上 下
73 / 92
9. 笑顔と唇

千紗子が怖いのは

しおりを挟む



 「えっと、一彰さん…?」

 「ん?どうかしたのか、ちぃ」

 ショッピングモールで必要なものをあれこれと買い込んでから、一彰の車で帰宅した場所に、千紗子は困惑していた。

 「あの、私の引越しの段ボールまでここに持って上がることはなかったと思うのですが……」

 買い物の荷物も結構な量だったけれど、それに加えて裕也のマンションから引き上げてきた段ボール三箱をも、一彰はマンションの部屋に持って上がってきた。

 ここが自分の部屋なら、千紗子も困惑することはない。
 けれど、ここは一彰のマンションの部屋なのだ。

 「どうして?これはちぃが暮らすのに必要な物なんだろう?」
 
 小首を傾げて眼鏡の奥の瞳をきょとんと丸くする。
 
 「はい…だからそれらは自分のマンションに持って帰ります」

 千紗子はてっきり一彰は荷物を千紗子のマンションに持って行ってくれるのだと思っていた。
 一彰が千紗子と荷物を送って帰った後は、その荷物を整理して過ごそうかと思っていたのだ。

 「ちぃ……。ちぃは俺と一緒にいるのは嫌?君が疲れてるなら今日はもう送っていくけれど」

 一彰の口から出た言葉に、千紗子は目を見開いた。
 唐突に、彼がどうしてそんなことを言い出したのか分からない。しかもその表情は、明らかに不機嫌そうだ。

 「い、嫌ではありません…。でも……」

 「でも?」

 正直、千紗子はそろそろ自分の部屋に帰らなければいけない、と思っていた。
 あの雨の夜。熱を出してここに連れて来られてから、実はほぼ自分のマンションには帰宅してない。

 昨日仕事に行く前に、仕事に行く服に着替える為に一旦帰ったけれど、それは『立ち寄った』レベルだ。一彰の車での職場に向かう途中だった為、とりあえず着替えと必要な物を持っただけの短時間だった為空気の入れ替えも何も出来なかった。

 何より、一彰にお世話になってばかりなのが、千紗子にとっては一番の気がかりなのだ。

 (なんて言ったらいいのかしら……)

 下を向いて眉を寄せ、考え込んでいると、千紗子の頭に大きな手がポンと乗せられた。

 「千紗子」

 温もりと共に柔らかな声が頭上に降る。

 千紗子はゆっくりと顔を上げた。

 優しい瞳が千紗子を見下ろしていた。
 その瞳に見つめられると、千紗子は自分が幼い少女に戻っていく気がする。
 なんでも許してくれそうな温かな瞳。
 それは千紗子を愛し甘やかし、すべてを溶かしてしまう。

 「………ダメに、……なるかもしれません…………」

 「え?」

 「私、…ダメな子になりそうなんです」

 思っていることを、正しく相手に伝えるのはとても難しい。くじけそうになるけれど、千紗子は一言一言を丁寧に紡ぐ。
 恥ずかしくて頬が熱くなってくるが、一彰から目を逸らさないように体に力を入れる。

 「熱を出して寝込んでいる間、沢山お世話になってしまって、甘えっぱなしだったと、本当に申し訳ないと思ってます」

 「ちぃ、それは、」

 「一彰さんと一緒にいるのは、本当に心地良くて、…楽しいです。でも、いつも甘やかされてばかりで…私、それに慣れてしまうのが、…きっと怖いんです」

 一彰の言葉を遮るように言った千紗子の言葉に、一彰が眉をひそめる。

 今まで千紗子自身にもよく分からなかった、漠然とした不安。
 それが今、はっきりとした形になって浮かび上がってくる。
 自分が口から出す言葉を自分で聞きながら、千紗子は「ああ、そうだったんだ……」と実感を持ち始めていた。

 「怖い?どうして?」

 「甘やかされて、…それが当たり前になってしまって、もし…もしも、また……」
 
 そこまで言ったところで、千紗子は唇をグッと噛みしめた。

 一彰から目を逸らして、まばたきを堪える。そうしないと、熱くなった瞼を落ち着かせることが出来そうにない。

 千紗子の体が、ふわりと温かなものに包まれた。

 「―――千紗子」

 柔らかなバリトンボイスが自分の名を呼ぶ。
 それを耳にした途端、千紗子の喉から熱い何かがせり上がって来た。

 「こっ、こんなふうに、優しくされて、甘やかされて、一彰さんといることが当たり前になってしまって……、それにズルズルと甘えて、いつのまにか……気付かないうちにあなたの気持ちが私から離れてしまったら……、そう考えたら…こ、怖くって…私……」

 千紗子の頬をボロボロと大粒の雫が伝い落ちていく。
 嗚咽を飲みこんで震える小さな体を、一彰はギュッと力強く抱きしめた。

 「そんなこと怖がる必要なんてないんだ、千紗子」

 ひっくひっくと肩を揺らして泣く千紗子に、一彰は優しく諭すように語りかける。

 「俺の心が君から離れることなんて、これから先、永遠に来ない。―――絶対に」

 最後の言葉を力強く言い切ると、一彰は大きな溜め息を着く。

 「むしろ、俺の方が千紗子に愛想を尽かされないか心配だ」

 それまでときおりしゃくりあげていた千紗子の肩が、ピクリと止まる。

 どうして、という千紗子の疑問を感じ取った一彰は、今度は小さく息を吐いて千紗子の髪を優しく撫でた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~

ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。 2021/3/10 しおりを挟んでくださっている皆様へ。 こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。 しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗) 楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。 申しわけありません。 新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。 お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。 修正していないのと、若かりし頃の作品のため、 甘めに見てくださいm(__)m

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

上司は初恋の幼馴染です~社内での秘め事は控えめに~

けもこ
恋愛
高辻綾香はホテルグループの秘書課で働いている。先輩の退職に伴って、その後の仕事を引き継ぎ、専務秘書となったが、その専務は自分の幼馴染だった。 秘めた思いを抱えながら、オフィスで毎日ドキドキしながら過ごしていると、彼がアメリカ時代に一緒に暮らしていたという女性が現れ、心中は穏やかではない。 グイグイと距離を縮めようとする幼馴染に自分の思いをどうしていいかわからない日々。 初恋こじらせオフィスラブ

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました

加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!

冷徹上司の、甘い秘密。

青花美来
恋愛
うちの冷徹上司は、何故か私にだけ甘い。 「頼む。……この事は誰にも言わないでくれ」 「別に誰も気にしませんよ?」 「いや俺が気にする」 ひょんなことから、課長の秘密を知ってしまいました。 ※同作品の全年齢対象のものを他サイト様にて公開、完結しております。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~

椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」 私を脅して、別れを決断させた彼の両親。 彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。 私とは住む世界が違った…… 別れを命じられ、私の恋が終わった。 叶わない身分差の恋だったはずが―― ※R-15くらいなので※マークはありません。 ※視点切り替えあり。 ※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。

処理中です...