識の中、ユウタロウを見上げる。
「……なぁ、ハヤテ。俺たちじゃ、駄目か?……俺たちが、お前の家族になったら駄目か?」
「……」
ボソッと、小さな声で紡がれた問いかけが、ハヤテの耳に届いていたのか、誰にも分からなかった。直後、ハヤテはスッと瞼を閉じて眠ってしまい、問いに対する答えを貰うことが出来なかったから。
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一方で愛玩され続けてきた妹は、今まで通り好きなだけ魔石を使用していくが……
◇◇◇
親による虐待、明確なきょうだい間での差別の描写があります
(『嫌なら読むな』ではなく、『辛い気持ちになりそうな方は無理せず、もし読んで下さる場合はお気をつけて……!』の意味です)
◇◇◇
ようやく一区切りへの目処がついてきました
拙いお話ですがお付き合いいただければ幸いです
【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?
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