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 元和七年四月のことである。この年の春は遅く、三月に季節外れの大雪が降ったこともあって、ようやく桜が咲き始めたというのに、まだ野瀬のところどころに白い雪の残滓が残されていた。

「なんとも美しゅうおすな」

 体躯の良い武士らしき老人は磐梯山を見上げると、その雄大さと、裾野にかけて広がる雪と桜の微妙に違う白の美しさに感嘆の声を上げた。

 男の名を山藤右衛門という。洗礼名はジョアン、当年とって五十三歳である。元は摂津武士でキリシタン大名として名高い高山右近に仕えていた。主君の影響で入信したが、天正十五年、秀吉のバテレン追放令を受けて高山家が改易となると、藤右衛門は武士であることを捨て九州筑後へと渡り、柳川で修道士を務めるようになる。

 慶長十七年の幕府禁教令に伴い改宗を迫られるも、頑として信仰を捨てなかった藤右衛門は仲間たちとともにマカオへと追放された。このとき旧主高山右近も追放されているが、こちらはマカオではなくフィリピンのマニラへと向かい、現地で大歓迎を受けるたが、残念ながらまもなく異郷にて客死している。

 高山右近とは違い、異国マカオの地でも健やかに生活することのできた藤右衛門であるが、望郷の念と布教の情熱はその後も冷めることがなかった。

 そしてついに元和四年七月、宣教師ジョアン・マテウス・アダミとともに藤右衛門は日本への帰国を決行する。もとより追放された身である。当然のことながら密入国であった。見つかれば死罪は免れぬ大罪である。

 密かにマカオから倭寇の船に乗りつけた二人は、ひとまず天草へ上陸し、そこで布教を開始したが、九州でのキリシタン弾圧が厳しくなると、かつての仲間の力を借りて博多から北前船に移乗する。そしてようやく新潟港へと到着したのは年も明けた元和七年のことであった。

 海外へ追放されたキリシタンは実は全体からすればほんのごく一部であり、まだまだ国内に張り巡らされたキリシタンのネットワークは健在であった。彼らの助けを借りて、二人は幕府の監視の目をかいくぐり、途上、同志に小西旧臣の田崎重吉を加えて、ついに会津への潜入を果たしたのである。

 新潟港から阿賀野川を川船で遡ると、津川へと至る。まだこの時代は河川交通が主要な移動手段のひとつであった。ここから陸路塩ノ倉峠を越えるというのが会津へと至る一般的な道程である。

 藤右衛門とアダミが津川から山越えをして四日ほど、会津坂下の只見川付近へ達したのはちょうど四月の十二日のことである。

「岡定俊様が治める猪苗代城まで、まだあと二日ほどかかりまする。お気を緩めなさるな」

 商人らしい姿はしているが、隙の無い目配りと体さばきが明らかに商人を逸脱している男、田崎重吉はまるで咎めるように藤右衛門を睨みつけた。

 田崎重吉は小西行長の旧臣で、洗礼名をマルコという。関ヶ原の戦いで小西行長が処刑されたのちは藤右衛門同様、柳川で修道士を務めた。後の島原の乱では天草十七人衆のなかに名を連ね、獅子奮迅の活躍をみせた武将だが、この時点ではまだ戦経験も未熟な三十七歳の素浪人であった。

 身分があらわになれば死刑、という密入国者の立場を考えれば重吉の懸念もゆえなしとはいえない。定俊がキリシタンを擁護しているとはいえ、主君蒲生忠郷は、表向きには棄教したことになっているからだ。黒田官兵衛にせよ、津軽信枚にせよ、大名がキリシタンであることを公言していられる時代ではもはやなくなっていた。

「……蒲生忠郷様ハ、レオ(蒲生氏郷)ノ孫デ、信仰モ厚イカタナノデハナイノデスカ?」

「内心はどうあれ、母は大御所の娘です。期待しすぎれば裏切られましょう」

 六尺を超える長身のアダミは、イタリア、マツァーラの生まれで誰が見ても濃い西洋人風の風貌を深い編み笠で隠している。そのアダミが腰を折り、片言で重吉に問う様子はどこか滑稽で、張り詰めた空気が解きほぐされていくかのようである。こうした人をほっとさせる柔らかな雰囲気も含めて、アダミは宣教師として得難い男であった。

「――奥州猪苗代にキリシタンの楽園あり。その風聞に偽りなければよいが」

 重吉もアダミに対してそれ以上厳しい言葉を吐くのはためらわれたのか、願うように蒼天を見上げて陽光に目を細めた。

 キリシタンが幕府の直轄地から追放された結果、もっとも多くのキリシタンを受け入れたのは意外にも東北地方である。本来信徒の多かった九州は、幕府の直轄地が多いうえ幕府に警戒されている外様大名が多く、現在ではキリシタンは厄介者とみなされていた。

 かつてのキリシタン大名たちの庇護を失い苛烈な弾圧にさらされたキリシタンが、関ケ原牢人と重税に喘ぐ民衆と結びついたのが島原の乱だ。その中には多くの小西行長旧臣の一人に田崎重吉の名もあるのだが、それはまた別の話である。

 もともと藤右衛門やアダミが頼ろうと考えていたのは、実は定俊とは別な人物であった。その人物こそ奥州の独眼竜、伊達政宗である。

 ところが一年ほど前の元和六年、八月二十四日に欧州へ派遣していた家臣支倉常長が帰還すると、にわかに政宗は全領内に禁教令を発した。『貞山公治家記録』によれば八月二十六日、すなわち常長が帰国してわずか二日後のことである。

 三ケ条からなる禁令によって仙台藩では多数の弾圧による殉教者が出ており、後藤寿庵を筆頭に奥州最大のキリシタンを擁していた仙台藩は、いまや藤右衛門たちにとって甚だ危険な場所となっていたのであった。

 伊達家以外にも津軽や南部、秋田にまで数多くのキリシタンが暮らしていたが、もっとも評判が高く海外にまでその名を知られていたのが、蒲生氏郷の治めていた会津であり、その配下で定俊が治めている猪苗代である。

 特に猪苗代城内に建てられたセミナリオは、イエズス会の初等教育機関であり、日本でも設置された場所は数えるほどで、その全てがすでに閉鎖に追い込まれていた。猪苗代のセミナリオは、当時日本に現存する唯一のセミナリオなのであった。

「アノ者ガ伊達殿ニ余計ナコトヲ吹キコマナケレバコンナコトニハ……」

 遣欧使節に同行した宣教師ルイス・ソテロが、政宗に日本征服の野心を吹き込んだというのは、イエズス会では広く知られた噂である。彼がそんな政治的な行動を取らなければ、当初の予定通り伊達政宗の支援を得ることができたのではないか? アダミはそう考えると温厚な表情に苦いものをにじませた。

 もっともそこにはスペインが主導するフランシスコ会と、旧ポルトガル(この時期ポルトガルはスペインに吸収合併されている)が主導するイエズス会の対立という偏見が混じっていたことも否定できない。温厚で誠実をもってなるアダミでも、そうした偏見と無縁ではいられないのである。

 定俊はキリシタンとして全国的な知名度を持つ男ではあるが、いかんせん石高は一万石程度の陪臣にすぎない。仙台六十二万石の大名である伊達家とでは家格も戦力も天と地ほども違う。

 はたして定俊が、アダミの案じる秘中の秘を託せるに値する人物であるのか。願わくば信仰を共にする兄弟に光を与えてくれる人物であってほしい。

 我知らずアダミは瞳を閉じ、大地に跪いて十字を切るのであった。





 田植えを控えて泥にまみれ、代掻きに余念がない壮年の男は、額の汗を拭うと二本松街道を大寺から猪苗代へと向かう三人の商人へと視線を走らせた。

 その視線は茫洋と捉えどころがなく、腰に手をやって天を仰ぐ姿は、日々のつらい農作業にほっと一息ついているようにしか見えぬ佇まいである。だが感情を一切現さぬ鋭い瞳がそのすべてを裏切っていた。

「なじょすっぺぇ(どうしよう)…………」

 鍬を肩に乗せると、困ったように男は天を仰ぐ。答えなど最初から決まっていた。その結果、妻を怒らせることになるのは仕方がないと割り切るほかあるまい。

 あの気の強い妻が、代掻きもそこそこに夫が田を離れたと聞けば、いかほど雷を落とすかを想像して、男はげんなりと肩を落とす。

「おっかより頭のほうがおっがねえべ(妻より頭のほうが怖い)。まったぐ、ごせやけんなあ(本当に腹が立つなあ)」

 春の大雪で田植え作業は遅れ気味であるというのに、偶然目にしてしまった厄介ごとに男は理不尽な怒りを抱いた。だからといって変装した南蛮人や、見るからに手練れの武士を見て放置するという選択肢は男にはない。なぜなら男はもとは甲賀忍びであり、いざというときのために庶民の中に紛れ込んだ草なのだから。



 男からの報せがおりくのもとへ届いたのは、藤右衛門たちが猪苗代城下へ到着するより数刻は早かった。おりくが掌握している忍びはこの猪苗代になんと七人近くもおり、それぞれが独自の符牒を用いて互いに協力し合っている。その取次ぎを担っているのがおりくの師でもある齢七十を超える老忍び、達介であった。

「お嬢」

 達介はいつもおりくをそう呼ぶ。佐治家連枝のおりくは、達介にとって大事な弟子であると同時に、守るべき先々代頭領の孫でもあった。あるいは子のない達介にとっても、おりくは本当の孫のように思えるのかもしれぬ。

 その呼び方にいささかの気恥ずかしさを覚えつつも、おりくもまた忍びの腕を磨いた師である達介には頭が上がらずにいた。

「どうやら珍しいお客が来たぞ」

「敵ではないのですね?」

 これが公儀隠密であれば達介はお客とは呼ばない。かといってただの客でもないのだろう、とおりくは推察した。

「さあなあ、殿を害する気がないから敵でないとは限るまい」

 えてして敵意を持たぬ善意の人間こそ、人を破滅させるということを達介は何度も見た。天正伊賀の乱で、魔王信長と戦った伊賀者たちも、共に信長と戦おうとすり寄ってきたものだ。そのせいで協力した何人かの甲賀の仲間が戦死した。

「……南蛮人がおる。松窪で宿をとったようだな。摂津訛りの男もいるらしいが、大方また追放されたキリシタンであろうよ」

 このところ仙台からの追放者を含め、猪苗代を目指して逃れてくるキリシタンは多い。しかしながら南蛮人が訪れるのはこれが初めてのことであった。

 さすがに南蛮人は人目を引きすぎる。かといって定俊は同胞たるキリシタンを拒むことを望むまい。だからせめて、あまりに厄介すぎる者は、独断で闇から闇へと葬るというのがおりくの断固たる決意である。あの戸木城で定俊に助けられた日から、定俊を守ることは、おりくにとって何よりも優先すべきことであり続けた。

 そんなおりくの心中を見透かしたように、達介は続けた。

「始末するつもりなら忍びだけでは不足であろう。南蛮人はともかく、残る二人はかなりの手練れと見える。搦め手を使うには今からでは間に合わぬぞ」

「それほどの腕ですか。これ以上幕府の目が猪苗代に向くのは避けたいのですが……」

 これまでのところ幕府が蒲生家を取り潰しの目標とする気配はない。むしろ伊達家のほうがよほど危うく、いつ取り潰しになってもおかしくなかった。ついで加賀前田家や秋田佐竹家なども予断を許さないというところだ。

 だからといって安閑としていられないことはわかっていた。伊達家が反キリシタンに転じた以上、遅かれ早かれ蒲生家でもキリシタンに対する対応は厳しくならざるをえないだろう。

 それがせめて定俊の死後のことであるように、というのがおりくの切なる願いであった。

「相も変わらず初々しいことだのう」

「からかうのはお止しください。お師さま」

 そう言っておりくは気まずそうに目線を下に落とした。くのいちとしてはありえないほどに純情で一途なところは何十年も経った今も変わっていない。くのいちとしては失格だが、定俊の女房としてはこのうえない気性であろう、と達介は目を細めた。

「いまだ幕府の目は伊達に向いておる。すぐさまどうこういうことはなかろうよ」

 達介の想像は完全に事実であった。

 前年帰国した使節団、いわゆる慶長遣欧使節が政宗の野心によって動かされていたのではないか、という疑惑が幕府内で強い懸念を呼んでいた。性急な政宗のキリシタン弾圧は、まさにこの疑いを晴らし、潔白を主張する窮余の一策であった可能性が高い。

 それでもなお、完全には天下を諦めきれないところが、政宗の梟雄たる所以であろうか。

「もはや時間もありません。不本意ではありますが、殿にお任せいたしましょう」

 口惜しそうにおりくは決断した。

 おりくの配下は七人でも、実際に戦闘力を有しているのは老人の達介を含めてもたった二人しかいない。戦国を生き抜いた手練れの武者二人を相手にするには、入念な準備が必要である。その時間がとれぬ以上、このまま情報収集に徹するより法がなかった。





「ほう」

 猪苗代城を見るなり重吉は感心したように呻く。

 小西行長に仕え、天草国人一揆で獰猛な肥後国人と戦った経験を持つ重吉は、猪苗代城が容易ならぬ堅城であることを見て取ったのである。たかが一万石程度の陪臣がこれほどの城を整備するには、それこそ莫大な資金と人脈が必要であるはずだった。

「どうやら利殖に巧みという噂は間違ってはおらぬようですな」

 実戦的でありながら、確かな数寄者の手腕を感じさせる優美な庭のつくり、それだけでもかかった金は到底年貢米だけで贖いきれるものではないであろう。旧主小西行長がもともと商人の出身で、経済と数寄に明るかったために、重吉も覚えずそうした目を養っていた。

「はよう、立派なセミナリオをみとうおすな」

「ハイ、楽シミデス」

 三人とも猪苗代城に抱いた印象はすこぶる良いものであった。毎日生命の危険を感じながら続けてきた長い旅が今度こそ報われるのではないか、という予感を藤右衛門もアダミも感じていた。





「――――定俊様」

 藤右衛門たちの訪問を定俊に報せようとして、静かに書院の襖を開けたおりくは思わず絶句した。

 どこまでも深い藍色に染め抜かれた裃を着て、端然として正座瞑目した定俊がそこにいた。その裃は氏郷に拝領したもので、第一級の阿波染であり、氏郷の死後定俊が家宝として封印して以来、一度も着たことがないことをおりくは知っている。

 その装束で正座した定俊の全身から、まるで煙るように闘志が立ち上っていた。

 同じような定俊をおりくは何度も見ていた。同時にそれは、大坂城落城以降ついぞ見ることのなくなった定俊でもあった。正しく戦を前にした男の貌かおであった。

 問題なのは、なぜ大坂城の落城以来、もう二度と見ることもないと思われた武士岡定俊の貌に戻っているのか、ということだ。

 いや、原因はひとつしかありえない。おりくにはない、定俊だけが持つ武士としての勘が、戦の匂いに反応したのだ。そしておそらくその匂いは、これからやってくる南蛮人から漂ってきている。

「ご機嫌がよろしいですのね?」

 たとえどんな内心の葛藤があったにせよ、おりくはそれを一切外に表すことはなく、どこまでも優しい目で定俊を見つめて言った。

「すまんなおりく。この昂ぶり、どうにも抑えられん」

 犬歯をむき出しに定俊は嗤う。極まった興奮に広い肩が筋肉の痙攣でぶるりと震えた。

「仕方ありません。ずっとずっと待ち焦がれていたものが来てしまったのですから」

 ほんの少し寂しそうにおりくは微笑んだ。

 ――あの日、大坂城で豊臣家が紅蓮の炎の中に滅び、日本から戦がなくなった日から、定俊は一種の抜け殻だった。幾度も肌を合わせてきたおりくには、定俊の心が年とともに潤いを失い、荒れ果てた大地のように乾いて徐々にひび割れていくのがわかっていた。

 だが、今の定俊の心は瑞々しい水が満ち溢れ、春の新芽が萌えるように芽吹いていた。たとえ身体は若返らずとも、心は若返ることがあるのだ。たとえ生命の危険があろうとも、定俊にとって戦とは、心が生きていくためになくてはならぬ糧であったのだろう。

 畢竟、武士とは、そうしたどうしようもない男なのである。そんな定俊に惚れてしまったのだからしようがない。おりくにできるのは死ぬまで定俊に寄り添い従うことだけだ。思えば最初からそう覚悟を決めていたはずではなかったか。

 初心を思いだして、おりくの心もまた健やかに若返ったようであった。

「――――しばらくぶりに亡き昌林院(氏郷)様の夢を見た」

「昌林院様はなんと?」

「それが……たった一言、お前の好きにしろ、とさ」

 うれしそうに定俊は微笑した。まるで大好きな父親にようやく一人前の大人として認められた息子のような、面映ゆそうな笑みであった。

 定俊は氏郷に生前、会津のキリシタンを頼むと遺言されている。猪苗代に煌びやかなセミナリオを建築したのも亡き氏郷の希望によるものだった。定俊もまた、同胞たるキリシタンをその命にかえても守ると氏郷に誓った。その誓いを忘れたことはない。今後忘れるつもりもない。

 ――――だが

 それでもなお、誓いなど忘れて死ぬまでお前は武士として生きろ、そう氏郷に言われたような気がしたのだ。氏郷もまたキリシタンである前に生粋の武士であった。むしろ徹頭徹尾、骨の髄まで武士であったからこそ、心の平穏をキリスト教に求めていたように定俊には思えた。

 利休七哲のひとりに数えられるほど茶道に親しんだ氏郷であるが、利休が秀吉に処刑されて以後は茶道からも遠ざかり、戦とキリスト教に没頭した。己の身体が余命いくばくもないことがわかっていてもなお、朝鮮出兵のために九州へ赴いたほどだった。

 戦のためならば人生のすべてを捧げても後悔はない。そんな若き日の血がむらむらと丹田から湧き上がってくるかのように定俊は感じた。

 若かりし頃の覇気を全身から迸らせ、定俊は獰猛に笑う。

「人生最後の大戦おおいくさになる――そんな楽しい予感がするわい」







「摂津の産にて山藤右衛門、洗礼名をジョアンと申します」

 猪苗代城を訪れるとすぐに弁天庵に通された三人を代表する形で、藤右衛門が大柄な身体を深々と折って畳に額をこすりつけた。

「よくぞ参られた」

 藤右衛門やアダミが国外追放を受けた罪人であると知っても、定俊の態度はいささかも変わらなかった。そんなものは会う前からある程度は察している。信仰を守って追放された程度で、同胞を見放すなど思いもよらぬことであった。

 自慢の日差しが明るすぎる茶室で茶をたてながら、定俊は屈託なく笑った。

「長旅お疲れであろう。兄弟の家と思って寛いでいただきたい」

 アダミは定俊の言葉に素直に安心して莞爾と笑った。しかし残る二人の同志――武士はそう素直には受け取れなかった。なぜならまるで、この場所が戦場になったようなひりつくような緊張感が茶室全体に漲っているからである。

 迂闊な動きをすれば、次の瞬間には定俊の刀で貫かれているのではないか。障子の向こうから矢が飛んでくるのではないか。そんな身の置き所のない心細さに、藤右衛門と重吉は胸を圧迫されているかのように呼吸を乱した。

 無論それはただの心象にすぎない。茶室は当然のことながら武器を持ち込むのはご法度であり、定俊は悠然と茶杓を操っているだけなのだが、うなじから背中のあたりに嫌な汗が噴き出るのを藤右衛門も重吉も抑えることができずにいた。

 ――――ごくり

 比較的年の若い重吉が、生唾を飲みこむ音がしん、と静謐な茶室内に生々しく響き渡った。そこではじめて気づいたように定俊は苦笑して頭を掻いた。

「これはご無礼を。年甲斐もなく胸が躍っておりまする」

 つと、今まで茶室を満たしていた死と隣り合わせのような張り詰めた空気が雲散する。ようやくにして藤右衛門と重吉は太いため息を吐いて脱力した。この二人、今の今まで本気で死を覚悟していたのである。

「トテモ美シイセミナリオデス。早ク私モ教壇ニ立チタイデス」

 根が素直なのだろう。あまり美味しくもなさそうにアダミは茶を啜るが、顔はうきうきと子供のように笑み崩れていた。

「願ってもないこと、残念ながら我がセミナリオでは指導者が不足しておりましてな」

 アダミのような本格的な教育を受けた宣教師なしに、セミナリオの運営は事実上不可能であるともいえる。セミナリオはあくまでも教会ではなく、教育機関なのだ。純粋な日本人による宣教師が神学的な教養を蓄えるには、まだまだキリスト教が布教された時間は短すぎた。

 フランシスコ・ザビエルによるキリスト教の伝来から、誕生した日本人司祭はわずか九人ほどで、しかもその半数近くが追放され異国で客死している。また残る日本人司祭も活動期間は短く殉教に至っており、ついに正確なキリスト教の教義体系――神学は日本には根づかなかったのである。

 その結果として幕府の目を逃れるため地下に潜った禁教令以後のキリスト教徒は、土着の信仰と結びついて変質を余儀なくされた。子安観音をマリアとしたり、納戸神をキリストにしたり、独自の場所を聖域にしたり、オラショに代表される翻訳不可能な祝詞を口伝するなどして、幕府の追及を逃れ生きのびるためにその姿を変えたのである。

 そのため明治以降、禁教令が解かれたのちも先祖代々受け継がれてきた土着のキリスト教を守る人々を隠れキリシタンとよび、カトリックに復帰した人々は潜伏キリシタンとして区別される。いずれにしろ華やかなりしパリ大学、カルチェ・ラタンという当時最高の学び舎で、神学を学んだフランシスコ・ザビエルの教養を受け継ぐものは日本には現れなかった。

 定俊はそこまで考えていたわけではないが、自分たちの教義に対する理解度が不足していることくらいは十分に承知していた。

 なかなかそこに思い至る武将は少ない。高山右近のような例外を除けば、キリシタン大名のほとんどは、南蛮との貿易と進んだ科学技術が欲しかっただけでその信仰は見せかけである。また実際に信仰していても、学問としての神学に理解のある大名はなお少ないのだ。

 アダミや藤右衛門の、定俊を見る目が変わろうとしていた。

 己の野心のためにキリシタンを利用しようとしただけの政宗と定俊は違う。信仰に対する敬意の払い方でそれを察したのである。

 だが、重吉だけは二人ほど素直に定俊を信じることはできなかった。むしろ壮大なセミナリオと、その目的を理解している定俊の力の源はなんだ――それは金、金ではないか。吹けば飛ぶような一万石の領地などではなく、莫大な資金力こそが定俊の力の源泉であるとすれば、はたしてこの男を信用してよいものか、と疑ったのである。

「それにしても見事どすな。こないな結構な建物、京大坂でも見たことおへん」

「左様……はたしてこの日本ひのもとにどれほどここまでの財力を自由に使える大名がいることか」

 石高だけなら定俊を超える者はいくらでもいるだろう。しかし伊達政宗も含め、石高が多い大名には多いだけの苦労があり、家臣があり、格式がある。いわば定俊は給料の何十倍も副業で稼いでいるわけで、可処分所得が桁違いに多いのだ。

 セミナリオだけではない。この茶室も恐ろしく凝っている。天井板は楠の一枚板であり、京都の鹿苑寺に倣ったものと思われた。また城の廊下から見えた八曲の屏風は、おそらく狩野長信の手によるものであろう。狩野永徳の弟で、安土城の障壁画で力を発揮した当代一流の絵師である。並みの大名では手に入れるのも難しい高値がつくはずであった。

「政と違って銭は裏切らぬのがよい。もっとも、裏切りはせぬ代わりに、人を迷わせはするのが困りものだがな」

 そういって定俊は呵々と笑った。

 銭はどこまでいってもそれ自体に価値はない。銭は交換するものにこそ価値があるのであって、交換の融通性のために産まれた仕組みにすぎないのだが、往々にして人は銭そのものに妄執してしまうのである。

 定俊は銭自体は好きだが――まあ、その程度は別として――銭が利用してこそ力を生むものだということは知っている。

 ――ゆえに迷わない。たとえ主君を凌駕するほどの財力をもっても、その力の大きさを誤解することはない。

 世の中には、銭とは交換できないものがあり、実はその交換できないものほど途轍もない価値があるものだ。まあ、そんなことに関係なく銭はよいものだが。

「人を迷わせることもまた十分な力と存じますが」

 定俊の言葉に満足しなかったのか、重吉は重ねて問いかけた。

「だが武士は迷わぬ。だからいかに銭の力が大きくとも、銭の力だけでは天下はとれぬ」

 そう確信しているところが定俊の武士たるゆえんであり、同時にこの時代の武士の共通した矜持であった。信長以来ようやくその萌芽が見えたとはいえ、経済力が人口と武力の指標となるのはまだ後の世の話である。戦国を戦い抜いた定俊の声には万鈞の重みがこめられていた。

「銭で天下はとれまへんか?」

「とれぬな。もし本当にとれるなら、俺は武士ではなく商人を選んでいただろうよ」

 確かに戦に銭は必要不可欠といえる。銭を自在に操った秀吉が天下を取れたのがその証左であった。だが兵は銭だけでは決して戦うものではない。まして将は大将の器量でしか動かぬものだ。銭で動かぬものにこそ本物の価値がある。信仰や忠誠がまさにそれだ。現に氏郷死後続く蒲生家中の混乱は、蒲生家が銭や禄ではなく氏郷のカリスマによってまとまっていたために起きているのであった。

「では――――信仰は? 銭の力で信仰は守れましょうや?」

 重吉から投げかけられた何気なく思える問いに、並々ならぬ覚悟が含まれていることに定俊は気づいた。

 期待していた伊達政宗にも裏切られ、大友宗麟や高山右近はこの世になく、彼らキリシタンを支えるものは同胞の結束と――異国の知識と資金。それしかない。

 武力でもはや幕府に敵わないことはわかっている。もちろん、抵抗することはできるだろう。あるいはいくつか大名の首を挙げることも可能かもしれない。しかし最終的に戦争に勝利することはまず不可能に近かった。

 殉教することは怖くない。むしろ名誉である。だが、同胞たちが弾圧されることに心が揺れぬはずがなかった。はたして座してそれを見ていてよいのか。たとえどんなに小さくとも、勝ち目があるのならそれに賭けるべきではないか。いや、勝ち目がなくとも抵抗するべきではないか。

 三人のなかで、重吉だけがいまだ武士であることを定俊は一目でわかっていた。この男だけがまだ戦って勝つことを諦めていない。

 定俊の思うところ、畢竟、武士というのは戦うことでしか生き方を貫けぬ男である。藤右衛門は歴戦の元武士かもしれないが、もはや武士ではない。彼は戦わずとも敵と話し合うことで、憐れむことで、神を敬うことで、己の生き方に折り合いをつけることができる。しかし定俊や重吉にはそれができない。戦うという儀式を経なければ、敗北や諦めを受け入れることができないのだ。

 ――その重吉が銭で信仰を守れるか、と問う。

 すなわち、重吉は言外に銭で同胞を守れないのなら戦うべきではないか、と言っているのだった。同時に、この男のいう銭とは――――おそらく定俊の個人資産ではない。

「貧しき同胞にとっては銭こそが何より力となろう。それは間違いない。しかしな、信仰を守るために、本来銭などはいらんのだ」

 そも、信仰とは己の魂の在り方ゆえに。

「では同胞たちに黙って死ね、と?」

 失望したように重吉は唇を噛んだ。

 政治力も武力もないキリシタンが信仰を守る、というのはもはや殉教以外には考えられない。幕府の弾圧から銭で身を守れないとはそういうことである。

「俺は常々思うのだが、信仰とはそもそも、他人が守るべきものか?」

「なんと?」

 重吉は憤慨したように叫ぶ。

 しかし定俊は可能な限り手助けはするつもりだが、究極的に信仰とはその人間個人の心の在り方であると考えている。神の前に人類が等しく兄弟であるというのはそういうことではないか? 少なくとも定俊は自分の信仰を家や家族に守ってもらうつもりは微塵もなかった。

「力無キ民ハ守ラネバナリマセン。彼ラノ手ニ剣デハナク鋤ガ握ラレテイルノハ、彼ラノセイデハナイノデスカラ」

「民の生活と平穏を守ることと、信仰を守ることは違う。いずれ今の平穏が失われても信仰を守れるか、どう守っていくか、あるいは捨てるのか誰もが考えなければならぬ時が来ているのだ」

 今の定俊なら、キリシタンの同胞を国外へ逃がすこともできよう。しかし彼らは住み慣れた土地を捨ててまで信仰を守ることを望むまい。良くも悪くも農民とはそういうものだ。

 本当は定俊も、重政に言われるまでもなくわかっていた。近い将来この地から信仰は失われてしまうのだということを。

「……やはり平穏は続きまへんか」

「この俺の寿命もそう長くはないし、我が蒲生家も亡き御母堂が大御所の娘だから大目に見られている部分がある。いずれ破綻は避けられまいな」

 弟の岡重政が大御所の命で切腹させられたのは、大坂の陣の翌年の元和元年のことであった。重臣蒲生郷成を追放し、ついに藩の実権を掌握した重政であるが、忠郷の実母である振姫との権力闘争に負けたのである。

 その命令がどれほど理不尽なものであったにせよ、重政は定俊に手出し無用と文を送って逍遥と腹を切った。

 蒲生騒動以来、家臣同士のいさかいが続くことを嫌った振姫が、人気のない嫌われ者の重政に責任をかぶせたともいう。はたしてそこにキリシタンの扱いに関する事情が絡んでいたかどうか、定俊にはわからない。

 いずれにしろ重政の死後、蒲生家はより幕府に気を遣うことを強いられていた。

 このままキリシタンの弾圧が続けば、蒲生家としても、もはやキリシタンを排除することをためらわぬだろう。

 この数年、家中で自分が孤立し始めていることを定俊は肌で感じている。

 とはいえ、下手に弾圧してキリシタンが一揆など起こせば、やはり蒲生家は管理不行届きとして取り潰されてしまう。残念ながら藩主、蒲生忠郷には伊達政宗のようなカリスマと統制力はない。藪をつついて蛇を出す危険を犯すわけにはいかなかった。領民のおよそ二割から三割がキリシタンと推測される現状では当然の配慮であろう。おそらくは定俊が死んで、邪魔者がいなくなってから、一気にキリシタンの粛清を進めるつもりではないだろうか。

 あるいは謹厳実直にして剛毅果断な弟重政が生きていたなら、案外もっと早い段階で自分は粛清されていたかもしれぬな、と定俊は嗤った。

 あの重政ならば、蒲生家を守るために単身定俊と刺し違えるくらいのことは、いとも容易くやってのけるはずである。

 この猪苗代の地もすでに安住の地ではない。定俊の言葉を三人は暗澹たる思いで聞いた。それが定俊のせいではなく、世の流れであるとわかっていても、どこか認めたくない思いがあった。

 まだこの日本の片隅でもいい、自分たちが穏やかに生きていける望みがあるのだと信じたかった。



「――キリシタンノ王国ヲ築クノニ、百万両デハ足リマセンカ?」



 現実の未来はあまりに悲観的なものである。

 重苦しく一筋の希望の見えぬ空気に、思わずアダミがすがるように定俊に呟いたのはそのときであった。



 一瞬空気が凍ったのは、アダミも藤右衛門も、もちろん重吉もこんな早急に言い出すつもりは全くなかったからであろう。どこにも希望を見いだせない状況に思わず口をついて出てしまった。まさにそんな雰囲気であった。

「くひっ」

 なんとも形容のしがたい発音が定俊の唇から漏れた。

「天下取りには少なすぎるな。豊臣家が健在であったころなら――いや、まあ天下を相手に一矢報いる程度なら能うであろう」

 そもそも大坂の陣で豊臣家が所有していた資産は三百万両以上といわれている。百万両は大金ではあるが、あの豊臣家にすら及ばない。とはいえ幕府の年間予算が八十万両程度であることを考えれば、空恐ろしい大金であることも確かであった。

 それにしても、百万両という金額を聞いてなお、冷静に算盤をはじく定俊もやはり並みの者ではない。内心はどれだけ興奮していたとしてもである。

 いともあっさりと定俊に否定されて、アダミも藤右衛門も、毒気を抜かれたように瞬きを繰り返した。

 マカオから日本へ密入国してより数年、二人は隠し財宝をどう有効に使えば同胞を救うことができるか、それだけを案じてきたのである。うすうす感じていたことではあるが、隠し財宝だけではもうどうすることもできないところまでキリシタンの弾圧は進んでいた。

 天下が徳川に治まってしまった今、もうキリシタンに残された道は逃亡か潜伏か棄教以外にはない。第六天魔王と恐れられた織田信長が、キリスト教の布教の自由を保障していたあのころに時代が戻ることはないのだ。

 あえて目を背けていたことをあっさりと定俊に指摘されてしまい、アダミと藤右衛門はそれを受け入れぬまでもつい納得した。してしまった。

 しかし重吉は二人ほど簡単に納得することはできなかった。

「この日本ひのもとにキリシタンは七十万以上はおり、まだまだ幕府に不満を持つ大名は数多い。お手伝い普請にて手元不如意な者とておりましょう!」

 定俊は哀れそうに重吉をみて首を振った。

「九州の諸大名はおろか、伊達家までがすでに弾圧に舵を切った。かつて一向宗がそれなりに戦えたのは、まだ天下が定まっていなかったからだ。断言するが、一家たりとも同心する大名はおらぬであろうよ。いや、伊達の小僧あたりは何か考えるかもしれぬが」

「ではこのまま、いつか訪れる破滅に怯えて暮らせと?」

「その問いの答えを出すのは俺ではない。誰もが己自身に問わなくてはならないのだ。イエスは人が神を試すのではない。神が人を試すのだとおっしゃられたのではなかったか?」

 アダミが定俊の言葉に、はっ、としたように顔を上げた。

「俺はただ、亡き昌林院様のご遺命を果たし、この命あるかぎり同胞を守るのみ」

 もっとも、ただ守るだけということが途方もなく難しいことになったようだ。その事実が定俊にはうれしくもあり、楽しくもある。

 まるで子供がおもちゃを見つけたかのように、定俊は笑み崩れて言った。

「…………それにしても百万両か。なるほど、喉から手が出るほど幕府も大名も欲しかろうな」

 先日の予感はこれのことであったか。

 今までそれほどの情報を隠し通してきたのは見事なことだが、定俊の武士としての勘が告げている。秘密を守れていたのはただこの瞬間までのこと。平和な時間はもはや過ぎ去ったのだ、と。







 仙台藩六十二万石の伊達家には、知る人ぞ知る忍びの組織がある。

 忍びといえば上杉家の軒猿、北条家の風魔、幕府の伊賀組、甲賀組などが有名だが、伊達家にもそうした忍び集団がおり、名を黒脛巾組という。彼らはみな黒革の脛当てを身につけており、当主伊達政宗に直答することを許されていた。出羽三山や蔵王権現を信仰する修験者の集団を母体とするといわれ、その情報収集力は東北随一であると謳われている。

 この黒脛巾組は安倍対馬守安定を頂点とし、七つの組に分かれていた。そのなかで白石から南方面を担当し、もっとも多くの人員を指揮しているのが組頭の横山隼人である。白石からわずか五里ほど南には、伊達氏の父祖の地である梁川があり、秀吉に国替えを命じられる以前、長く親しんできた伝来の旧領があった。

 この旧領は本来徳川の関ヶ原の勝利とともに、報償として伊達家に与えられるはずであった。世にいう『百万石のお墨付き』である。

 ところが和賀、稗貫で余計な一揆の煽動を行ったために、この百万石のお墨付きは幕府に反故にされてしまう。結局関ヶ原の戦いにおける伊達家の加増はわずか二万石に留まった。以来、政宗はこの手に入れそこなった旧領の回復に並々ならぬ意欲を燃やしてきた。

 ゆえにこそ、黒脛巾組は江戸表と伊達旧領、すなわち岩代の仙道にもっとも人材を集中していたのである。

 安倍対馬守のもとへ横山から急報がもたらされたのは、元和七年四月十七日も深夜のことであった。

「会津から猪苗代へ南蛮人が入ったよしにございます」

 すでに就寝中であったにもかかわらず、音もなく寝所へ侵入した横山に、安倍対馬は微塵の動揺も見せずに布団から身を起こすと静かに問いかけた。

「宣教師か?」

 安倍対馬の問いに、横山は顔を伏せたまま抑揚のない声でただ訥々と答える。

「おそらくは――ジョアン・マテウス・アダミとその一党かと」

「たしか、柳川で司祭の長を務めた男であったか」

 遠く離れた九州の宣教師の名を、安倍対馬が知っていたのには理由がある。

 それは政宗が、とある謎を追いかけることを安倍対馬に命じていたからだ。すなわち、大久保長安の隠し財法の謎である。

 実は政宗が大久保長安の財力と松平忠輝という御輿を利用して、天下取りの隙を窺っていたという幕府の疑念は完全に事実であった。

 派手好きにみえて用心深い政宗は、さらにそこへキリシタン、あるいは南蛮人の支援を加えて計画を万全にする心つもりであった。ところが南蛮へ使節を派遣しようとした矢先に長安が前触れもなく急逝し、御輿として期待した松平忠輝も元和二年に改易されてしまう。

 最後の希望であった遣欧使節も、帰ってきてみれば何一つ目的を達成できぬままに終わる。失望している暇もなく、政宗は幕府からの疑念を払しょくするため、領内のキリシタンを弾圧しなければならない羽目になった。

 しかしそこまで失敗しても、懲りるということを知らぬのが政宗という男である。

 蘆名滅亡、葛西大崎の一揆煽動、そして関ケ原での和賀、稗貫の一揆煽動と、そのたびに窮地に陥り、痛い目に会いながらもいまだ政宗は天下への野望を捨ててはいない。

 政宗の天下取りの野望の証拠に、バチカンの機密文書館に保管されている一六一五年十二月二十七日付のローマ教皇パウルス五世の小勅書には次のような記述が残されている。

『日本の王に対する剣と帽子の叙任について 王(政宗)はキリスト教徒ではないので一切協議できない。しかしキリスト教徒の王になれば、通常キリスト教徒の王に与えられるあらゆる満足がすぐに与えられるでしょう』

 当時政宗はキリスト教の洗礼を受けていなかった。幕府の禁教令後、受洗するのは自殺行為だったからだ。問題なのはこの次である。

『司教の任命、および騎士団の創設については、キリスト教徒になった時、また教会を寄贈したならば、彼の功績を考慮して、これについて協議される』

 つまり政宗はフランス国王のように、あるいはスペイン国王のようにカトリックの王として国内の司教を統制し、日本に騎士団を創設しようとしていたのである。スペイン国王が指揮下に治めるサンチャゴ騎士団やカラトラバ騎士団のように、日本国内のキリシタン武士をローマ教皇の後ろ盾で強固な信仰のもとに騎士団としてまとめ上げることができれば、なるほど幕府に対抗することも可能かもしれなかった。

 さらに同じカトリック教国であるスペイン、ポルトガル、フランスの支援を受けることすら政宗は想定していたのである。

 宣教師ルイス・ソテロはそのように弁舌巧みに政宗を誘導し、この日本にキリシタンの王国を築きあげるにはそれしか方法がないと信じた。

 ところが自ら受洗していないという政宗の用心深さが、逆に野心を見透かされる結果に終わり、使節は再三の嘆願もむなしく手ぶらで帰国することになる。

 もしもの話であるが、松平忠輝がローマ教皇の支援の下に七十万以上とよばれるキリシタンを率い、その兵站を大久保長安が支えることができれば、政宗の天下取りの野望は決して勝算のないものではなかったかもしれない。

 そのすべての要素が失われた今、政宗が天下を窺う機会は完全に失われたように思われる。

 おそらくは誰もがそう考えていただろう。ただ一人政宗本人を除いては。

「…………殿に報告せねばなるまいな」

 感情を殺した能面のような横山隼人と違い、安倍対馬はわかりやすい渋面をつくる。

 忍びの長でありながら、安倍対馬は組織の長として表の世界との接点を維持する必要があるため、そうした感情表現が豊かであった。いや、豊かにみえるよう心掛けていた。

 この情報がまたも政宗の野心に火をつけてしまうことは確実である。ただでさえ幕府から警戒の目を向けられているこの時期に、それはあまりに危険な火あそびになるはずであった、

 しかしその危険を論ずる資格は安倍対馬にはない。その判断をするのは政宗であり、安倍対馬はその判断材料を集めるのが役割であった。

 だからといって伊達家の存続なしに安倍家も黒脛巾組もまたないのである。伊達家なくば武田家を失った甲斐忍びのように、北条家を失った風魔党のように、主を失った忍びは生きる場所を失い、落ちぶれて山賊にでもなるしかなかった。

 その酷薄な現実が安倍対馬を懊悩させていた。

「せめて景綱様が生きておればなあ…………」

 政宗の側近として天下にその名を知られた片倉小十郎景綱は、元和元年に病死している。政宗の叔父にあたる亘理元宗や留守正景もすでに他界しており、現在政宗に正面から諫言できるのは精々従弟の伊達藤五郎成実くらいなものであった。

「考えても詮無いことか。清水沢から何人かそちらに送るゆえ、どんな小さなことでも報せるように」

「承った」

 物音を立てずに来た時と同じように横山は退出する。増員を送るということは、ある程度の犠牲が出てもよいという意味を含んだ冷酷な指示でもあるのだが、そうした動揺を微塵も横山が見せることはなかった。

 しかし言葉にこそ出さぬものの、安倍対馬も横山隼人も、この問題が多大な犠牲の出る大きな暗闘になることを予感していた。





 ――――伊達藤次郎政宗。

 人生五十年の峠を越えた五十二歳の老人ではあるが、炯々と光る野心に満ち溢れた瞳と、しなやかな猫科を思わせる細みの引き締まった肉体が明らかに年齢を裏切っている。

 政宗を遅れてきた英雄と人は呼ぶ。本人もあと二十年早く生まれていれば天下をとれた、と臆面もなく放言していて、周囲もどこかそれを受け入れている節があった。

 正確に彼を表現するならば遅れてきた戦国大名、というのがもっとも正しいかもしれない。

 元和七年を迎えた今、本気で天下を狙う戦国の気概を持ち合わせているのは、おそらく日本六十余州の諸侯でも政宗一人だけではないだろうか。

「ままならぬことよな」

 不機嫌そうに政宗は口をへの字に曲げて、金で象嵌された巨大な煙管を吸った。

 今少しキリシタン弾圧を遅らせていれば、労せずにアダミは仙台へとやってきたに違いない。わざわざ陪臣にすぎぬ岡定俊などに攫われることもなかったのだ。

「幕府の警戒を解くには、ああせざるを得ませんでした。まあ、今でも警戒が解かれたとは言えませんが」

 片倉景綱の息子で小十郎の名を受け継いだ重長は、父譲りの秀麗な横顔を陰らせる。若いながらも伊達家の屋台骨を担う重長の貌は、すでに年齢より十ほども老けてみえた。

「そんなことは百も承知よ」

 政宗が嘆いたのは己の運のなさである。どうして自分はいつもいつもこうして肝心の時に機会を逃してばかりなのか、という嘆きであった。

 もっとも秀吉や家康がそれを聞けば、政宗の心得違いを鼻で嗤ったであろう。政宗と同じことをすれば他の大名ならまず十中九までは死んでいる。これまで生き延びることができたのは、まさに政宗自身の持って生まれた幸運に拠るところが大きいのだ。

「それでそのアダミという宣教師とカルロス・スピノラの関係は?」

 ――――カルロス・スピノラ

 数学者、天文学者、科学者にして宣教師。長安の隠し財宝の秘密の一端を握ると目される人物である。現在は大村藩に投獄されており、半年後の元和七年九月十日、長崎にて火刑に、いわゆる元和大殉教の犠牲者となる男であった。

 非常に社交的で顔が広く、イエズス会の裏資金運用に関わっており、大久保長安に最新の抽出技術、アマルガム法を伝授したのも、どうもこの男である可能性が高いというのが黒脛巾組の見解である。

 政宗に問われた安倍対馬は、頭を畳にこすりつけるようにして低い声で答えた。

「九州柳川で布教していた際には、ともに肝胆相照らす仲であったとか」

「大久保長安の財宝について何か知っている形跡は?」

「残念ながらいまだ何も」

「どれだけ犠牲を払っても構わん。なんとしてもそのアダミから財宝の情報を聞き出せ。本人が知らぬならば仲間を吐かせよ」

「御意」

 安倍対馬としては政宗の言葉は天の言葉だ。もとより反対するという選択肢はない。あるとすればそれは安倍対馬ではなくほかの重臣である。密かに安倍対馬は片倉重長へちらり、と視線を送った。

「下手に動けば、幕府のさらなる疑いを招きかねませんぞ?」

 疑いどころではない。その疑いは疑いではなく事実なのだ。暴かれてしまえば今度こそ伊達家は終わる。宿老として重長には政宗に諫言する義務があった。

「あるかないかわからぬような財宝のために、我が伊達家の行く末を賭ける価値がありましょうか?」

 本音をいえば、いい加減天下の夢など捨てて内政に力を尽くして欲しい。しかし臣下としてそこまで言うのは重長には憚られた。今ここにはいない伊達藤五郎成実であれば、あえてそこまで幼なじみとして放言したかもしれぬ。何しろ一度は政宗と喧嘩して本当に伊達家を飛び出した男だ。

 しかしながら重長は、父景綱によって危うく生まれる前に殺されるところであったところを、政宗によって救われたという返しきれぬ恩がある。主君の野心を真っ向から否定することはさすがに憚られた。

「ある。必ずある」

 政宗は大久保長安と、少なからず天下取りについて本音で談合した記憶がある。あの天下の驕りものの全財産がわずか百万両程度でなどあるものか。南蛮人から取得した知識の代償として、そして来るべき日に南蛮から協力を得ることの報酬の前渡しとして、イエズス会の協力者に莫大な金を渡したことを政宗は本人の口から聞いているのである。

 その金額はおよそ百万両。さらに人知れず全国各地の複数の廃坑などに隠匿した資金も五十万両を数えるという。合計二百五十万両、正しくあの金満豊臣家にも匹敵する恐るべき資産であった。長安が全国の金山銀山を管理し、しかも自己申告の歩合制という、操作し放題の地位にいたからこそできた蓄財である。さらに家康の六男で御輿として利用するつもりだった越後高田藩主松平忠輝に、密かに五十万両もの援助をしていたから、実質的には三百万両だ。

 その財宝が政宗には喉から手が出るほどに欲しい。なぜならこのとき天下取りの野望とは別に、優秀な内政家でもある政宗は、後の世に貞山堀と呼ばれる運河の開削にすでに着手していたからだ。北上川水系の新田開発にも力を入れており、伊達家の財政は今や火の車であった。

 これらの開発により後年、仙台藩は表高六十二万石に対し、実高七十五万石を超える莫大な米生産量を確保することになる。また江戸で流通する米の三割は奥州米と謳われるなど、政宗の輝かしい行跡のひとつとなるものの、それはあくまでも後の世のことである。今の政宗には金がないことに変わりはない。

「これが最後の機会なのだ。人生最後の天下取りの機会に、金がなくて指を咥えていては独眼竜の名が泣くわ」

「左様な機会が本当にあるものでしょうか?」

「もうじき家光様と忠長様は割れる。いや、この俺が割る」

 口の端を大きく釣り上げて満腔の自信とともに政宗は嗤った。梟雄政宗だけができる凄みが溢れた笑みであった。

 長子である徳川家光が三代将軍となることはもはや規定路線である。すでに元和七年三月には右近衛大将の地位をえて、朝廷から将軍宣下を得るための工作は最終段階にある。おそらく来年かさ来年には、家光に征夷大将軍の宣旨が下るはずであった。

 しかし二代将軍秀忠と妻お江の方が、家光より二子忠長を溺愛しているのは、諸大名が誰でも知っている公然の事実である。

 そうした状況でまことしやかに流れ始めた噂があった。それはすなわち、家光がお江の方の実子ではないという穏やかならぬ噂である。

 驚くべきことに徳川家光の誕生日はこの時点で公表されていない。正式に家光の誕生日が慶長九年七月十七日であると発表されたのは、実に母であるお江の方の死後のことになる。

 ところがこの慶長九年七月十七日というのは、お江の方が娘千姫の結婚のために秀忠から離れていた時期から逆算すると出産の計算が合わなくなる可能性が非常に高いのである。しかも溺愛というだけでは説明できないほど、家光より忠長に付けられた小姓の方が身分が高い。

 もちろん、なんの証拠もないただの疑惑であった。しかしその疑惑が、時として大きな武器となることを政宗は経験的に知っている。

 ――――かつて豊臣秀頼が秀吉の実子ではないという疑惑があった。

 それだけが理由ではないとはいえ、福島正則、加藤清正、黒田長政ほかの豊臣恩顧の大名が、徳川家に鞍替えするにあたり、この噂が果たした心理的な役割は大きかったと思われる。秀頼が豊臣の血を引いていないのなら、裏切っても義には反しないという免罪符となるからだ。さらに秀吉の妻である高台院(寧々)が積極的に秀頼を擁護しなかったことも大きいのだが、恩義かお家かの瀬戸際で、彼らが徳川につくことを選んだ影に不義の子の風聞あり、と政宗は睨んでいた。

 あとは二代将軍秀忠が早く死んでくれれば――はたして戦の経験のない家光にどこまで大人しく従う大名がいるだろうか。

 豊臣の滅亡以後、幕府は数多くの大名家を様々な口実を設けて取り潰している。いつ自らも取り潰されるか、戦々恐々としている大名家は多かった。特に加賀の前田家や長門周防の毛利家、肥後の加藤家などは切実に危機感を覚えているはずである。

 しかしながら政宗の野望実現のためには、不遇をかこつ忠長に接近しその関係を深め、幕府に不満のある大名たちを糾合するための、潤沢な、それも溢れんばかりの資金力が必要不可欠であった。資金さえあれば噂など、いかようにも真実であるかのように煽ることも可能だ。政宗にはその力があり、さらに黒脛巾組という手足がある。

 事実、九州の島津家や細川家にさえ、家光と忠長兄弟の対立に神経をとがらせていたことを示す文書が残されている。天下の大乱を憂う声は確かにあった。勝ち目さえあれば戦うのが戦国の習いであり、その気風を残す大名もまだ決してなくなったわけではない。

 もはやそれだけが、政宗に残された天下取りの人生最後の希望なのであった。

 海の者とも山の者ともつかぬ噂に最後の野心を託す。まさに最後の戦国大名に相応しい愚かしくも恐ろしい宿業といえよう。

 それでも俺ならば、俺ならばできる、と政宗は本気で信じていた。まだ梵天丸と呼ばれていた幼い日から、一度たりとも変えたことのない天下への誓いでもあった。

「ならばこそお気をつけなさりませ。猪苗代にはあの男がおりますれば」

 せっかく気持ちよく天下取りの夢に浸っていたところを、重長に冷水を浴びせかけられ、不満そうに政宗は顔をしかめた。

 岡定俊と政宗には浅からぬ因縁がある。それもできれば二度と思い出したくもない苦い苦い因縁であった。







 ――慶長六年の四月二十六日、穏やかに晴れ渡った春の早朝のことである。

 家康に百万石のお墨付きを与えられたとはいえ、そこはそれ、いつ反故にされるとも限らないのが戦国の世の習いというものである。ならば実力で旧領を回復せん、と政宗は一万五千の兵を率いて白石城を出陣、一路上杉領の福島城を目指した。

 すでに先年の九月十五日、関ヶ原の戦いは徳川率いる東軍の圧倒的勝利に終わっている。敗北を悟った上杉景勝は家老の千坂民部を窓口に和睦交渉を進めており、両者の和睦が成立すれば政宗は上杉と戦う大義名分を失うことになる。

 是が非にも和睦の前に勝利を確定させたい、と、この戦に懸ける政宗の意気込みは、並々ならぬものがあった。 

 実はこれまで何度も政宗は福島城を攻撃し、そのたびに老将本庄繁長の、戦の呼吸を知り尽くした老練な手腕に跳ね返されていた。

 とりわけ獅子奮迅の活躍を見せたのが岡定俊である。もともと蒲生家の領地であり、親友蒲生真令(横山喜内)が梁川城主であったこともあって土地勘のあった定俊は、梁川城の後詰に向かう途上、福島城とのちょうど中間地点、現在の福島市瀬上のあたりで阿武隈川を渡河して、伊達軍の小荷駄隊を襲撃、その兵站線をわずか数百の兵力で寸断させた。

 並の将であれば、伊達の大軍に福島への退路を断たれ敵中に孤立してしまったと負の側面が目につくものである。。それをわずか数百の手勢で、逆に伊達軍の退路を断とうとしたところが定俊の非凡たるゆえんであろう。

 その後も兵力の少なさを生かした機動力のある用兵で、定俊による兵站線への神出鬼没な攻撃は続き、もはや短期間で福島城を陥落させる見込みのないことを悟った伊達軍は、損害を出しつつやむなく撤兵したという経緯がある。

 政宗の隻眼には今度こそ福島城を取る、仙道北部の旧領を奪還するのに、誰にも文句などつけさせぬ、という気概が漲っていた。

 これに対し、なんと本庄繁長はおよそ半数以下の寡兵でありながら、籠城するどころか敢然と城を出て伊達軍を迎え撃つことを決断する。

 福島城からおよそ一里ほどの信夫山のふもとを流れる松川――現在の福島市森合町付近と思われる――で両軍は激突した。

 兵数では伊達軍が圧倒しているにもかかわらず、寡勢の上杉軍は主将の本庄繁長を筆頭に、甘糟景継や栗生美濃守などが奮戦。両軍一歩も退かぬままに大混戦となる。

 まだ通信機器や分隊戦術が発達していない戦国のこと、両軍混戦のなかで戦場に少なからぬ空白が生じ、備えの一隊を突破した政宗の前に、一人の西洋甲冑を着た武者の背中が見えた。 

 猩猩緋に染め抜かれたど派手な陣羽織をまとっており、彼が一隊を指揮する名のある将であろうことは一目でわかった。

 奥州では珍しい角螺子の兜に南蛮鎧を着る武将を政宗は寡聞にして知らない。だが信長もかくや、という艶やかな衣装に、派手好きの政宗は思わず目を見張った。

 そして無防備な背中を見せる武者の姿に、政宗の血が沸騰したように沸きあがる。困ったことに政宗は激情に駆られると、最前線に立って刀を振り回すという悪癖を持ち合わせていた。

 勇躍馬を躍らせ、斬りかかった政宗の斬撃は、咄嗟に身をひねった武者の背中の猩猩緋の陣羽織を深々と一文字に切り裂く。その南蛮鎧の武者こそ岡定俊その人であった。

 湯浅常山が残した常山紀談ではこの場面をこう記されている。

『岡左内猩猩緋の羽織着て鹿毛なる馬に乗り。支え戦いけるを政宗かけ寄せ。二刀切る岡左内ふり顧みて政宗の冑の真っ向より鞍の前輪をかけて切りつけ。返す太刀に冑のしころを半かけて砥はらう。政宗刀を打折てければ岡左内すかさず右の膝口に切りつけたり。政宗の馬飛退てければ岡左内政宗の物具以ての外見苦しかりし故。大将とは思いもよらず。続いて追詰ざりしが後に政宗なりと聞きて。今一太刀にて討取るべきにと大に悔みけるとなり。』



「うぬ、仕損じたか!」 

 軽い手ごたえから相手に躱されたことを知った政宗は歯噛みする。

「背中に目が届かぬとは我が身の不覚。すんでのところで命を拾ったは我が身の武運、貴様にとっては運の尽きと心得よ!」

 背中から斬りかかられたことを、定俊は相手をいささかも卑怯とは思わなかった。むしろ油断していた己を恥じるばかりである。武士にとっていかなる理由があれども、後ろ傷は恥である。不名誉の印である。

 ゆえに定俊は、相手よりも自分に激怒していた。必ずやこの恥をすすがなければならぬと信じた。

「なかなかよき馬よ。その鎧より馬に金をかけた心構えだけは褒めて遣わす」

「推参なり。貴様ごときに説教は受けぬ」

 このとき、定俊は相手が政宗であることに全く気づいていない。だが武者の乗る馬が稀少な汗血馬であることはすぐにわかった。良馬に金を使うのは武士の嗜みである。これほどの馬を持つならば、敵として不足はないと定俊は相手を評価したのであった。 

 政宗もまた絶好の機会をみすみす逸した怒りのままに愛馬の太刀風を駆り、再び定俊へと刀をふりかぶる。

 しかし政宗の熱い闘志は、たちまち死の恐怖という凍てつく冷気によって冷却を余儀なくされた。

 政宗の持つ名刀貞宗が、定俊の一撃でいとも容易くへし折られてしまったのだ。名刀といえど当たり所が悪ければすぐに折れる。戦場であればなおのことであった。その余力をかって定俊は政宗の兜のしころ(兜の左右から垂らして頸部を守るもの)をかすめ、さらに返す刀で政宗の右ひざを斬りつけたのである。まさに息もつかせぬ猛攻であった。 

 一時の狂躁から覚めて己の危険を自覚した政宗は、慌てて定俊に背中を向けて一目散に逃走を開始した。

 このあたりの切り替えの早さ、逃げっぷりのよさが政宗の真骨頂であった。

「この勝負、預けおくぞ!」

「おのれ! 負け惜しみを! その首置いて行け!」

 もちろんこれを逃す定俊ではないが、どういうわけか見たこともない勢いで伊達の兵士たちが必死に定俊の行く手を阻む。かえって定俊が敵中に孤立して討ち死にの危機に陥るほどの怒涛の勢いであった。同僚の才道二がかけつけてきてくれなかったら、本当に死んでいたかもしれない。

 名のある兜首ではあろうが、あのような地味な漆黒の鎧を身に着けている程度であれば、ここで命と引き換えにするほどの価値はあるまい、と定俊はこちらも馬首を翻して逃走した。

 あとになってあの武将こそ伊達政宗その人であったと聞かされた定俊は、正しく慟哭して額を何度も壁に打ちつけるほど嘆き狂った。後にも先にも定俊がこれほど狂嘆したのは主君氏郷が死んだときを置いて他にない。

 武士の人生を昇華させる最高の死に場所となるはずだった。政宗を逃したことは、定俊にとって生涯の痛恨事となった。政宗と知っていれば、身命を賭して相討ちに持ちこんでいたものを、と嘆いてももはや時は二度と戻らない。武士の死に場所は二度と取り返しがつかないからこそ死に場所なのだ。

「なぜ天はこの俺に死に場所を与えなんだか…………」

 なお伊達治家記録によれば、この岡定俊との一騎討ちは偽りなり、と強硬に否定されているが、のちに政宗が定俊を三万石という破格の待遇で仕官させようと誘っている逸話を考えれば、やはり事実であったとみるべきではあるまいか。

 危うく討ち死にするところであっただけでも腹立たしくあるのに、このときの政宗の不運はまだ始まったばかりであった。

 兵数に勝る伊達軍は一刻ほどの戦闘で、じりじりと上杉軍を押しこんでいった。そしてついに上杉軍が福島城へ敗走を始めたと思ったのもつかの間、本庄繁長が松川の上流から送り込んだ伏兵と、梁川城から出撃してきた須田長義の軍勢が伊達軍の背後から襲いかかったのである。

「見よ! 伊達のものどもが背中を見せておるぞ! かかれ! かかれ!」

 いつの世も挟み撃ちの効果は絶大である。政宗の旧領回復の夢が露と消えた瞬間であった。いまだ兵数に勝っていたはずの伊達軍は、挟み撃ちにされたと知るやあっさりと崩れ去った。

 士気の崩壊した伊達軍は、這う這うの体で奥州街道を北目城へ向かって退却し、以後二度と上杉領を侵すことはなかった。

 ……あとほんの一歩だった。もう半刻迂回部隊の到着が遅ければ、おそらくは伊達軍の勝ちだった。決して勝てぬ戦ではなかっただけに、この敗北は政宗の胸に苦く不快な感情を刻印した。 

 その記憶の中心にいるのは、あの日政宗の冑に斬りつけ、名刀貞宗を叩き折った定俊の、煌びやかな角栄螺の甲と鳩胸鴟口が特徴の西洋具足なのであった。

 不吉な形をした西洋具足の武者が、今も時折悪夢のなかに現れて恐怖とともに深夜に叫び声をあげて飛び起きることがあることを、政宗は屈辱とともに承知している。

 その定俊がいる猪苗代に、大久保長安の財宝の手がかりを知るかもしれぬという宣教師がいるのである。不意に湧き上がる不安を政宗は頭を振って追い払った。仮にも天下を狙う男が、たかが陪臣の男一人に苦手意識を持つなど、絶対に認められることではなかった。

「猪苗代宗国を呼べ。まだ伝手のいくらかは残っておろう」

 かつて猪苗代を治めた猪苗代盛国の息子であれば、まだ多少の影響力は期待できるはず。

 政宗は再び危険な野心の火遊びに自身を投げ出そうとしていた。







 神君伊賀越えの功績を称され、服部半蔵家を筆頭に大量の伊賀忍びが、伊賀同心組として幕府に召し抱えられた頃、隠密といえば伊賀組の天下であった。ところがその栄光の時間は、彼らの期待に反してあまりに短く儚かった。

 家康から代替わりした二代将軍秀忠は側近として大和の土豪、柳生但馬守宗矩を重用し、徐々に隠密としての陰働きを柳生忍軍に頼るようになったからである。幕閣の重要な秘匿性の高い陰働きは、すでに柳生のものとなって久しかった。

 これは家康の信任も厚かった鬼の半蔵こと服部正成が慶長元年に病死して以後、三河の生まれであるいわばよそ者の服部家と、伊賀本家の伊賀忍者に確執が生まれたことに端を発する。正成の跡を継いだ服部正就は、家中の混乱を制御できず、責任を問われ改易されてしまった。心機一転汚名を返上するべく大坂に出陣するも、天王寺口の戦いで討ち死してその死体は結局見つからなかった。一説には戦場から逃亡し農民として生涯を終えたともいう。正しく伊賀忍びの恥ともいえる不名誉極まる死にざまであった。

 その後、弟の服部正重が跡を継ぐが、これまた大久保長安の娘を妻にしていたことから幕閣の追及を受け、ついに改易となってしまうのだからつくづく運がない。

 現在伊賀同心組を所管しているのは服部中保正である。服部家には三つの流れがあり、服部半蔵の流れが上服部家、保正はその名の通り中服部家にあたる。家康に長く仕え信任も厚かったが、そもそも保正は武士であって忍びのことはほとんど知らなかった。この人事は要するに伊賀同心を忍びではなく下級官吏として扱うと宣言したに等しかった。

 これが面白かろうはずがない。東照神君を助けたのは自分たちであり、天正伊賀の乱ではあの信長を相手にも一歩も退かなかったという強烈な自負が彼らにはある。

 二百人を超える伊賀同心組の組頭の一人、野村方丈斎もそうした不満を抱く一人であった。

「このまま手をこまねいているわけにはいかぬ……もう我らに残された時間は少ない」

 重々しい方丈斎の嘆きに、若頭の太助が頷く。若頭といってもすでに三十を過ぎ、太助より若い忍びは全伊賀同心の三割ほどしかいない。伊賀組の老齢化は急速に進んでいた。

 大坂の陣において、戦を経験していない兵が戦いの作法を失伝していたように、同じことが忍びの世界でも起ころうとしていたのである。

 忍びにとってもっとも大切な技とは――忍術とは、すなわち不正規ゲリラ戦における技量である。たとえ闇の世界に隠れていても、忍びの本質は兵つわものなのだ。情報の収集や操作など実は余技にすぎない。音もなく山野を駆け、変幻自在の忍術を駆使して奇襲によって敵の荷駄を襲い、隙あらば敵将を暗殺することこそ忍びの華である。少なくとも方丈斎たち古い忍びにとってはそうであった。そうあらねばならなかった。

 ところがいざ太平の世となり実戦がなくなると、肝心の不正規戦の技を磨く機会がない。いくら本気で修練したしてもそこで得られる経験は、たった一度の実戦に及ばないのである。

 そうしてみると柳生は違った。彼らは忍びであると同時に柳生新陰流の剣客であり、武士でもあった。ゆえに戦はなくなっても、それなりに命を懸ける機会に恵まれていた。むしろ槍と弓が廃れた太平の世では、剣術はさらなる発展を遂げているとすら言える。

 表沙汰にならぬ程度に、闇で伊賀と柳生が小競り合いとなったときも、伊賀側に分が悪い状態がこのところ続いていた。いや、現実には分が悪いどころではない。戦闘になれば十中七、八までは伊賀者が敗れる。

 このままでは先祖代々培われきた忍びの技は、遠くない将来、中身のないただの型に成り下がるであろう。そうなれば二度と闇の世界で伊賀の忍びが、舞台の華となることもあるまい。

 それが方丈斎には口惜しくてならなかった。

 柳生はよかろう。彼らには堂々と表の世界で胸を張れる剣という道があるではないか。裏の世界まで己の手で支配しようとは僭上も極まるというものではないか。

 理不尽な怒りが方丈斎の胸を灼いていた。

 伊賀の里には剣や槍の道などない。ただ泥臭く陰湿な古くからの忍びの術があるのみだ。あるいはそれは、失われゆく徒花であるのかもしれぬ。戦を知らぬ若者たちにとっては、そんな薄汚れた術など捨てて、平々凡々な下級官吏として生きていくほうが幸せであるかもしれぬ。

 だが方丈斎はそれを知らない。忍びとして生きていくしか生き方を知らないのだ。たとえほかに幸せになる法があったとしても、それは忍びの生き方ではない。

 自分たちが受け継いできたものは、後世に受け継がれなければならぬ、という断固とした思いが方丈斎にはある。

 痩せた土地しか持たぬ山深い伊賀で、その忍びの腕だけを糧に古から生きてきた。農業だけでは食っていけない。忍びの腕なくして生きていく術がない。だからこその――伊賀者。忍びでない伊賀者はもはや伊賀者ではない別の国の人間である。すなわち、方丈斎にとって、忍びの衰退とは魂の故郷の喪失でもあるのであった。



 ほんのかすかに夜風が揺れる。それがただの風でないことは、わずかに漂う饐えた匂いが教えてくれた。

「――――彦兵衛か?」

 碌に手入れもされていない粗末な庭園に、一本だけ見事に聳える松の下に、いつのまにか音もなく蟠る影があった。

 その男が方丈斎配下の下忍、猿飛の彦兵衛であるのはすぐにわかった。

 この彦兵衛、両手が膝下にまで垂れさがるほどに異様に長いという、平時であれば目立ちすぎる特徴を持っている。

 しかし夜の闇に紛れ、木々の間や屋根から屋根へと縦横無尽に飛び回る猿飛の術に関しては、伊賀の誇る手練れのなかでも五本の指に入るほどの術者であった。

「九州はいかがであった?」

 その声に隠し切れない期待の色がある。

 この数年来、方丈斎は信頼のおける手の者を九州へと送り込んでいる。彦兵衛のその中の一人であった。それはもちろん、細川家や加藤家、島津家など徳川家へ対抗しうる大名たちの監視を含んでのことではあるが、それ以外にももうひとつの隠れた任務がある。ほかならぬ方丈斎がその任務を命じたのだ。

「ようやく獲物が網にかかりましたもので、まずはご報告にまかり越しました」

「するとやはり、天草に南蛮人が隠れ潜んでおったか!」

 喜色をあらわにして方丈斎は叫ぶ。

「いかさま、組頭様の見込みどおりでございました。いつの間にか澳門マカオより出戻った者が土地の者に匿われておりましたようで」

「何者じゃ?」

「ジョアン・マテウス・アダミなる宣教師のようにございます」

 キリシタン大名であった有馬晴信が岡本大八事件に連座し、息子直純が日向延岡に転封となると、島原天草は松倉重政の支配するところとなった。

 もともとは豊臣系の大名であったため、松倉重政は徹底的に幕府に媚びることで己の権力基盤を保とうとした。そのためキリシタンに対する弾圧も苛烈を極めた。後に寛永年間に入ってからの弾圧では、実に数百名以上のキリシタンが過酷な拷問の末処刑されたという。

 そんな天草に数年とはいえ、アダミが潜伏していられたのは、アダミの人格を慕う人が多かったこともさることながら、地元住民に深くキリスト信仰が根づいていたためであろう。

 だから方丈斎は、以前からもしアダミのような、南蛮宣教師が潜伏しているとすれば天草が怪しいと睨んでいた。

 長崎や平戸は確かにキリシタンの多い土地ではあるが、幕府寄りの商人のネットワークが張り巡らされていて、長期間隠れ続けるには向かない土地であるからだ。

 もっともこれが天草ではなく薩摩であれば、発見は困難を極めたはずである。言葉も習俗もあまりに独特な島津領は伊賀者のような忍びにとって鬼門でしかない。すでに手練れの伊賀者が幾人も薩摩の大地に屍を晒していた。

 島津義久がキリシタンに転ばなかったのはもっけの幸いであったといえる。

「さりながら、我々が突き止めたときには一歩遅く、すでに一党は天草を離れておりました」

「なんとっ?」

 方丈斎の視線に怒気だけではなく、はっきりと殺意がこもっているのを察した彦兵衛は、慌てて叩頭して続けた。

「あいや、しばらく! 足取りを追いましたところ、どうやら北前船にて越後へ向かった様子にて!」

 伊賀組において下忍の立場は低い。いかに彦兵衛が貴重な手練れであったとしても、組頭の機嫌ひとつで首が飛ぶ。よいか悪いかではない。それが伊賀者の在り方なのだ。

 彦兵衛もまた、方丈斎がそう振舞うことになんの疑問も感じていない。生まれてきたときから、忍びとはそういうもので、他の生き方を知らないからである。あるいは伊賀の若い忍びが育たぬ原因は、他の生き方を考える余裕のある太平の世の豊かさにあるのかもしれなかった。

「越後に、のう……」

 方丈斎はしばし沈思した。

 北前船が越後を目指したとなれば、その向かった先は新潟港をおいてほかには考えられない。現在の新潟港を治めているのは、堀直寄から越後長岡を受け継いだ幕臣の牧野忠成である。裏でキリシタンを支援しているとは到底考えられない、徳川譜代であり謹厳実直な忠義の男であった。

「――――とすれば、やはり会津か」

 会津の現藩主蒲生忠郷はキリシタンではないと聞くが、先代の蒲生忠行、先々代の蒲生氏郷は歴としたキリシタンであった。また領内は各地の弾圧から逃れてきたキリシタンが、数多く終の棲家として暮らしていると聞く。

 キリシタン弾圧へ舵を切った伊達政宗を頼ることのできない現状、あるいは北上して秋田を目指すという選択肢もなくはないが、やはり会津へ向かったと考えるのが妥当であろう。

「――して、奴らは財宝をどうした?」

 炯々と目を輝かせて方丈斎は尋ねた。

 正しく行方の知れぬ大久保長安の隠し財宝、その捜索のためにこそ彦兵衛たちは九州に送られていたのである。

 それは決して荒唐無稽な根拠のない夢物語ではない。大久保長安の婿であった服部半蔵正重は、積極的に長安の謀反に加担していたわけではなくとも、資金の流れについてはかなり正確な情報を掴んでいた。佐渡金山奉行として、長安の右腕を務めていた正重は、鉱山収入の一部が長安から伴天連へと流れていることを知っていたのである。

 正重が長安に連座して改易され浪人となりながらも、その情報を一切幕府に漏らさなかったのは、凋落していく服部家と伊賀組の主として、せめてもの幕府に対する意趣返しであったのかもしれなかった。

「それが身一つで北前船に飛び乗ったとしか。少なくとも天草から財宝を運び出したという形跡はありませぬ」

「一刻も早う探せ! まさかとは思うが新潟港から佐渡へ渡ったやもしれぬ。そちらも人を送っておくがよい。万万が一にも財宝を奪われるようなことがあってはなるまいぞ!」

「心得ましてございまする」

「行け!」

 彦兵衛の長い腕が松の枝へ伸びたと思う間もなく、弓から放たれた矢のように彦兵衛の身体は闇の宙へふわりと浮かび上がった。そして塀から屋根へ、屋根から屋根へ見事な猿飛の術で、彦兵衛は暗闇に音もなく消えていく。

 そんな彦兵衛の姿を見送って方丈斎は低く呻くように嗤った。

「くくくく……いよいよ現れたか。そうでなくては、そうでなくてはならぬ」

「組頭様、本当にそのジョアン・マテウス・アダミなる宣教師が財宝の在処を知っておるのでしょうか?」

「知っておるからこそ、わざわざ外国とつくにからこの国へ舞い戻ってきたに決まっておるわ!」

 方丈斎は傲然と太助の問いに答えた。疑うことなど考えてもいない即答であった。

 その返答を聞いて危うい、と太助は思う。本来忍びは徹底した現実主義者でなくてはならぬ。むしろ悲観的なほどに常に危険に備えていなくては生きていくことがままならない。それほどに忍び働きというものは過酷なものだ。

 きっとそうであろう、などというのはもっとも危険な予断であり、往時の方丈斎ならば決して口にしない言葉であるはずだった。

「あの大久保長安が亡き服部正重様にも伝えなかった隠し財宝を我らが見つければ――いや、手に入れることができれば、もはや柳生など相手にもならぬ」

 忍びの道は銭の道ともいう。土地よりも銭がものをいうのが忍びという世界である。そもそも伊賀にしろ甲賀にしろ、土地の豊かな場所に忍びが育ったためしはない。

「まさか――組頭様は大久保長安の隠し財宝を独占するおつもりか?」

 今この瞬間まで、太助は方丈斎が大久保長安の隠し財宝手を見つけるという手柄をあげて、柳生の鼻を明かしてやろうとしているのだと考えていた。まさか隠し財産をひそかに横取りしようと考えているなど夢にも思わなかったのである。それはもはや幕府に対する謀反も同然であった。

「人聞きの悪いことを。どうせ隠してあるものを我らが頂いたとて、何が問題だというのだ? まあ、大手柄を手土産に幕閣の歓心を買うのも手ではある。いったい誰の手を握るか、よくよく考えねばなるまいがな」

 得意気に方丈斎は鼻をひくつかせ、老中青山忠俊と土井利勝の対立を利用して交渉することまで匂わせた。

 正しく妄想である。政治的に高度な駆け引きにおいて、伊賀者など老獪無比な老中からみれば男の手管を知らぬ初心な未通女おぼこにすぎぬ。体よくむしられて塵のように捨てられるのが関の山であろう。

 そも、忍びは古来より体質的に政には不向きで、誰かによって命令され使われることに慣れすぎている。ゆえにこそ忍びは歴史の闇に忍んできた。

 まるで毒を飲みこんだような激しい悪寒が太助の肺腑を襲う。

 今や方丈斎は静かに狂気に身を浸していた。気がつかなかった。いったいいつから? 正重が改易にされたときか? あるいは柳生宗矩が将軍家の兵法指南役に就任したときか? 

 もしかすると百万両を超えるという想像を絶する金の持つ魔力が、老人のそれまで胸の奥に隠していた狂気を限界を超えて増幅させたのかもしれない。

 衰退する伊賀組と柳生忍軍の隆盛、そして服部家の没落と新たな藩主となった藤堂高虎支配のもとで変容していく故郷伊賀。そうしたままならぬ現実が、岩を激流が侵食するように、少しづつ時間をかけて方丈斎の心を壊していったのだと太助は悟る。

 方丈斎といえば、伊賀の陣術――小規模の集団による奇襲――の第一人者と言われた男で、その手腕は対織田戦にも如何なく発揮されてきた。彼の指揮する伊賀組は千人の兵に勝るとすら言われたのである。その方丈斎が伊賀組の行く末を思うあまり狂気に陥るほど、もう手の施しようがないほどに伊賀組は追いつめられていた。太助は知らなかっただけで、もっとずっと以前から伊賀組は凋落著しく、完全に幕府の信頼を失ってしまっていた。

 すでに大坂の陣が終結して以来、幕閣の誰一人も伊賀組を秘事を託すことのできる存在として認識していない。精々が体のいい駒であった。

 しかしそんな方丈斎たち組頭をまとめ、再び伊賀組の栄華を取り戻すべく政治的暗闘を引き受けてくれるような頼もしい後ろ盾はもういなかった。そもそもなる必要がなかった。伊賀組には服部中保正のもと、ただただ下級官吏として日々の雑務をこなしていくことだけが求められていた。隠し財宝などという夢のような話にすがらなくては、希望すら抱くことができないというのが今の伊賀組の哀しい現実であった。

 ――――だが過ぎた大金というものは薬ではなく毒にしかならないものだ。落ち目で後ろ盾もない伊賀組が、せっかく莫大な財宝を手に入れても、間違いなく毒にしかならぬ。それがわからぬほどに方丈斎は耄碌している。太助は正しく絶望した。

「蒲生家は甲賀組とつながりが深い。奴らの監視も怠るなよ?」

「か、かしこまりました……」

 反射的に方丈斎に向かって叩頭した太助は懊悩した。

 方丈斎に背くことはできなかった。できないように幼いころから躾けられていた。かといって破滅にまで付き合いたくはない。それどころか内心では今すぐにでも逃げたかった。

 若頭である太助がそう思ってしまうこと自体が、太平の世で忍びという種族が滅びゆく過程のひとつなのかもしれない。

 すでに柳生は新たな時代の忍びの形を受け入れている。柳生宗矩はいずれは柳生が忍びでなくなることも覚悟していた。そのための道筋もつけている。しかし伊賀組はその変容を受け入れようとはしていなかった。それが滅びへと向かうものだとしても、断じて受け入れることはできない。たとえ現実から目を背けても、である。

 ――――それが古き伊賀忍者が最後に見た夢の泡沫であった。







「岡殿」

 猪苗代湖の湖畔で、定俊はのんびりと釣り糸を垂れていた。

 磐梯山に陽が傾きかけた夕暮れ時、城を抜け出しては志田浜のほとりまで馬を飛ばし、息抜きに釣りをするのが、このところの定俊の習慣であった。

 湖畔は鯉も釣れれば鮒も釣れるという魚の宝庫だが、定俊はなかでもワカサギがことのほか気に入っている。猪苗代湖のワカサギは型が大きく、身が締まっていて酒の肴に相性がよかった。別して氏郷が招き入れた甲賀職人の甲賀味噌で焼いたワカサギがたまらなく旨い。紅く香ばしい辛口の味噌によく合うのだ。

「何事かな? 田崎殿」

 莞爾と笑って定俊は重吉に隣に座るよう促した。その定俊の余裕が、重吉にはたまらなくいらだたしく思えてならなかった。

 重吉がこれほどいらだつのには理由がある。

 先日、アダミがうっかり暴露してしまった百万両について、定俊はその後一言たりとも追及しないのである。そんなことは重吉の常識ではありえぬことであった。

 あるいは捕えられ、拷問されることもありうると身構えていたにもかかわらず、肩透かしを食った格好である。いったい腹の内で定俊が何を考えているのか、考えれば考えるほどわからず思考の迷子になってしまうばかりであった。

 そもそも重吉自身が百万両の香りに吸い寄せられるようにして、アダミから離れられなくなった男なのである。それなのに百万両などどこ吹く風と、定俊に素知らぬ顔をされると、自分が急に薄汚れた人間になったような気がしてしまうのだ。

「いい風だな。極楽の余り風というやつだ」

 湖畔を吹き過ぎていく涼風に定俊は目を細める。磐梯山から吹き降ろす風が、猪苗代湖の湖面に冷やされて気持ちの良い温度になっていた。冬ともなれば視界も利かないほど猛烈な吹雪を生み出す厄介な風だが、夏の蒸し暑さのなかではこのうえない正しく極楽の心地である。

「なぜそうも平然としていられるのです?」

 咎めるような、どこか拗ねたような面持ちで重吉は定俊の右に腰を下ろした。

 自分には無理だった。ほんの偶然からアダミと藤右衛門の会話を聴いてしまってから、半ば憑かれたように強引に同行を申し出た。

 百万両という大金があれば何かを成せる。重吉のような取るに足らぬ素浪人でも、キリシタンの同胞のために、なにがしかのことを成せるのだと信じた。

 もちろんそれだけで簡単にキリシタンの王国が建設できると夢見たわけではない。しかし信じられる同志たちと、百万両を有効に使うことのできる強い後ろ盾を得ることができれば、幕府にだって対抗できる。そう重吉は信じて疑わなかった。

 だが、今その確信が揺らいでいる。人としても、武士もののふとしても遥かに格が上の定俊による無慈悲な断言と態度によって。

 自分にはあまりに分不相応な高望みだったのではないか? 歴戦の武士には自分は子供が背伸びしているような愚かな男に見られているのではないか? 先日以来そんな疑念がぬぐえないのだ。その証拠に、では百万両でお前は何をすると問われれば、商人との伝手もない、大名との面識もない重吉にできることは非常に限られていた。いったいお前に何ができる? と問われれば信仰のために命を捨てる意気込み以外に返す言葉がない無力なままの自分がいた。

 関ケ原ではまだ十七歳の若造に過ぎず、戦のなんたるかなど思いを巡らす余裕などなかった。ただただ隣の足軽とともに走って、退いて、喚き、最後には味方を捨てて逃げ出した記憶があるだけだ。

 もっともそれは、敗軍の兵士としてはまだ上等の部類に入ることを重吉は知らない。

 はたして定俊が自分をどのように評価しているか、いささか卑屈に考えてしまうのも無理からぬところであった。

「――――神デウスは愛である、と宣教師パードレは言う」

「はぁ」

 突然定俊が言い出した台詞に、重吉は鼻白んだ。何をわかりきったことを、と挑むような視線を定俊に向けるが、定俊は意にも介さぬように視線を釣竿の先に向けたまま続けた。

「あのアダミ殿であれば、公儀ですら愛せよというだろう。あの方は本物の聖人だ。自分を処刑しようとする役人を何のためらいもなく許す、と言えるお人だ。あの方の言うキリシタンの王国とは、ただただ同胞を守りたいという心の現れにすぎない」

 汝の隣人を愛せよと神デウスは語る。そして右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさいと説く。慈悲深い神の教えではあるが、定俊は自分がキリシタンであっても従えないものには従えない。

「俺は武士ゆえ、戦いもせず敵に黙って首を差し出すような真似はできん。公儀が同胞を処刑するつもりなら、弓矢をもって正々堂々討ち死にするまで戦う覚悟がある。しかしアダミ殿は戦うことを是とするまい」

 アダミのような信徒にとって殉教は誉ほまれだ。だから自分が死ぬことを微塵も無念とも恨めしいとも思わない。

 しかし定俊のような武士にとって、それは容認することのできぬ逃避であった。自分に対する裏切りといってもよい。戦う理由と覚悟があるならば、戦って戦って死ぬまで意地を貫くのが武士の誇りであり本能であるはずだった。

「要は戦うことはすなわち神の教えに背くということよ。だが、たとえそうであっても俺は戦うだろう。死して神に教えに背いたことを断罪されるとわかっていても、俺は死ぬその瞬間まで武士であり続ける。なんとなれば、この岡越後守定俊は武の者であるからだ」

 一息でそこまで言って定俊はいたわるように重吉を見た。戦無き世を彷徨う一人の青年武者に対する憐憫がその瞳にこめられていた。重吉もまた、武士であるゆえに死に場所を失った男なのだ。

「人にはいくつもの顔があるものよ。あのアダミ殿とて例外ではない。それは男であり、父親でもあり、家臣でもあり、キリシタンでもあり、武士でもある。その顔はすべて真実だが、すべてが本性というわけではない。いったい己が何者であるか、まずは己の本性を、心の裏側を覗きなされ」

 定俊にそう言われた瞬間、重吉は背筋が寒くなるような悪寒に襲われた。見てはならない、覗いてはならないと本能がしきりに警告を発していた。それを知ってしまったら最後、永久に自分が穢れてしまうような気がした。

 それは重吉自身が求めてやまなかった名声への憧れ、主を失い一介の素浪人となった自分でも、この世になにがしかを成して生きた痕跡を残したい、という脂ぎった野心と欲望を察したゆえの防御的な反応であったのかもしれない。

「主デウスは信仰を守るために戦うことを決して否定なされませぬ!」

 これ以上考えることを放棄して、重吉は悲鳴のように叫んで立ちあがった。信仰を守るために、かよわき同胞を守るために、天草から奥州までやってきたのが、実は己の浅はかな欲望のためであったなど認められるはずがなかった。そんなことがあってはならない。

「それでもよかろう。結局は百万両など、己の生き方の道具にすぎないのだ。自分が一体何がしたいのか、それがわかれば銭を利用する術もわかるであろう」

 重吉は定俊に返事をせずに、脇目もふらず駆け出していた。定俊の問いに答える自信が、今の重吉には持つことができなかった。まして己の本性などわかろうはずもない。

 信仰の敵を相手には命をも恐れぬ若者が、ただただ定俊を恐れて一心不乱に逃げた。足が動くかぎりに走り続けた。

「おう、若い、若い」

 それを見つめる定俊の目はどこまでも穏やかで楽しげである。立身出世結構、自己顕示欲結構ではないか。それを恥ずかしいと感じてしまうのは、つまるところ己の矮小さを認めているというだけのことにすぎぬ。

 逆にいえば、若さとは自分の大きさをまだ知らぬがゆえにどんな大きな夢でも持てる。いや、大きな夢を持たずして何が若さか。いやいや、何の、この定俊とてまだまだ若い。

「一生に一度くらいは、百万両を並べて転がるのも乙なものよな。一笑一笑」

 呵々と笑う定俊の前でつぽん、と浮きが沈み、間髪入れず針を合わせると、五寸はありそうな見事なワカサギが水面から飴色の腹を輝かせて、ぴしゃり、と飛んだ。





 甲賀の里からおよそ三里ほど離れた、蒲生家発祥の地日野、その東のはずれにある竜王山の奥まった山腹に粗末な庵が結ばれている。

 もっとも見る者が見れば、すぐにそこが単なる庵などではないことがわかっただろう。

 巧妙に敷き詰められた砂利と落ち葉が、来るものの接近を知らせる自然の結界となり、猿飛の術を使おうにも庵の周辺の木々は背の低い柊や楓ばかりで占められている。しかも忍びだけに通じる笛と、糸を連動させた警戒装置も張り巡らされていて、庵の小さな格子戸には半弓が常備されているという用意の良さであった。

 まず敵意を持った忍びが襲撃してくるとすれば、近づく時点で半弓で迎撃され、さらに軒下に隠された槍落としや巻き菱に襲われることになる。

 そんな一見、鄙びただけの小さな庵を訪れる一人の影があった。

 勝手知ったる、という風情で、無造作に庭に足を踏み入れるが、驚いたことに落ち葉の上を歩いても、足音が全くといってよいほどしない。達人と呼ばれる領域で完全に体重移動を制御している証拠であった。

「――また腕をあげられましたか」

 ガラリ、と格子戸を開け、小さな老人が男に明るく声をかける。

「ほう、御爺に褒められるのはいつ以来のことか」

 年のころはおよそ四十に届くかどうか。濃いもみあげと団子鼻がなんとも愛嬌を感じさせる男はくすぐったそうに笑った。

「よき頭領になられました」

「そうかな? 父の大きさを超えられぬ不肖の息子な気もするが」

 苦笑して鼻の下をこするこの男こそ、甲賀組佐治家の頭領、佐治氏長その人である。だがその笑顔はどこか寂し気でもあった。せっかく御爺に褒めてもらったこの技も、近い将来失われゆくものであることを知っているからだ。

 甲賀の山野の夜を支配した忍びの技は、氏長の子、遅くとも孫の代にはほぼ完全に失われるだろう。たとえ技術は教えられても、それが実戦の場で使用されることがなければ、いずれはただの形式に落ちるからである。かつて芸の領域まで高めた名人たちを――目の前の老人もその一人だが――知るだけに氏長の失望は大きかった。

「――――八郎は息災か?」

「おかげさまで、すっかり爺も隠居の気分でございます」

「ほう、それほどか……」

 氏長は老人の言葉の真の意味を間違えなかった。老人が隠居を口にするということは、八郎の腕が老人の腕を上回ったということなのに違いない。

 老人の名を鵜飼藤助という。関ヶ原の戦いでは西軍の伏見城攻略に功績があり、関ヶ原の敗北に伴い、主君である長束大蔵大輔正家と命運を共にしたはずの男であった。三河の国上ノ郷城を落城させた伝説の甲賀忍者、鵜飼孫六の息子であるとも伝えられる。また後に島原の乱で活躍した甲賀忍者の鵜飼勝山は同じ一族の出で、年の離れた又従兄弟である。

 伏見城攻略においては、長束正家の命を受け鳥居元忠とともに籠城していた甲賀衆の調略にもあたったことから、徳川家康の藤助に対する怒りは甚だしく、甲賀組にとって絶対に死んでいてもらわなければならない爆弾のような男であった。

 ――と、いうより公式の記録みならず同胞の甲賀組の間でさえも、すでに藤助は死んだものとして疑う者はいなかった。

 その藤助が、名を角兵衛と変えてこうして日野に隠棲していられるのは、彼が甲賀でも一、二を争う術者であったため、彼の腕を惜しむ一部の協力者から強力な支援を得ることができたからだ。

 忍びとしての衰退は決して伊賀組だけの問題ではない。むしろ甲賀の衰退のほうが早いとさえ言えた。

 甲賀組の多くは山岡景友に率いられ、幕府に仕える代わりに故郷甲賀から切り離された。住み慣れた故郷を離れることを拒み里に残った仲間たちは、太平の世となり働き口を失ってそのほとんどが忍びを辞め帰農している。

 後のことになるが帰農した甲賀忍びの一部が雇用を求めて幕府に直訴するも、一時金を支給されただけで追い払われてしまうという事件がおこる。もはや古い忍びを必要としない世の中に、彼らの居場所はなかったのである。

 不幸中の幸いは、甲賀の土地が伊賀よりはまだ肥沃であったことだろう。甲賀忍びの多くはそのまま帰農して日々の暮らしに埋没し、ついに忍びの技をもって世に出ることはなかった。

 柳生忍軍と違い、故郷を領地として維持できなかった伊賀組と甲賀組が、故郷という修行の場、すなわち活力源を失い、零落していくのは半ば確定した運命のようなものであった。

 ――しかしその現実が許せない男がいた。

 それが庵を訪れた氏長の父にしておりくの伯父、佐治義忠その人である。甲賀二十一家のひとつ佐治家の当主である義忠は、ある日ふらりと江戸青山甲賀町よりこの地を訪れ、逃亡生活を送っていた藤助に一人の少年を託した。その少年が八郎である。

 失われゆく甲賀の技を後世に受け継ぐべきいくつかの種のひとつとして、角兵衛と八郎は選ばれたのである。

 甲賀でも指折りの実力者であった藤助の薫陶を受け、八郎は土が水を吸うように見事な成長を遂げた。

 この八郎の才には藤助――今は角兵衛を名乗っている――のほうが夢中となった。素直で優秀な弟子ほど可愛いものはない。巷に忍びに情は必要ないといわれるが、逆である。非情をもって旨とする忍びだからこそ、師弟の間の絆は武士や庶民よりよほど強いとすらいえるだろう。命を懸けて技を磨き技とともに生きていくからこそ、忍びの師弟の絆は時として家族に勝る。

 残り少ない寿命を、角兵衛はすべて八郎に捧げる覚悟であった。

 角兵衛の得手とするのはなんといっても不正規戦である。父鵜飼孫六は配下の忍びを率いて城へ忍び込み、放火と奇襲で城を陥落させたという伝説を持つ男だ。

 その術理は角兵衛へも脈々と受け継がれている。

 なかでも角兵衛の十八番が印地打ちであった。地味ではあるが、古来より合戦の場でも用いられた戦闘技術で、要するに投石のことである。甲陽軍鑑にも武田軍内に投石専門の部隊があったことが記されているとおり、戦国にあってはよく知られた技術であった。

 忍びといえば手裏剣や苦無といった飛び道具がとみに有名であろう。しかし現実にその武器は衣装に隠し持つには大きすぎる。そのためわずかな量しか持てないうえ、その辺で売っているわけでもないから、一度使ってしまえば再び手に入れることは難しい、と実はなかなかに使い勝手の悪い武器であった。その点、石ならばどこでも拾えるからいくら投げても補給には困らない。

 そして投石のもうひとつの利点は、殺気が伝わりにくいということだ。

 人を殺傷するために作られた刀や苦無などには、殺気という気配が宿ってしまうものである。これは実際に体験してみないと説明のつかぬものだが、なぜか不思議とそうなるのである。忍びが熟達し神経が研ぎ澄まされていくと、こうした気配にはひどく敏感になり、角兵衛のような達人は目をつむっていても飛来する手裏剣を杖で叩き落すことができた。

 ところが本来野の物である石となると、なぜかその勘働きが鈍くなるのだ。特に殺意を意識から滑らせ、ただただ的に当てるという感覚で放たれた投石は、たとえ達人であっても完全に防ぐことは難しい。

 また石の形は千差万別で、用途に応じて投げ分けると、忍びが体験してきたいかなる手裏剣とも違う常識の外の動きをするので、印字打ちは地味にみえて実は恐るべき術理なのだった。

 太平の世となり、ほとんど甲冑を着る機会も少なくなった現在では、印地打ちの有用性はさらに高まったといえるだろう。

 今や甲賀随一の手練れはほかならぬ八郎であろうと思ってしまうのは、師匠としての角兵衛の欲目であろうか。

「重畳、というべきかな。先代もお喜びになるであろう」

「天地に身の置き所のない老人に、このような楽しみを与えてくださいましたこと、先代には感謝の言葉もございません」

 真実、角兵衛はそう思っていた。仕え甲斐のあった主君長束正家が切腹した際には、追い腹を切ろうと思ったこともあった。どうせ徳川の世では生きていけぬ身の上である。もし正家が角兵衛に逃げるよう命じなければ、実際に腹を切っていたやも知れぬ。

 正家の死後は生ける屍と化して、なんのためにこれから生きるのか。どうして正家は生きよ、と自分に命じたのか、そんな自問を繰り返す日々だった。

「とりわけ印地打ちに関しては、到底爺の及ぶところではございませぬ。まことに惜しい、戦国の世に産まれていればどれほどの活躍をしたことか」

「――血は争えぬな」

 ぽつり、と氏長が零すのを角兵衛は氷柱を背中に差し込まれたような驚きの目で見た。八郎は両親を亡くした下忍の子供だと氏長に教えられていたからだ。もっとも、八郎のあまりの成長の速さに、これが只者であるはずがない、とも思っていた。確信していたといってよい。そういう意味では氏長の独語は、角兵衛の予想通りであったともいえる。

「埒もないことを言った。速く忘れよ」

「御意」

 だからといって角兵衛は八郎の実の父親を問いただそうなどとは思わない。そもそも問うたところで氏長が話すはずもなかった。話せるくらいなら、最初から話していたほうが厄介が少ないに決まっているのだ。

「御爺、今日は雉と兎が取れたで、頭領も楽しみにしておくんなさい」

 二人は期せずして愕然となって振り返った。

 そこにはいかつい角ばった顔つきの割に瞳だけがつぶらな青年が、人好きのするなつこい笑顔を浮かべていた。八郎である。

 驚くべきは、その八郎が声をかける瞬間まで、甲賀流の手練れ中の手練れともいうべき二人が全く気づかなかったということだ。気配の消し方が尋常のものではなかった。

「これ八郎、悪戯をするでないわ!」

「ごめんよ御爺」

 少しも悪いと思っていないような顔で、八郎は素直に頭を下げる。

(こいつはとんだ化け物だ…………)

 氏長は戦慄した。庵の結界を突破した自分の技など鼻で嗤いたくなるような技量であった。先刻の声をかけられた瞬間、もし八郎に殺意があれば氏長は死んでいただろう。弱体化著しい甲賀忍者のなかでも、十指には入ろうかと自負する氏長が、である。

 同時に氏長もまた、角兵衛と同様に八郎の腕を惜しいと思った。願わくば乱世華やかなりしころに生まれ出ておれば、八郎は果心居士もかくやというほど名を馳せたかもしれなかった。



 その夜は宴となった。

 甲賀者の――伊賀者もそうだが――宴は騒がしいことがよいことだと思われている節がある。大声で笑い、楽しければ踊り、興が乗れば芸を披露して、共に心ゆくまで騒ぐのが彼らの、忍びの宴なのだった。

 先ほどの雉は鍋となり、兎は串に刺されて囲炉裏で焼かれた。さらに椎茸やハタケシメジの吸い物も用意されていて、氏長は角兵衛の料理の腕に舌鼓を打っていた。

「やあ、飲め飲め!」

「御爺、もう酒がなくなるぞ? 蔵を開けてよいか?」

 このときとばかりに残り少なくなったどぶろくの入った徳利をちゃぷちゃぷと音を立てて振りながら、八郎は角兵衛に強請るように言った。

「おう、好きなだけ持ってこい! 今宵は遠慮無用ぞ!」

 今夜ばかりは角兵衛も気前がよい。人知れず消えていくことを義務付けられている角兵衛にとって、こうして来客をもてなす機会など本当に限られているからだ。出し惜しみなどするつもりなど毛頭ない。

「栗酒もか? うひゃひゃひゃ! これなら毎日頭領様に来ていただきたいわ」

「調子に乗るでないわ!」

 満面に笑みを浮かべて、飛ぶように八郎は庵の裏手にある土蔵へと向かった。角兵衛が怒鳴ったときにはすでに姿がない。正しく瞬足の身のこなしである。

 どぶろくだけではなく、蔵の奥には角兵衛秘蔵の梅酒や栗焼酎が寝かされている。特に角兵衛手製の栗焼酎は出色の出来で、栗の香ばしさと柔らかな甘みとが混然一体となった逸品であった。それは八郎でも滅多に味わうことのできぬ本当にとっておきの品なのである。

 これには氏長も一口飲んだ瞬間に感嘆の声をあげた。

「なんと! これは見事な味ぞ!」

「御爺の栗酒だけはどうしても真似できんのです」

「わはは、こればかりは年の功というものよ!」

 半刻ほど飲み続けて、かなり酔いが回った氏長はやや呂律の危うい声で言い放った。

「よし、興が乗った! 一指し舞おうぞ!」

 ぐい、と盃を空にした氏長は、盃を天に放り投げ、腰の扇子をパッと広げて立ち上がる。

 するとどうだろう、盃がまるで桜の花びらのように扇子に扇がれて、ヒラヒラと宙を泳ぐではないか。

「おおっ!」

 大振りの盃で梅酒を飲み干した八郎は、その幻想的な光景に驚愕して叫びを発した。 

 氏長の使っている手妻がどんなものか、八郎も全く見破ることができない。さすがは佐治家の頭領、単に白兵戦闘以外だけでなく、八郎の知らぬ引き出しを数多く所有している。

「お見事! 爺もご相伴いたしましょうぞ!」

 こちらも八郎と同じく感激した角兵衛は、小刀を二振り逆手に取ると、目にも止まらぬ速さで舞うように蝋燭を切り落とした。

 ところが切り落とされた蝋燭は、消えるどころか四つ、八つに分裂して、まるで小さな人魂のように浮遊して、盃の周りを照らし出すではないか。

 八郎は、角兵衛が初めて見せる手妻に正しく瞠目した。

 なんと玄妙でなんと美しい光景であることか。血なまぐさく、泥臭く、残酷な忍びの術に、これほどに儚く美しい術があったのだ、と八郎は素直に感激したのである。

 達人は達人を知るという。八郎だからこそ、氏長と角兵衛が見せる不可思議な光景が、いかに超絶の技巧をこらしているか、察することができたのだ。

 妖術やまやかしのように見えても、そう見せているのはあくまでも二人の技量の高さであり種があり仕掛けがある。その技量にこそ人は恐怖し、忍びは妖しの術を使うと噂された。

 江戸後期の読み本に登場する蝦蟇の妖術使い児雷也じらいやこそ、一般的な庶民が忍びに抱くイメージそのものであろう。

 そんなあやふやでおどろおどろしいものではない。忍びの世界はこんなにも奥が深いのだ、美しいのだと二人が教えてくれていることを八郎は察した。

 このところ師である角兵衛を超えた、と天狗になっていた八郎は、ただただ二人の美しい幽玄の舞に見蕩れた。なぜか眦から透明な涙が流れて、自分でもそうとは気づかぬままに、いつしか八郎は嗚咽していた。

 美しさへの痺れるような感動と同時に、子供が親に置き去られるような痛切な寂しさが八郎の胸にこみあげたのだ。

 角兵衛も氏長もうすうす自覚していることだが、これは滅びゆくものの美しさである。滅びゆくものから若きものへ向けた惜別の贈り物なのであった。戦国の甲賀忍者が培ってきた大輪の華を、せめて八郎の記憶に残したい、否、残りたい、願わくばそのかけらなりとも後世に受け継いで欲しいという老いた忍びたちの最後の思いであった。もうこの太平の世に、忍びの華が咲くことはないことを角兵衛も氏長も承知していた。

「馬鹿野郎、泣くやつがあるか」

「飲め飲め! 今宵はめでたい宴ぞ!」

「ありがたきことにて」

 角兵衛に肩を抱かれ、八郎は浴びるように酒を喉に流し込んだ。もちろん、角兵衛も氏長も、後先を考えずに痛飲した。足元が覚束ないほど激しく酔うのが、心を許した甲賀者同士の礼儀であった。



 飲みも飲んだり、一刻半も経つころには、自慢のどぶろくと梅酒は飲みつくされ、秘蔵の栗焼酎と芋焼酎も残り少なくなろうとしていた。

 三人ともへべれけに酔い、もはやまともに座っていることもままならず角兵衛は腕枕に横になり、八郎はだらりと両足を伸ばして土壁に身を預けている。比較的氏長は威厳を保っていたが、それでも顔は焼けたように真っ赤で、瞼は今にも眠りそうなほど垂れ下がっていた。

「――――時に二人に頼みがある」

 なんとはなしに、月を見上げながら氏長はぽつりと言った。

 酒の席の頼みとは、すなわち佐治家頭領の命令ではなく、佐治氏長一個人としてのお願いだという意味である。

 間髪を入れず角兵衛はするりと答えた。

「なんなりと」

 個人での頼みには相手方には断る権利がある。それを恨みに思うようでは甲賀者ではない。それでもなお、角兵衛は内容も聞かず受けると決めていた。無言で八郎も頷く。氏長が理由もなく、理不尽な願いをするはずがないと信じていた。

「困った奴らだ。少しは考えろ」

 実際困ったものだが、氏長の心は爽やかでほのかに甘い清水のような清々しさに満ちていた。まっすぐな信頼が、逆に続く言葉をためらわせるほどだった。

「――実は猪苗代にいる従姉が助けを欲しがっている」

「ほう、おりく様が」

「なぜかは知らねど、大事なのは間違いない。なんとなればつい先日から伊賀組の目が甲賀組から離れぬ」

「伊賀組が? 柳生ではなく?」

 角兵衛は驚いて問いかえした。伊賀組と甲賀組はもともと祖を同じくする古い共同体の仲間であり、甲伊一体ともいう。柳生の台頭によって冷や飯を食わされている者同士であったはずだ。わざわざ敵対する理由がなかった。

「左様、どうやら俺の知らぬ裏があるらしい。そんなわけで表の甲賀者は動かせぬ」

 本来力を合わせるべき味方の甲賀組を監視するなど、まともな思考では考えられぬことであった。よほど探られたくない裏があるとしか考えられない。

 かといって、今の甲賀組に伊賀組の監視の目をかいくぐり、その裏を探り出すほどの腕利きはすでにいなかった。氏長をもってしても無理であろう。もともと伊賀組のほうが甲賀組より倍近い数がある。腕が互角であれば、数の差はそのまま力の差であった。

「なるほど、確かに我らの存在は伊賀組には知られておりませぬな」

 いわば角兵衛と八郎は甲賀組の隠し札だ。その存在は甲賀組の主だった面々すら知らない。まして伊賀組が知るはずがなかった。だからこそ氏長は、危険を推してわざわざ角兵衛たちに直接頼みに来たのである。

「ただの探り合いでは終わらぬ。おそらくは伊賀組と戦うことになるぞ」

「まっことまっこと重畳至極!」

 氏長の言葉に、好々爺然として枯れた角兵衛の雰囲気が一変した。全盛期には及ばねど、正しく戦う忍びの容貌であった。失われかけていた覇気が全身に漲るかのようである。

「御爺、血の気が多すぎじゃ」

「かかかっ! 関ケ原の折、爺が戦ったのは伏見ばかりではないぞ! 道々で畿内で狼藉しようという伊賀者とどれほど干戈を交えたことか!」

 鵜飼藤助といえば伏見城の調略と放火の活躍が有名だが、長束正家の命令で安濃津城攻めにも参加しており、それどころか一時は大和の国に家康が上陸したと流言を流していた柳生忍軍とも対決している。

 殺戮した忍びの数は両手でも数え切れぬほどだ。

 そうした意味では、ある意味藤助は徳川に仕える忍びにとっては天敵、というより怨敵といえるだろう。

 すでに齢七十を超え、忍びとしての戦闘力は全盛期の半分にも満たぬ。それでも戦いを求める気持ちはどうにも抑えられなかった。

 たとえ全盛期ではなくともまだ自分は戦える。その確信が角兵衛にはある。

 今の忍びはもっぱら諸藩の動向を探ることを使命としているが、それは忍びが持つ働きのひとつにしかすぎない。とりわけ、戦国の世の忍びの本分は情報収集よりも戦うことにあった。ともすれば堂々たる合戦の最中ですら、奇襲や暗殺を試みるのが忍びという闇の戦士の業であるはずだった。

 歴史の表面に出ないだけで、戦場で討ち死にした武将のうち相当数が忍びによる暗殺であることを角兵衛は知っている。

 生き延びるために日野の山奥に隠棲したものの、天下人に歯向かった戦国の忍びである角兵衛の忍びとしての本能はずっと戦いを求めていた。ようやく人生の最後を飾る戦いの舞台を得たと角兵衛は信じた。

「八郎はそれでよいのか?」

「俺も御爺に仕込まれた技がどこまで通じるか見てみたいよ」

 屈託なく明るい声で八郎は言う。

「全く、お前らといると事の深刻さを忘れるわ」

 角兵衛は師として八郎の腕は天下に通じると言ってくれる。しかし八郎は今まで一度もその言葉を実感したことがない。

 日野の山中でほとんど世捨て人同然の生活を送っていてはそれも当然であった。だから腕試しの機会を望まなかったといえば嘘になる。八郎はまだ若い。若いということは勝利に飢えているということでもある。かつて八郎と同様、若かった日を思い出して氏長は苦笑した。

 自分の甲賀の忍術こそ天下一、伊賀者ごとき何するものぞと粋がっていた時期が、かつて氏長にもあった。

「やれやれ、お願いしにきたというのに、これでは逆にせっかくの楽しみを奪われたような気がしてきたぞ……」

 許されるなら氏長も二人とともに戦いたかった。心ゆくまで鍛え上げた忍びの技を披露して死にたかった。ふと、そんな気持ちにさせられるのは、子供のように瞳を輝かせる角兵衛と八郎を見たからだろうか。

「それにしても、蒲生家中は内紛が激しいとはきくが、伊賀組は何をそんなに入れ込んでいるのか……」

「おりく様はなんと?」

「それがまだわからん、とよ」

 氏長もまさかその言葉を本気で受け取っているわけではないが、おりくにとっても不測の事態であることは間違いないことらしい。いかに日本有数の忍びである彼らにも、キリシタンが秘匿する大久保長安の隠し財宝百万両というのは想像の埒外にあるものであった。

 いずれにせよ、今、定俊の治める猪苗代は、伊賀組と黒脛巾組、そしておりくに角兵衛と八郎を加えた甲賀組が鎬を削る血戦の地となるのは確定した未来となったのである。





 奥州への玄関口となる白河口を過ぎると、猪苗代まではおよそ四日ほどの距離である。 

 能因法師が『都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関』と呼んだみちのくの入り口、白河は、同時に蒲生領への入り口でもあった。

 小峰城を起点として宇都宮から続いていた奥州街道は、仙道を北上して須賀川方面へ向かう道と、天栄を経由して田島へ向かう脇道に分かれている。

 白河城下の旅籠に、江戸からやってきたという三人の高野僧が宿泊していた。

 年のころはすでに三十を超えているであろう。修行僧としてはいささか年配の部類に入る。

 三人とも精進潔斎のため肉の落ちやすい修行僧にしては、なかなか良い体格に恵まれていた。とはいえ、山野で修行の日々を送る僧たちのなかには体格に恵まれた者も少なくはなかったので、少々珍しいという程度である。あえて不審に思った者は皆無であろう。

「オンソワハンバシュダサラバダラマソワハンバシュドカン」

 朝のお勤めらしき真言を口ずさみ、僧たちが印を結ぶと、旅籠の主人はありがたそうに僧へ向かって手を合わせる。奥州には坂之上田村麻呂の蝦夷討伐以来、弘法大師ゆかりの説話が多く真言宗の信者が多いのである。どうやら旅籠の主人もその一人であるらしかった。

 三人の僧は、まだ朝靄も晴れぬ早朝から、挨拶もそこそこに旅籠を出ると、二本松方面へと足を向けた。

 そのまま白石まで北上を続ければ、蔵王権現を祭る奥州の一大霊地である蔵王山がある。修験道者が全国各地から集まっており、この地を目指す密教僧も数多い。それを彼らはよく承知していた。

 ――彼らは方丈斎配下の伊賀組同心である。見事に僧になりきってはいるが、しなやかに発達したふくらはぎや、武器使用の要となる後背筋の盛り上がりは隠せない。

 彼ら以外にもすでに三つの衆が岩代入りしているはずである。

 衆というのは実働部隊の最小単位で、一般に三人から四人で構成されている。伊賀組は四つの組からなっており、一つの組は四つの番で構成されていた。さらに一つの番は四つの衆で構成されている。最終的に会津方面に投入される予定の戦力は二つの番であり、これは方丈斎が掌握する全戦力の半数に相当した。これは他の任務に支障をきたさない限界に近い戦力であった。

 万が一彼らを失うようなことがあれば、方丈斎は伊賀組として果たすべき任務に深刻な支障をきたすことは確実であり、すでに複数の同じ伊賀組の仲間までもが、方丈斎の行動に不審の眼差しを送っているのが現状である。方丈斎が組頭のなかでも最古参であったから、今はまだ見逃されているに過ぎない。いずれ成果が出せなければ、否、出せたとしても方丈斎に追及の手が伸びるのは確実であった。

 相当に危険な橋を渡っていることは方丈斎自身にもわかっていた。それでも、ここで手を引くという選択肢は方丈斎にはない。

 降ってわいたような百万両という途轍もない金の魔力は、忍びにとってもっとも危険な、夢、というものを方丈斎に見せてしまった。夢を見た忍びは遠からず必ず破滅する。それがわかっているのに、夢を見ている間はそれが夢であることを自覚できないのが夢のもっとも性質たちの悪いところであろう。

「猪苗代は甲賀者の縄張りと聞く。気をゆるめるなよ」

 衆を率いる頭の男、与兵衛は訥々と誰に言うともなく呟いた。

 当年とって三十八となる与兵衛は、かろうじて戦国の忍び同士の熾烈な暗闘を経験している。

 江戸青山の甲賀組はこの企みに手出しせぬよう監視されているとはいえ、蒲生家に古くから雇われている甲賀者はその指揮からは離れていると言われていた。

 忍びが己の縄張りを侵されれば、そこで戦いになる可能性は高かった。

 群れからはぐれた忍びは、根無し草の役立たずか、よほどの腕利きのいずれかである。しかし割合的には腕利きである確率は相当低いといえるだろう。そもそも腕利きの忍びは数自体が少ないうえに、太平の世にはいささか金がかかりすぎる使い勝手の悪いものとなっていた。

 たかが田舎大名の雇われ忍びなど、たとえ腕利きが相手でも敵ではないと心ひそかに与兵衛は思っている。初陣で参加した北条征伐で、風魔党と戦って以来、彼らを凌ぐ忍びの集団など与兵衛は見たこともなかった。

 もう国人たちが己の所領を守るために不正規戦に備える時代は終わった。それは忍びが戦ではなく情報収集の役割しか与えられなくなったことを意味していた。武士と同じく、戦っていない忍びの技術はたちまち廃れる。地方大名お抱えの忍び集団の衰退は、与兵衛が予想したよりもずっと早かった。

 かつて伊賀としのぎを削った風魔党や武田の甲州忍びのような、一瞬のスキが命取りとなる恐るべき雄敵たち。そんな忍びはとうに死に絶えてもはやどこにも存在しないかもしれぬ、と与兵衛は思う。

 少なくとも各地での忍び働きで、与兵衛は忍び同士の戦闘で死を覚悟するほどの相手と出会ったことがなかった。今や忍びにとって、勘働きのよい関所の役人のほうが忍びよりよほど恐ろしい相手になろうとしていた。幕府という後ろ盾を得ている伊賀組ですら、元和偃武以来、忍びの腕の衰退は隠しきれないのである。

 配下の二人のうち一人は、本格的な戦闘経験がなく、与兵衛に言わせればひよっこであった。おそらく彼が腕を磨くべき戦はもう二度と訪れることはない。その危機感とわずかな侮蔑と憐憫が、与兵衛にそんな言葉を吐かせたのかもしれない。

 早くも気温が上がり始めていた。まだ五つ半を過ぎたばかりだというのに、強い日差しがじりじりと男たちの肌を焼いていく。

 額の汗をぬぐおうともせず、機械のように正確な速度で黙々と男たちは歩を進めた。もとより暑さ程度で根を上げるような鍛え方はしていない。

 達者な忍びは、本気であれば一日に二十里(約八十キロ)近い距離を踏破する。一般にお伊勢参りなどに旅をする成人男性の平均移動距離が十里(約四十キロ)といわれているが、最速便の飛脚などは中継で交代しながらとはいえ一日に四十五里(約百八十キロ)を走破していたという記録が残されている。とはいえさすがに怪しまれずに街道を移動するとなると、やはりどんなに急いでも一日十二里半(約五十キロ)あたりが限界であろう。

 そんな男たちを冷ややかに見つめる目があった。

「今日は暑いな、御爺」

「あんまり水を飲むでないぞ。ゆっくり口に含ませるだけにしておけ」

 二人が腰を下ろしているのは、街道の左右に植えられた大きな赤松の根元で、いかにも暑さに一休みしている旅の連れのように見える。八郎などはだらり、と素足を放り出して空を仰いでいるし、角兵衛も松の日陰で手拭いを出し首筋の汗を拭いていた。親子にしては年の離れている二人だが、互いに呼吸の合った風情を見れば、二人が家族であることを疑うものは誰もいるまい。

「――――驕っておるな」

 角兵衛は敵である伊賀者の油断とも増長ともいうべき体たらくを見て、面白くなさそうに鼻を鳴らした。

 内心では激しく怒っている。

 ここまで伊賀者は――忍びは堕落したものか。

 あれでは足の運びに遊びがなさすぎる。角兵衛のような手練れはおろか、下手をすると町役人にすら見破られそうな足運びである。それに気配を読む力にも疎い。すでに角兵衛たちは宇都宮のあたりからずっと与兵衛たちを尾行つけている。にもかかわらず気がつかないどころか、自分たちが狙われているという危機感すらないように角兵衛には思われた。

 ――――もう長いこと、狩るほうの経験しかしていないのだろう。今の世には合戦をしたこともない武士や、忍びが溢れている。おそらく正体を見破られた経験さえないのかもしれぬ。そう思うと角兵衛は暗澹たる気持ちになるのだった。

 まだ自分たちが生きているうちは、忍びの技は死なないと思っていたが、予想より遥かに速い技術の衰退を角兵衛は目の当たりにしていた。このままではあと数十年と保たず忍びは滅びる。

「それにしても御爺、俺たちはいつまであいつらの後を尾行つけていればいいんだい?」

 最初は緊張感を覚えていた八郎も、一向に気づくそぶりのない伊賀者を追う毎日に飽きていた。あの様子では、猪苗代に着くまでずっと彼らは気づかずにいるだろう。

「そうさな…………」

 正直なところ、角兵衛はおりくと渡りをつけて指示を仰ごうと思っていたが、この体たらくをこれ以上みていることは角兵衛にとっても苦痛であった。

 角兵衛の最後の忍び働きを美しく飾ることは、あの連中には不可能だ。ならば早く次の相手を探すほうがいい。

「矢吹の宿に着く前に、三人とも消えてもらうとするかのう……」

 いかに奥州街道といえど、宿場町を外れればそれほど人の行き来は多くはない。かといって人の目を気にせずにいられるというわけでもないが、角兵衛は白昼堂々、伊賀者を襲撃するつもりであるらしかった。





「いささか難しゅうございますな」

 二本松立石の庄屋である渡邊弥次郎兵衛は、かつての主君からの密書に目を通し、渋面をつくって首を振った。内心ではどうして今さらという思いがある。ようやく太平の世となって、暮し向きもよくなったのに、わざわざ乱を呼ぶような真似をしなくてもよいのではないか。

 もともと渡辺家は猪苗代家に代々仕えた国人であった。それが猪苗代盛国の裏切りによって伊達家の陪臣となり、関白秀吉に会津を没収された際に帰農して武士であることを止めている。

 以来、かつて武士であった顔を生かして近隣の庄屋の取りまとめなどを任されていて、暮らし向きはむしろ武士であったころより豊かであった。

 もっとも、帰農する際に主君猪苗代盛国より弥次郎兵衛は並々ならぬ世話を受けた。代々の忠誠の褒美をもらったのみならず、一朝ことあらばただちに武装してはせ参じるよう、陰扶持を与えられている。

 確かにこの陰扶持のおかげで、弥次郎兵衛は庄屋のなかでも一頭抜けた存在になりおおせたのだが――――

「今の猪苗代は先代のころの猪苗代とは大層変わっておりますので」

「何も一揆を起こせと言っているわけではないぞ?」

「あの土地では宗門の目を欺くのは容易なことではございませぬ」

「それほどか」

「はい」

 弥次郎兵衛と囲炉裏を挟んで座っている暗い目をしたやせぎすの男は、黒巾脛組の頭の一人、横山隼人その人である。彼がわざわざ自ら弥次郎兵衛のもとへ足を運んだのは、猪苗代に強い警戒感を抱いていたからだった。

 キリシタンたちの結束は固い。これはキリシタンに限ったことではなく、仏教徒もそうであるが、この時代の宗教組織は必ずしも信仰心だけを満たすために存在しているわけではなかった。

 彼らは知識人であり、調停者であり、いざというときの救護者でもあったのである。特に布教の熱意溢れる宣教師パーデレは、布教のために数学を、農学を、建築学を、薬草学などの先進技術を吸収してそれを惜しみなく与えた。

 キリシタンが急速に日本各地に普及したのは、南蛮貿易の実利のみならず、こうした教育者として宣教師が確かな利益を庶民にもたらしたことも影響している。

 だからこそ形を変え姿を変え、キリシタンは全国各地で密かに命脈を保つことができたのである。各地に残る河童が堤防を築くのに人間に協力したという民話は、実は宣教師のトンスラと呼ばれる頭を剃った姿を暗喩していた可能性が高い。彼らは土木技術のエキスパートでもあったからである。

 しかも猪苗代城主岡定俊は筋金入りのキリシタンだ。さらに一向宗に主君朝倉家を滅ぼされた定俊はそもそも仏教が嫌いである。そうなると領民はよかれあしかれ忖度を始めてしまう。

 猪苗代や会津で数々の寺院が打ち壊されているのはその表れであった。歴史はそれを断罪するかもしれないが、少なくとも定俊が領民の心を掴んでいたことの反作用ともいえるだろう。

「……ですが、あまり深入りしなくてよければ情報は手に入ります。その程度の伝手はありますので」

「アダミという名の宣教師についてはどうだ?」

「猪苗代のセミナリオで教鞭をとっているという話です。村に出て子供に勉強を教えたりもしているそうですな」

「…………ほう」

 興味深そうに隼人は暗い目を光らせた。顔は能面のように無表情だが、瞳の奥だけが恐ろしく強い意思を放射している。思わず弥次郎兵衛はのけぞるように腰を引いた。

「それがどうもお武家が二人ほどいつも付き添っておるそうで。あの土地ではキリシタンのフリはすぐにばれます。それがどうしてなのかは私にもわかりません」

「ふむ」

 確かにそれは厄介である。キリシタンのフリが通じないのであれば、旅人か商人に化けるしかない。もちろん向こうもそれは百も承知しているだろう。

 とはいえ、護衛らしき人間が武士二人だけというのは朗報である。隼人配下の黒脛巾組精鋭をもってすれば、二人の護衛などそれほど難しい障害ではない。

 この時点で隼人はまだ藤右衛門と重吉の腕を知らなかった。藤右衛門は高山右近のもとで数々の戦を生き抜いた筋金入りの武士であり、重吉もまた中条流の剣術を修めた剣の達者である。実は隼人が考えるほどこの二人からアダミを奪うのは容易なことではなかった。

 とまれ、仮に藤右衛門と重吉の腕を知っていたとしても、隼人の考えが変わることもなかったであろう。そうした武辺を千変万化の奇襲で殺すことにこそ、忍びの神髄があり喜びがあるのだから。

「草が残っておらぬのが惜しまれるな」

 仙道の奪還を目指す政宗は、仙台に領地替えするにあたり将来の布石としてそれなりの草――工作員――を現地に残していた。しかし関ヶ原の戦いに前後して発生した上杉景勝との戦いにおいてほぼその全てを使い切っている。

 あのときは徳川方として東軍に属し、旧領奪回の最大の好機であったので全力を出し切ることに躊躇いはなかった。しかし目論見が潰え、こうして再び会津猪苗代を探るとなると、いかにも痛い損失であった。

「出入りの商人に伝手は?」

「あそこは蒲生が日野の領主であったころより、堺の間垣屋が幅を利かせておりまして……職人も大半は甲賀の息がかかっておりますので」

「甲賀か…………」

 数は少ないながら、猪苗代には甲賀の忍びがいる。福島をめぐる伊達と上杉の戦いにおいては軒猿と呼ばれる上杉忍びが相手であったので、黒脛巾組は直接戦ったことはない。

 戦ったことさえないという事実が、何より猪苗代の甲賀忍びが手練れであることを示していた。それはすなわち、戦えば必ず殺し、情報を持ち帰らせていないことを意味しているからだ。

「キリシタンに甲賀、いささかわが手には余る」

 やや口元をへの字に曲げて隼人はそう呟いた。実はそれがこの男の精いっぱいの口惜しさの表現であることを弥次郎兵衛は知らない。

 隼人の言葉に弥次郎兵衛はほっと胸を撫でおろす。これで無謀な工作から逃れられたと信じたのである。

「忍びの執念を甘く見ぬ方がよいぞ、弥次郎兵衛」

 その様子を見て隼人は薄く嗤った。この男にも笑うことができるのか、と弥次郎兵衛は心底驚愕し、同時に恐怖した。絶対にあの笑みには裏がある。そんな嫌な確信があった。

「毒をもって毒を制すという手もある。わが手に余るのならば、伊賀者の手すら借りてみせようぞ」

「げえっ!」

 弥次郎兵衛は怪鳥のように唸った。腰が抜けたように手をついてのけぞったまま続く言葉がなかった。

 江戸表に派遣した黒脛巾組の配下から隼人に、複数の伊賀者が会津を目指しているという報告が届いている。

 忍びは正々堂々戦ったりはしない。横取りだろうが騙し討ちだろうが、最後に目的を遂げることができればその経緯など問うたりしない。それが忍びの誇りであり、人外と人を恐れさせる常軌を逸した執念こそが何より忍びの本領なのであった。





 ――後を尾行つけられている。

 与兵衛がそれに気づいたのは、矢吹の宿を間近に控えた鬱蒼たる竹林の中であった。

 これまで幾度か見かけたことのある老人と青年の二人連れである。

 そもそも幾度も見かけていたのに、今頃怪しいと気づくこと自体がおかしい。よほど気配を注意を引くことのないよう、うまく空気に溶かしているからこそであろう。必死に記憶を手繰れば、あの白河の関で松の日陰に涼んでいた二人ではないか。

 すなわち――――(かなりの手練れだ)と与兵衛は心を氷柱で貫かれたような衝撃を覚えた。風魔党との戦い以来、技量において与兵衛が完敗したのはこれが初めてであるからだ。

(これはいかぬかもしれん……)

 よくよく思い出すとあの二人は、最初は喜連川のあたりで既に見かけていたように思われる。ならばいくらでも襲撃の機会はあった。与兵衛たちは彼らの存在に気づいてさえいなかったのだから、その気になればいつでも殺せた。

 にもかかわらず、こうして気配を察することができたということは――――

(ここで殺る気か)

 おそらくはいよいよ戦闘となることへのかすかな高揚と殺気が、これまで隠せていた二人の存在を浮かび上がらせたのだと与兵衛は信じた。

(――――伊賀組を甘く見るなよ)

 その内心では不覚をとったことと、敵に甘く見られたことに対する屈辱と憤怒が沸々と煮えたぎっていた。

 これまで全く気配をつかませなかったことには素直に感心しよう。しかし老人と若造二人で、この闇の世界でもっとも実戦経験の豊富な伊賀組を相手にできると思ったからとんだ思い上がりだ。

 少なくとも与兵衛は伊賀組が、柳生や甲賀に実戦経験で劣るとは考えていなかった。

 確かに柳生は剣の達人を数多く擁してはいるが、影働きを任されたのは秀忠の寵愛を受けてからのごく短い期間に過ぎない。まともに戦えば分が悪いとはいえ、本気の不正規戦となれば伊賀組の前に手も足もでないのではと思う。

 とまれ、不正規戦の要は入念な下準備を施した待ち戦である。天正伊賀の乱でも伊賀組が織田を相手に優位に戦えたのは地の利と下準備があったからこそだ。

 この岩代の地は地の利があるとはお世辞にもいえぬ遠い異郷である。

 それでもなお、与兵衛の自信が揺らぐことはなかった。

(加賀で、近江で、安芸で、俺がどれほどの修羅場を潜り抜けたと思っている)

 関ケ原以降も油断のならぬ外様大名たちの内偵や暗殺に駆り出され、各地で忍び集団としのぎを削ってきた。敵地においても勝利しなければならないという重圧と使命のなかで、ここまで生き延びてきた伊賀忍びは決して多くはないのだ。

「――――無様」

 そんな与兵衛の意地も誇りも、角兵衛は一顧だにしなかった。己の実力を過信し、敵との実力差を測ることのできぬ未熟さにただただ失望していた。もし角兵衛は与兵衛の立場であれば、直ちに仲間を見捨てて逃走を選んだであろう。たとえ実力があっても死の気配に敏感でない忍びは生き残れない。その敏感さを持たない与兵衛がこうして健在であること自体が、忍びの凋落を物語っていた。角兵衛が全盛期であったころであれば、与兵衛のような男は三年も生きられれば運の良いほうに違いなかった。

「俺が相手してもよいか? 御爺」

「遊ぶなよ八郎?」

「俺に怒らないでくれよ」

 どうやら伊賀者の体たらくに本気で腹を立てているらしい角兵衛に、八郎は肩をすくめて閉口した。要するに時間をかけて腕を試そうなどとはするな。そんな価値すら奴らにはない、と言っているのだった。

「やれやれ、災難なこった」

 とはいえ八郎自身怒りとまではいかなくとも、軽い拍子抜けのような失望のような気分があるのも事実である。

 彼にとって初めてとなる地元の縄張りを離れた実戦で、角兵衛の力を借りずに戦うことに八郎は少なからず緊張していた。その初めての相手として与兵衛らは物足りなかったのである。

 今までは日野の縄張りのなかで稀に結界を侵す忍びだけを相手にしてきた。しかも師匠である角兵衛の監督のもとで。

 はたして自分の腕はどこまで天下に通用するものか。たとえ物足りない相手だとしても、自らの技を試すのを躊躇う理由にはなりえなかった。

 ごく自然な足取りで八郎は与兵衛たちとの距離を詰める。傍からはただ歩いているだけにしか見えないが、その滑るような速さは異常だ。これを神足通という。もともとは仏教における神通力を差す言葉である。上半身を全く揺らさずにほとんど親指の力だけで加速するため、相手は間合いを正確に測ることができない。

 さすがに与兵衛はかつて同じ神足通の使い手と戦ったことがあるが、残る二人は全く経験がなかった。

「ひゅっ」

 鋭く息を吐くと同時に八郎の右手が閃き、矢じりのように尖った礫が放たれた。

 礫の大きさはさほどでないが、甲冑に身を包んでいるわけではない忍びにとっては十分に脅威である。

 瞬時に風を斬る音に身体が反応した与兵衛はいざ知らず、残る二人はその礫を躱すことはできなかった。身を躱すには正確な間合いの把握が必要だ。身体が躱す態勢を取る呼吸を外されてしまっては斬り払うしかない。しかしこれが罠であった。

「目を閉じろ!」

 細工に気づいた与兵衛は思わず叫ぶ。だがそれを実行するだけの断固たる判断力が二人にはなかった。

「ぐわっ!」

 首尾よく礫を忍び刀で弾き返したはずが、急に襲ってきた激痛に二人の伊賀者は目を押さえて反射的に身をかがめた。

 八郎が放ったのは礫だけではない。礫を放つと同時に米粒ほどの小さな石を、恐ろしく強い指の力で伊賀者の目へと弾いている。指弾と呼ばれる技である。この小さな石は先に放たれた礫の影に隠れ、死角から二段構えで襲ってくるのだから焦点が先の礫に集中していた二人に避けられるはずがなかった。

 するすると近づき忍び刀を抜いた八郎を、横っ飛びして礫を避けていた与兵衛は止める術がない。かろうじて懐から手裏剣を取り出すが、それよりも早く八郎の右手が煌めく。

 紫電よりも早いその一閃は、激痛から立ち直れない二人の伊賀者の首をいともたやすく切り裂いていた。おそらくは彼らも斬られたという自覚すらないままであったろう

 八郎が歩きだしてからわずか一秒ほどの出来事である。

 抵抗らしい抵抗もできず、ほぼ八郎が想定したままにあっさりと与兵衛の配下である二人はその命を失った。その事実が与兵衛には耐え難い屈辱であった。

「――――おのれ!」

 配下を守れなかったことにも怒りはあるが、それ以上に八郎のような若造にいいようにされている自分が何より許せなかった。こんなはずはない。伊賀組の精鋭である我々が、こんな無様な醜態をさらしてよいはずがない。

「ほう、無様であるのを恥じる気持ちは残っておったか。ならば死ね」

 憎悪に近い暗い声に、与兵衛がもう一人の老人の存在を思い出したときにはすでに遅かった。生命の危機を察した本能が、与兵衛の背筋にぞくぞくという怖気を走らせる。

 理性はこんなはずではないと叫んでいた。実戦経験も怪しい若者に七十代も超えようかという老人。そんな二人に伊賀者の手練れが翻弄されるなどあってたまるものか。しかし与兵衛の本能は正しく天から雷に打たれるがごとき絶望感に震えていた。

 角兵衛の腰はまっすぐに伸び鍛えこまれてはいるが、老人となった身はやせ衰え瞼や頬には垂れ下がった皺が幾重にも刻まれている。

 身体能力の低下は戦力の低下と同義であり、それが忍びの実働年齢が四十代でほぼ終わってしまう所以であるはずだった。

 しかしそこには例外が存在する。ごくごく稀ではあるが、身体能力の低下を補えるほどの規格外の技量を誇る老忍びは確かにおり、その一人は与兵衛もよく知る組頭の方丈斎であった。おそらく方丈斎の腕は伊賀組の精鋭のなかでも十指には入る。

(まさかこの老人が――)

 あるいはさぞ名のある忍びなのではないか――そんな与兵衛の思考は垂直に真上から降ってきた大きな礫によって遮断された。

 声もなくゆらりと倒れた与兵衛の頭蓋から、鮮血と灰色の膿のような脳漿がどろりと流れ出していく。

「油断するにもほどがある」

 驚きに目を見開いたままの与兵衛を見下ろし、吐き捨てるように角兵衛は呟く。

 いかに配下の忍びが危うかったとはいえ、八郎と配下に完全に気を取られて角兵衛を見過ごすなど言語道断。まして狙われていることにすら気づかないとは。

 とはいえ与兵衛が八郎の礫を躱すと同時に、その着地点を読み切って礫を天空に投げ上げていた角兵衛もやはり並みの者ではなかった。

 人にとってもっとも注意を払いにくいのは真上の頭上と、真下の足元である。忍びは常に死角の気配を探ってはいるが、どうしても真上と真下に近い部分は空白となりがちであることを、老忍びである角兵衛は知っていた。

 否、角兵衛の知る戦国の忍びは誰もがそんなことは当たり前のように知っていた。

 土遁、水遁、火遁を駆使し、不正規戦を繰り広げる忍びにとって、意識の死角から攻撃するということは基礎ともいえる。あの天正伊賀の乱では数多の伊賀者がこうした術で織田方の兵を奇襲したものだ。腕利きの伊賀者は冷たい土中で、小さな筒を口にくわえたまま数日は潜んだままでいられたという。

 こうした戦いの技術はやはり戦いのなかで磨かれる。戦国が終わり、他国の諜報や暗殺を旨とする今の伊賀者には、不特定多数を殺戮するための忍術など必要ないのかもしれない。

 そもそも守るべき故郷の土地がないのに、過酷な不正規戦の技など教えることなどできるはずがなかった。

 理性ではそれを納得していても、角兵衛の胸には虚しくやりどころのない怒りが渦巻いていた。

(これでは、八郎が成長し大人になるころには――――もう俺の知る忍びなどどこにもおらぬかもしれぬ)

 角兵衛の知る忍びとは、たとえ日の当たらぬ影にいても、断固として武の者であった。戦いのなかでこそ輝く存在だった。

 歴史家三田村鳶魚によれば、江戸前期以後公儀隠密といえばそれは徒目付、あるいはその下部組織である御小人目付を指すようになるという。そこにすでに伊賀組の名はない。

 戦いから離れ、純粋な情報収集を求められる太平の世には、もはや影の戦士である忍びの居場所はなかったのである。角兵衛が危惧するまでもなく、時代が忍びを必要としていないのだ。

 故郷から切り離された伊賀組も甲賀組も、ただの役人として生きるしかない未来がすぐそこまで迫っていた。

「かようなことが――――」

 この世から武士が姿を消しつつあるように、忍びもまた姿を消す。そして後に残るのはかつて忍びであったものの残骸のみ。覚悟していたとはいえ、それをまざまざと眼前に突きつけられて角兵衛は絶句した。

 角兵衛の忍びの技は全て八郎に伝えた。しかし八郎の次の世代はどうか? いや、そもそも使う機会もない技などに意味はあるのか?

「俺が相手をすると言ったじゃないか」

 不満そうな八郎の声に、角兵衛ははっとなって我に返った。

「すまんすまん、あまりにひどい体たらくゆえ気がついたら倒しておったわい」

 ごまかすように苦笑して八郎に詫びると、角兵衛は一転して緩んだ顔を引き締めた。

「伊賀者全てがこの程度と思うでないぞ? 今日はたまたま出来の悪い相手と出会ったにすぎぬ。それに本来伊賀者は、相手を襲うときがもっとも恐ろしいのだ」

 甲賀がしばしば突出した個性を尊重するのに対し、伊賀は集団による奇襲を得意とする。その強さは、受けではなく攻めるときにこそ最大の力を発揮するのだ。

「――――猪苗代についたらこちらが守る側になる。ゆめゆめ奴らを侮るでない」

「わかってるよ御爺」

 角兵衛の戒めの言葉の半ばは、祈りのようなものであった。

 かつての好敵手であった伊賀者がこんなものであって欲しくはない。人生最後の相手として相応しい強敵であってくれ、という切ない思いがそこにはこめられていた。





「与兵衛はまだ現れぬか?」

 標高の高い会津の山は、夜ともなれば凍りつくように冷えることもある。。

 磐梯山に隣接した赤植山の山中に、三人の男が車座に顔をつきあわせていた。目立つことを嫌ったものか、焚火すらなく光といえば月明かりだけの闇のなか、しわがれた男の声はやけに大きく聞こえた。

「いくらなんでも遅すぎる。何事かあったとみるべきであろう」

「……つまりは倒されたというのか。我が伊賀組ともあろうものが」

 苦々しそうに初老の男は唇を噛んだ。

 三人のなかでもっとも年長のこの男の名を音松という。先日齢五十に達したものの、影走りの音松を綽名されるほどの神足通の使い手である。その稼働速度は老いてなお八郎のそれを上回る。

 彼の見るところ、与兵衛は確かに腕利きとまではいえなかった。しかし今となっては貴重な伊賀忍びの中堅に恥じないだけの実力は持っていた。その与兵衛が倒されたとなれば、相手の腕がよいのか、あるいはよほどの数を用意したか。

「黄番の連中を待つという手もあるが?」

「そのような恥さらしな真似ができるか! そもそもこのような田舎ごとき、我ら紫番だけで十分と吐いたのを忘れたか!」

 方丈斎が派遣した伊賀組のうち、先発したのが彼ら紫番の面々である。同じ伊賀者同士とはいえ必ずしも仲が良いということはない。むしろ陰働きの少なくなった今、仲間といえど功名争いの相手という認識が強いほどである。手をこまねいて後発の助けを待つなど到底認められることではなかった。

「おそらくは与兵衛を倒したのは猪苗代の甲賀者であろう。どうやらただの流れ者ではなさそうだ」

 同じ忍びの流派でありながら、長の統制から外れたものを流れ者と呼ぶ。おりくは必ずしも甲賀の統制から外れたというわけではないが、公儀と利害を相反する以上流れ者と言われるのもやむを得ぬところであろう。

「よくよく考えれば上杉の軒猿と伊達の黒脛巾組を相手にしなければならぬ土地柄だ。侮るべきではなかった」

「今更言ってももう遅い!」

 このところ楽な仕事が多すぎた。豊臣家滅亡後、各地の有力な忍びは主君を失い、あるいは遠い国へと転封を余儀なくされていた。忍びがもっとも得意とする攪乱や不正規戦は、土地との密接な関わり合いが欠かせない。ゆえにこそ伊賀忍びは己の縄ばりでない他国でも、有利に戦いを進めることができたのだ。

 もはやこの日の本で伊賀組に敵う忍び集団などいない。いたとしてもそれは柳生のように剣を能くする特殊な忍びのみ。そう密かに信じていただけに音松の屈辱は大きかった。

「やるからには必ず成功させねばならんぞ? 万が一しくじればこの俺たちでも首が飛ぶやもしれぬ」

「むう…………」

 僚友の重蔵の言葉に音松は低く唸った。言われてみれば確かに出立の際の方丈斎の意気込みはただ事ではなかった。下手にしくじれば生きて帰っても処分される可能性は十分にあった。そう音松が考えるだけの執念、いや、妄念らしき何かを方丈斎は発していたのである。

「――急ぐ理由もないではないな。今日俺が見かけた商人、あれはおそらく黒脛巾組の手の者であろう」

「あの片目の古狸か!」

 最後の一人、小六の言葉に音松は叫ぶ。

 三人は方丈斎から百万両について知らされてはいなかったが、アダミが恐ろしく重要な機密を握っている可能性があることは知っていた。あの百戦錬磨の政宗が食指を動かすには十分な理由であった。

 そもそも伊達の黒脛巾組は、全国でも数少ない強力な忍びの集団である。組織されたのが比較的遅かったために諜報能力はともかく戦闘能力はそれほど高くない。それでも決して油断することのできない相手だった。よく考えればこの会津猪苗代はかつて伊達の領地であったこともあるのだからなおさらである。

「ここまできて黒脛巾組にアダミをさらわれるようなことがあっては目もあてられん。幸い、アダミの行動はわかった」

 このところセミナリオで教鞭をとりつつ、週に二度ほど猪苗代城外に出て村人に説法をするのがアダミの習慣になっていることを音松は掴んでいた。その情報を信じるならば、二日後にはアダミはこの赤植山のふもとへとやってくる。

 問題はアダミを決して殺してはならないということ。すなわち、いかに護衛である藤右衛門と重吉を殺すかということであった。

「たかが浪人二人――といいたいところだが、努々油断はするまいぞ」

「おう」

 失敗は死を意味する。あの方丈斎の逆鱗に触れることを思えば、背筋が寒くなる思いを音松たちは禁じえなかった。それでもなお、油断さえしなければ勝てるとも確信していた。

 彼らがくぐりぬけてきた修羅場というものは、それほど生易しいものではなく、今の世ではもはや経験することも難しい希少なものであるからだった。

「与兵衛を倒した甲賀者こそ侮れぬ。いったいどうやってそんな手練れがこんな田舎に隠れ住んでいたものか……」

 さすがの彼らも、まさか関ケ原以来隠れ潜んでいた伝説の甲賀忍者鵜殿藤助が、遥々日野の山奥からやってきたなど思ってもみない。ましてその藤助をも凌ぐ若き忍び、八郎の存在など夢想だにしなかった。ごく当然のようにおりくとその配下の忍びが優秀であると受け取ったのである。

「…………今度は襲うのは我らのほうだ。この伊賀組の力、思い知らせてくれるわ」

 音松の言葉に小六も重蔵も我が意を得たりとばかりに頷く。彼らの程度の違いこそあれ、伊賀組こそ最強であることを寸毫たりとも疑っていないのだった。

 否、後ろ盾もかつての威勢も失った今だからこそ、彼らは誇りとともに自らの強さを信じるしか法がないのだ。





 その日はひどく底冷えのする朝であった。猪苗代湖と阿賀川の水面は濃密な霧が立ち込めており、ともすれば一間先も朧気に霞んで見えるほどである。特に磐梯降ろしの冷たい風が吹いた日の朝は、大量の湖水を抱える猪苗代湖はこうした霧が発生しやすかった。

「今朝ハイツニモマシテ寒イデスネ」

 刺すような寒さに両手をさするようにしてアダミは震えた。

 これまで長く澳門や天草という南方で暮らしていただけに、猪苗代の寒さは随分とアダミには堪えるようである。これでは猪苗代の冬の厳しさに耐えられるだろうかと藤右衛門は苦笑した。

 高山右近に仕えていた藤右衛門は、厳冬期ではないものの北陸の寒さを知っている。この猪苗代の寒さはあの北陸以上になるというのだ。笑うしかないというのが本音であろう。

「ソレニシテモココハ本当ニヨイトコロデス」

「ほんまにわてもそう思うとります」

 藤右衛門は心から素直にアダミの言葉に頷いた。

 信仰の強さでは決して天草の民たちも猪苗代に引けはとるまい。しかしあまりにここと天草では空気が違う。

 天草ではキリシタンは常に弾圧の目を恐れ、人目を忍んで怯えていた。心のどこかに陰鬱な恐怖が見え隠れした。その恐怖と緊張がこの猪苗代には存在しないのである。正しく第六天魔王織田信長に統治されていたころの自由で闊達な空気がここには流れていた。

 しかしこの平和はいったいいつまで維持できるものか。そう思った時、アダミは胸に真冬のように冷たい風が吹き抜けていくのを感じる。この平和を滅ぼす引き金を、自分は引いてしまったのかもしれないからだ。

 温和で、純粋な猪苗代の信徒たちが将来見舞われるであろう悲劇を幻視してアダミは己の無力を呪った。それでもなお、布教の望みを捨てきれない己の業の深さをも。

「行きまひょか」

「ソウデスネ」

 藤右衛門はアダミの内心を察しながらも、あえて声をかけようとは思わなかった。その問いの答えはすでに日本国内に戻ろうと決心したときから出ていたはずであった。

 信仰のために死ぬのならば本望であり、さらに同胞であるキリシタンもそうであると割り切ってしまっているのが藤右衛門の非情なところであろう。定俊が自らを武の者と割り切ったように、藤右衛門もまた、自分を信仰に生きる者と割り切ってしまえる男なのだ。

 むしろアダミのほうが、完全に信仰だけに心を委ねきることができないでいた。それをするにはアダミは賢すぎたのだ。そんな二人の違いを知ってか知らずか、重吉は不愛想に眉を顰めるのだった。

「…………このままでいいのでしょうか?」

 重吉の迷いは日に日に高まっていく一方だった。アダミや藤右衛門を見捨てて他所へ流れる気にもならない。かといってこの猪苗代からキリシタンを糾合し、この日の本に楽園を築くこともあっさり定俊に否定されていた。しかもその否定をアダミも藤右衛門も受け入れてしまっている。これでは自分はいったい何のために遥々九州からついてきたのかわからないではないか。

「スベテハ主ノ御心ノママニ」

 優しくアダミは重吉を労わるように微笑んだ。

 そういいながらも、アダミは藤右衛門ほど全てを割り切ることができずに懊悩していた。それはアダミが優秀な哲学者であり、科学者であったからでもある。信仰心の強さは頑強でも、彼には未来を予測することのできる冷徹な理性があった。

 だからこそ己の信仰にだけは嘘をつきたくない。

 この命尽きるまで、信仰を広め信徒の魂を救済し続けることをアダミは誓った。たとえそれが虚しい結果に終わるとわかっていても。

「もう少し霧が晴れてから参りませんか? 半刻ほどあればかなり晴れると思うのですが」

「ヨイノデス。早クシナイト午後ノ講義ニマニアイマセンカラ」

 猪苗代城から赤植山のふもとはおよそ一里弱ほどの距離であるが、祭服などを用意する都合上、多少の時間の余裕をみておきたい。特にセミナリオで育成中の新たな日本人修道士の教育に手を抜くわけにはいかなかった。

 密かに後ろめたい気持ちを抱いている分、アダミは心の余裕をなくしていた。

「ま、歩いているうちに晴れまっしゃろ」

「そうですね」

 ――いつの間にかそんなやりとりが日常になりつつあった。それぞれの胸に不安や焦りはあるにしろ、この猪苗代という地はそれを上回る安心感に満ちていた。



 ――――今日、この日までは
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