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第一章 学園編
16.悪魔の愛し子
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――事が起きる時は、一瞬である。
どのタイミングで事が起きたのか。終わってしまえば、そんなことも分からないほど残酷に。
彼女の右腕は、呆気なく吹き飛ばされていった。
「っ……いやああああああああああああああああっ!!」
飛び立つための翼を奪われた、堕落した天使のような悲鳴は、痛烈に響き渡った。
「っ、ぐっ……そ……はぁ、はぁっ……狙撃?」
想定外過ぎる奇襲に、彼女――ナナセは困惑を隠しきれない。
拳銃。しかも狙撃専用の狙撃銃となると、この国にはあまり流通されていない代物だからだ。拳銃が最も出回っているのはイリデニックス国という国だが、アオノクニからはかなり離れた場所に位置している。
それを知っているからこそ、ナナセは狙撃による奇襲など予想だにしていなかったのだ。
「このままでは侵入者に追いつかれてしまう……せめてこのお方を、連れ帰らなければっ……」
苛立つように歯噛みすると、ナナセは行動に移した。
まず、苛立ちの原因――腕の切断面に走る強烈な痛みを和らげる為、彼女は簡単な手当てをすることにした。
未だ動かせる左腕でスカートの一部をビリっと破り取る。何の躊躇いも無いその動きは精悍だ。
そしてそのまま、口と片手を駆使して傷口を覆う。慣れない痛みに顔を顰めながら、何とか包帯代わりの布を巻きつけたナナセ。
消えることの無い痛みと精神的ダメージのせいか、ナナセは膝が笑って仕方が無い。それでも何とか踏ん張って立ち上がると、再び目的の物に手を伸ばす。
今度はしっかりと掴むことが出来、ナナセはホッと息を吐いた。その時――。
「おい待てっ!」
「っ……!」
ナナセの逃走を阻む声が、彼女の耳元一直線に襲い掛かってきた。
********
女性の叫び声を頼りに、人形の操縦者の元へ急ぐユウタロウたち。
足を速めながら、ユウタロウはヒメに尋ねた。
「さっきの叫び声、アンタらの仲間の仕業なんだよな?」
「恐らくそうなの。ナツメ様が狙撃を成功させたの」
「でも急がないとっ。ナツメ様は余程のことが無い限り、狙撃対象を殺したりしないから、急がないと逃げられるわよっ」
ヒメのに捕捉するように、ディアンは危機感を露わにした。それを聞いたユウタロウは、どこか釈然としないように、眉間に皺を寄せる。
「……アンタらレディバグは、敵にまで情けをかけているのか?」
「……ヒメにそういう難しい話をしないで欲しいの。ただヒメたちは、マスターの意思に反することをしたくないだけなの。
マスターは、必要以上の殺生は好まないの。だからヒメたちレディバグは、例え極悪人が相手でも、それ相応の理由がない限り、殺しをしないだけなの」
「……甘いな」
ヒメの答えを聞くと、その思想を一刀両断するようにユウタロウは言った。どこか自嘲しているようにも聞こえる、その声の真意を知る者など、この場においてはチサトしかいないだろう。
チサトは知っている。
ユウタロウが自らの甘さと、それによって引き起こされ事態に、どうしようもない憤りを感じていることを。
そんな中、彼らは目的の人物と思われる女性を見つけ、その足を止めた。
――刹那、彼らは一切の音を発せなくなる。
まるで不思議な引力でも働いているかのように、それから目を離すことが出来ない。息を呑むあまり、激しい耳鳴りが襲うほど。
彼らはとうとう目撃してしまったのだ。
この事件の鍵とも呼べる存在。目撃者が口を揃えてその存在を証言する、謎に包まれたそれ。
――悪魔の愛し子を。
********
「「…………」」
全てを呑み込んでしまうそうな純黒の髪。そして、鮮血のように赤い瞳。
悪魔の愛し子の象徴を前に、彼らは声を発することが出来なかった。
その悪魔の愛し子の外見は二十代後半の男性だが、愛し子はほぼ不老不死なので、正確な年齢までは分からない。簡素なシャツとパンツを身につけてはいるが、無理矢理着せられたような違和感があった。
そしてその違和感の正体は、一瞥しただけで理解できてしまう。
何故ならその悪魔の愛し子は、自らの足で地面を踏みしめていたわけでは無く、木製の車椅子に鎮座していたから。
その姿はそれこそ、あの人形たちのよう……だが、人形にしてはあまりにも精巧すぎる。車椅子の上、微かな呼吸音のみで存在している彼は、間違いなく人間だと思われた。
生きているのは間違いないというのに、その赤い瞳に光は灯っておらず、虚ろ。赤い瞳は確かに真っ直ぐ何かを見据えているはずなのに、何も捉えていないように思える。
言ってしまえばその愛し子には、生気がまるで感じられなかった。
そして、彼について気になる点がもう一つ。それは、彼の首から顔にかけて刻まれている、禍々しい黒い紋章のようなもの。その紋章は彼自身を侵食しているようで、言い表せない程の不気味さがあった。
各々が、悪魔の愛し子の放つ独特な雰囲気に呑まれる中、ティンベルただ一人だけがほんの少し安堵していた。
(恐らく彼が、目撃されている悪魔の愛し子……良かった……アデル兄様にはあまり似ていない……。それにアデル兄様の年齢なら、もう少し若い見た目のはず。
アデル兄様を疑ってなんていないけど、潔白を確信できた方が大分楽だもの……)
悪魔の愛し子に目を奪われるあまり、彼らの視界は狭まっていた。その存在を注視していたせいで、まるで時間が停止しているような錯覚に陥るが、狭まった視界に動きを捉えたことで、そのまやかしは消え去る。
「おい待てっ!」
車椅子の手押しハンドルに手をかけようとしたナナセを、ユウタロウは咄嗟に呼び止めた。一瞬だけ、驚いたように彼らの方を振り向くが、ナナセはその程度のことで立ち止まってはくれなかった。
彼女はハンドルから手を離すと、悪魔の愛し子の肩にそっとその手を乗せる。刹那――。
「「っ……!?」」
すぐ傍にいたはずの、ナナセと悪魔の愛し子は、瞬きする間に消え去ってしまった。
残されたのは、彼女の欠損した右腕と、流した大量の血。そして、悪魔の愛し子が乗っていた車椅子だけ。
彼らの姿はどこにもなく、まるで神隠しに遭ってしまったかのよう。
「……転移術使われたな」
「転移術……?あの高度な術を彼女が行使したと言うのですか?」
転移術を行使する難しさを理解しているティンベルは、信じられないように尋ねた。
「あれだけの数の人形を同時に操れるんだから、転移術ぐらい使えんだろ。俺だって出来るわ」
「いえ、あなたが行使できることには何の違和感も無いのですが……」
「ヒメでも転移術は無理なの」
「え、マジ?」
「転移術を行使できる人なんて、数えれば両手の指だけで足りるんじゃないかしら?」
「マジか……俺ってばそんなに凄い奴だったのか」
「ユウちゃんったら今更すぎよ」
謙遜という言葉を知らないのか、ユウタロウは何食わぬ顔で自画自賛した。チサトは愛おしそうに笑っているが、他の面々は苦笑いを引き攣らせている。
「ま、逃げられちまったもんはしょうがねぇ。さっさとクレハたちと合流しようぜ」
「ヒメたちも皓然と合流しないといけないの」
「そういや、アンタらが尾行してたのって……」
「あの仮面を身につけている人物を偶然見つけてね。尾行していたら、あの結界まで辿り着いたのよ」
「ほーん。なら、ここでアンタらとは別行動かな」
ユウタロウが首を傾けつつ尋ねると、ヒメはコクンと首肯して返した。
尾行対象が別なら、クレハたちと皓然が現在いる場所は異なるはず。故に彼らは、ここで別れることにしたのだ。
だが、レディバグの彼女らが立ち去ることを恐れたティンベルは、切羽詰まったように口を開く。
「あのっ!」
冷静なティンベルには似つかわしくない、少し跳ねた声に、ヒメたちは思わず首を傾げた。
「最後に一つ、聞きたいことがあるのですが……」
「なんなの?」
「あなた方レディバグの長は……あ、アデル・クルシュルージュという方、では……?」
「「……」」
ティンベルは、たどたどしい言葉運びで尋ねた。その声には不安と、ほんの少しの期待が滲んでいる。
そんな彼女の問いを受けたヒメとディアンは、何を言うわけでも無く、互いに目配せをした。ヒメの機械めいた瞳から感情を窺うことは出来ないが、ディアンの瞳には、判断を仰いでいる様な不安定さがあった。
「ヒメちゃ……」
「ちょっとだけ、待つの」
「え……?」
待つ。その言葉の意味が分からず、ティンベルは疑問の声を上げた。
ヒメがそれに答えてくれることは無く、ただ俯いて地面を見つめるばかり。何もしていないように見えるのに、とても神妙な面持ちな彼女は、集中力を高めているようでもあった。
実際には二十秒も無かっただろう。だが、当惑するティンベルの体感ではもっと長い時間、奇妙な沈黙が流れていた。
そして漸くその時――ヒメが答える瞬間がやって来た。
「……仮に、レディバグの主――ヒメたちのマスターがそのアデル・クルシュルージュとか言う人間だったとして、それが何なの?」
「っ、私はアデル・クルシュルージュの妹なんです。兄とは幼い頃、離れ離れになってしまってから、それっきりで……」
「じゃあ、もう一つ質問なの。どうしてあなたは、この事件に深く関わろうとするの?」
「それは、悪魔の愛し子に対する偏見を少しでも無くしたいと思って」
「……どうしてなの?」
「?何が……」
何がですか?というティンベルの問いは、ヒメの残酷な言葉によって遮られる。
「あなたのお兄様がいなくなったのは、あなたから離れる為かもしれないのに」
「っ……」
瞬間、ティンベルの放つ空気が一変する。
どうしようもない憤りと、焦り。ヒメに対する不信感。それら全てが、表情に滲み出ていた。
「それなのにあなたは、そのお兄様の気持ちを無視して、自分勝手に近づこうとしているの。それにあなたのお兄様が、愛し子に対する偏見を嫌っていると、何故断言できるの?」
「……違いますっ。……っ、アデル兄様はそんな人じゃない!アデル兄様は私を捨てたりしていない!それにっ……アデル兄様がこの世の理不尽を良しとするはずがっ」
叫びのような、慟哭にも似た声だった。感情が昂るあまり声を荒げるなど、普段のティンベルからは想像もできない姿である。
ティンベルがこんなにもムキになるのには理由がある。それは、彼女自身が僅かでも、その可能性を危惧していたから。
もちろん、彼女の信じる優しい兄を侮辱するような言動をした、ヒメに対する怒りもあった。
でもそれ以上に、幼い頃から抱えていた彼女の不安が、ここに来て一気に溢れ出てしまったのだ。
どうして兄は、自らを一緒に連れて行ってくれなかったのだろう?
どうして兄は妹を、あの狂った家に置き去りにしたのだろう?
どうして一度も、会いに来てくれなかったのだろう?
そんな疑問を抱いてはいけないと、いくら自分に言い聞かせても、頭の隅で僅かに考えてしまう。
兄は自分のことなど、本当は何とも思っていないのではないか、と。
それでもそれ以上に、ティンベルは知っていた。
無知なあまり、知らず知らずの内に兄を傷つけていた妹に、その罪を悟らせぬよう、いつもいつも優しく笑いかけてくれたアデルの姿を。
知っていたからこそ、ティンベルはハッキリと否定した。
「……なら。余計にあなたは間違っていると、ヒメは思うの」
「……えっ?」
「あなたのお兄様が、あなたの言うような人なら。妹思いの優しい兄なら……愛しい妹が通り魔事件なんて危ない事件に関わることは、絶対に回避したいと思うはずなの。……あなたは、お兄様の意思に反することをやっているんじゃないの?」
「……」
ヒメの意見にティンベルは虚を突かれ、目を見開いた。反論できなかったのだ。
ヒメの意見は至極真っ当で、筋の通ったものだと思ってしまった。
硬直しているティンベルを尻目に、ヒメはユウタロウを見上げる。
「じゃ、もうヒメたちは行くの。勇者様、バイバイなの」
「お、おう」
「ちょ、ヒメちゃん待って……」
何事も無かったかのように別れの言葉を告げたヒメに、流石のユウタロウも当惑してしまった。そしてそのまま、ヒメとディアンの二人は、その場から立ち去った。
今世紀最大かと思える程、気まずい沈黙が流れる。そして、二人の立ち去る背中が見えなくなった途端――。
「……ふふっ……あははははははははっ」
ティンベルの口から、不気味極まりない笑い声が、縷々として発せられた。思わず、ユウタロウたちの顔が引き攣ってしまう。
「お、おい……?大丈夫か?」
「これで、確信しました……」
「えっ?」
珍しく他人の心配をしたユウタロウ。そして彼女の意味深な呟きによって、彼らは首を傾げるのだった。
どのタイミングで事が起きたのか。終わってしまえば、そんなことも分からないほど残酷に。
彼女の右腕は、呆気なく吹き飛ばされていった。
「っ……いやああああああああああああああああっ!!」
飛び立つための翼を奪われた、堕落した天使のような悲鳴は、痛烈に響き渡った。
「っ、ぐっ……そ……はぁ、はぁっ……狙撃?」
想定外過ぎる奇襲に、彼女――ナナセは困惑を隠しきれない。
拳銃。しかも狙撃専用の狙撃銃となると、この国にはあまり流通されていない代物だからだ。拳銃が最も出回っているのはイリデニックス国という国だが、アオノクニからはかなり離れた場所に位置している。
それを知っているからこそ、ナナセは狙撃による奇襲など予想だにしていなかったのだ。
「このままでは侵入者に追いつかれてしまう……せめてこのお方を、連れ帰らなければっ……」
苛立つように歯噛みすると、ナナセは行動に移した。
まず、苛立ちの原因――腕の切断面に走る強烈な痛みを和らげる為、彼女は簡単な手当てをすることにした。
未だ動かせる左腕でスカートの一部をビリっと破り取る。何の躊躇いも無いその動きは精悍だ。
そしてそのまま、口と片手を駆使して傷口を覆う。慣れない痛みに顔を顰めながら、何とか包帯代わりの布を巻きつけたナナセ。
消えることの無い痛みと精神的ダメージのせいか、ナナセは膝が笑って仕方が無い。それでも何とか踏ん張って立ち上がると、再び目的の物に手を伸ばす。
今度はしっかりと掴むことが出来、ナナセはホッと息を吐いた。その時――。
「おい待てっ!」
「っ……!」
ナナセの逃走を阻む声が、彼女の耳元一直線に襲い掛かってきた。
********
女性の叫び声を頼りに、人形の操縦者の元へ急ぐユウタロウたち。
足を速めながら、ユウタロウはヒメに尋ねた。
「さっきの叫び声、アンタらの仲間の仕業なんだよな?」
「恐らくそうなの。ナツメ様が狙撃を成功させたの」
「でも急がないとっ。ナツメ様は余程のことが無い限り、狙撃対象を殺したりしないから、急がないと逃げられるわよっ」
ヒメのに捕捉するように、ディアンは危機感を露わにした。それを聞いたユウタロウは、どこか釈然としないように、眉間に皺を寄せる。
「……アンタらレディバグは、敵にまで情けをかけているのか?」
「……ヒメにそういう難しい話をしないで欲しいの。ただヒメたちは、マスターの意思に反することをしたくないだけなの。
マスターは、必要以上の殺生は好まないの。だからヒメたちレディバグは、例え極悪人が相手でも、それ相応の理由がない限り、殺しをしないだけなの」
「……甘いな」
ヒメの答えを聞くと、その思想を一刀両断するようにユウタロウは言った。どこか自嘲しているようにも聞こえる、その声の真意を知る者など、この場においてはチサトしかいないだろう。
チサトは知っている。
ユウタロウが自らの甘さと、それによって引き起こされ事態に、どうしようもない憤りを感じていることを。
そんな中、彼らは目的の人物と思われる女性を見つけ、その足を止めた。
――刹那、彼らは一切の音を発せなくなる。
まるで不思議な引力でも働いているかのように、それから目を離すことが出来ない。息を呑むあまり、激しい耳鳴りが襲うほど。
彼らはとうとう目撃してしまったのだ。
この事件の鍵とも呼べる存在。目撃者が口を揃えてその存在を証言する、謎に包まれたそれ。
――悪魔の愛し子を。
********
「「…………」」
全てを呑み込んでしまうそうな純黒の髪。そして、鮮血のように赤い瞳。
悪魔の愛し子の象徴を前に、彼らは声を発することが出来なかった。
その悪魔の愛し子の外見は二十代後半の男性だが、愛し子はほぼ不老不死なので、正確な年齢までは分からない。簡素なシャツとパンツを身につけてはいるが、無理矢理着せられたような違和感があった。
そしてその違和感の正体は、一瞥しただけで理解できてしまう。
何故ならその悪魔の愛し子は、自らの足で地面を踏みしめていたわけでは無く、木製の車椅子に鎮座していたから。
その姿はそれこそ、あの人形たちのよう……だが、人形にしてはあまりにも精巧すぎる。車椅子の上、微かな呼吸音のみで存在している彼は、間違いなく人間だと思われた。
生きているのは間違いないというのに、その赤い瞳に光は灯っておらず、虚ろ。赤い瞳は確かに真っ直ぐ何かを見据えているはずなのに、何も捉えていないように思える。
言ってしまえばその愛し子には、生気がまるで感じられなかった。
そして、彼について気になる点がもう一つ。それは、彼の首から顔にかけて刻まれている、禍々しい黒い紋章のようなもの。その紋章は彼自身を侵食しているようで、言い表せない程の不気味さがあった。
各々が、悪魔の愛し子の放つ独特な雰囲気に呑まれる中、ティンベルただ一人だけがほんの少し安堵していた。
(恐らく彼が、目撃されている悪魔の愛し子……良かった……アデル兄様にはあまり似ていない……。それにアデル兄様の年齢なら、もう少し若い見た目のはず。
アデル兄様を疑ってなんていないけど、潔白を確信できた方が大分楽だもの……)
悪魔の愛し子に目を奪われるあまり、彼らの視界は狭まっていた。その存在を注視していたせいで、まるで時間が停止しているような錯覚に陥るが、狭まった視界に動きを捉えたことで、そのまやかしは消え去る。
「おい待てっ!」
車椅子の手押しハンドルに手をかけようとしたナナセを、ユウタロウは咄嗟に呼び止めた。一瞬だけ、驚いたように彼らの方を振り向くが、ナナセはその程度のことで立ち止まってはくれなかった。
彼女はハンドルから手を離すと、悪魔の愛し子の肩にそっとその手を乗せる。刹那――。
「「っ……!?」」
すぐ傍にいたはずの、ナナセと悪魔の愛し子は、瞬きする間に消え去ってしまった。
残されたのは、彼女の欠損した右腕と、流した大量の血。そして、悪魔の愛し子が乗っていた車椅子だけ。
彼らの姿はどこにもなく、まるで神隠しに遭ってしまったかのよう。
「……転移術使われたな」
「転移術……?あの高度な術を彼女が行使したと言うのですか?」
転移術を行使する難しさを理解しているティンベルは、信じられないように尋ねた。
「あれだけの数の人形を同時に操れるんだから、転移術ぐらい使えんだろ。俺だって出来るわ」
「いえ、あなたが行使できることには何の違和感も無いのですが……」
「ヒメでも転移術は無理なの」
「え、マジ?」
「転移術を行使できる人なんて、数えれば両手の指だけで足りるんじゃないかしら?」
「マジか……俺ってばそんなに凄い奴だったのか」
「ユウちゃんったら今更すぎよ」
謙遜という言葉を知らないのか、ユウタロウは何食わぬ顔で自画自賛した。チサトは愛おしそうに笑っているが、他の面々は苦笑いを引き攣らせている。
「ま、逃げられちまったもんはしょうがねぇ。さっさとクレハたちと合流しようぜ」
「ヒメたちも皓然と合流しないといけないの」
「そういや、アンタらが尾行してたのって……」
「あの仮面を身につけている人物を偶然見つけてね。尾行していたら、あの結界まで辿り着いたのよ」
「ほーん。なら、ここでアンタらとは別行動かな」
ユウタロウが首を傾けつつ尋ねると、ヒメはコクンと首肯して返した。
尾行対象が別なら、クレハたちと皓然が現在いる場所は異なるはず。故に彼らは、ここで別れることにしたのだ。
だが、レディバグの彼女らが立ち去ることを恐れたティンベルは、切羽詰まったように口を開く。
「あのっ!」
冷静なティンベルには似つかわしくない、少し跳ねた声に、ヒメたちは思わず首を傾げた。
「最後に一つ、聞きたいことがあるのですが……」
「なんなの?」
「あなた方レディバグの長は……あ、アデル・クルシュルージュという方、では……?」
「「……」」
ティンベルは、たどたどしい言葉運びで尋ねた。その声には不安と、ほんの少しの期待が滲んでいる。
そんな彼女の問いを受けたヒメとディアンは、何を言うわけでも無く、互いに目配せをした。ヒメの機械めいた瞳から感情を窺うことは出来ないが、ディアンの瞳には、判断を仰いでいる様な不安定さがあった。
「ヒメちゃ……」
「ちょっとだけ、待つの」
「え……?」
待つ。その言葉の意味が分からず、ティンベルは疑問の声を上げた。
ヒメがそれに答えてくれることは無く、ただ俯いて地面を見つめるばかり。何もしていないように見えるのに、とても神妙な面持ちな彼女は、集中力を高めているようでもあった。
実際には二十秒も無かっただろう。だが、当惑するティンベルの体感ではもっと長い時間、奇妙な沈黙が流れていた。
そして漸くその時――ヒメが答える瞬間がやって来た。
「……仮に、レディバグの主――ヒメたちのマスターがそのアデル・クルシュルージュとか言う人間だったとして、それが何なの?」
「っ、私はアデル・クルシュルージュの妹なんです。兄とは幼い頃、離れ離れになってしまってから、それっきりで……」
「じゃあ、もう一つ質問なの。どうしてあなたは、この事件に深く関わろうとするの?」
「それは、悪魔の愛し子に対する偏見を少しでも無くしたいと思って」
「……どうしてなの?」
「?何が……」
何がですか?というティンベルの問いは、ヒメの残酷な言葉によって遮られる。
「あなたのお兄様がいなくなったのは、あなたから離れる為かもしれないのに」
「っ……」
瞬間、ティンベルの放つ空気が一変する。
どうしようもない憤りと、焦り。ヒメに対する不信感。それら全てが、表情に滲み出ていた。
「それなのにあなたは、そのお兄様の気持ちを無視して、自分勝手に近づこうとしているの。それにあなたのお兄様が、愛し子に対する偏見を嫌っていると、何故断言できるの?」
「……違いますっ。……っ、アデル兄様はそんな人じゃない!アデル兄様は私を捨てたりしていない!それにっ……アデル兄様がこの世の理不尽を良しとするはずがっ」
叫びのような、慟哭にも似た声だった。感情が昂るあまり声を荒げるなど、普段のティンベルからは想像もできない姿である。
ティンベルがこんなにもムキになるのには理由がある。それは、彼女自身が僅かでも、その可能性を危惧していたから。
もちろん、彼女の信じる優しい兄を侮辱するような言動をした、ヒメに対する怒りもあった。
でもそれ以上に、幼い頃から抱えていた彼女の不安が、ここに来て一気に溢れ出てしまったのだ。
どうして兄は、自らを一緒に連れて行ってくれなかったのだろう?
どうして兄は妹を、あの狂った家に置き去りにしたのだろう?
どうして一度も、会いに来てくれなかったのだろう?
そんな疑問を抱いてはいけないと、いくら自分に言い聞かせても、頭の隅で僅かに考えてしまう。
兄は自分のことなど、本当は何とも思っていないのではないか、と。
それでもそれ以上に、ティンベルは知っていた。
無知なあまり、知らず知らずの内に兄を傷つけていた妹に、その罪を悟らせぬよう、いつもいつも優しく笑いかけてくれたアデルの姿を。
知っていたからこそ、ティンベルはハッキリと否定した。
「……なら。余計にあなたは間違っていると、ヒメは思うの」
「……えっ?」
「あなたのお兄様が、あなたの言うような人なら。妹思いの優しい兄なら……愛しい妹が通り魔事件なんて危ない事件に関わることは、絶対に回避したいと思うはずなの。……あなたは、お兄様の意思に反することをやっているんじゃないの?」
「……」
ヒメの意見にティンベルは虚を突かれ、目を見開いた。反論できなかったのだ。
ヒメの意見は至極真っ当で、筋の通ったものだと思ってしまった。
硬直しているティンベルを尻目に、ヒメはユウタロウを見上げる。
「じゃ、もうヒメたちは行くの。勇者様、バイバイなの」
「お、おう」
「ちょ、ヒメちゃん待って……」
何事も無かったかのように別れの言葉を告げたヒメに、流石のユウタロウも当惑してしまった。そしてそのまま、ヒメとディアンの二人は、その場から立ち去った。
今世紀最大かと思える程、気まずい沈黙が流れる。そして、二人の立ち去る背中が見えなくなった途端――。
「……ふふっ……あははははははははっ」
ティンベルの口から、不気味極まりない笑い声が、縷々として発せられた。思わず、ユウタロウたちの顔が引き攣ってしまう。
「お、おい……?大丈夫か?」
「これで、確信しました……」
「えっ?」
珍しく他人の心配をしたユウタロウ。そして彼女の意味深な呟きによって、彼らは首を傾げるのだった。
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