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-1-『初戦の相手』
しおりを挟む俺は足音を殺して階段を下り、リビングを目指していた。
埋め込み窓から覗ける太陽の斜光がまぶしい。
じりじりと地上を焦がす日課を終えて夕暮れとなり、えんじ色の雲から山間へと沈んで行こうとしている。
「ったくよぉー……めんどくせぇーな」
壁に背をつけ、首を伸ばし、慎重に反対廊下の先を確認した。
周囲の様子を窺いながら移動していると、クーナが一生懸命考えただろう妄想を俺の耳元に向け、ささやいてくる。
「地球外生命体は外来生物と同じで……移住した場所の生態系を破壊したりするの。地球の動物より知恵がある分、厄介なことに人間社会に害を及ぼすモノもいるよ。宇宙人と似てるけど、宇宙人は独力でこの惑星までこれる生命体を指す単語かな」
「わかるよ。俺も昔は自分が勇者になる妄想したもんだ。剣と魔法を使って王様を倒し、政権を奪取してお姫様に奴隷の首輪をハメ、世界の覇権を握る妄想だ」
「それって単なるクーデターだよね? しかも何? 賊軍? 賊軍側で勝利したいの? とにかくさ、お兄ちゃん。絶対に油断しちゃだめよ」
「はいはいはい……まあ、何かがたまたま落ちただけだと思うけど、念のためお前は部屋に戻ってろ」
「冗談。お兄ちゃんの初戦だし、きちんと見届けるよ」
「何かと戦う気はないんだがな……」
変な展開になってきた。
普段からクーナは奇行癖があるのでふらっとどこかに出かけることもあるし、俺に悪ふざけを仕掛けることもそう珍しくはない。
けれども、今回は少し質が悪い。
悪戯はまあいい。
だが、危険に関しての嘘をつくのがだめだ。
平凡な一般家庭に来るのは精々野良猫や野良犬、最悪なのでは押し込み泥棒ぐらいだ。
まあ、そんな野郎が来たら来たで――来なければよかったと後悔させるつもりではあるが。
「ところで、今日の晩飯なんだ?」
「タコ焼きだよ。お兄ちゃん全然緊張感ないよね。やる気あるの?」
「あるわけないだろ。てか昨日もタコ焼きだったじゃないか。一昨日はタコのから揚げで、その前はタコ飯……何でタコ料理ばっかなんだ?」
「まあ、いいじゃん。作ってもらえるだけありがたいと思ってよ。たまに私の濃密な唾液も入れて性的な味付けもしてるよ」
「お前の性癖倒錯しすぎだろ。どこのアイドルの追っかけだよ。マジでやってるのか?」
「あははは、ジョークだよジョーク。例え事実だったとしても、ある意味ではスパイスだからいいじゃん」
「世界中の香辛料に対して失礼だから、そういう言動はよせ」
クーナの口許はほころんでいたが、目許がまるで微動だにしてなかったので思わず身震いした。
今後の調理過程をチェックすることを決意する。
マジでやってるわけでないと信じたいが――時折、この妹からは瘴気漂う病んだ怖さを感じる。
階段を下りきって玄関を横切り、リビングに続く曇り戸に手をかけた。
掃除機ホースであるT字型の先端を伸ばしながらきょろきょろと室内を窺う。
いつも通りの何も変わりもない部屋模様。
三十二インチの液晶テレビ、新聞紙が広げられた木製の長テーブル、革張りの四人掛けソファー、壁沿いに設置された収納棚。預金通帳の隠した書架棚の書類や雑誌にも変化はない。
気になってクローゼットを開き、工具箱や救急箱の後ろに隠した家計簿を取り出して今月の生活費である現金も確認したが、すべて無事だ。
ふと、カーペットに花瓶が落ちていているのを確認する。
窓の敷居から落下したものだろう。
陶器製だが幸いにも割れていないし、造花のおかげで水もこぼれていない。
近づいてみると白い猫の毛が数本、散らばっている。
我が家の愛猫である一郎丸が出窓をこじ開けた可能性が高まった。
隙間風が吹き――花瓶が転がり落ちて物音を立てた、そう考えた方が自然だ。
「クーナ、今すぐ謝れば折檻は許してやるぞ」
「うぅん……に、逃げたかなぁ……おかしいなぁ」
クーナは目をあちこちに配った。
うろちょろとソファーの下を覗き込んだり、テレビの後ろの隙間に目をやったりと何かを探している演技が続く。
俺は「はぁーっ」とため息を吐いた。
「悪あがきはよせ。お兄ちゃんは公明正大だ。寛容な精神も持っている。お前が失恋に苦しむ俺を元気づけてくれたことにしてやる」
バツが悪そうな顔で足を絡ませ、クーナは内股でもじもじしながら上目遣いで俺の顔色を窺った。
どうやら観念するようだ。
「じゃあさ……実はさっきお兄ちゃんのぷりん食べたけど、許してくれる?」
「まあ、いいだろう」
「お兄ちゃんの財布から無断で五千円借りちゃったけど許してくれる? 返すつもりもないんだけど」
「……し、仕方ないな」
「更にお兄ちゃんの部屋を盗撮して、とても口に出すのがはばかれるような自分を冒涜してしまうシーンを撮ったけど許してくれる?」
「ジャスティス・アイアンクローッ!!」
技名を発してクーナの顔面をむんずとわしづかみした。
じたばたし、両手で俺の手を放そうとあがいているが、俺の腕力には適わないので苦痛を訴えるのみだ。
「いたたたたっ、痛いっ! 眉間が親指で押されて頭蓋骨にめり込んできてるよっ! 脳挫傷しちゃうって! ほんのジョークだってっ!」
「これっぽっちもジョークになってねーんだよっ! ふざけんなっ! 男子高校生にとって、もっとも繊細で触れられたくない部分を撮影してんじゃねえよっ!」
「やだっ! いざという時に使うんだいっ! 具体的に言うとお兄ちゃんに彼女ができたときにお兄ちゃんのやばい性癖をぶちまけてやるんだいっ! 盗撮とか露出モノが好きだって教えてやるんだいっ!」
「違いますぅ! ちょっと興味があるだけですぅうううう! くっそ、てめえ……どうやら禁断のツインクロスアイアンクローがお望みのようだな」
頭蓋骨を二つに割るためにもう一方の左手をコキコキと動かした。
強情なクーナは口からよだれを垂らし「あばばば……や、やだもん」とかうめき、謝罪の気配はない。
兄妹とはいえ――越えてはいけない一線を越えてしまった我が愚妹――せめて我が拳で葬ってやろう。
「兄さん兄さん、そこら辺で止めときぃや」
「あぁ!? 横からしゃしゃり出てくるんなよタコ助っ! ぶっ殺されたくなかったら道端で電柱とでもお話しとけやっ!」
「そやかてあかんて、兄妹同士で暴力はあかんて、憎しみは何も生まへんて」
「っせぇんだよ! 夢見がちなお嬢さんみてえなこと言ってんじゃねーぞっ! って……なんだお前?」
声の方に顔を向けると壁の側面に張りついた真っ赤なタコがいた。
うねうねしている八本足の触腕。楕円形でサッカーボールみたいな丸い頭。奇妙に突き出たおちょこ口。ぎょろっとした横に伸びた黄色い瞳。
全体的に赤い軟体動物は俺をなだめるように腕の一本をくいくいっと動かしている。
「はふぅ」
俺がアイアンクローから解放したせいか安堵のため息を吐くクーナ、顔面に五指がめり込んだ赤い跡ができていた。無残にもサングラスにひびが入っている。
「なんだこのしゃべるクソッタレな海産物は。クーナ、悪戯がすぎるぞ。お兄ちゃんはこんな醜いポケットモンスターは認めない。完全に放送事故レベルだよ」
「あいたたたっ……う、ん? まあ、確かに突き出たおちょこ口とかが事故ってるね」
「なんちゅー失礼な兄妹や……ほんま親の顔が見たいで」
タコは怒りのためか頭をぷるぷるさせている。
赤い皮膚下の肉筋が浮かび上がって卑猥な感じ。
なんか、余計に事故ってる感じがする。
見た目が完全にハードラックとダンスっちまってるよな。
「ええか、ワイはな。海に戻ってはーれ……ごぶっ!」
俺はホースを拾って一振りし、タコの顔面を殴打した。
どむっと先端部がタコに頭部にめり込む。ゴキブリのように床に叩き落ちた。
べちゃっと墜落したタコは目を回している。
「しゃべるタコって想像以上に気持ち悪いな……クーナ、保健所の方をお呼びしなさい。野生のタコが出たっていえ。近年稀に見るレアケースだとな。あと、報酬によってはテレビ局の取材には応じるとな」
「ちょっと待ってお兄ちゃん、タコは養殖じゃない限り野生だよ」
「じゃあ野良タコが出たとお電話しなさい」
タコの顔面を踏みつけ、ドコドコと足蹴にしていると、クーナは受話器に向けて行こうとせず、両手を腰にあてて不機嫌な顔で顔をしかめている。
「ていうか、お兄ちゃん。敵がしゃべってるときは攻撃しちゃだめなんだよ。きちっとその辺のTPOは守らないとこれから先やってけないよ」
めっ、と叱ってきたが俺の知ったことじゃない。
「なんで不法侵入した海産物に礼儀を払わなきゃいけないんだよ。このタコが新種だろうが地球外生命体だろうが、俺の生活には干渉して欲しくない」
「お兄ちゃんは保守的すぎ。女の子は危険な男に惹かれるんだよ。そんなんだから蒼井先輩に振られるんだよ」
「おいちょっと待てよ。俺だって女子が体操着で柔軟体操をしているときはデンジャーな状態になってるよ」
「それは変態な状態になってるだけです」
「いいえー、違いますぅー。変な意味じゃなくて関節の柔らかさについて語っただけですぅー。だから凝視したとしてもセーフなはずですぅー」
「……ほ、ほんまぁ……ぶ、ぶち切れ……たで」
怨嗟の声が真下から響いてきた。
人語を解するタコに変化が起きていた。
球体である頭がボコボコとふくらみ始める。
まるで内部に何か飼っているかのように、暴れ狂っている。
空気を送り込まれた風船かよ――急速に大きくなっていく。
ぼこん、と一気にタコが肥大化した。
目に見えて質量が増加したのだ。
うまくCG処理にしたかな、と見当違いな感想が漏れる。
しかも――理解不能なことに目も足の吸盤も根本から大きくなっている。
元々は三十センチほどくらいしかなかったはずが、あれよあれよという間についには二メートル近くまで成長した。
ハンサムメンである俺を越える体長――その威容にびびってのけ反っていると、もはや怪物と呼んでよいほど禍々しさをたたえたタコがぎらりと冷たい双眸を輝かせた。
「う、おおお……デカくなると想像以上にグロいな。事故度が上がってる」
「きもいね」
「こんなイケタコをつかまえてのその暴言、ますます許さんでえっ!」
どこがどうイケているか不明であったが、しゅるるるると長い触腕がフローリングの上を滑るように伸びてくる。大蛇が這うかのごときなめらかで機敏な動きだ。ジャンプして逃れようとしたが既に遅かった。足首から腰元に向かってぐるぐると巻きついてくる。
不快なヌメヌメとした感触がぞわぞわと俺の心をむしばむ。
きつい吸盤の吸いつきがシャツやジーンズ越しでもしっかりわかる。
しかも、それなりに締め付ける力がありやがる。
「気持ちわりぃ!」
「お、お兄ちゃん!? うきゃあっ!」
「クーナっ!」
「がははっ……ワイの八本足の力、思い知ったかい!」
厳密には二本しか使っていないが、高笑いをするタコはきゅっぽんきゅっぽんと吸盤を器用に使って天井と壁の境目に移動し、隅っこを陣取って睥睨してきた。
太いタコ足を外そうと手足に力を込めたが、びっしり絞めた荒縄のように強固だ。
身を拘束され、歩くことすらできない。
「おい、ふざけんなっ! 無断で人様の家に押し入った挙句にこの仕打ちはなんだっ! こうなったらてめえはただ死ぬだけじゃ済まさねえからなっ!」
「おぉ、なんて強気な兄ちゃんや……ほんま近頃の若いもんは怖いわ。ちょい黙りや」
急激な浮遊感――俺の身体は急上昇し、天井に頭が勢いよくぶち当たる。
ゴォンッと脳天から痺れるような鈍痛が襲ってくる。目玉が飛び出るかと思うほどの衝撃にくらくらと首が回る。意識が遠のき、目の前がぼやけてきたが気を失うわけにもいかない。
じんじんとする痛みを耐え、歯を食いしばってタコを睨みつける。
「ぐががが……こ、この野郎がぁ」
「お、お兄ちゃん。きゃあああああああ!?」
「くっ、クーナ!? 止めろこのタコっ! 女にそこの穴はまずいだろっ!」
「止めてぇっ! モザイクかけてえ!」
「……くっ」
俺は思わず顔を逸らした。
むごい。見るに耐えない惨状だ。
タコ足の細まった先端が――クーナの鼻の穴に突っ込まれていたからだ。
実際には大きすぎて入らないのだが、鼻を上向きに潰されて広げられアホ面になっていた。
せっかくの美少女が台なしであり、あまりにも痛ましく見苦しい。
百年の恋も冷める姿といえる。
更には――タコの触腕によって手足を絡め取られ、非常口の標識の人文字みたいな愉快なポーズまで取らされていた。
滑稽すぎて腹から湧き上がってくる笑いをこらえるのがつらい。
「ふわぁあああああ、これはお嫁に行けなくなるっ! お兄ちゃんと結婚できなくなっちゃうよっ!」
「クーナっ! 心配するなっ! 最初から兄妹で結婚などできんっ!」
思うままに操られ、今度は自由の女神像みたいなポーズになっているクーナにきちんと返答しておいた
頭をぶるぶると濡れた犬のように振り、タコの触腕から一時的に逃れたクーナは「ははんっ」と訳知り顔で薄笑いした。
「お兄ちゃんの照れ屋っ! こんなときでも恥ずかしがっちゃうなんてどれだけシャイボーイなのっ!」
「照れてるわけじゃないっ! 単純な真実を述べただけだっ! 血の繋がった妹とは結婚できんっ!」
「血の繋がりなんて関係ないよっ! なんだったら一滴残らずお兄ちゃんの血液を抜き取ってしまえばいいのっ! そうすればお兄ちゃんはお兄ちゃんじゃなくなるからっ!」
「ああそうだろうなっ! 俺は単なる死体になるだろうしなっ!」
「私は死体とだって結婚できるよっ! なぜなら、お兄ちゃんを愛してるからっ!」
「それは世間では、100%と愛と呼ばないからなっ!」
「お前さんら、こんな窮地でもほんまに余裕ばりばりやな……」
タコが呆れきってつぶいた。
カッときて俺は罵声を浴びせにかかる。
「おい軟体動物っ! いい加減にしろよっ! 俺の動物愛護の精神も地平線までぶっ飛んじまったぞ!」
「ワイかて意味もなくこないなことするかい……ある日のことや、ワイがのんべんだらりと海を泳いどったときのことや」
飲んだくれのおっさんみたいな口調はタコは顔を背け、遠くを見るように目を細めた。
なんだろう、自分語りの展開か?
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