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6 オムライスと(憧れの)ハートマーク
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しおりを挟むそれから、私は藤野さんに家に誘われることが増えてきた。初めは、二人きりで飲もうって言われた。私は彼の部屋に行き、酔った弾みで彼とキスをした。私は初めてだったけれど、藤野さんは慣れた様子だった。その次に行った時、私はソファに押し倒されていた。
「いい?」
その言葉に私は戸惑っていた。いいも何も、私たち、付き合っていないじゃないですか。そう言おうとしても、私の唇は彼のソレによって塞がれる。私は流されるまま、彼と共に夜を過ごした。昔、優奈たちが言っていたことを思い出す。
『初めてのえっちって、痛いんだって!』
なんだ、嘘じゃんってその時思った。
終わってから、私は服を着ながら藤野さんに尋ねた。
「これって、付き合ってるってことでいいんですよね?」
声がわずかに震える。きっと、確認するのが怖かったんだと思う。違うよって言われたらこれ以上恥ずかしい事はない。
「お前がそう思うなら、そうなんじゃない?」
私はほっと胸を撫でおろす。それと同時に、エッチの間は優しく名前で呼んでくれたのに今は「お前」って呼ぶんだと思うと、胸に冷たい風がふき寂しさを覚えた。でも、生まれて初めて彼氏ができた。その喜びによってそれがかき消されていった。
私たちはお店のみんなに知られることなく、ひっそりと付き合っていた。藤野さんが「みんなにからかわれたら恥ずかしいだろ」と煙草をくわえながら言うので、私も一生懸命秘密にして、誰かに「彼氏いるの?」と聞かれるたびに首を横に振って「いないよ」と答えた。会うのはもっぱら彼の家ばかりだった。デートに行ってみたいと言っても、疲れていると言われたり、お金の無駄だと言われることが多かった。藤野さんと一緒に出掛けたのなんて、結婚していた頃を合わせても両手で数えられるくらいだと思う。
順調だと思っていたある日、私は仕事を休んで、母と一緒に大きな病院に行っていた。検査の結果が出るから、家族と一緒に来て欲しいと主治医に言われたからだった。それを母から聞いた時、手が冷たくなって震えだしたのを今でも覚えている。きっといい話じゃないから、家族も呼ばれたに違いない。主治医の話は私の予想通りで、内容は最悪中の最悪だった。
「あーあ、お母さん、穂花がお嫁に行くの見られないのね」
お母さんはその日のうちに入院した。検査の結果、病巣は全身に散らばり、手の施しようがない状態だと言われた。それでも治療をするか、残りの生活を豊かにするために痛みを減らす処置をするか。それを考えて欲しいと言われた。お母さんはいつも通りのほほんとしていて、深刻さは感じられなかった。
「そんな事言っている場合じゃないでしょ!」
私の声が四人部屋に響く。同じ病室に入院している人が一瞬息を止めたのが伝わってきた。私は口を押えて、焦りを落ち着かせるために下を向いて深呼吸を繰り返していた。目からはぼたぼたと涙がこぼれていって、紺色のジーンズにシミがいくつも出来た。
「……死んじゃうなんて言わないでよ」
「ごめんね、でも、もう無理みたい。自分の体のことだから分かるの」
お母さんの言い方はさっぱりしたものだった。もう腹をくくったようにも見える。
「私、毎日来るから」
「でも、穂花、仕事が……」
「何とかなるから、大丈夫だから」
店長に相談して、シフトを融通してもらった。店長は母の事も知っているから、二つ返事で頷いてくれた。オープン業務から仕事を始めて、残業はせず定時が来たら職場を飛び出す。その後はぎりぎりまでお母さんが入院している病院で過ごす。汚れた肌着を回収して、かわりに綺麗に洗濯して畳んだ肌着類を渡す。あとはお母さんの好きな物をどっさり買って行く。お母さんは積極的な治療をせず、できるだけ痛みを取り除くことに決めていた。だから、せめてその日々が豊かでありますようにと祈るように毎日を送っていた。
そんな生活をしていたら、藤野さんのことが次第におざなりになる。メッセージが届いても、返信するのは何時間も後になってしまうし、休日はほとんどお母さんのために時間を使っていた。藤野さんの怒りが爆発するまで、そう時間がかからなかった。
「――ッ!?」
お母さんが入院してからクローズの仕事をすることは無くなっていたのに、その日はたまたま遅番に割り当てられていて、残ったのは私と藤野さんだけだった。私は藤野さんに、キッチンに呼ばれていた。キッチンは薄暗く、藤野さんは私に背を向けて呼びかけてもこちらを向くことはなかった。何の話だろうと不思議に思っていると、藤野さんは食器洗い機からお皿を出して、突然コンクリートの床に叩きつけ始めた。それを何枚も。食器が割れる音が響く。驚いた私は息をすることも忘れて、じっと彼の事を見つめる他なかった。どうしてそんな事をするのか分からなくて、理解から遠いところにある行動を見ていると、それは恐怖心に繋がっていく。
「おまえさぁ、なんなの?」
割れた食器を蹴り飛ばし、ようやっと私を見た藤野さんは肩で息をしながら私にそう問いかけた。その意味が分からなくて、でも、聞き返すことはできない。戸惑っていると、彼は大きくため息をついた。彼が吐く息すら恐ろしくて仕方がない。
「連絡しても返事来ねーし、うち来ねーし、ふざけてんのかよ」
「そういうわけじゃなくて……」
「そうだろ! 俺の事おちょくってんだろ!?」
彼の声はお皿が割れる音よりも大きい。耳の奥がズキズキと痛み始める。私はうわ言のように「ちがうの」と繰り返していた。床に落ちている食器が目に入った。次にあんな目に遭うのは、私かもしれない。
「あ? 何が違うって言うんだよ!」
お母さんが、お母さんが、と同じ言葉しか話すことができない私の声は震えている。それを聞いている内に彼の怒りがおさまって来たらしく、ようやく私の話に耳を傾けてくれた。私は声が震えそうになるのを必死に堪えた。お母さんの病状が思わしくなく、先が短い事。少しでも安心して過ごして欲しい事。それらすべてを告げた時、彼は「ふーん」と声を漏らした。
「……悪かったな」
「ううん、私こそちゃんと話さなくてごめんなさい」
「そっか、大変だよなぁ。……お前の母さん安心させるために、結婚でもするか?」
「え?」
きっと冗談で言ったのだと思って私は顔をあげる。しかし、彼はまじめな表情で何度も頷いていた。
「いいかもな、結婚。考えておいて」
「う、うん、わかった」
私の声のトーンも先ほどに比べると楽しそうなものに変化していた。お母さんに、私が結婚する姿を見せることができる。きっとそれは悪い考えじゃない。
「俺もう帰るわ。あ、これ片づけておいて」
藤野さんは足元に散らばる食器の欠片を蹴り飛ばした。ロッカーに行ってしまう姿を見送ってから、私は指を切らないようにそっと食器を片づけ始める。丸く収まって本当に良かった。食器は割れたら戻らないけれど、私たちの関係はすぐ修復できる。きっと、これが、相性が良いってことにちがいない。そうに決まっている。私はあの時感じた恐怖心を封じ込めて、そんな甘い考えに縋り付いていた。食器が割れたら報告書に記入しなければいけないけれど、藤野さんは書き込んでいなかった。代わりに、私が割ったという事にしておいた。翌日、店長から軽く注意をされた。
結婚話はとんとん拍子に進んでいった。病院で過ごすのをやめて家に帰って来ていたお母さんは、藤野さんの話を聞いて涙を流して喜んだ。結婚はするけれど、目立ったことが嫌いな藤野さんのために結婚式や写真を撮るといった特別なことはなし。藤野さんは我が家に来て一緒に食事をして、私も藤野さんの実家に行って簡単に挨拶をして、入籍する日を決めた。
新しい住まいを用意することなく、私は必要最低限のものだけを持って、藤野さんの家で暮らすことになった。お母さんを一人にするのは不安だったけれど、私の引っ越しと同時に緩和ケアを行ってくれる病院に入院することに勝手に決めていた。お母さんとの残り時間の少なさに、私は愕然としたのを覚えている。
「穂花、結婚おめでとう」
テーブルの上には、二人じゃ絶対に食べきれない大きさのホールケーキ。そしてお祝い事の度に作ってくれた牛ごぼうのちらし寿司。この時が、お母さんが作ってくれるそれを食べるのが最後になった。
「これ、渡しておくわね」
「なにそれ?」
お母さんが「今はまだ開けちゃだめよ」と言って、小さな布の袋をくれた。
「お守りだから、それ」
「えー、その割には大きいね」
私の両手に乗るくらいの大きさだった。私は布越しに感触を確認するけれど、さらに箱に入っているらしくて中身が何なのか分からなかった。
「……穂花が辛くて仕方がないって思った時に開けてね。藤野さんと一緒にいたら、そんなこともないと思うけど」
「大丈夫だよ。心配しないで」
お母さんの小さくなった肩。ようやっと私という重荷が降りる。私は引っ越し用の段ボールの中にそれを入れて、食卓についた。『おふくろの味』が体中に染みわたっていった。
私が引越しをして、入籍をしてからいくばくも間を置かず、母が入院していた病院から連絡があった。慌てて向かったけれどあと一歩遅く、私が病室に着いてすぐにお医者さんが死亡宣告した。
結婚の慌ただしさよりも、お母さんが亡くなった後の手続きの方が大変だった。必要最低限だけのお葬式をあげて、お父さんが眠るお墓にお母さんの遺骨をおさめ、手続きを済ませていく。それらをすべて終えて家に帰ると、真っ暗な部屋の中、藤野さんがいら立ちを隠さないまま貧乏ゆすりをしていた。
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