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第二章 過去との対峙編
46.プロローグ~彼らの新たな計画~
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――……。
アデルの故郷であるゼルド王国の北に位置する、平等と公正の国――バランドール民主国。
この国の西側――誰も知らない、誰もその存在に気づかない秘密の地下に、その家は存在していた――。
********
「あら?何だか今日のジャニファス様、いつもより顔色がよく見えない?」
その家の居間。暖色系の灯りに包まれた一室に、嬉々とした穏やかな声が響いた。
声の主はナナセ・クレナイ。通り魔事件の首謀者――仮面の組織の一味で、人形遣い。ユウタロウたちがナオヤ・コモリの尾行をしていた際、彼らを仕留める為に大量の人形を嗾け、最後にはレディバグの狙撃手――ナツメによって右腕を失った女だ。
相変わらず右上腕から下には何もなく、衣服の余った部分が情けなく揺れている。動きにくそうなフリル満載の衣服は変わらぬままだが、外出時にかけていた黒のベールはあげていて、桜色の髪が鮮やかである。全身黒ずくめではあるが、彼女は一等肌の色が白いので、その顔だけで華やかになっている。
車椅子の上でただ存在する悪魔の愛し子――ジャニファスの世話を焼いていたナナセは、彼のシャツのボタンを留め終え、彼の相好を見上げた瞬間、その言葉を零したのだ。
「予定通りなら、今日は虎紅が戻ってくる頃合いだからな。もしかすると、本能的に察知しているのかもしれん」
ナナセに返答したのは、すぐ傍に佇む初老の男性。百八十センチ程の高身長。少し焼けた肌に刻まれた皺は、彼の老いより精悍さを犇々と感じさせる。グレーの髪はオールバック。キリっと細い目の奥に潜むのは、深緑の落ち着いた瞳。
彼――メギド・サランドラは、俯きがちなジャニファスの顔を覗き込むと、ふっと微笑んで見せる。その瞳には、ジャニファスに向けられた慈しみと親愛の情が溢れんばかりに滲んでいて、見つめるだけで泣いてしまいそうな表情であった。
「それにしても。虎紅さん、死んでなくて本当によかったですよね。なんとか脱獄も出来たみたいですし」
どこか他人事のような、羽のように軽い声で言ったのは、居間のソファに腰掛ける青年。
百七十センチ程の身長。空色の髪を乱雑に切っているせいで、髪の長さはバラバラでボサボサ。自身の見た目に頓着していないことが見て取れる。髪と同じ色の瞳に、それを彩る睫毛は長め。作業着のような衣服は随分と汚れているが、悪臭はしないので不衛生という訳ではない。恐らく、洗っても取れない様な塗料が蓄積された結果であろう。
彼――ナインの意見に、ナナセは全くもってその通りとでも言わんばかりに、頻りに頷いて見せる。
「本当に……。彼が生きていてホッとしたわ。ジャニファス様が真に目覚められた時、見知った仲間がいなかったら、きっと悲しまれるから。仲間が死ぬのは避けたいもの」
「……ナナセ。死んだ仲間もいるのですよ?慎みなさい」
まるで、誰一人として欠けることなく事が終わったかのような物言いをしたナナセに苦言を呈したのは、ナインの腰掛けるソファの反対側に腰を下ろしていた女性。
百六十センチ程の背。明るめの茶髪は低い位置で緩く結んでいる。大きく鋭さのある瞳は青。そして彼女の容姿の中で最も目を引くのは、その犬耳と尻尾だ。彼女は犬の亜人で、若い容姿からその年齢を推察することはできない。
彼女――ヒトエは、鋭く凍えるような眼光でナナセを睨んだ。
「あら。あれは私たちの目的を達するための道具でしょう?金欲しさに群がったどうしようもない連中よ」
「っ……彼らはれっきとした仲間でした!私たちに、ジャニファス様に忠誠を誓ったからこそ、自害という苦渋を飲んでくれたのですよっ!?」
「でも――」
「もういい」
ピシャリと、咎めるようなメギドの低い声に、ナナセの反論はかき消えた。思わず二人はビクッと肩を震わせる。関係の無いナインでさえも、僅かに困惑を滲ませた表情で様子を窺っている。
「二人とも、よさないか。ジャニファスの前だぞ」
「「っ」」
メギドの苦言で我に返った二人は思わず、反射的にジャニファスの方を振り返る。虚ろなジャニファスの赤い瞳を覗いても、その感情を読み解くことなど出来ない。ジャニファスに大きな変化などあるわけも無いのだが、ほんの僅かな可能性を否定できず、二人は不安になったのだ。
「ナナセ。目的のために尽力してくれた者を……死んだ者を軽視するような発言はよせ。ジャニファスは今このような状態だが、キチンと息をして生きているんだ。お前の声を聞いているかもしれん。……ジャニファスの耳が汚れる」
「もっ、申し訳ありませんっ!ジャニファス様っ!
自らの非を自覚したナナセは即座に跪くと、彼の車椅子に縋りついた。ナナセにとっては〝耳が汚れる〟という暴言よりも、本当にジャニファスの耳が汚れてしまうのではないかという不安の方が重要らしい。
そんなナナセを一瞥すると、メギドは顰め面を晒すヒトエの方を振り向く。
「……ヒトエ。お前もお前だ。元より儂らは、大きな犠牲を覚悟の上でこの計画を立てたのだ。今更死を嘆いたところで何も生まない。分かっているだろう?」
「……そうね。ごめんなさい」
仲間が、ジャニファスの意志の為に尽力した者が死ぬこと。そして、自分自身が犠牲になることなど、この計画を企てた時から覚悟していたこと。今更それを嘆いたところで、自分たちはもう戻れないところまで来てしまっていることを、ヒトエは改めて思い知らされた。
暗い相好を俯かせながらヒトエが陳謝したその時――。
突如、居間に来訪者が現れた。
「――折角仲間が無事帰還したというのに、何だこれは?最悪の雰囲気だな」
「「虎紅!」」
その人物の帰還を待ち侘びていた彼らは、声を上げて扉の方を向いた。
長期間に渡った変装を解いた彼は、百七十センチ程の背。短く切り揃えた銀髪は若々しいが、齢は六四。垂れ目がちな瞳は純黒。
――国立操志者育成学園の理事長の変装用に見繕った衣服はあちこち汚れているが、破れたりはしていなかった。
フェイクという仮の名前を語った彼――黄虎紅は即座にジャニファスを視界に入れると、徐に近づき跪く。
「……ただ今戻りました。ジャニファス様」
俯くジャニファスと目を合わせるように、下から見上げる虎紅。その目には、ジャニファスの瞳にほんの僅かな光が灯ったように見えるが、それが事実なのか、願望故の幻なのかは誰にもわからない。
「……どうだ?ジャニファス様のご様子は」
「今日は顔色がいいわ。あなたが無事でホッとしているのかも」
「……ふっ」
「?どうかした?」
虎紅の問いにナナセが答えると、彼は何故か自嘲じみた乾いた笑みを浮かべた。思わずナナセは首を傾げ、他の面々も奇妙とでも言わんばかりの眼差しを彼に向ける。
「レディバグの悪魔の愛し子……あれは化け物だぞ」
「「っ……!」」
虎紅の乾いた笑みの原因を、彼らは一瞬で悟った。そして同時に、自身らが敵対する存在の脅威を思い知らされ、身体が粟立つような感覚に襲われる。
「私は単に、あの化け物に見逃されただけだ。アデル・クルシュルージュは、いつでも私を殺すことが出来た。だがしなかった。……甘い男だ」
「悪魔の愛し子ってのはどうしてこう、優しい奴が多いんだろうな」
すぐ傍にいる悪魔の愛し子――ジャニファスの頭にポンと手を置くと、どこか呆れた様な、それでいて穏やかな眼差しをメギドは向けた。
彼の意見に概ね賛成の虎紅ではあったが、彼はどこか暗い相好で口を開く。
「……だが、レディバグは私たちの計画に邪魔な存在だ。必要とあらば排除しなければならない……例えそれが、ジャニファス様と同じ悪魔の愛し子だったとしてもだ」
「えぇ。分かっているわ」
ヒトエが神妙な声音で言った。そんな中、彼らの会話に唯一耳を傾けていなかったナインが、唐突に何かを思い出したように口を開く。
「そういや、俺の力作役に立ちました?」
「役に立ったと言えばそうだし、立たなかったと言えばそうとも言える」
「は?なんすかそれ」
曖昧な虎紅の答えに、ナインは少々苛立ったような態度を見せる。
因みに、ナインの言う力作というのは、虎紅がアデルを拘束する際に使った拘束具のことである。拘束された者が物理的な力を加えたり、拘束具にジルの干渉を施すと、首輪が作動して首が刎ねられる仕組みの拘束具だ。
「僅かな間ではあるが、レディバグの長と話すことが出来た。とは言っても、その気になればあの男はいつでも脱出できただろうな」
「むっかつくなぁ……あれをどうやって攻略したんですか?」
「相手が悪かったと思うんだな」
丹精込めて作り上げた拘束具をいとも簡単に攻略されたことが余程悔しかったのか、今までの無関心な態度が嘘のように、ナインは苛立ちを露わにした。
そもそも、分身体を作り、その分身体と入れ替わるアデルがあまりにも稀有なので、相手が悪いという彼の意見は的を射ている。
そんな虎紅の様子を傍観していたメギドは、珍しいものを見たように眉を上げた。
「……珍しいな。お前が苛つくなんて」
「っ」
「え?苛ついてます?これ」
メギドに目敏く指摘された虎紅は、純粋な驚きと図星を突かれたことによる居た堪れなさで目を見開いた。だが、他の面々はその変化に気づけなかったので、首を傾げている。
「……手も足も出なかったんだよ。私の呪術が、一切通用しなかった」
「「っ!」」
観念したように虎紅が言うと、全員が息を呑み、信じたくないという気持ちから顔を顰めてしまう。
虎紅の扱う呪術の威力は誰よりも彼らが理解しているし、誰にも解くことが出来ない唯一の術と彼自身が自負していたからこそ、その衝撃が計り知れないのだ。
「それに……」
言いかけて、虎紅は口を噤んだ。
あの時感じた屈辱感と、悔しさと、憤りと、燻り。そして何より、アデルの言葉を、心の中では完全に否定しきれなかった自分自身に嫌気が差し、仲間に同じような思いを味わわせたくは無かったのだ。
『最終的な目的は知らぬが、その人物は、目的を達するための手段として、罪のない人々を殺すことを良しとするような人なのであるか?』
「っ」
幻聴のように、その言葉を思い出してしまった虎紅は苛立ちを抑えることが出来ず、思いきり壁に拳を打ち付けてしまう。ガンっ!と激しい音が部屋に木霊し、虎紅が手を退けると、壁に大きなへこみが出来ていた。
「おい……。ジャニファスが驚いているだろう、物に当たるな」
メギドは厳しい表情で苦言を呈した。刹那、ハッと我に返った虎紅は、顔を青くしながらジャニファスの方を振り返る。
すると、確かにジャニファスは先刻よりも顔色が悪く、木製のアームレストに乗せた両腕を微かに震わせていた。自身の失態に気づいた虎紅は、慌ててジャニファスの元へ駆け寄る。
「っ、申し訳ありません。ジャニファス様」
ジャニファスを安心させ、その震えを抑えるように、虎紅は彼の腕を優しく摩ってやった。
ジャニファスの震えが治まり、彼らがホッと安堵した頃。やはりどこか他人事のようにそれを眺めていたナインが、不意に口を開いた。
「――それで。これからはどのように計画を進めるつもりなんですか?通り魔事件はもう潮時でしょ?」
「そうね……大きな成果を得られたとは言えないし……」
ナインの問いに、ヒトエは重苦しい声で肯定した。
アオノクニを中心に起こした通り魔事件の関係者は、レディバグや勇者一族の面々によって殲滅されてしまった。その上、他国で通り魔事件を起こさせていた人間たちも、同じく他国に渡っていたレディバグ構成員によって抑え込まれていた。
これ以上通り魔事件を続けるには、人手が圧倒的に足りず、彼らの計画を達する為の方法としては現実味が無くなってきたのだ。
「いや?そうでもないぞ」
「「?」」
虎紅が否定したのは、ヒトエの「成果を得られなかった」という発言。だが彼らには、その得られたもの――成果が分からず、首を傾げた。
「私たちの計画に役立ちそうな、ちょうどいい道具を見つけたんだ」
「道具って……?」
ナナセはコテンと首を傾げると、頭の中でその正体を探るように視線を泳がせた。彼女の価値観では、この計画における道具は数え切れない程いるので、虎紅がどの道具を指しているのか分からなかったのだろう。
虎紅は、ふっと不敵に破顔する。それはまるで、その道具を嘲笑っている様な、そんな笑みだった。
「ほら。お前らもよく知っている奴だよ……。愚かで滑稽で、心底哀れな女だ」
アデルの故郷であるゼルド王国の北に位置する、平等と公正の国――バランドール民主国。
この国の西側――誰も知らない、誰もその存在に気づかない秘密の地下に、その家は存在していた――。
********
「あら?何だか今日のジャニファス様、いつもより顔色がよく見えない?」
その家の居間。暖色系の灯りに包まれた一室に、嬉々とした穏やかな声が響いた。
声の主はナナセ・クレナイ。通り魔事件の首謀者――仮面の組織の一味で、人形遣い。ユウタロウたちがナオヤ・コモリの尾行をしていた際、彼らを仕留める為に大量の人形を嗾け、最後にはレディバグの狙撃手――ナツメによって右腕を失った女だ。
相変わらず右上腕から下には何もなく、衣服の余った部分が情けなく揺れている。動きにくそうなフリル満載の衣服は変わらぬままだが、外出時にかけていた黒のベールはあげていて、桜色の髪が鮮やかである。全身黒ずくめではあるが、彼女は一等肌の色が白いので、その顔だけで華やかになっている。
車椅子の上でただ存在する悪魔の愛し子――ジャニファスの世話を焼いていたナナセは、彼のシャツのボタンを留め終え、彼の相好を見上げた瞬間、その言葉を零したのだ。
「予定通りなら、今日は虎紅が戻ってくる頃合いだからな。もしかすると、本能的に察知しているのかもしれん」
ナナセに返答したのは、すぐ傍に佇む初老の男性。百八十センチ程の高身長。少し焼けた肌に刻まれた皺は、彼の老いより精悍さを犇々と感じさせる。グレーの髪はオールバック。キリっと細い目の奥に潜むのは、深緑の落ち着いた瞳。
彼――メギド・サランドラは、俯きがちなジャニファスの顔を覗き込むと、ふっと微笑んで見せる。その瞳には、ジャニファスに向けられた慈しみと親愛の情が溢れんばかりに滲んでいて、見つめるだけで泣いてしまいそうな表情であった。
「それにしても。虎紅さん、死んでなくて本当によかったですよね。なんとか脱獄も出来たみたいですし」
どこか他人事のような、羽のように軽い声で言ったのは、居間のソファに腰掛ける青年。
百七十センチ程の身長。空色の髪を乱雑に切っているせいで、髪の長さはバラバラでボサボサ。自身の見た目に頓着していないことが見て取れる。髪と同じ色の瞳に、それを彩る睫毛は長め。作業着のような衣服は随分と汚れているが、悪臭はしないので不衛生という訳ではない。恐らく、洗っても取れない様な塗料が蓄積された結果であろう。
彼――ナインの意見に、ナナセは全くもってその通りとでも言わんばかりに、頻りに頷いて見せる。
「本当に……。彼が生きていてホッとしたわ。ジャニファス様が真に目覚められた時、見知った仲間がいなかったら、きっと悲しまれるから。仲間が死ぬのは避けたいもの」
「……ナナセ。死んだ仲間もいるのですよ?慎みなさい」
まるで、誰一人として欠けることなく事が終わったかのような物言いをしたナナセに苦言を呈したのは、ナインの腰掛けるソファの反対側に腰を下ろしていた女性。
百六十センチ程の背。明るめの茶髪は低い位置で緩く結んでいる。大きく鋭さのある瞳は青。そして彼女の容姿の中で最も目を引くのは、その犬耳と尻尾だ。彼女は犬の亜人で、若い容姿からその年齢を推察することはできない。
彼女――ヒトエは、鋭く凍えるような眼光でナナセを睨んだ。
「あら。あれは私たちの目的を達するための道具でしょう?金欲しさに群がったどうしようもない連中よ」
「っ……彼らはれっきとした仲間でした!私たちに、ジャニファス様に忠誠を誓ったからこそ、自害という苦渋を飲んでくれたのですよっ!?」
「でも――」
「もういい」
ピシャリと、咎めるようなメギドの低い声に、ナナセの反論はかき消えた。思わず二人はビクッと肩を震わせる。関係の無いナインでさえも、僅かに困惑を滲ませた表情で様子を窺っている。
「二人とも、よさないか。ジャニファスの前だぞ」
「「っ」」
メギドの苦言で我に返った二人は思わず、反射的にジャニファスの方を振り返る。虚ろなジャニファスの赤い瞳を覗いても、その感情を読み解くことなど出来ない。ジャニファスに大きな変化などあるわけも無いのだが、ほんの僅かな可能性を否定できず、二人は不安になったのだ。
「ナナセ。目的のために尽力してくれた者を……死んだ者を軽視するような発言はよせ。ジャニファスは今このような状態だが、キチンと息をして生きているんだ。お前の声を聞いているかもしれん。……ジャニファスの耳が汚れる」
「もっ、申し訳ありませんっ!ジャニファス様っ!
自らの非を自覚したナナセは即座に跪くと、彼の車椅子に縋りついた。ナナセにとっては〝耳が汚れる〟という暴言よりも、本当にジャニファスの耳が汚れてしまうのではないかという不安の方が重要らしい。
そんなナナセを一瞥すると、メギドは顰め面を晒すヒトエの方を振り向く。
「……ヒトエ。お前もお前だ。元より儂らは、大きな犠牲を覚悟の上でこの計画を立てたのだ。今更死を嘆いたところで何も生まない。分かっているだろう?」
「……そうね。ごめんなさい」
仲間が、ジャニファスの意志の為に尽力した者が死ぬこと。そして、自分自身が犠牲になることなど、この計画を企てた時から覚悟していたこと。今更それを嘆いたところで、自分たちはもう戻れないところまで来てしまっていることを、ヒトエは改めて思い知らされた。
暗い相好を俯かせながらヒトエが陳謝したその時――。
突如、居間に来訪者が現れた。
「――折角仲間が無事帰還したというのに、何だこれは?最悪の雰囲気だな」
「「虎紅!」」
その人物の帰還を待ち侘びていた彼らは、声を上げて扉の方を向いた。
長期間に渡った変装を解いた彼は、百七十センチ程の背。短く切り揃えた銀髪は若々しいが、齢は六四。垂れ目がちな瞳は純黒。
――国立操志者育成学園の理事長の変装用に見繕った衣服はあちこち汚れているが、破れたりはしていなかった。
フェイクという仮の名前を語った彼――黄虎紅は即座にジャニファスを視界に入れると、徐に近づき跪く。
「……ただ今戻りました。ジャニファス様」
俯くジャニファスと目を合わせるように、下から見上げる虎紅。その目には、ジャニファスの瞳にほんの僅かな光が灯ったように見えるが、それが事実なのか、願望故の幻なのかは誰にもわからない。
「……どうだ?ジャニファス様のご様子は」
「今日は顔色がいいわ。あなたが無事でホッとしているのかも」
「……ふっ」
「?どうかした?」
虎紅の問いにナナセが答えると、彼は何故か自嘲じみた乾いた笑みを浮かべた。思わずナナセは首を傾げ、他の面々も奇妙とでも言わんばかりの眼差しを彼に向ける。
「レディバグの悪魔の愛し子……あれは化け物だぞ」
「「っ……!」」
虎紅の乾いた笑みの原因を、彼らは一瞬で悟った。そして同時に、自身らが敵対する存在の脅威を思い知らされ、身体が粟立つような感覚に襲われる。
「私は単に、あの化け物に見逃されただけだ。アデル・クルシュルージュは、いつでも私を殺すことが出来た。だがしなかった。……甘い男だ」
「悪魔の愛し子ってのはどうしてこう、優しい奴が多いんだろうな」
すぐ傍にいる悪魔の愛し子――ジャニファスの頭にポンと手を置くと、どこか呆れた様な、それでいて穏やかな眼差しをメギドは向けた。
彼の意見に概ね賛成の虎紅ではあったが、彼はどこか暗い相好で口を開く。
「……だが、レディバグは私たちの計画に邪魔な存在だ。必要とあらば排除しなければならない……例えそれが、ジャニファス様と同じ悪魔の愛し子だったとしてもだ」
「えぇ。分かっているわ」
ヒトエが神妙な声音で言った。そんな中、彼らの会話に唯一耳を傾けていなかったナインが、唐突に何かを思い出したように口を開く。
「そういや、俺の力作役に立ちました?」
「役に立ったと言えばそうだし、立たなかったと言えばそうとも言える」
「は?なんすかそれ」
曖昧な虎紅の答えに、ナインは少々苛立ったような態度を見せる。
因みに、ナインの言う力作というのは、虎紅がアデルを拘束する際に使った拘束具のことである。拘束された者が物理的な力を加えたり、拘束具にジルの干渉を施すと、首輪が作動して首が刎ねられる仕組みの拘束具だ。
「僅かな間ではあるが、レディバグの長と話すことが出来た。とは言っても、その気になればあの男はいつでも脱出できただろうな」
「むっかつくなぁ……あれをどうやって攻略したんですか?」
「相手が悪かったと思うんだな」
丹精込めて作り上げた拘束具をいとも簡単に攻略されたことが余程悔しかったのか、今までの無関心な態度が嘘のように、ナインは苛立ちを露わにした。
そもそも、分身体を作り、その分身体と入れ替わるアデルがあまりにも稀有なので、相手が悪いという彼の意見は的を射ている。
そんな虎紅の様子を傍観していたメギドは、珍しいものを見たように眉を上げた。
「……珍しいな。お前が苛つくなんて」
「っ」
「え?苛ついてます?これ」
メギドに目敏く指摘された虎紅は、純粋な驚きと図星を突かれたことによる居た堪れなさで目を見開いた。だが、他の面々はその変化に気づけなかったので、首を傾げている。
「……手も足も出なかったんだよ。私の呪術が、一切通用しなかった」
「「っ!」」
観念したように虎紅が言うと、全員が息を呑み、信じたくないという気持ちから顔を顰めてしまう。
虎紅の扱う呪術の威力は誰よりも彼らが理解しているし、誰にも解くことが出来ない唯一の術と彼自身が自負していたからこそ、その衝撃が計り知れないのだ。
「それに……」
言いかけて、虎紅は口を噤んだ。
あの時感じた屈辱感と、悔しさと、憤りと、燻り。そして何より、アデルの言葉を、心の中では完全に否定しきれなかった自分自身に嫌気が差し、仲間に同じような思いを味わわせたくは無かったのだ。
『最終的な目的は知らぬが、その人物は、目的を達するための手段として、罪のない人々を殺すことを良しとするような人なのであるか?』
「っ」
幻聴のように、その言葉を思い出してしまった虎紅は苛立ちを抑えることが出来ず、思いきり壁に拳を打ち付けてしまう。ガンっ!と激しい音が部屋に木霊し、虎紅が手を退けると、壁に大きなへこみが出来ていた。
「おい……。ジャニファスが驚いているだろう、物に当たるな」
メギドは厳しい表情で苦言を呈した。刹那、ハッと我に返った虎紅は、顔を青くしながらジャニファスの方を振り返る。
すると、確かにジャニファスは先刻よりも顔色が悪く、木製のアームレストに乗せた両腕を微かに震わせていた。自身の失態に気づいた虎紅は、慌ててジャニファスの元へ駆け寄る。
「っ、申し訳ありません。ジャニファス様」
ジャニファスを安心させ、その震えを抑えるように、虎紅は彼の腕を優しく摩ってやった。
ジャニファスの震えが治まり、彼らがホッと安堵した頃。やはりどこか他人事のようにそれを眺めていたナインが、不意に口を開いた。
「――それで。これからはどのように計画を進めるつもりなんですか?通り魔事件はもう潮時でしょ?」
「そうね……大きな成果を得られたとは言えないし……」
ナインの問いに、ヒトエは重苦しい声で肯定した。
アオノクニを中心に起こした通り魔事件の関係者は、レディバグや勇者一族の面々によって殲滅されてしまった。その上、他国で通り魔事件を起こさせていた人間たちも、同じく他国に渡っていたレディバグ構成員によって抑え込まれていた。
これ以上通り魔事件を続けるには、人手が圧倒的に足りず、彼らの計画を達する為の方法としては現実味が無くなってきたのだ。
「いや?そうでもないぞ」
「「?」」
虎紅が否定したのは、ヒトエの「成果を得られなかった」という発言。だが彼らには、その得られたもの――成果が分からず、首を傾げた。
「私たちの計画に役立ちそうな、ちょうどいい道具を見つけたんだ」
「道具って……?」
ナナセはコテンと首を傾げると、頭の中でその正体を探るように視線を泳がせた。彼女の価値観では、この計画における道具は数え切れない程いるので、虎紅がどの道具を指しているのか分からなかったのだろう。
虎紅は、ふっと不敵に破顔する。それはまるで、その道具を嘲笑っている様な、そんな笑みだった。
「ほら。お前らもよく知っている奴だよ……。愚かで滑稽で、心底哀れな女だ」
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