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 慶長二十年六月十二日、奥州猪苗代は蒸し暑い夏の昼下がりを迎えていた。

 静かなさざ波を湛えた猪苗代湖の青々とした湖水は心地よい風を呼び、巨大な磐梯山の頂きが遥かな天空から地上を見下ろしている。その火口からはおびただしい噴煙が今日も天空にたなびいており、この山がいまだ火を吐く日をじっと待ち続けていることを雄弁に告げていた。

 磐梯山の別名を岩梯いわはし山という。雄大な山である。その厳とした存在感はこの岩代に住まう人間にとっては別して重い。天まで届こうかという美しい富士山を思わせる頂は、長く岩代に住む民の畏敬を集めた。

 明治二十一年七月十五日のことになるが、明治以後最大の火山災害となる磐梯山噴火によって、磐梯山の中央部は山体崩壊を起こし、富士を思わせる優美な山頂の姿は今はもはや原型をとどめていない。しかし現代に至るもなお、磐梯山はこの地方の魂の原風景であり続けている。

 その磐梯山の南麓の端に、小高い広がりを見せた比較的大きな丘陵がある。その丘陵に築城された仙道(福島県中通り地方)の中央を守る要衝として名高い猪苗代城に、今ひとつの騒動が起きようとしていた。 

 戦国後期に改築された猪苗代城は、丘の上に作られただけあってそれほど標高の高くない小さな城である。

 しかし石垣をふんだんに利用した近世的な城郭と二重の深い横堀で囲まれて、その小さな規模からすれば過剰ともいえるほどの堅固さを与えられていた。

 この小城が持つ価値は、のちに徳川幕府の一国一城令が出された際において、貴重な例外として取り壊しを免れたことでも窺い知れるだろう。

 亀ケ城の愛称で親しまれた猪苗代城は、仙道から会津、越後へと続く磐越道の玄関口として、長く蘆名氏の庶流、猪苗代氏の本拠地として栄えた。

 ところが時代は変わり、若き英雄伊達政宗の台頭に伴い、天正十七年に猪苗代氏の主家である蘆名氏は滅亡する。その際、時の猪苗代城主であった猪苗代盛国は、蘆名氏を裏切って以後は終生伊達政宗に仕えた。

そうして新たな支配者となったはずの政宗もまた、念願の会津の統治もままならぬうちに天下統一を目前にした時の関白、羽柴秀吉によってあえなく旧蘆名の所領を没収されてしまう。

 以来、並々ならぬ執念で、政宗は仙道と会津を再び我が物にせんと虎視眈々とその機会を窺うことになる。そんな厄介なこの地を治めることになったのが、織田信長の娘婿であり、利休七哲の一人として茶人としても著名な名将、蒲生忠三郎氏郷であった。

 あまりに危険すぎる野心家伊達政宗と、関東二百五十万石の大大名、徳川家康を監視するという大任は、綺羅星のような将師を従える秀吉もその人選に甚だ苦労をした。

 子飼いのなかでも有能で知られる福島正則や加藤清正では、老練な徳川家康を相手にするには経験と貫禄に欠け、また野心家の伊達政宗を相手にするには、血気には逸りいたずらに騒動を大きくしてしまう可能性があるように思われたのである。

 そうした意味で、蒲生氏郷は羽柴秀吉や徳川家康たち旧世代と、石田三成や福島正則らの若い次世代の中間に位置する稀有な武将であり、正しくうってつけの人物であった。

 あるいはこの名将蒲生氏郷が会津九十万石とともに健在であれば、関ヶ原の戦いは起きなかったのではないかとすら思われる。会津九十万石の実力と信長の娘婿という存在感は別格であり、福島正則や加藤清正の暴走を掣肘できたのは、氏郷しかいなかったのではないか。

 この稀代の名君氏郷以来蒲生家三代に仕え、猪苗代という仙道の要衝を任された一人の偏狭な男がいた。

――――岡越後守定俊。上田秋成の名著『雨月物語』に守銭奴として登場する猪苗代城主であり、これから始まる未曽有の騒動の中心となる男である。

 十八歳にして氏郷に仕え、その才を見出されてより数々の武功を挙げた岡定俊の威名は高い。

 特にみちのくの独眼竜、伊達政宗の心胆を寒からしめた福島松川の戦いでの功績は圧巻とすら言える。関ケ原戦後、政宗は上杉家を離れて牢人となった定俊に、三万石で伊達家に仕官しないかと打診したという。陪臣ではあるが一万石以上という大名格の禄高である。政宗股肱の臣である片倉小十郎景綱が一万三千石ほどであるから信ぴょう性には乏しいが、定俊の武勇と識見がそれほどに高く評価されていたという証左であろう。

 元和偃武を迎え、今や槍一筋に生きるしか術がなかった前田慶次郎や吉村宣充、あるいは笹の才蔵こと可児才蔵のような根っからの戦好きには、すっかり生きづらい世の中となっていた。

 しかし利殖や統治に才のあった定俊は、主君が早死にして騒動の絶えない蒲生家家中にあって、その人柄と経済力によって別格の重きをなしている。

 だがただひとつ、困ったことにどうにも言いわけのしようのない恥ずかしすぎる性癖を、定俊は持ち合わせていた。

 実はこの男、本当にどうしようもなく金が好きで、暇があると書院の床に貯めこんだ小判を敷き詰め、全裸でそこを転げまわるのである。

 正しく変態の所業であった。

 守銭奴岡越後守定俊という噂は、この奥州岩代では、とりわけ蒲生家家中においては子供でも知る有名な話である。

 だからといって本人は、いささかも恥じ入ることも恐れ入る気もなかった。





「兄上は? 兄上はおるか!」

 栗毛の見事な会津駒を操り、二本松街道を疾走してきた男が血相を変えて乱暴に猪苗代の城門を叩いた。

 武勇自慢で鳴らした古兵の門番が、男の形相を見るや恐縮してぺこぺこと頭を下げているのは、この男が生真面目を絵にかいたような融通の利かぬ面倒な男だと知っているからだ。

 慌てて大手門を開門すると、男は馬から降りることもなく、そのまま城の大手から二の丸へと見事な手綱さばきで馬を走らせていく。

 男の名を岡重政という。猪苗代城主岡定俊の実弟である。すでに五十路を前にした老将であるが、馬を駆る手はいまだいささかのよどみもない。

 兄とは似ても似つかぬ角ばった顔に糸のような細い目が特徴であり、口うるさい頑固な生真面目さを持った重政は、いまや蒲生家にあって要石ともいえる貴重な存在となっていた。

 この重政だが、蒲生家の仕置き家老を務める傍ら、なんと五奉行筆頭石田治部少輔三成の娘、小石を妻として娶っている。

 ともに融通の利かない官僚気質であることもあって、三成とは地位を越えて存外気のあう友であったという。大谷吉継や直江兼続、田中吉政くらいしか友人のいない三成が心を許したのだから、重政もまた一角の男であったということであろう。

 もっとも、先に蒲生家中で立身したのは兄定俊のほうであった。重政は兄を頼って遅れて蒲生家に仕官したにすぎない。しかし天下が太平となり、戦馬鹿などより優秀な官僚が必要な時代となると重政はめきめきと頭角を現し、ついには兄をも凌ぎ蒲生家仕置き家老へと栄達した。

 それでも重政は自分が兄定俊を超えたとは夢にも思わなかった。乱世の将としてみれば、重政は定俊の足元にも及ばない。少なくとも重政は固くそう信じていた。

 兄の岡定俊は戦上手で、伊達政宗を一騎打ちを演じあと一歩のところまで追いつめるなど武勇を天下に轟かせた武将である。同時に上杉景勝に仕えた際には、徳川家康と戦うために軍資金として私費から銭一万貫(約十億円相当)をぽん、と惜しげもなく献上したという稀代の利殖家でもあった。経済の本質を知悉しており領内の統治にもその力はいかんなく発揮され、民の信頼も厚い。

 しかしいかんせん傾奇者なところがあって、重政が注意していないと、何をやらかすかわからない怖さがある困った男なのである。

 一個の武辺としての矜持は強いのに、さほど出世欲が強いというわけでもなく、むしろ銭のほうが地位よりよほど大事だと考えている節がある。よくよく兄定俊は戦国の士さむらいとしてはいささか特殊な性向の男なのであった。

(そうだ、兄上はもともと、お家のことなど歯牙にもかけぬお人であったな)

 遠い日の、奇しくも同じ夏の盛りのことである。兄が若狭の実家を捨てて飛び出していったその日のことを、重政はふと馬の背に揺られながら懐かしく思った。





 岡家はもともと越前守護朝倉家の重臣で、先祖代々若狭太郎庄の土豪の家系である。

 一族の歴史は古く、系図によれば畠山氏の庶流のまた庶流であるともいう。地方の土豪としてはそれなりに貴種の部類に入るであろう。

 しかしその長い栄華も、第六天魔王織田信長の侵攻ととともにたちどころに瓦解した。主家である朝倉義景に反逆してまでお家を保とうとした父盛俊は、結局新たな主君となった朝倉景鏡が、富田長繁率いる土一揆にの軍勢を相手に敗死して領土を奪われた責任を問われ、先祖伝来の領地を没収された。

 野に下ってしばらくは再仕官の運動などもしていたが、今さら織田家に頭を下げて一兵卒からやり直す気概もなかったのか、三年と経たぬうちに盛俊は仕官を諦め隠棲してしまう。

 以来、岡家再興という言葉を呪文のように父に言い聞かせられてきた日々を、重政は昨日のことのように覚えている。

 自分は昼から酒を飲み、悪態をついて息子の尻は叩くが、自分では槍ひとつ稽古することもない父だった。

 そんなある日、すでに先年体躯では父を追いこした定俊は、朝もなかなか床から起きようとしない父をいきなり殴りつけた。困窮する暮らしに昨年の暮れ、母は病に斃れている。それでもいささかも奮起する兆しのない父に、定俊はほとほと愛想をつかしたのである。

「なんという情けないざまだ。貴様など今日から親でもなければ子でもない」

 息子に殴られたという衝撃に呆然としながらも、盛俊は恨めしそうに定俊を睨みつける。もはや息子に勝てる見込みがないことはわかっていたらしく、軽々に殴り返すような真似はしないところがまた無様であった。

「父を殴るとはなんたる不幸者よ。先祖代々受け継いできた岡家の重荷を担ったこともない若造が、さかしらにも親に逆らうか!」

「再興も没落も要するにただ己の才覚と運あるのみではないか! めそめそと後悔して子に頼るのが男の生きざまと言えるか!」

 定俊はまだようやく四十路に足を踏み入れたばかりの先のある身でありながら、すべてを諦め息子に託そうとする父の性根がどうにも気に入らなかった。己の過ちは己のみがただすべきではないか。己の野心は己のみが果たすべきではないか。そうでなくてどうして己が生きているといえるのか。

 腑抜けた父などもはや二度と父とは思わぬ。縁を切る、そう父に言い捨てて定俊は支度もそこそこに単身若狭を飛び出した。その当時定俊まだ十五歳という若さであった。

父は定俊がいなくなると、今度は次男の重政に岡家再興の夢を継がせようとするものの、越前朝倉家が滅亡した今、若狭を支配する織田家宿老丹羽長秀の反応は冷淡であった。父の伝手もこの数年の間にほとんど途切れていた。腑抜けて隠棲した男に世間の風は冷たかったのである。若干十三歳の重政がそう簡単に仕官などできようはずもない。仮に仕官できたところで精々が足軽の末席程度であろう。

 結局わが身の不運を嘆くばかりで、重政に早く岡家を再興せよと尻を叩くだけだった父が、酒毒で亡くなったのは重政十八歳のときである。

 最後まで自らの不運を嘆いていながら、その不運に立ち向かうどころか消極的に酒毒による死を受け入れていた父であった。

 その息子二人が、今や人もうらやむ万石取りとはいかなる運命の皮肉であろう。

 ところが嫡男に恵まれた重政と違い、人もうらやむ万石取りの地位を手に入れながら、兄定俊にはいまだ家を継がせるべき子がいなかった。そのことを定俊は気にもしないどころか、飄々と重政の息子である吉右衛門が継げばよいという。

 兄上はつくづく家というものに何等の価値も見出しておらぬのだな、と生真面目な重政は嘆息するのだった。

 重政にとっては、いや、ほとんどの武将にとって家とは自分が生きた証であり、子孫に伝えてこそ武功をあげた意味もあるものだと思うのだが、兄にはその当たり前が通じぬらしい。

 あるいは岡家再興、岡家再興、と、ことあるごとにお家復興を催促する父の身勝手な業が、兄定俊をして家というものを嫌悪させたのかもしれぬ。

 そんなことを考えながら重政が本丸の前で馬丁に愛馬を預け、東に延びた回廊を大股に歩いていると、庭園を世話している一人の老女が目に留まった。

「おお、おりく殿。兄上は――兄上はいずこにおいでか?」

 おりくと呼ばれた老女――といっても凛としてすっくりと伸びた背筋は三十代にすら思えるのだが――は瓜実顔の美貌をほころばせて「殿は弁天庵に」と謡うように言う。

 その華やいだ微笑みが四十路女とはとても思えぬ清新な乙女の色香に満ちていて、思わず重政が「う、うむ」とどもってしまうほど美しかった。

 本来ならば、おりくは重政のような重臣が、殿、などとつけて遜るような相手ではない。

 もとは甲賀忍びであり、定俊に命を救われて以来傍に仕えるようになったという、取り立てて身分のない女である。それでも重政がこの老女に気を使わなければならないのは、おりくが妻をめとらぬ定俊の唯一の愛人――実質的な恋女房であるせいであった。

(さすがは兄上の心をつかんで離さぬ女性よ……せめて子供でも産んでいてくれれば。いや、それも未練だな)

 繰り言ではあるとわかっていても、重政は彼女に会うといつもそう思ってしまうのである。そうなればあの兄もおりくを妻として娶らざるを得なかったであろうし、重政も岡家の後継者について悩まずに済んだ。

 それにしても――

「弁天庵ということは、また……いつもの悪い癖か?」

「左様でございますなあ」

 いかにも苦々しい重政の口調とは裏腹に、おりくの口調は柔らかい。まるで出来の悪い子供のやんちゃに目を細める母親のような雰囲気がある。こうした母性にこそ兄は惹かれているのかもしれぬ、と重政は思った。

 いやいや、そんなことを考えている場合ではない。今日こうして訪れた理由を思い出し、重政はおりくに頭を下げて足早に兄のもとへ向かうことにした。

 何より人として好ましいと思ってはいるが、重政はどうにもおりくが苦手であった。

「忝い……しばらく誰も取り次がぬように頼む」

「どうぞご存分に」

 いかに楚々としてしとやかに見えても、おりくは歴とした忍びのものであった。実は彼女が内々に定俊を護衛していることを重政は知っている。

 もう一度深々とおりくに頭を下げると、重政は後ろを振り返ろうとはしなかった。





 猪苗代城本丸から東にある、曲り屋のようにくの字をした小さな家屋は、城主定俊が作らせた古田織部好みの草庵である。

 名を弁天庵という。

 障子を大きくしてふんだんに太陽光を取り入れるのが特徴で、室内は明るく、また壁に白い漆喰を塗っていて目の覚めるような壁の白さにこれが茶室か、と驚く人間も多い。正しく異形の茶室と呼ぶべきであろう。

 それはさておき、茶室としては至極まっとうに利用されているが、書院として使用される隣の六畳ほどの畳の間のほうはいかにも問題である。

 なぜならそこは――――



「ふっほっほっ!」

 純白のふんどしを締めただけの全裸に近い姿で、一人の老人が畳の上をごろごろとものすごい勢いで転がっていた。

「くかっ! くかかかっ!」

 鼻息も荒く背中を畳にこすりつけようと腰をくねらせる姿は明らかに異様である。

 老人の汗ばんだ背に張りついた何かが、腰をくねらせたはずみに畳に落ちて、キン、と澄んだ金属音を立てた。

 慶長小判である。よくみれば、六畳間に所せましと小判が並べられていて、その上を老人は嬉々として転がりまわっているのだった。

「ふひょひょ」

 正しく満面の笑みで老人は鼻を鳴らし、小判に頬ずりすると恍惚となってしばし仰向けになって目を閉じた。

 たとえようのない充実感に自然と口元は緩み、老人は至福の笑顔を浮かべて――再び小判の上を転がり始める。

「ほほほ! おほほほ!」

 我が世の春ここに極まれり。幸せを絵に描いたような光景であった。

――この奇矯な老人こそ重政が探していた猪苗代城主、岡定俊である。越後守を自称し、通称を左内という。

 広い額に優し気な小さな瞳、口ひげを整えて笑うとひどく愛嬌のあるクシャクシャした笑顔になるが、好々爺然とした空気の隙間に、刃物のような鋭さが見え隠れした。

 体躯はおよそ五尺四寸、先月四十八歳となったとは思えぬ鍛え抜かれた肉が身を鎧う、正しく武辺の肉体である。

 この男、岡定俊は月に一度は書院に閉じこもって、心ゆくまで小判の感触を裸で味わうのが何より楽しみという奇矯すぎる性癖の守銭奴であった。



――では定俊が世間にありふれた守銭奴か、というとそういうわけでもない。

 命の次に大事な金でも、使うべき時には惜しみなく使い、与えるべき時には惜しみなく与える。そうした武士としての嗜みを確かに持っている男であった。定俊が家康による上杉征伐において一万貫を主君上杉景勝に献上したのがよい例であろう。

 そればかりか関ヶ原戦後にも、この男は気前のよいところを見せている。

 西軍の敗北により家康に屈して、会津百二十万石から米沢三十万石への大幅減封となった上杉家臣は困窮していた。禄高が単純でも四分の一になった計算である。そうなると困ったのが定俊に対する借金の返済であった。

 減収のうえ僻地へ引っ越し、その他新たな土地での生活にかかる費用だけでも大変なのだ。到底借金を返すどころの話ではない。そこで断腸の思いを抱えて定俊に借金をした家臣たちを代表し、直江兼続が定俊のもとを訪れた。

 要するに債権の放棄、手前勝手なことに借金の踏み倒しを定俊に願いに来たのだ。

 もとより上杉家を反徳川へと舵を切らせたのは、自分の責任であるという思いが兼続にはある。家臣の借金も己のせいであると思えば、彼が交渉の矢面に立つことは必然であった。

 いかなる悪罵、折檻を受けようとも、この借金の責めは己一人にとどめよう。そう決死の覚悟を固めて定俊宅を訪れた兼続は、予想外の歓待を受けることになる。

「ようお越しくだされた。山城守(兼続)殿」

 さぞ嫌な顔をされるだろうと思っていたのに、丁重に温かな茶を供され兼続は戸惑った。そもそも定俊は譜代の家臣ではないため、米沢行の家臣からは外れている。定俊ばかりではなく、同じ牢人衆の車丹波や反町大膳亮などの老将も召し放ち――要するに解雇という命令を受けていた。その定俊がこれほどに自分に愛想のよい理由が兼続には皆目見当がつかなかった。

「こんな寒い日は、外で焚き火で暖を取るのも一興というものですぞ?」

 茶を一服して縁側から庭に出るよう促されると、何本かの薪を重ねて赤々と火が燃え盛っていた。先ほどから借金の件をはぐらかされ続けていた兼続は、意を決して定俊に話を切り出した。

「岡殿、こたびの移封に関し、某、恥を忍んでお願いしたき儀が……」

「山城守殿、まことこのような寒い日は焚き火には良き日でございますなあ」

 定俊の涼しい声に、一瞬馬鹿にされているのかと疑った兼続は、焚き火を眺める定俊の視線の先を見て目を疑った。

――燃えているのはまさに上杉家臣団の借金の証文であったからだ。

「岡殿、これは…………」

「旅立ちに余計な荷物は焼き捨てていくに限りますゆえ、ご放念くださりませ」

 定俊はかつての同僚である上杉家臣団の借金を丸ごと帳消しにしてくれたのである。この後上杉家は幕末の上杉鷹山公を迎えるまで、ついに財政を再建することはかなわず窮乏にあえぎ続ける。その窮乏を見かねて、あえて定俊が私財を捨ててくれたことに兼続は震えた。

 兼続は定俊の常軌を逸した金に対する執着を知っている。しかしその執着を超えたところに定俊という男の本当の価値があることも知っていた。いや、知っていたつもりだった。

 正しく武士とはかくあるべきではないか。普段は命を惜しんでも、いざとなれば喜んで死を選ぶ。その選択を間違えないものこそ本物の武士である。

 その後兼続は、終生定俊に対する恩義を忘れず、彼のような男こそ上杉には必要であったと定俊を失ったことを悔やんだという。あの伊達政宗に慶長大判を薦められた際、銭金は軍配を預かる手の穢れとまで言った男が、である。

 定俊の金好きは結局のところ変わるわけではないのだが、それでもなお最後の一線で武士としての一分をわきまえた良将というのが一般的な定俊への評価であった。

 しかしさすがに全裸で金の上を転がるという悪癖だけは誰にも弁護できなかった。いい年をした老人がにやけながら小判の上を裸で転がっていたら、それを武士の嗜みと見るのは確かに不可能であろう。



 雨月物語に曰く

『庁上なる所に許多の金を布き班べて、心を和むる事、世の人の月花にあそぶに勝れり。人みな左内が行跡をあやしみて、吝嗇野情の人なりとて、爪はじきをして悪みけり』と云う。



 上田秋成の流麗な名筆のおかげで、定俊の奇行は後世にまで語り継がれることとなった。

 左内とは定俊の通称である。岡左内と彼を呼ぶ者も多い。若き日には岡源八郎定俊を名乗っていたという。

 天性の利殖家であり、まことしやかに蒲生家中において定俊に借金をしておらぬものはいないと噂される。

 決して吝嗇なだけの男ではない。たかが一万石程度の身代(およそ年収二億程度と思われる)で、吝嗇なだけでそんな莫大な財を成すことなどできようはずがない。定俊が現在の財を成したのは、貸金と廻船(貿易)によるものだ。

 実は数奇なことに、定俊は生まれ故郷の若狭を離れ、蒲生氏郷に仕えるまでの数年間、堺商人、間垣屋善兵衛の用心棒をしていた時期がある。

 今でもその付き合いは続き、間垣屋善兵衛は岡家の重要な御用商人にして莫逆の友なのであった。

 思えば定俊がこれほどに銭に執着するようになったのは、そのころに商売に携わった経験の影響が大きいであろう。

(懐かしい……あのころは銭が増えるのが楽しくて楽しくて仕方がなかったものじゃのう)

はたして、あのときと同じ夏の陽気がそうさせるのか。

 定俊はあの若い日、銭に懸けた青春を懐かしく思い出していた。





 間垣屋善兵衛と定俊の出会いは、故郷若狭を出奔してからまだ間もない夏の明け四つほどの時であった。

 はるばる若狭から京の都を目指していた定俊は、敦賀街道を南下し途中越(現在の大津市伊香立途中町付近)の山道で、たまたま比叡山の山法師に強盗に遭いかけている商人の一行とでくわしたのである。

 手代らしき男が二人ほど、すでに切り裂かれた傷口を押さえて呻いていた。山法師のほうは三人ほどで、商人の鼻先に手槍を突きつけている。

「これはどうしたことだ?」

 ふと商人と定俊の目と目があった。

「こら天の助けや! お武家はん、金ならはずみまっせ!」

 襲われて今にも殺されるかもしれないというのに、なんと能天気な男だと定俊は思わず笑う。何がおかしいといって、商人が定俊が自分を助けてくれると信じて疑っていないのがおかしかった。

「俺は高いぞ?」

「措け。余計な殺生は拙僧の好むところではない」

 山法師はつまらなそうに定俊に向かってヒラヒラと手を振った。三対一という圧倒的優位を信じているがゆえの余裕であった。

「僧兵くずれが峠で商人を襲うとは、安達ケ原の鬼婆も真っ青だな。御仏に申し訳ないとは思わぬか」

第六天魔王、織田信長が都の鎮護比叡山を焼き討ちにしたという話は、当然定俊も知るところである。そして比叡山の威光を嵩に贅沢三昧な生活を送っていた僧兵が、半ば山賊のように跋扈しているという噂を、京へ上る道中で定俊は幾度も耳にしていた。

「うぬ、御仏に仕える僧を馬鹿にするとは、貴様も仏敵信長に与する者か!」

 さすがに山法師にも、定俊が侮蔑している雰囲気は感じ取ったらしい。顔を赤くして脅すように怒鳴る。

「むしろ信長には恨みしかないが、貴様らのようにしたり顔で御仏の名を騙る無法の輩はもっと大っ嫌いでな」

 信長に攻め滅ぼされるずっと以前から、越前朝倉家は一向宗の跳梁跋扈に悩まされてきた。

 それどころか朝倉義景の跡を継いだ朝倉景鏡を殺したのも一向一揆の馬鹿どもであり、岡家が領地を没収されたのも、元はといえば一向一揆のせいのようなものであった。

 思えば父が世を拗ねたような屈託者になったのは、昨日まで主を慕っていたはずの領民が般若のように手のひらを返し、汗水を流して時間をかけて育ててきた作物をイナゴのように根こそぎ食い散らかしてしまう一向一揆の暴力性にあったのかもしれない。彼らの大半は農民であり、作物を育てるのにどれほどの苦労があったか身に染みて理解しているはずなのに、その破壊ぶりはあまりに躊躇も容赦もなかった。

「おい、助けてやるから当座の生活と仕官の口利きは頼んだぞ?」

「大船に乗った気で任せなはれ」

 定俊はほんの冗談で口にしたのだが、打てば響くように商人は笑って快諾した。

「ふん、泥船でないとよいがな」

 定俊と商人ののんきなやり取りを、山法師たちは自分たちが侮られたと受け取った。事実、定俊は完全に山法師を見下していた。

「おのれ! 地獄で閻魔様に詫びるがよいわ!」

「とろくさ」

 山法師が槍を突き出すよりも、定俊が懐へ飛び込むほうが遥かに早かった。呼吸の盗みかたに明らかに雲泥の差があった。

 槍は確かに戦場では脅威となる武器だが、そもそも狭い峠道で振り回すには向いていない。山法師たちもまた、足軽のように槍先を整え集団で戦うことに慣れてはいなかった。

 要するに比叡山の威光を嵩に庶民を脅すことには慣れていても、本格的な合戦というものを信長に攻め滅ぼされるまで彼らは一度も経験していなかったのだ。だからいともあっさりと定俊に接近を許してしまう。

 懐に入られた槍はもろい。定俊は五尺四寸の体を地を這うように前傾させ、抜き打ちに山法師の脛を斬った。

「ぎゃっ!」

 たまらず山法師が叫んだときには、すでに返す刀でもう一人の脛を斬り上げている。

 江戸期に柳剛流という脛を切り払うことを得意とする剣術が生まれるが、戦国の時代から脛を狙うのは有効な組打ち技のひとつであった。組打ちとは転倒した相手の首を落とすために、源平の昔から練磨を続けた白兵戦闘法であり、当然定俊もそうした組打ち術を幼いころから修めている。

 そんな修羅場を経験したこともない、おそらくは信長侵攻の折もたちまち逃げ出した臆病者の手合いであろうことは、一目見た瞬間から知れていた。

 定俊が彼らを素人だと判断したのは、彼らが間合いを全く測れていなかったためである。槍には槍の、刀には刀の間合いがあり、その間合いこそが相手の力を封じて自らが万全に力を発揮することに通じるのだ。 そのような基本のできていない輩が、戦場を生き抜いた兵つわものであるはずがなかった。

「ま、待て! 我らは比叡山復興のため寄進を募っていただけじゃ! 御仏の慈悲に免じて見逃してはくれまいか? これ、このとおり!」

 たった一人残された山法師は、仲間があっさり倒されたのを見てたちまち戦意を雲散霧消させ、恥も外聞もなく土下座して哀訴した。

「御仏の慈悲か……便利な言葉だな。俺は貴様らのその便利な言葉が昔から好かぬ。ゆえに俺からも便利な言葉をひとつ送ろう」

 どうせこの場を見逃しても、彼らはまた弱い商人を狙って強盗を繰り返す。今土下座しているのはたまたま定俊が強者であったという理由にすぎない。比叡山を失った彼らの食い扶持は、まさに強盗によって成り立っているのだから。

 その現実を隠して美辞麗句と屁理屈を並べる僧の舌が、唾棄すべきものに感じられて定俊は鋭く舌打ちした。

「こうなるのも貴様の前世の業というやつよ。きっと来世では報われるであろう」

 定俊が刀を振りかぶるのを、山法師は絶望を顔に張りつかせて見上げた。その時間はごくごく短かった。

 山法師の肩口から肺までを、有無を言わさず定俊が一気に斬り下げたからであった。



「岡源八郎定俊と申す」

「堺で廻船屋を商うとります、間垣屋善兵衛と申しますわ」

 そうして巡り合った善兵衛と定俊は、出会ったばかりにもかかわらずなぜか不思議と馬が合った。

童顔で福々しい丸顔の善兵衛は、もう今年の春に二十五を超えていたが、若干十五の定俊と並んでもそれほどの年の差は感じられなかった。それどころか定俊も丸顔の部類であるので、似ていない兄弟と言われても通じるような空気がある。

「まだ日も高いうちから僧が強盗を働くとは世も末だな」

「いやいや、世も末どころか今はこの世の春でっせ!」

 思わず定俊は胡乱な目で善兵衛を見た。たった今殺されかかっていた善兵衛が、何を言っているのか全く理解ができなかったからだ。

「比叡山延暦寺といえば京の都の商売の元締めですねん! 土倉(金貸し)、酒、馬借(運送業)まで軒並み山門(延暦寺)の息がかかってましたんや。それがのうなったおかげでわいのような駆け出しの若造でも商売できてますのやで」

 信長の比叡山焼き討ちは、いわば財閥解体のような効果を京にもたらしている。これまで権威と武力で様々な業種の商売を独占してきた延暦寺が力を失った。そればかりではなく興福寺や南禅寺など大寺院の仏教勢力は、信長によって次々と既得権益をはく奪されつつあったのである。信長がそれを狙っていたかどうかはわからないが、そうした副次的な効果があることを、定俊は初めて知った。

 そこで山門に代わって新たな経済の担い手として台頭してきたのが、堺の会合衆とよばれる豪商たちである。

「要は山門の力はあんなならずものの山法師なんかやない。銭や。銭の力こそが山門の力の源だったんや」

焼け跡に逃げのびた僧が戻ってきても、皇族から新たな法主に尊朝法親王を迎えても、延暦寺に往時の力が戻らないのは、銭の力が戻らぬためだと善兵衛は言っているのだった。

「ふむ、――――銭は力か」

(面白い)

 定俊にとってそれは新鮮な驚きであった。

 銭のないつらさは領主の家に産まれたのだから身に染みてはいるが、銭こそが強さであると考えたことはなかった。武士にとって、銭とはあくまでも戦いには必要な余禄である。

 むしろ銭を忌避する武辺も数多く、直江兼続が「軍配を握る手に金は不浄」と言ったように、銭は低くみられがちであった。

 戦のため、政まつりごとのため、銭は必要なものではあるが、武人の本質的なものとはいえない。銭で人が斬れるか、と故郷の父なら言うであろう。

 ここで面白い、と思ったのは定俊の直感である。しかしこの直感を、この時代の武士――もちろん定俊も――はことさら大事に思っていた。

「おお、ええ顔してますなあ。ほならわいと一儲けといきますか?」

「よいのか? 腕前以外には何も役に立つとは思えぬが」

 槍も刀も人よりは能く使う自信がある。教養もそのあたりの足軽とは比べ物にもなるまい。しかしそれが商売で役に立つとは定俊には思えなかった。

「そんなことあらしまへん。というより、お武家はんがうちらにとっては一番の上客でいらはりますので」

 武士が何を欲しがるのか、何を大切に思うのか、銭には変えられぬと思う大事な品とは何か。それが今後の商いでもっとも大きな種になると善兵衛は考えていた。そうした意味で、定俊のような固定観念に固まっていない若者で、腕と度胸のある男は得難い人材であったといえる。

 それになぜか、会ったばかりの定俊という若者が、善兵衛はことのほか気に入ってしまったのである。

 武士だけではなく、商人もまた直感と縁を大切にすることでは人後に落ちぬ人種なのであった。





 善兵衛の店は堺の守護神として信仰も厚い、開口神社から南へ下った坂道にある。

 名だたる豪商と比べれば、吹けば飛ぶような小さな店構えでありながら、朱塗りをふんだんに取り入れた中華や琉球を思わせる特異なつくりの店だった。

 定俊は気づかなかったが、実は堺には多くの中華の人間が生活しており、善兵衛と同様の店は数は少ないが存在していた。

 暖簾をくぐって早々、善兵衛は番頭を呼びつける。

「はよう金瘡医はんを呼んでや! 傷はそう深うはないはずやけど、夏は傷が腐りやすいさかい」

「へ、へえ!」

 槍の傷は見た目よりも傷が深いことが多い。出血は止まったようだが、医者に見せたほうがようという善兵衛の判断は決して間違っていないと定俊は思う。一見軽そうだが、思っていたより部下を大事にする男であったようだ。

 畳十畳ほどの書院へと定俊を通し、冷えた井戸水をもってこさせた善兵衛は、ぐっと一息に飲み干すとおもむろに定俊に問いかけた。

「ほな、定俊殿にお聞きしますわ。お武家はんが絶対に欲しがるものはなんでっしゃろな?」

「――――なんとも気の早い話だな。商売人とはかくあるものか」

 つい先ほどまで己の命も危うかったというのに、子供のように目を輝かせて定俊の答えを待っている善兵衛がなんともおかしい。おかしいのだが、銭は力なりという先ほどの言葉が定俊の胸の奥にひっかかっていた。

 もし銭が力であるのならば、この人のよさそうな丸顔の商人は、いったいどれほどの力をもっていることだろうか。

 力のない武士は哀しい。その弱さゆえの哀しさを、定俊は身に染みて知っている。

 顎に手を当て、しばし黙考した定俊は、呟くように口を開いた。

「…………硝石、であろうな」

 米も槍弓刀も馬も鉄砲も、必要不可欠なものではあるが、手に入らぬというわけではない。特に堺商人に伝手があれば、まず手に入らぬものはないだろう。

 しかし硝石だけは別であった。いまだ日本には硝石の鉱脈が発見されておらず、最新の土硝法による人造硝石の生産では、質量的にも時間的にも絶対的に不足していた。

 唯一その硝石を独占的に販売しているのが南蛮商人であり、おかげで独自の交易ルートを持たない武田や上杉などは、鉄砲が強力な武器であることがわかっていても、肝心の硝石が手に入らないため、せっかくの鉄砲隊が使いたくとも使えないという有様である。

 武田家の重臣であった穴山梅雪が、「敵の手下のふりをして敵の商人と取引せよ」と苦心の命令書を部下に送ったものが現存しているが、なりふり構っていられないと焦る気持ちがにじみ出るかのようである。それほどまでに信長の鉄砲と硝石の統制は徹底していた。

 定俊が仕えた越前朝倉家も、ついに鉄砲の大量使用が一度もできぬうちに滅亡を余儀なくされている。

 今後需要が拡大するのが明らかでありながら、欲しくても決して手に入らぬもの。それが硝石であった。可能かどうかはともかく、商うことができれば確実にお宝の山ができるだろう、と定俊は結論した。

「硝石でっか。なるほどさすがはお武家はん、ええ目の付け所でんな。ただ硝石の買い付けはほとんど堺の大店が独占しておりますのや」

「そうであろうな」

 当たり前だ。堺の大商人が硝石を独占しているからこそ、堺を直轄地とした信長もまた硝石の流通をコントロールすることができる。うまい話がそうそう転がっているはずもない。

「あきまへんな。早合点は損のもとでっせ?」

 そんな定俊の胸の内を察したのか、したり顔で善兵衛はぽん、と自分の胸を右手で大仰に叩いて見せた。

 ひょうげてみせてはいるが、そこには確かな自信の色が窺える。

「こうみえて、わては倭寇に伝手がありますねん!」

「本当に見かけによらんものだな」

「放っといてや!」

 定俊の素直な感想に善兵衛は拗ねたように喚いた。

 どうやらこの善兵衛、自分でも童顔で押し出しのない面構えを気にしているらしかった。

「倭寇と言いましても日本ヒノモトの海賊やありまへん。明の王ワンという男ですわ」

 倭寇と一口にはいっても、実際のところ日本人は二割にも満たぬのだと善兵衛は言う。残りの八割以上は中華や朝鮮の人間で、その活動領域は遠く天竺インドにまで及ぶ。

 彼らの多くは博多商人や堺商人と手を結んだ非合法な海上交易を商売としていたため、頻繁に堺の街を訪れる機会があるのである。

 善兵衛が友誼を結んだその男は、名を王元紘という。およそ与太話の類であろうが、二十年近く前に処刑された大海賊王直の一族を名乗っているようだ。

 王直といえば数百隻の大船団を率いた倭寇の大頭目で、日本への鉄砲伝来にも関わった大立者である。松浦隆信の保護を得て平戸に在したが、のちに明から罪を許し官位を与えると騙され千五百九十九年に処刑されていた。

 その一族の出身という割には出会いのきっかけはお粗末なもので、縄張り争いで船団を失い、危うく自分の船も沈みかけて、あてどなく漂流していたところを助けたのが善兵衛らしい。

「奇貨居くべし、という言葉を知ってまっか?」

「その王元紘が善兵衛殿にとっての荘襄王ということか」

「いやいや、さすがに荘襄王はいいすぎでんな」

 きまり悪そうに善兵衛は笑った。

 奇貨居くべし、とは古代中国で呂不韋という大商人が、人質としてやってきた秦の王子を支援して、見事に秦の国王とすることでついには秦の宰相へと成りあがったという故事である。

 そんな教養をひけらかし、それをあっさり定俊に返されてしまったことで、急に恥ずかしさが襲ってきたらしかった。

「…………それからうちで資金を出しましてな。今じゃ十隻以上の船団にまで膨れ上がってますわ。それでも倭寇のなかではようやく中の中というとこでんな」

「信用できるのか?」

 人は容易く人を裏切る。それが親子三代主君に仕えた重臣だとしても、いつ裏切るかわからぬのが戦国という時代であった。主君義景を裏切った一族の重臣、朝倉景鏡に仕えた定俊は身に染みてそれを知っている。

「これは日本でもそうかもしれへんが……水に落ちた犬は打つのが世の中ですねん。だから水に落ちた時に助けてくれた人は大事にせなあかん。あちら(中華)のお人はその傾向が特に強いそうでっせ?」

 泥船に付き合うことまでは期待でけへんでっしゃろが、とまで善兵衛は言わなかった。

 これほどの武力と教養を持つ定俊が、一人で仕官を探しているということは、なんらかの没落した名家の子息の可能性が高いからだ。没落した名家というのはほぼ全てが、同盟国なり配下なり、なんらかの形で裏切られていることを善兵衛は知っていた。

「まずは王の伝手で硝石を明の国から買いつけるところから始めましょか?」

 買いつけるには当然のように略奪してくる、という意味も含まれるのだが、そうした事情に目をつぶる程度には、善兵衛もまた戦国の商人であったということであろう。



 いざ始めてみると、商売というものは定俊にとって恐ろしく面白いものであった。

 この時代は、ある意味で日本に訪れた最後のゴールドラッシュのようなもので、石見銀山を代表とする世界最大級の銀の輸出国となった日本は、一躍大国スペインやイギリスの注目の的となった。

 しかし問題なのは中華の明政権が、大内義隆が陶晴賢に討たれた大寧寺の変により、勘合貿易を停止してしまったことである。

 勘合貿易とは明の皇帝が朝貢してきた臣下を冊封するという体裁で行う貿易のことで、あらかじめ用意された割符の片方を互いが持ち、それがぴったり合うことを確認して交易が開始される。

 その割符を幕府から譲り受けていたのが大内氏で、大内氏が滅亡した以上勘合貿易を続ける理由はないというのが明の立場であった。

 大内氏の地位をほぼ引き継いだ全盛期の毛利元就をもってしても、勘合貿易の復活は叶わなかった。

 これにより明から銅銭を輸入していた日本では急速に貨幣流通量が不足し、米を銭の代わりにする米本位経済が浸透していくことになる。

 その日明貿易の断絶を補ったのが、王たちをはじめとする倭寇の集団であった。

 もちろん彼らが非合法な海賊の集団であったことも事実である。しかしながら日本にとって、明の生糸や硝石をはじめとする品々が必要不可欠であることもまた確かなのだ。ある意味彼らは必要悪な存在だった。

 もっとも非合法な倭寇だけでは到底全ての需要を満たすことはできず、市場の大半は南蛮商人が独占して暴利をむさぼっているのが現状である。特に硝石は香辛料と並んで彼らの欠くべからざる収入源となっていた。

「はっはっはっ! やっぱり生糸は外れませんわ。こりゃ笑いが止まりませんでえ」

 善兵衛はほくほく顔で船から下ろされる大量の生糸に目を細めた。

 今回これほどの大口で生糸を仕入れることができたのは、倭寇とポルトガル商人が縄張り争いで争ったために得た漁夫の利である。

 これまでは倭寇と南蛮船は協力関係にあったが、貿易額や流通量が増加したことで、このところ互いの縄張りをめぐって武力衝突することが増え始めていた。

 今回は王元紘の前に、たまたま相討ちに近い形で潰滅した船団がいたので、ありがたく生糸を略奪させてもらったというわけだ。

 間垣屋の主力商品は硝石だが、実は生糸もはずれのない高額商品である。明で仕入れた良質の生糸は、ものによっては二十五倍もの高値となって国内で売りさばくことができた。正しく濡れ手に粟のぼろもうけであった。

 ちょうど博多織や西陣織の技術が上がり、海外への主要輸出商品として、切実に品質の高い生糸が求められていたので、需要は天井知らずにあった。

「こんなぼろい商売があるのか」

 定俊は驚くというよりもまず呆れた。同時に、痺れるほどに興奮した。見たこともない宝の山に、自分もいつかこれほどの金を動かしたいと願った。

 若狭の一領主では到底見ることのできない金額が、定俊の前で日常的に飛び交っている。しかも善兵衛は堺商人としてはまだまだ駆け出しであるというではないか。

 では豪商と呼ばれる今井宗久や津田宗及や千宗易たちは、いったいどれほどの財を持つというのか。

 後の世に紀伊国屋文左衛門や三井高利、鴻池善右衛門といった豪商たちが誕生するが、彼らの莫大な富は実のところ、この時代の堺の豪商たちには及ばない。

 なぜなら彼らはあくまでも日本国内の豪商であるのに対し、堺商人はまさに世界を相手にしていたからだ。

 それに引き換え、猫の額のごとき土地にしがみつく武士のなんと小さいことか。

 そう定俊が考えてしまうのは、先祖代々の土地にしがみつく父の妄執に対する忌避感があったことは確かである。しかしこの時代の武士は一所懸命が当たり前であり、定俊のような武士が圧倒的に少数派であるのもまた確かなことであった。



 みるみるうちに善兵衛から知識と交渉術を吸収し、さらに有力武家に産まれた教養と経験を持つ定俊は、いつしか間垣屋にとって不可欠な存在になろうとしていた。

 このまま定俊を右腕として育てることができれば、間垣屋はあるいは会合衆と肩を並べる大店になることも夢ではない。優秀な商人である善兵衛をしてそう思えるほどであった。

 特に定俊が、海の荒くれものである王元紘とその一党に気に入られていることも大きい。

「あれは正しく海の男だ」

 と王元紘は断言する。命を預けるに足る男でありながら、己の命を他人に預けない男なのだという。いかなる意味なのか善兵衛にはわからなかったが、王の配下によれば、最大級の賛辞であるらしかった。

 腕っぷしも強く、人当たりもよくて、土豪の長男という育ちの良さで風格のような雰囲気の漂う定俊は、彼らにとって信頼に値する男と認められたらしい。

 先日なども貴重な色絵皿を個人的に王元紘に頼んでいたらしく、明の青花をいくつか手渡されていた。このところ高騰著しい景徳鎮であれば、数寄者に転売すれば目を剥くほどの値がつくに違いなかった。

 そうした定俊の個人的な売買を善兵衛は止めようとは思わなかったし、蓄財した銭を前につぶらな瞳を細めて笑う定俊を、可愛いところもあるものだとすら思っていた。

 ところが実はそんな可愛らしいどころの騒ぎではないことを知ったのは、つい二日ほど前のことである。

定俊は、間垣屋にいくつかある客間のひとつを私室として与えられていた。

 使用人がいうには、夜毎その一角からちゃりん、ちゃりんと銭の音が鳴るという。気味が悪いので止めて欲しいらしい。

 好奇心に駆られた善兵衛は、その夜足音を忍ばせて確かめに行った。するとどうだろう。定俊が永楽銭を数えては頬ずりしながらなんともいい顔で笑っているではないか。銭を落としてちゃりん、と音を鳴らしては、うしし、と涎を流さんばかりに笑み崩れるその表情は、蕩けるようにだらしなく緩んでいた。             

「にょふ……にょふふふふ…………」

 それはもはや、襖を開けてからかってやろうという雰囲気ではなかった。邪魔をしようものなら生涯呪われそうであった。

(わては何も見んかった…………それでええんや)

 どうやら定俊の金に対する業は、善兵衛よりもよほど深いものであるらしい。善兵衛はもっと取引を大きくして店を拡大したいとは思うが、金そのものに対して定俊ほどの執着はない。

 そんなことがあったとはいえ商売に並々ならぬ関心を見せながらも、毎朝のつらい稽古を怠らない定俊が、武士としての生き方を諦めたわけではないことは、善兵衛の目にも一目瞭然である。それに何より定俊にとって善兵衛は、友にはなれても主人となれる男ではなかった。

 そう、二人の関係は三年弱が経った今も、主従ではなく対等の協力者のままであった。

 間垣屋の店主として、それなりの人を使う善兵衛には、それが残念でもあり同時にうれしくもあった。

 やはり心のどこかで善兵衛自身も本当に定俊が似合うのは、戦場を駆け巡る武者の姿であると思ってしまったからであろう。



「――――このまま商人になる気はあらしまへんか?」

 定俊が間垣屋にきて三年弱、長々と引き延ばしてきたがそろそろ限界か、と善兵衛は思い切って尋ねた。まだ吐く息も白い三月も初めのことであった。

 その気になればすぐにも定俊は一端の商人になれる。おそらく定俊が個人的に蓄えた資産は、十分に暖簾わけをして店を構えるに足るものとなっているであろう。

「ないな」

 にべもなく定俊は即答する。

 自分でも驚くほど、その言葉はすんなりと口をついてでた。

 商人というのは面白い。銭が槍より強い力だという考えも今は共感している。というより、銭を集めるのはひどく楽しい。大量の銭は見ているだけで興奮する。このまま善兵衛や王元紘たちと付き合っていけたらさぞや楽しかろうとも思う。

――――それでもなお、岡源八郎定俊は武の者である。そこだけは決して諦めることも譲ることもできなかった。

 武士らしからぬ父を忌避することがあっても、定俊は一度も武士であることをやめようとは思わなかった。なるほど、この岡源八郎定俊は武の者であったか。期せずして善兵衛の問いに自分の本性を覗き見てしまったような気分であった。それがたまらなく清々しかった。

「さいでっか。ま、おかげでわいも未練なく話せますわ」

 憑き物が落ちたように善兵衛は笑った。肩の力が抜けた、てらいのない良い笑いであった。

「昨年から硝石のお得意様にならはった蒲生氏郷様から、二十貫で仕官しないかとお話が来とります」

 かつて六角に仕えた日野の領主で蒲生氏郷、という織田信長の女婿となった出来物の話は定俊も聞いていた。

 すでに天正十年六月二日、本能寺において総見院(信長)は惟任日向守(光秀)に攻められ横死していたが、義父を失っても、氏郷の存在感は失われるどころかますます大きさを増しているという。

「徳川様と羽柴様の戦いで有能な武士もののふを探してはるようで」

 三河の徳川家康が織田信雄と結び、羽柴秀吉に対する事実上の宣戦布告を行ったのはつい先日の三月六日のことである。

 四国の長曾我部元親や紀州雑賀党も同時に決起し、越中の佐々成政も表立って兵を挙げないまでも水面下で蠢動し始めていた。

 柴田勝家を賤ケ岳で破って以来、実質的な天下人となった羽柴秀吉にとって、おそらくは最後の天下への挑戦者であった。

 関東の北条、九州の島津、いずれも強敵ではあるが、天下を望む気概はない。大義名分としても能力としても、織田信長唯一の同盟者であった徳川家康を除いて、羽柴秀吉に挑戦できる資格はないといえるだろう。

 その秀吉の支配を受ける形となった蒲生家も、伊勢方面で織田信雄と対決することを強いられていた。

 今は使える武士なら喉から手が出るほど欲しい。

「定俊はんには物足らへんかもしれへんけど……」

 すでに善兵衛は、定俊が若狭で城持ち国人領主の嫡男であったことを知っている。

 二十貫という禄は正直、定俊には物足りないだろう。おそらく若狭での領地を継げば一千貫はくだらなかったはずである。

 しかし実績のない十八歳の若者を召し抱えるのには十分破格な知行であり、それ以上の待遇を求めるのは、さすがの善兵衛にも難しかったのだった。

「なんの、初めだけのことよ」

 定俊は破壊顔して善兵衛の杞憂を一蹴した。むしろ変に高禄などもらっては古参家臣の嫉妬を買うだけである。二十貫というのは、これから成り上がるには最適な貫高だと思えた。

――――事実、定俊はそれから半年と経たぬうちにその言葉を現実のものとしたのである。







 羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合の戦端が開かれると、蒲生氏郷は伊勢攻略の先陣を担い伊勢峯城をたちまち攻略した。正しく信長の娘婿に名に恥じぬ電光石火の戦巧者ぶりであった。

 さらに休むまもなく加賀野井城をもせん滅したものの、信雄の家老木造長政が籠城する伊勢街道の要衝、戸木城はどうにも攻めあぐねている。

 すでに包囲から数か月、ようやくこのところ守城側にも疲れが見え始めたところであった。

 戸木城はもともと木造具政の隠居所として築城された簡易な小城であったが、息子長政の代に拡張され南伊勢防衛の中核を担うこととなった堅城である。南は雲出川が流れ、西は稲白川の深い谷であり、北は深い田が広がり、東は奥行のある横堀で守られていて、大軍の侵入を寄せ付けない。

「…………首尾はどうじゃ?」

「恐れながら、さすがは名門木造、渡りをつけるのに難儀をしている様子にて」

 主将蒲生氏郷を前に無念の表情を見せるのは、甲賀二十一家のひとつ佐治家の棟梁佐治義忠であった。蒲生家との付き合いは長く、先々代の蒲生定秀からの付き合いである。

 もともと蒲生家は六角家の家臣であり、領地である日野は甲賀の里にほど近い。自然氏郷は甲賀忍びを使うことに慣れていた。

 実は戸木城内部には織田信雄に愛想をつかした内通者がいるのだが、その男との連絡が先日以来絶えているらしい。連絡役の渡りが捕らえられてしまった証拠であった。

 木造長政は後のことではあるが、百々綱家とともに成長した信長の孫の三法師、織田秀信の守役を任されるほどの武将である。

 名将氏郷の力をもってしても、正攻法では攻め落とせずにいるのだから、村上源氏の庶流北畠氏の血を受け継ぐ名門木造の血はやはり伊達ではないといえるだろう。

「こちらから背中を押してやらねばなるまいな」

 氏郷という男は元来守勢の人ではなかった。連絡がつかぬからといって、いつまでも座して待つという選択肢は氏郷にはない。動かぬならばこちらから動いて裏切りを促すまでだ。

 あまり戦いを長引かせると、大軍を動員しているこちらが不利になる。四月の長久手における戦いで池田勝入斎を討ち取られ、羽柴勢全体が敗北しないために汲々としている時でもある。

 氏郷の見るところ、遠く九州からは大友宗麟が息も絶え絶えの救援要請を行っており、四国の長曾我部元親が淡路をうかがう状況では、このまま徳川との長期戦を戦うのは愚策であった。

 ゆえに、氏郷は近い将来、羽柴と徳川の間でなんらかの手打ち、あるいは決戦が行われるのではないかと考えていた。いずれにせよこの戦はもう長くはない。

 峯城や亀山城を攻略しただけでも武功としては十分だが、今後の秀吉との間で立身するためにはもう一押し手柄が欲しいというのが本音である。

 ならばここで力押しをして、内通者が裏切りやすいよう背中を押してやるべきではないか。

「煙硝(火薬)は足りておるか?」

「ははっ! 先日の間垣屋の手当てにより、あとひと月はもちますかと」

 氏郷の問いに間髪入れず大柄な老人が答えた。老人の名は結解十郎兵衛、氏郷の守役として初陣から付き従っている男である。もともとは六角家の家臣で槍の十郎兵衛と謳われたが算盤勘定にも長けていた。

「間垣屋か……こたびも善兵衛には随分と助けられたな」

 堺の豪商はほぼ全てが秀吉に独占されてしまっていて、大量の鉄砲と煙硝は徳川家康と直接対峙する尾張へと根こそぎ運び去られている。

 そんななかで、倭寇という独自の販売経路を持つ間垣屋善兵衛の存在は、蒲生家にとって非常に大きかった。

 多かれ少なかれ、大名家はそうした独自の伝手を持つものだが、間垣屋は氏郷のような小大名にとっては非常に優秀な得難い商家であったと言える。

「――――そういえば間垣屋から雇い入れたあの若者はどうしておる?」

 ふと思いついたように氏郷は言った。

 仮にも氏郷は蒲生家の当主であり、信長の娘婿として畿内では一目も二目も置かれる存在である。 

 足軽の一人一人がどうしているかまで把握していられるはずがない。こうして思い出したのは本当に偶然のようなものであった。

「ああ、あの男はなかなか面白い男ですぞ?」

 十郎兵衛はくつくつと背中を丸めて破顔した。この男には珍しくどうやらよほど件の男がお気に召したらしかった。

 滅多にみることのできない守役の砕けたにやけ顔に、氏郷はひどく興味をそそられた。

「どうやら本当に面白い男のようだ」

「ええ、亀山でも首を三つ上げましたし、次の手柄次第では役を与えるのもよいかもしれませぬ。なかなか見どころのある男ですぞ?」

 問題は一介の兵でありながら、定俊が煙硝を運んできた間垣屋の手代たちを前に、まるで侍大将のようにふるまっていたということか。

 たかが十八ほどの若者が、手代や人足を自分の手足のように動かす様子がおかしくて、十郎兵衛はまた笑った。

 人を使う才というのは、なかなか身につくようで身につかぬものであった。

 あの岡という若者、よほど間垣屋では知れた顔であったらしい。

「――うむ、では確か岡源八郎……と申したか? 明日は先手衆へ入れてみよ」

「御意」





 定俊はこの半年近く、伊勢の各地を転戦しそれなりの手柄をあげていた。

 しかしそれ以上に定俊が家中で一目置かれるようになった原因は、なんといっても間垣屋との密接なパイプのおかげであろう。

 煙硝などの戦略物資を間垣屋に頼っている蒲生家としては、間違っても間垣屋を怒らせるわけにはいかなかった。一度は信長の支配を受け入れたとはいえ、堺の町はまだまだ客を選ぶ商売の自由を維持し続けていた。

 秀吉のような権力者であればともかく、吹けば飛ぶような蒲生家の身代では、怒らせて取引先を変えられてしまえばそれまでだ。

 ゆえに、誰の目にも見事な武者働きを認められながらも、不本意ながら定俊はある種、腫物のように扱われていた。

「源八! 源八はおるか?」

 そんな空気に一切頓着しない男の野太い声が響き渡った。

 身の丈は六尺近く、まだ若いのに額は頭頂部近くまで禿げ上がっている。太く不釣り合いに大きな鼻から、興奮で荒くなった息が漏れていた。

――横山喜内頼郷、もとは六角家臣で氏郷の初陣からずっと付き従っている男である。まさに蒲生家中でも有数の強剛の士であり、盛り上がった肩口からの岩のような筋肉の輪郭が仁王像を思わせるため、仁王喜内と綽名されていた。

 後に氏郷から蒲生姓を与えられ、蒲生真令を名乗ることになる。氏郷死後は石田三成に仕え、関ヶ原の戦いにおいて織田有楽斎の軍勢を相手に壮絶な戦死を遂げる。

 己の腕を頼むこと厚いが、同僚に嫉妬せぬさっぱりとした性格で、先日来何かと定俊に兄貴風を吹かせることが多い男であった。この戸木城の戦いにおいても、先手の一手を任されており、将来を嘱望される若手武将の一人である。単純に取高を比べるならば定俊などより遥かに上の存在であるはずだった。

「喜内殿いかがなされた?」

「おお、源八! 喜べ、明朝の総攻めにお主も俺とともに先手を任された」

 喜内は気安く、定俊を源八郎を縮めて源八と呼ぶ。

「これはありがたし」

 ぱっと定俊の顔が喜色に輝いた。たとえ城攻めでもやはり先手は戦場の華であり武門の名誉であった。

 近年城攻めは鉄砲の普及とともに、野戦以上に死傷率の高い危険な戦場となっている。しかしそれを忌避する気持ちは定俊にも喜内にも欠片もない。死ねばそれまでの命だと当然のように思い定めていた。死ぬことを覚悟してなお恐れぬのは武士もののふの嗜みであった。人間は運が悪ければ投げられた石に当たっただけでも死ぬ。馬から落ちただけで死ぬこともある。死ぬかもしれないからといって、死を恐れて行動しないのは生きているといえるのか? 生き方を大事にするからこそ死というものは輝くのではないか。

 少なくとも定俊を含むこの時代の武辺は、大真面目でそう信じていた。信仰していたといってもよい。

「搦め手から宇陀三人衆が雲出川を渡る。大手より殿が自ら先陣を切るゆえ、遅れて恥をかくまいぞ!」

「貴殿こそ」

 定俊の主君蒲生氏郷には悪癖があった。いや、必ずしも悪癖というべきではないのかもしれないが、臣下としては頼もしくも困った深刻な問題があった。

 指揮官である氏郷本人が、誰よりも早く先頭に立って突撃してしまうのである。同様の悪癖は黒田長政をはじめとした戦国大名の幾人かが患っていて、ある種の有能さが災いする不治の病のようなものだ。

 蒲生氏郷の逸話として有名なのが、銀の鯰尾の兜の武者の話である。

 蒲生家に仕官すると、主君氏郷が、まずこう声をかける。「我が蒲生家には銀の鯰尾の兜をかぶった先手がいるゆえ、彼の者に負けぬよう励め」、すると先頭を突進するその鯰尾の武者はほかならぬ氏郷であった、というわけであった。

 それで戦死してしまえば、氏郷は匹夫の勇を誇る愚か者と蔑まれるであろう。事実秀吉も一度ならず氏郷に前に出すぎぬよう忠告している。

 長久手の戦いにおいて徳川の鉄砲を浴びて討ち死にした鬼武蔵こと森長可などは、まさにその猪武者のそしりを免れずにいた。

――――しかし不思議なことに武運をもった武将は死なぬものだ。

 徳川家康も伊達政宗も、鎧を脱いだら弾丸が何発もこぼれ出た、気が付いたら兜に数本矢が刺さっていたなどという九死に一生の逸話を持っている。紙一重の運を持った武将だけが、この乱世を生き抜いていくことを許されるのだ。

 まさにその勇気と武運を二つながら持ち合わせた稀有な武辺、喜内や定俊が心からの忠誠を覚える主君、氏郷はそうした唯一無二の武将であった。

 まだ蒲生家に仕えてそれほど時間の経っていない定俊にとっても、氏郷はすでにかけがえのない主君であった。生まれて初めて心から使えるべき主を持ったと定俊は信じた。

「俺もそろそろ手柄をたてんと、善兵衛にも顔が立たぬわ」

 今の定俊は控えめにいっても、間垣屋の伝手でやってきた客人のようなもので、我こそは氏郷の家臣と胸を張って言えるような立場にはない。

 武功をあげること、出世して蒲生家に自分の立場を作り出すこと、その機会を得た定俊は獲物を見定めた鷹のように剣呑に瞳を光らせていた。





 戸木城の大手は深い横堀に囲まれた東側にあり、坂は幾重にも屈折していて、その都度横矢を浴びせかけられる難所となっている。

「かかれええええ!」

 腹の底から響く大音声とともに、氏郷は猛然と真っ先に駆け出した。

 負けじと矢玉を防ぐための竹束を担いだ足軽衆が後に続くが、脚力に物を言わせて駆けあがる氏郷に全く追いつけない。かろうじて喜内や定俊を含む幾人かが一歩遅れて追いすがった。

 軽装の足軽と違い、銀の鯰尾の兜が目立つツバクロ具足に漆黒のマントの重量たるや、八貫を軽く超えているはずだ。

 それでもなお部下の追随を許さないのだから、氏郷がいかに常軌を逸した体力の持ち主かわかるであろう。

「殿に後れを取るな!」

 余計なことを考えず一心不乱に速度をあげることが、実は結果的に被害を減らすということを彼らは経験的に知っていた。どれほど注意を払ったところで矢に当たるときは当たるし、死ぬときは死ぬのである。

 定俊は溢れて溢れて止まらぬ闘志に背中を押されるようにして、無我夢中で氏郷の背中を追った。

(なんたる殿の見事さよ!)

 一個の武辺として比べるならば、定俊は自分の武もそう捨てたものではないと思っている。

 手柄をあげて、いずれは一国一城の主たりうるという己自身への強い自負があった。その自負を根底から覆されてしまいそうな氏郷の武者ぶりであった。

(ここは一番、俺も武者働きせねば!)

 氏郷の傍近くに槍を合わせる機会などそうそうあるものではない。今こそ氏郷の目に止まるような働きをして見せる。定俊はますます覚悟を固めた。

 坂を登り切ると、そこには高麗門を囲むようにして内枡形虎口が設けられている。木造長政によって改修された際に、虎口を守るように角馬出しが配置されており、その強固な防御力はこれまで幾度となく蒲生勢を弾き返してきた。

 虎口とは戦国の後期に普及した、門の前に四角い塁壁で囲まれた閉鎖空間を作る防御施設のことである。この空間に飛びこんだ兵士は前方と、左右から集中砲火を浴びることになる。場合によっては上方より二段構えで射撃されるため、非常に死傷率の高い死地として知られていた。

 その虎口へと全く憶することなく氏郷は飛びこんでいく。

 ふと定俊の視界に喜内が目くばせするのが映った。言葉ではなく瞳に宿る意志が、殿を死なせるな、と告げていた。

「火矢を放て!」

 油を使った火矢は、殺傷力こそ低いが敵方には処理が厄介な攻撃である。突入する氏郷への援護としては絶妙な呼吸であった。守役として長年氏郷の傍にいる十郎兵衛の面目躍如というところであろう。

 鉄砲と矢、敵味方の射撃が入り乱れる中を、定俊は身の丈ほどもある防弾用の竹束の盾を構えて氏郷の前に踊り出た。

「おお、源八郎、大儀!」

「ははっ!」

 氏郷に名を呼ばれた、それだけのことが何故かたまらなくうれしかった。

 竹束に当たった鉄砲の弾がぱらぱらと乾いた音を立てる。竹が焦げる嫌な臭いが定俊の鼻をついた。正面からの射撃は防げたようだが、左右からの射撃を躱せるかは本当に運任せだ。

「押せやあああああああああああ!」

 氏郷は吼えた。

 ここで一気に虎口を突破できなければ、狭い戦闘正面に軍勢が拘束され、後続が遊兵となってしまう。氏郷があえて危険な指揮官先頭を選択したのは、勢いによって短時間に虎口を攻略してしまうためだ。

降り注ぐ矢弾に数をすり減らしながらも、氏郷の督戦に奮い立った蒲生兵は大きな竹束で互いの背中を守り、槍を、鉄砲を手に果敢に突進する。

「忠兵衛!」

「はっ!」

 氏郷は隣に控えていた中間の若者から火縄銃を受け取ると、木造方の鉄砲狭間に向かって轟然と撃ち放った。

 信長が雑賀衆から鉄砲の射撃技術を習ったように、氏郷もまた根来の鉄砲衆に教えを請い、たしなみのレベルをはるかに超えて射撃術に熟達していた。

 一尺半ほどの鉄砲狭間の小さな隙間を過たず射貫いた弾丸は、膝をついて鉄砲を構えていた足軽の眉間を、まるで柘榴のように叩き割った。驚くべき命中精度であった。

 狭間の向こうの足軽たちが予想外の事態に動揺したのか、ほんの一瞬銃火が止まる。

――虎口の先に続く二の曲輪から、白煙が上がったのは正しくその時であった。

 敵も味方も、咄嗟に裏切りの文字が頭をよぎる。

「裏切りじゃ! 二の曲輪で裏切りが出たぞ!」

「流言じゃ! 惑わされるな!」

「押せ! 押せ! 手柄を立てるは今ぞ!」

 一度抱いてしまった疑いは、いくら叫んでも隠しようがない。白煙という証拠を目撃した今となってはなおさらだ。

 意気上がる蒲生勢の怒涛の攻撃に、これまで頑強な抵抗を続けていた木造衆は、ついに虎口の突破を許したのである。



 役に立たなくなった竹束を投げ出した定俊は乱戦のなか数人の雑兵を斬りつけ、蹴り倒し、踏みつけて前へと突き進んだ。

 今さら雑兵の首になど未練はない。兜首をあげて功名を成し遂げることしか定俊の頭にはなかった。

 二の曲輪の北側に立てられた粗末な兵舎へ、定俊が一番乗りを果たしたのは、そうしたなりふり構わぬ行動の結果であったといえる。

「――――おのれ! 奸物め!」

 唐突に、平屋建ての兵舎の一室から怒声が轟いた。

 肉を切裂く鈍い音ともに、何かがばたりと倒れる音がする。声のした部屋の戸を力任せに引き、定俊はその声の主へと襲いかかった。

「岡源八郎定俊、推参! 名を名乗られい!」

 一目でわかる、足軽の当世具足とは一線を画す、漆塗りの朱い面頬に烏帽子形の兜、まさか木造具政ということはないだろうが、かなり高禄の重臣であるに違いないと定俊は察した。

「下郎、この畑作兵衛重政の手にかかるを誉といたせ!」

「おおっ! 畑殿ならば願ってもない!」

 畑作兵衛重政といえば、二千貫を領する木造家の家老の一人である。

 おそらくはこの戸木城の武将のなかでも五指に入る高名な男であった。かつては北畠氏に仕え、滝川将監一益をして良将と言わしめた人物である。もしこの男を失えば、戸木城の継戦能力は著しく低下するはずであった。

「おう!」

「やあっ!」

 刀と刀が交錯する。室内での戦闘では槍はその特性を発揮できない。というより太刀ですら存分に振り回すには不足である。ゆえに、畑作兵衛は兵舎から外へ出ようとし、定俊は室内から出すまいと動いた。経験で劣る定俊としては、畑作兵衛に十全に力を発揮できぬよう立ち回るのは当然の戦略である。

 がっき、と刃が噛み合い、二人は満身の力を込めて鍔元を押しあう。膂力では定俊が上、技巧では畑作兵衛が上だった。

 あるいは天性の武才は定俊のほうが上であったかもしれない。しかし一対一の戦闘は才能以上に駆け引きの経験がものをいう。

 刀で斬るだけが戦闘ではない。蹴り、関節を極め、目つぶし金的なんでもありの、剥き出しの生命の奪いあいこそが白兵の本領である。

 鍔迫り合いから畑作兵衛はまるで力負けしたかのように、がっくりと腰を折った。ここぞとばかりに定俊はなおも力を込めてそのまま押し倒さんと図るが、実はこれが罠であった。

 絶妙な脱力によって定俊の態勢を崩した畑作兵衛は、前のめりに力をこめる定俊をくるり、と転がした。

一瞬何が起こったかわからぬままに定俊は天井を見ていた。そこに振り下ろされる白刃を定俊はほとんど本能で転がって避ける。かろうじて刀こそ避けたものの、背中を蹴られて、ぐっとむせるように息が詰まった。

 ざくり、ざくり、と刃が床に突き立ち、転がりながらこれを避けた定俊は、このまま反撃の機会もなく討ち取られてしまうのか、と焦った。起き上がる暇すらない。畑作兵衛は一度手にした優位を手放すほど愚かではなく、むしろそうした油断からもっとも遠い熟練の狩人であった。

敵わぬならばせめて相討ちに、と定俊は覚悟を固め愛刀の柄を握る力を強める。それほどに畑作兵衛には隙がなかった。足を払う暇すら与えられず、定俊は醜く体を丸めて逃げ続けた。

――――と、何かに躓いたように畑作兵衛の体が揺れる。倒れるのを拒むかのように右足に力をこめてぐっ、と踏みとどまるが、それを見逃す定俊ではない。

 今このときこそが唯一の勝機である、と定俊は残された力のすべてを振り絞って思いきり畑作兵衛の右足を蹴りつけた。

「ぬおぅ」

 軸足をしたたか蹴りつけられた畑作兵衛はたまらず苦しそうに呻くと、どう、と顔から前に倒れこんだ。

 間髪入れず、定俊はむき出しの畑作兵衛の首筋に、身体ごとのしかかるようにして刀を突き入れる。びくり、と畑作兵衛の身体が震え、喉の奥から血泡がごぽり、と吐き出されると全身の力が抜け血だまりがゆっくりと冷たい床板に広がっていった。

 完全に畑作兵衛の呼吸が止まったのを確認して、定俊は脱力して尻もちをつくとぜいぜい、と荒々しく肩で息を吐いた。

 十中九まで負けたと思った。あの瞬間、なぜか畑作兵衛が何かに躓いたように態勢を崩さなければ本当に負けていただろう。

 いったいあのとき畑作兵衛は何に躓いたというのか。

 重い腰を上げ立ち上がった定俊は瞠目して声を失った。戸を開けて飛びこんだ瞬間、畑作兵衛が何者かを斬っていたのはわかっていた。それがおそらくは女らしいことも。

 よくよく見れば肩口から乳房の下まで斬り下げられた虫の息の女の指に、畑作兵衛の臑当の紐が絡まっている。

 畑作兵衛は躓いたのではなく、女に足の臑当を掴まれたのだ。それも紐を引きちぎるほど強い力で。だからこそ畑作兵衛ほどの剛の者が、危うく倒れるほど体を崩さなくてはならなかった。

――女に助けられた。その事実は定俊の心を打ちのめしはしたが、今の定俊の心を占める思いは、それとは全く違うものであった。

 おそらくは定俊より二つ三つほど若いだろう。まだどこか幼ささえ感じさせる女は、定俊が息をのむほど美しかった。

「なんたる美しさよ」

 品の良いうりざね顔に長い睫毛、すっと整った鼻梁と小さく熟れたように赤い唇がなんともいえず艶めかしかった。朱に染まった萌黄色の小袖から、見え隠れする透けるような肌までが色香に匂いたつようである。

 頭のてっぺんから足の指先まで定俊の全身が痺れた。定俊が生まれて初めて感じる恋の痺れであった。同時に、女の命が旦夕に迫っているのをようやく自覚して、定俊は惑乱した。

 正しく惑乱というべきである。今はまさに戸木城が落ちるかどうかの瀬戸際なのだ。その事実と女の命など比べるべくもない。女など捨て置いてただちに戦場へと戻るべきであった。

 下手をすれば戦場放棄の軍令違反に問われ、首を刎ねられることすら覚悟しなければならないことだ。

 それでも――――定俊は迷うことなく戦いを捨て、女を助けることを選んだ。

 幸い、うまく斬られる瞬間身を引いたのか、出血が激しいだけで内臓までの損傷はない。だからこそ女もぎりぎりまで意識を保ち畑作兵衛に一矢報いることができたのだろう。

(死なせてなるものか!)

 腰に巻きつけた竹筒から焼酎を注ぎ、傷口を洗って定俊は手際よく止血を施していく。間垣屋から門出にもらった化膿止めの薬も惜しみなく使った。

 幸いにして手当が早く、その場で女が命を失うことはなかったが、失血が多いためか女は幾日経っても目を覚ますことはなかった。



 定俊にとって幸いであったのは、女が蒲生家と内通を図る木造方との渡り――すなわち甲賀忍びのくのいちであったことだろう。

 あのとき、二の曲輪で火の手があがったのは、女が監視の目をかいくぐって内応を促したためであった。それがわかったからこそ畑作兵衛は女の処断をせずにはおれなかったのだ。

 畑作兵衛の首は勲功第一と認められ、定俊は二十貫から一挙に百五十貫を賜ることとなった。百五十貫といえば、これはもう歴とした上士である。

 さらに定俊は二の曲輪と畑作兵衛を失ったことで、戸木城側が急速に抗戦から和睦に向けて舵を切ったことを後に知った。

――――そう、全ては事後に知らされたことであり、定俊はあれ以来、女の看病から片時も離れずにいたのである。

 女の名がおりく、ということは甲賀の頭領である佐治義忠から聞いた。年齢の割に腕の良いくのいちであるが、姪ということもあり安否を心配していたのだという。

 おりくが渡りをつけた木造方の阿部某という男は、火つけには成功するも乱戦のなかで討ち死にしたようだった。

 発熱したおりくの汗を拭き、傷口を洗って真新しい包帯に交換する。そして口移しに水や果実を飲ませるという作業を定俊は黙々と続けた。

 治療の甲斐あって、おりくの意識が回復したのは三日目の朝である。体力の峠は越したとみえて、肌に血色が戻っていた。

「もし…………」

「ん? おお! 気づいたか!」

 まどろみに身を任せて舟をこいでいた定俊は、おりくの声に瞳を輝かせて覚醒した。

「食い物は入るか? 食べられるなら粥などしんぜよう」

「恐れながらお伺いしたき儀が……」

 まさにそのとき、定俊に尋ねようとしたおりくの腹が、ぐう、と大きな音を立てた。真っ赤になって言葉の出ないおりくに、定俊は莞爾と微笑んで言った。

「粥を食べながらでも、いくらでも問いには答えようとも」

「……かたじけないことにございます」

 逸る気をくじかれたようで、おりくは大人しく定俊が粥を運んでくるのを待った。その様子がいかにも年相応に可愛らしく美しかった。

 梅干しと塩で味を調えた粥を定俊が運んできたのは、それから四半刻ほど過ぎた後のことであった。

 激痛で起き上がれなかったおりくに、定俊は手づから粥を食べさせた。ますますおりくの顔色が赤くなったような気もするが、ここ数日口移しに水を含ませていた定俊にとっては、当たり前で手慣れたものであった。

 その後ようやく顔色の落ち着いたおりくは、意を決したように口を開いた。

「……それでは定俊様があの畑作兵衛を討ち果たされた、と?」

「おりく殿の手助けあってのことではあるがな」

 おりくは自分の決死の行動が、二の曲輪陥落に繋がったことをひどく喜んだ。そして定俊の勝利に繋がったことも。もともと畑作兵衛は、おりくの前任の渡り――おりくにとっては従姉にあたる――を斬った憎き仇敵であるらしかった。

「この命をお救いいただいたこと、畑作兵衛をも討ち取っていただいたこと、いくら感謝してもしきれるものではございません。どうか以後我が命、定俊様のために使うことお許しいただきたく」

「さよう気張らずともよいのだが……」

「いえ、頭領の許しを得次第、是が非にもお願いいたしたく」

 忍びの道は闇の道、捨てられてこそ闇に咲く花。その捨てた命を救われたからには生涯を捧げて尽くさなければならぬ。おりくはそう頑なに信じた。

 そのおりくの誇りとこだわりの並外れた頑なさに定俊が気づくのは、それから随分経ってのことである。



 床から起き上がれるようになったおりくは、すぐさま頭領である佐治義忠に願い出て、定俊に無期限で仕えることの許しをえた。

 これは基本的に不特定の客から雇われる傭兵稼業である忍びには、きわめて稀なことだ。

 幕府の影に携わる伊賀にせよ甲賀にせよ、風魔などの数少ない例外を除けば、この時代では様々な大名家に雇われ、しばしば同族同士でしのぎを削ることもあった。ましてたかが百五十貫取の陪臣が個人的に忍びを家臣として仕えさせるというのは、頭領である佐治義忠でもこれまで聞いたことがなかった。

 その横紙破りを押し通すことができたのは、おりくの苛烈なまでに強い意志と、佐治義忠にとっては現在最重要の雇い主である、蒲生氏郷の強力な後押しがあったからこそである。

 奇妙な形で定俊の家臣となったおりくであるが、当初定俊はそれを喜んだ。

 憎からず思っている美貌の家臣、しかも腕利きの忍びで、甲賀二十一家の佐治家の血筋も濃く存外に顔が広い。特に間垣屋と商売の伝手で結ばれている定俊にとっては、得難い人材であるといえた。

 ところが、定俊が本当に望んでいた男女の仲は、というと、これがなかなかに難儀なものであった。

 二人がようやく褥を共にしたのは、おりくが本復した三月ほど後のことであった。雪のように白い肌には、赤みがかった一筋の刃痕きずあとが残ったが、定俊にはそれすら愛しかった。唇を寄せて丁寧に舌を這わせると、珍しくおりくが恥じらって顔を隠そうとするのがまた定俊の劣情を掻きたてた。くのいちには稀なことに、おりくは処女であった。

 おぬしに惚れている、といえば私もお慕いしております、とおりくは答える。蒲生家も日野郷から伊勢松坂へ所領を倍増され、定俊も倍とはいわぬまでも二百貫へと加増された。

 正しく順風満帆、若い定俊には初めてともいえる女との甘い時間を過ごし、我が世の春とも思える愛しき日々であった。

――――ところが、である。



「――――なぜだ? なぜ嫁になれぬだなどと?」

 蒲生家の上士として、氏郷の覚えもめでたく出世街道にのって、そろそろ身を固めようとした矢先、おりくの返事は正しく定俊の意表を衝くものであった。

「私は忍びである自分を捨てられませぬ。忍びがお武家の奥方を務めることなど、あってはならぬことでございます」

 忍びは裏の世界に生きる者である。たとえ表向きには取り繕ったとしても、裏の世界との接触は決してなくなることはない。そうした人間がいずれは城持ちに成り上がるかもしれない定俊の妻になど、おりくには到底認められることではなかった。

「正室がいやならば側室でもよいが」

「定俊様を心からお慕いしておりますし、命令ならばいかようにも応えましょう。ですが妻となるのは別していけませぬ。それは忍びの生き方ではございませぬ」

 頑なすぎるおりくの強情ぶりに、さすがの定俊も往生した。定俊にとって、おりくはただ一人の女である。ほかの女など考える余地すらなかった。

 あの日の戸木城で、死にかけた天女のようなおりくを見た時の恋に落ちた衝撃は、露ほども失われることなく今なお定俊の心を焦がし続けていた。

 二人とも決して不器用な人間ではなかった。むしろ多才で臨機応変な部類の人間である。ただ譲れない一線に関しては、強情で聞く耳を持たぬ類の人間でもあった。

 とはいえ、まだ定俊はいずれ時間が解決するであろうと考えていた。立場がどうであろうと二人が愛し合っているのもまた確かなことであったからだ。あるいは子供が産まれてしまえば、という期待もあった。

 二人はそのまま変わることなく、恋人であり主従であるという生活を続けた。

 その後主君氏郷が亡くなり、後を継いだ若干十二歳の忠行には家内を統制できず、宇都宮十二万石に減封された時のことである。

 ほぼ七分の一にまで所領を減らされたことで多くの家臣たちが蒲生家を離れた。定俊もまたその一人であった。長年の僚友であった横山喜内改め蒲生真令もまた蒲生家を退転し石田三成のもとへ仕官した。

 身軽な浪人となった定俊には様々な選択肢があった。財貨には不自由はないのだから、悠々自適の隠居生活を送っても良い。それこそキリシタンとして信仰三昧に生きることもできた。

 しかしふとおりくが漏らした一言で、定俊は卒然としておりくが妻になることはないと悟るに至る。

「定俊様に武士もののふたるを捨てること能あたいましょうや?」

「なるほど、それは俺には無理な話だ」

 何かがストンと胸に落ちた気がして定俊は笑った。

 誰よりおりくを愛しているという自信はある。銭を貯めるのも今や他に代えようもない生き甲斐のひとつであり、毛頭止める気などない。廻船商人となって国外へ乗り出すこともできないことではなかった。

 それでも武士である自分を捨てようとは夢にも思わなかった。武の者であるということは、父親を切り捨てても切り捨てられなかった定俊の業そのものであり、男として決して譲れぬ生き方の原点であったのだ。

 死ぬその瞬間まで、岡源八郎定俊は武士であるべきである。おりくにとっては、忍びであることがそうなのだろう。自分が武士以外にはなれぬように、おりくもまた忍び以外にはなれない。

「ならばよい。俺が愛するのはお前だけだ。そこはなんとしても曲げぬぞ?」

「――――困ったお人です。ですが、心からお慕い申しております」



 以来、定俊は宣言通りおりく以外の女を愛することはなかった。

 おりくもまた、忍びであることは捨てぬままに定俊にとって唯一質を娶らせようなどと野暮な真似もしない。娶らせようなどと野暮な真似もしない。亡き主君である氏郷も側室を置かぬ一途な男であっただけに、定俊も奇矯な男として蒲生家中に受け入れられた部分もあろう。

 人には捨てられぬ生き方がある。互いにそれを尊重しあう理想の恋人たちに不満などあろうはずもなかった。





 全身を小判に浸して遠い思い出に浸っていた定俊は、急速に興奮と陶酔が全身から覚めていくのを感じた。

 小判の冷たい感触も愛しいものだが、むしろ今はおりくの肌のぬくもりのほうを味わいたい気分であった。

 すでに陽は磐梯山の稜線に落ち始めており、そろそろ油に灯をともそうかと思うほどに薄暗い。気がつけば一刻ほども小判の感触を堪能していたらしかった。

 充実感のなかに、どこか寂しい空虚な何かがある。

 楽しい、愛しい、それでいてぬるま湯につかったような不思議なこの感覚を覚え始めてどれくらいになるだろうか?

 そんなことは決まっている。この日本から戦がなくなってしまってからだ。戦の匂いをなくしてから、どれだけおりくを抱いても、銭をうなるほど集めても、心のどこかが満たされない。

 せめても人生の最後に、もう一度槍を取り戦場を駆けたいという定俊の望みは、先代蒲生忠行の病死により年若くして跡を継いだ蒲生忠郷の治世がいまだ安定しないという事情もあり、叶うことはなかった。

 すなわち、蒲生家が、おそらくは戦国以来長く続いた最後の戦になるであろう、大坂の陣へと呼ばれることはなかったのだ。

 そのことがわかった瞬間から、定俊の心のなかで何かが壊れた。その壊れた何かを埋めようと、またさらに銭を求め、おりくの肌を求めた。

 壊れたものの代わりにはならないとわかっていても、それを止めることは定俊にはできなかった。

「おりく――――」

 愛する女を定俊を呼ぶよりも、どしどし、と荒々しい足音が近づいてくるほうが早かった。

「兄上! 戯れておる場合ではありませんぞ!」

「またか、重政」

 げっそりとしたように、定俊は両足を放り出した姿勢のまま左手で頭の後ろを掻いた。

 これまで幾度となく重政には銭の上を転げまわる悪癖を治すよう、ほとんど喧嘩腰の諫言をされている。今日もその類であろうと思ったのだ。

「――――大坂城が落ちました」

 重政が発した言葉に、定俊は目を剥いた。

 奥州会津は大坂からはかなり離れているとはいえ、名門蒲生家は決して情報収集を怠ってはいなかった。重政にその報告を届けたのは蒲生家子飼いの忍びの一人である。

 慶長八年に幕府が開府されて以来、甲賀忍びの大部分が幕府に召し抱えられてしまった。とはいえ昔の伝手はまだ残っている。その伝手も甲賀二十一家縁戚の、おりくがつなぎとなっていることが大きかった。 

 重政がおりくを苦手としているのも、そうした背景が影響している。

「いつだ?」

「八日のことのようです。ですが秀頼公の遺骸はまだ確認されていないものと聞いております」

「そうか…………」

 来るべきものが来てしまったと定俊は瞑目して俯いた。

すでに最初から予想されていたことではあった。

 広大な総構えがあってこその大阪城である。堀を埋められ丸裸にされては小城にも劣る。

 そもそも冬の陣で講和した豊臣家の甘さを定俊は侮蔑していた。

 外堀を徳川家が、内堀を豊臣家が埋めるという約定は明らかに時間稼ぎであった。しかしあっという間に外堀を埋め尽くした徳川は、ほとんど工事の進んでいない豊臣家の担当する内堀を埋め始めてしまう。

 当然大坂方は抗議したが、もともとが内堀も埋めるという約定であったのである。何が悪い、と開き直られると、つけこまれるような隙を与えた豊臣側が悪いとしか言いようがなかった。騙し騙されるのが当たり前の戦国の世に生きる武辺なら、まず甘いと断じられてしかるべきであった。

 おおかた大御所(家康)が死ぬまでゆるりと工事を進めればそれでよいとでも考えたのだろうが、そんな楽観を許す大御所ではない。最初から豊臣を滅ぼすために仕組んでいたに決まっていた。

 相手が滅ぼすと決めてかかっているのに、中途半端な講和を結ぶほうがどうかしている。戦うからには徹底的に戦うべきだし、戦わぬのならば出家でもして一万石ほどの捨扶持をもらって生き延びることだけを優先するべきだった。

 要するに豊臣家は滅ぶべきして滅んだのだ。

「終わったな」

 何が、とは定俊は言わなかった。一度口に出したが最後、後戻りができぬ気がしてどうしても口に出せなかった。武士もののふが、戦のない世を生きていかねばならないことを認めたくなかった。

 その言葉に万感の思いがこめられていることを重政は察した。

――後の世に元和偃武という。

 大坂の陣を最後として、戊辰戦争に至るまで日本から戦は消えた。外様、譜代を合計して、実に二百四十八家が改易されるが、武力でそれに抗った藩はひとつもない。彼らは幕府の命令のままに逍遥として改易を受け入れた。お家を守るために、面目を保つために武士が槍を手にで戦う時代は終わったのだ。

 もちろん由井正雪による慶安の変、赤穂浪士の討ち入りや島原の乱といった武力闘争はあったものの、彼らの本質は武士のそれではない。あくまでも彼らは一揆でありテロリストにすぎなかった。戦というにはあまりに稚拙で生臭すぎた。

 本当の武士による武士の戦は、大坂の陣という最後の祭りを終えてもう二度とあの絢爛たる絵巻のような美しさを取り戻すことはないだろう。何よりすでに武士そのものの数が激減していた。戦をしようにも戦のできない武士が激増している。

 戦のために存在する武士が戦ができないなど、笑い話のような話だが、その萌芽はすでに大坂の陣中の戦いの端々から見え始めていた。

 その事実に悄然として重政は語る。

「それにしてもまさかこれほど早く衰えるとは……我が蒲生家にとっても他人事ではありませぬぞ」

「関ケ原以来、どの家も戦らしい戦をしておらぬ。十年近くも戦わねば、兵はすぐに日々の生活に追われて戦を忘れるさ」

 真田源二郎信繁の後世にまで残る武功の晴れ舞台、木村長門守重成や塙団衛門直之の見事な散り際の美しさから一転して、定俊、重政を大いに嘆かせたのは、道明寺の戦いの詳報であった。

 慶長二十年五月六日、裸同然の大阪城に籠城することを諦め、死中に活を求めるべく国分村で幕府軍を迎撃することを決めた豊臣軍の主力二万数千。ところが予定通りの時刻に現地へ到着したのは、黒田官兵衛の秘蔵っ子として名高い、後藤又兵衛重次率いるわずか六千四百にすぎなかったのである。

 早朝から徳川の先鋒と接触した後藤又兵衛は、小松山に駆け上り高低差を生かして大軍を相手に孤軍奮戦するも、衆寡敵せずついに討ち死にしてしまう。名将として知られる明石全登や真田信繁が到着したのは、なんと太陽が中天に輝く午後になってからのことであった。

 戦略や戦術以前の基礎中の基礎として、行軍という技術がある。

 決められた時間、決められた場所に、決められた人数の兵を移動させる、という戦う以前の基本技術だ。その基礎的な技術が早くも失伝し始めていた。

 当日の早朝は濃い霧に包まれていたことなど言い訳にもならない。関ヶ原の戦いではもっと悪い条件下で、さらに遥かに多くの軍勢が確実に移動を完了して布陣まで済ませていたのだから。

 城という拠点に籠って戦術を駆使するだけなら、一揆にもできる。しかし大軍勢が雌雄を決する野戦は、やはり武士にしかできない戦争技術の集大成であるということだろう。

 そうした意味では、真田信繁よりも武士としての力量は後藤又兵衛が上だと定俊は見ている。もっとも信繁が、頼りとなる真田家譜代の家臣がいないなか、家康本陣を強襲せしめたのはやはり一角の名将と呼ぶにふさわしい。たとえ当時家康の本陣にいた旗本の大半が、戦を知らぬ次世代の若者であったとしても。

 戦の担い手が、もはやこの日本中を探しても数少なくなったことを、定俊と重政は悟らざるを得なかった。

 戦そのものがなくなるのと時を同じくして、武士も姿を消す。戦のない世界で武士は生きていけないからだ。その事実が二人の肩に重くのしかかった。別して定俊の肩にのしかかる虚脱感は大きかった。

「我が蒲生家は大坂の陣になんら功績がありませぬ。今後幕府に貢献する何らかの手立てを考えなくてなりませぬな」

 唯一の救いは亡き主君蒲生忠行の妻が、大御所の娘振姫であるということだった。すなわち現当主蒲生忠郷は家康の孫にあたる。同じ外様であっても徳川縁戚とそうでないのとは歴然とした差が存在した。

「大御所様が決められたことでないか。我らはもともと出兵することを望んでいたのだからな」

 望んでいたのは兄上でしょう、とは重政は言わなかった。自分自身も最後の戦場に出たい欲求があったからである。

「とはいえ、今後徳川家に邪魔ないくつもの大名家が消えることになるでしょう。それに無嗣断絶は他人事ではありませんぞ、兄上?」

 関ヶ原で勲功あった小早川家はいざ知らず、大御所の四男である武田信吉、さらには三河以来の重臣平岩親吉ですら無嗣断絶としてお家取り潰しとなっている。さらには関ケ原の加増で大きくなりすぎた豊臣系の大名家は、特に今後たとえ無嗣でなくとも、隙あらば取り潰される恐怖と戦うことになるであろう。

 事実、後に安芸の福島正則をはじめ肥後の加藤清正、筑後の田中吉政などもその息子の代で改易あるいは大幅な減封を余儀なくされており、重政の予想は正鵠を得ていると言えた。

 蒲生家にも生き残りをかけた生存戦略が求められる。主君がそうであるのだから家臣がそれに倣うのは当然であった。つまりは定俊の岡家もいずれつぶれる。重政はそう言っているのだった。

「ふん、それがどうした」

 どこか拗ねたように子供のように頬を膨らませて定俊は言う。この話題は別に今に始まった話ではない。定俊のなかではとうに解決した話である。潰したければ潰せばよいのだ。

 領地はもとより、これまで貸し出した貸金も含め、定俊は己の死とともに何もかもを帳消しにするつもりであった。定俊が蒲生家中に貸しつけている金は、噂では一万両(約十億円)に及ぶとされているが、そう間違った額ではあるまいと重政は思っているが、実際はその数倍に及んでいた。

 そのすべてを兄は投げ出すという。それは確かに潔いことなのかもしれない。兄は家というものを心底嫌っているのかもしれない。しかし死後残される者たちのことも、定俊には考えてもらわなくてはならなかった。

「それでは城下のキリシタンどもの行く末をどう思われます?」

「ぬう……」

 さすがの定俊もこの問いには返答に窮した。

 先々代の藩主蒲生氏郷がレオの洗礼名を持つキリシタンであったこともあり、この会津、とりわけ定俊の領地である猪苗代にはキリシタンの領民が多かった。もちろん定俊自身もキリシタンである。

 現に猪苗代城からほど近い見弥山のふもとには、鮮やかな彩色のセミナリオが鎮座しており、地元のみならず地方からも信者が訪れる重要な信仰の要地となっていた。

 彼らははたして定俊の亡きあとまでも、信仰を守っていけるだろうか。定俊に代わる新たな猪苗代城主が逆に彼らを迫害することはないだろうか。

 慶長十七年に発布された幕府禁教令は、あくまでも幕府の直轄地に対するものであったが、諸藩も幕府の機嫌をうかがい徐々に弾圧へという空気が漂っていた。彼らの将来に対する危惧を、定俊もが抱いていないといえば嘘になる。だが――――

「俺は俺が死んだあとのことまで責任は持たぬし、持てぬ」

 定俊がキリスト教に傾倒したのは主君氏郷よりも早く、実は間垣屋善兵衛の商売相手であったスペイン人宣教師によるものである。洗礼名をジョアンという。

 とりわけ気に入ったのは、神の前には主君も父も子も孫もみな兄弟であるという考えであった。そして定俊個人として神に向き合い、定俊個人のみが神に対して責任を負う。坊主がしたり顔で語る前世の因縁やら、先祖の因果など何一つ正しくはない。信仰とはただ一人、定俊個人の心の在り方であるべきだ。

 武辺とよばれる武士は、往々にして特殊な個のあり方を大切にする。前田慶次郎や花房助兵衛、可児才蔵のような個性的すぎる武士はそのよい一例であろう。そして彼らのようなアクの強い武辺には、為政者として天下を動かす大名となる資格がないこともまた確かなことであった。戦場を失った彼らはほとんど世捨て人同然に空虚な余生を送った。

 氏郷に男惚れして一途に武功を挙げてきた定俊も、自分が天下の器でないことは重々承知している。だが人にはそれぞれ持って生まれた分際と生きざまがある。それが悪いことだとは定俊は毛頭思わなかった。

 ……ゆえに、一人一人が自分自身で信仰をいかに守り、いかに継続させるかを常に考え行動しなくてはならないのだ。権力者に守られるだけの、ゆりかごに揺られる赤子のような信仰などなんの価値がある。戦って戦って、たとえそれがどんな手法であれ、信仰の居場所を守り続けることができればそれでよいではないか。

 兄の思いを誰よりよく承知していた重政はため息とともに呟いた。

「……誰もが兄上と同じようには生きられませぬ」

 仕置き家老として、蒲生家に定俊以上の責任を持っている重政は、民というものがいかに強かで利口にみえても、日々の生活のためには善悪の見境なく草のようにあっさり風になびくことを知っている。

 彼らは誰かに守ってもらわなければ、自分勝手にどの方向へと暴走するかしれぬ厄介な性質をもっているのである。定俊の庇護がなくなれば、その不満を蒲生家にぶつけるかもしれない。往々にして弾圧が起こるのは、民が不満の矛先を為政者に向けるほうが先であることが多い。それは蒲生家仕置き家老として、重政は断じて認めるわけにはいかないのだった。

「ふん、頑是ない幼子でもあるまいに」

 どこまでも定俊は辛らつである。子供のように誰かに手を引いてもらわねば守れない信仰など信仰ではないとすら思っていた。少なくとも定俊はそうした覚悟した一線を民にも求めていた。弱いことは決して戦わなくてよい理由にはならないのだ。

 戦うべきときに戦わぬ人間に価値はない。それは武士もののふの信念である。

 この頑なな覚悟が、正しく重政のいうように、誰もが定俊のようには生きられないという所以であった。

「しかしながら大坂方には明石全登殿以外にも多くのキリシタンが手助けをしたという噂もあります。小西行長旧臣も多数おりましたようで」

 大阪方にキリシタンが大勢いたのは事実である。徳川幕府が禁教を強めることへの対抗手段として、また劣勢の大坂方は海外からの支援を期待して、あえてキリシタンを保護した節がある。

 そんな事情があったとはいえ、一部のキリシタンが公然と徳川幕府に逆らったことは隠しようのない事実であった。

 豊臣家という目に見える脅威のなくなった幕府が、今後キリシタンに対する統制を強めてくるのは容易に予想することができた。

「もしも幕府がキリシタンを処刑せよと命じてくれば、蒲生家を守るためキリシタンを討つのが仕置き家老たる某の役目。兄上とて容赦はいたしませぬ」

「当然だ。ゆえあらばいつでもこの首を討て。それがお主の務めというものぞ」

 時勢によっては自分を殺すと言っている弟の峻厳な言葉を、しごく当然と定俊は受け止めた。その心のありようこそ定俊の真骨頂というべきものであった。

 敬虔なキリシタンのようにみえて、その実、武士であることと信仰が相反した場合は、迷わず武士であることを優先する。

 人は誰しもが何かひとつの自分しか持たないことはありえない。武士として、男として、親として、キリシタンとして、商人として、数寄者として――人はその立場や主義主張に応じて複数の顔を使いこなすものだ。使い分けるといってもいい。その立場同士が矛盾するならば、武士としての生き方が何よりも優先する。そう本気で断言してしまえるのが定俊という男の真に恐ろしいところであった。

 だからこそ定俊は主君蒲生氏郷に、自分と同類の匂いを感じ取ったのかもしれない。

 まともな人間はそこまで割り切れない。矛盾する欲求に悩み、間違い、ときには信じられないような愚かな選択をするのが人間というものである。はたして何が兄をそうさせているのか、少なくとも先ほどまで小判と戯れて悦に入っていた奇人と同一人物とは到底思われなかった。

「心配するな。信仰を守るため、遠く呂宋やシャムを訪れた者もおる。禁教がどうにもならなくなれば路銀を与えて外へ逃がすさ」

 決してそうはならないであろうことを重政は知っている。農民というものは土地と離れることを極度に嫌う。信仰と土地を選ばせるなら、彼らは土地を選ぶに決まっていた。

逆にいえば、定俊は土地を捨てても信仰を守るかどうかという決断を、当たり前のように農民に求めていたともいえる。その基準に達しない者は定俊にとって本当の仲間とは認められないのだろう。

「それはそれとして、いい加減どうにかなりませんかな? 兄上。いい歳をして小判と戯れるのは――生きているうちなら責任を取るのでしょう?」

「そ、それはあれ、あれじゃよ。まあ、おいおいということで……」

「見苦しゅうございますぞ! 兄上!」

「許してくれ重政、よいではないか、奉公に支障があるわけでなし……」

「いえ、蒲生家の体面にかかわります!」

 そう重政に言いきられると、定俊は口を尖らせて拗ねてしまった。「氏郷様はそうはおっしゃらなかった」とか「武士が体面など気にしたら終わりだ」とかぶつぶつと呟いている。生き方に頑なな反面、そうした子供のような稚気のなくならぬ兄であった。

 もとより今さら定俊がこの悪癖を治すなど、重政は毛頭考えていない。思うようにならぬ兄へのささやかな意趣返しのようなものだ。

「少しはこの重政の苦労もお察しくださいませ」

「わかった、わかった!」

 お手上げだといわんばかりに、珍しく定俊は頭を下げた。

「なれば今後は、今少し弱き者の心をお汲みくださるよう頼みますぞ」

「そんなことより自分の心配をしろ! 御母堂と相当こじれていると聞いているぞ!」

 先年来、重政が主君忠郷の母振姫とうまくいっていないというのは、蒲生家中では知る人ぞ知る噂であった。

 いや、噂どころではなく今も暗闘中の紛うことなき政敵同士である。大御所の娘である振姫はともかく、所詮家臣にすぎない重政が政争に敗れれば命がない。

「ご心配なく。嫌われ者もいなくてはお家は立ち行きませぬ」

 一代のカリスマ氏郷の死後、とかくまとまりを欠く蒲生家であった。嫌われ者を買ってでも強引にまとめる必要がある。命の危険を感じたことも一度や二度ではないが、それを重政が意に介した様子はなかった。

 そんな重政の開き直りともとれる強引さが、逆に振姫には蒲生家の破滅を招くのではないかと不安に思えてならないのだ。これはどちらが悪いわけでも正しいわけでもない。

 あえていうならば、勝ち残ったほうが正しいのである。それが戦国の武士の習いというものであるはずだった。







 重政が退出すると、入れ替わるようにおりくがやってきた。

 庭の手入れを終えたばかりなのだろう。強い土の匂いがするが、その素朴な土の香りがおりくの木蓮のような体臭によく合っていた。

「相変わらず重政様には頭が上がりませぬのね」

「埒もない。あやつとは俺では背中に負うものが違いすぎるわ」

 これまた拗ねたように定俊はぷい、と視線をおりくから背けた。

 重政はどこまでも生真面目な男だ。だから背負わずともよいものまで背負い、しなくてよい苦労をすることになる。そんな弟を定俊は心配すると同時に尊敬している。さすがは蒲生家六十万石の仕置き家老であった。

 ゆえに、重政の危惧が正当なものであることを定俊は理解している。理解していてなお、それがどうした、と思ってしまうのが定俊の埒もないところであった。

 所詮は一家をとりしきる器ではないのだ、と定俊は己を見定めていた。自分が重政のような家老や、氏郷のような主君の器でないことは身に染みてわかっていた。

 だからこそ、譲れぬものがある、曲げられないものがある。

 おりくの肩を抱き寄せ、定俊は首筋に顔を埋めた。しっとりと瑞々しい素肌が吸いつくようである。いくつになっても張りを失わぬおりくの肌に、つくづく女は魔物だと定俊は思う。

 そんな男の身勝手な妄念を、おりくは許し、自らも定俊の背中に手を回し深く深く抱擁した。

 それはまるで慈母のようでもあり、あるいは子供を守る鬼子母神のようでもあった。くのいちであるおりくにとって、定俊は何よりもまず命を懸けて守るべき主であるが、同時に誰より愛しい男であった。たのもしく、老獪であり、どこか子供らしさの抜けぬ、自慢の武士おとこである。いくつになっても、男は可愛ゆし、と母が笑顔で語っていた小さなころの記憶をおりくは懐かしく思い出した。

「――――すまんな。おりく」

 短い言葉に定俊の万感の思いがこめられていた。

 戦のない世に武士など、なんの必要があろうか。出家遁世するなり、今こそ間垣屋の伝手で海外へと漕ぎだしてもよいではないか。あるはずのない戦を待つ人生を、いったいこれから何年送らなければならないのか。そんな抜け殻のような人生より武士の身分など捨て、おりくを妻にして自由気ままに余生を送るほうがよほど価値があるはずだ。そうではないか。

 何度も何度も自問した。理屈ではそれが正しいことはわかっている。わかっているのにどうしても定俊には武士である自分を捨てることができなかった。

「おりくは幸せでございますよ。女としても、忍びとしても」

 だから謝ることなど何もない、とおりくは当然の合図のように定俊の唇を吸った。

 おりくもまた、自身の忍びとしての矜持のために、定俊の妻に、という望みを犠牲にしている罪深い女であった。謝らなければならないのはむしろ自分のほうだと思う。

 しかし定俊がそんなことを望んでいないのはわかっている。ならば愛しいと思う素直な気持ちをぶつけあえばよい。それだけでよい。

 定俊の太い腕がおりくの小袖を引き倒す。鍛えられたしなやかさは失わずに指をのみこんでしまうがごとき柔らかさ。何度抱いても決して飽きることのない至福の感触である。

「おりく」

「定俊様」

 名前のほかには何一つ付けくわえる必要はなかった。二人がお互いをどれほど愛し大切に思っているか、誰より二人がよく承知していた。

 まだ庭園の松に止まった蝉がかまびすしく鳴いている。同時に澄んだ琴の音のようにおりくの甘い唄が流れ出したのはそれからすぐのことであった。







 大坂夏の陣をさかのぼること二年前の慶長十八年四月二十五日未明、幕府代官頭であった大久保長安が急死した。戦にこそ至らなかったものの、これが天下を揺るがした大久保長安事件の始まりであった。五月六日には長安が大規模な私曲(横領)を行っていたことが判明し、長安の息子七人は全員処刑される。その後屋敷から捜索のすえ押収された金銀の額は実に百万両(一千億円)以上に達したという。

 駿府記に曰く、「遊女八十人余り引き連れ、傲慢奢侈なること甚だし」と贅沢を喧伝された大久保長安ならではの恐るべき蓄財ぶりであった。

 そのあまりの蓄財ぶりから、長安が密かに幕府転覆を企てていたという噂が、まことしやかに広がった。否、その後の幕府の処置をみるかぎり、それは決して噂などではなく事実であった。

 全財産を没収し、長安の息子を処刑して、さらに長安の後ろ盾であった幕閣の権力者、老中大久保忠隣を失脚させてもなお、幕府は全く安心することができなかった。なんといっても長安は家康の六男松平忠輝の付家老であり、忠輝は妻五十八いろは姫を通じて伊達政宗と強い結びつきがあった。そればかりか長安の次男は播磨宰相こと池田輝政の娘を妻としていたのである。そればかりか長安自身は武田の遺臣を名乗っており、水面下で同じく武田の遺臣である真田家にまでつながりを有していた。その影響力の大きさは、下手をすれば大坂の豊臣家に匹敵するかもしれなかったのである。

 また長安といえば鉱山開発のスペシャリストとして日本随一の手腕をもっていたが、その手腕を支えていたのは南蛮の数学や精錬法であったといわれている。

――すなわち、南蛮に太いパイプがあった。

 後に日本独自の発展を遂げる和算であるが、それはイタリア人宣教師カルロス・スピノラが九州の有馬で西洋数学を教えたのが始まりである。このときのスピノラの弟子に和算の祖とされる毛利重能、百川治兵衛がおり、和算を大成させたことで有名な、関孝和は毛利重能の孫弟子にあたる。それどころか関孝和の師である高橋吉種自身が日本に帰化したポルトガル人宣教師であった可能性が高い。

 この当時、最新の土木工事や鉱山の坑道開発において、高度な数学能力は欠くことのできない能力だった。

 当然のことながら長安と南蛮――おそらくは宣教師との繋がりは、かなり濃厚なものであったと思われる。

 特にそれまで灰吹き法が主流であった鉱山の精錬法に、南蛮絞りとも呼ばれる水銀を使ったアマルガム法を導入したのは日本広しといえど長安ただ一人であった。彼がその知識をどこから得たのか。それは科学者であり医者であり哲学者でもあったキリスト教の宣教師からにほかならない。

長安謀反の噂に幕府は戦慄した。スペインをはじめとした西洋の各国が植民地を広げようと虎視眈々と日本を狙っていることを、当然幕府は承知している。そうした海外からの脅威に加え、国内に七十万人以上は確実なキリシタンたちが協力した場合、徳川の天下など木っ端微塵に吹き飛びかねなかった。

 自然幕府の追及は苛烈となった。石川康長などは、哀れにも長安の息子に娘を嫁に出したというだけで、とばっちりのように改易されている。

 また、先に言った徳川家の重臣大久保忠隣の改易も怪しい。なぜなら彼は長安の死から翌年の慶長十九年一月十八日まで、一切処罰される気配もなかったにもかかわらず、京都におけるキリシタンの強制改宗に、従わぬ者の追放を行った翌日に改易を命じられているのである。その背後で何があったかは想像に難くない。いかにこのとき幕府が、京大坂のキリシタンの力と豊臣の力が結びつくのを恐れていたか、如実に示す例であろう。

 幸いに、というべきか。幕府が恐れたキリシタンの大規模蜂起は起こらず、豊臣家も大坂城とともに灰燼に帰した。それでもいくつかの謎が残った。

 はたして長安は本気でキリシタンと結び、松平忠輝や伊達政宗と共謀して天下を簒奪する意思があったのか。

――――そして、鉱山からの収入のうち、なんと六割もの割合を歩合として懐に収めていた(幕府にはわずかに四割しか納めなかったことになる)驕りもの長安の財産が、本当にわずか百万両程度で済むのだろうかという謎であった。
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