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9. 笑顔と唇
たっぷりと甘やかされたけれど
しおりを挟む一彰は、熱を出した千紗子のことを、驚くほど甲斐甲斐しく世話をした。
熱で朦朧としている千紗子に食事を運ぶのはもちろん、ベッドサイドの飲み物は切れることすらなく、更には汗をかいた千紗子の体を濡れたタオルで綺麗に拭いて新しいパジャマに着替えさせる、ということまで当然のようにやってのけた。
そして夜には千紗子の体を優しく抱き寄せ軽い口づけを落とした後、『愛してる』と囁いて眠る。
弱り切った体だけでなく、心も同時に満たされる。そんな休養を過ごした千紗子が、回復しないわけはない。
一彰の献身的な世話のお陰で熱を下げることが出来た千紗子は、そんな彼の心配を無下に突っぱねることが出来なかったのだ。
しかも千紗子の上司でもある彼が『休め』と言うのに、どうやって断ることが出来ただろう…。
無理して出勤しようものなら、先回りして欠席届を出されそうな勢いに押された、というのも事実ではあるけれど。
そうこうして、二日ほどの休養を経てすっかり平熱に戻った昨日。
久々に出勤は以前のように一彰の車で一緒に行った上に、帰りも車で一緒に帰ることとなった。
とにかくこの数日間、千紗子はたっぷりと一彰の甘やかし攻めを受け続け、以前よりも彼の甘さに慣らされつつある。
けれど彼が千紗子を甘やかせば甘やかすだけ、千紗子は心の隅から漠然とした不安が、じわりじわりと侵食してくるような気がしていた。
運転中の一彰の横顔を覗き見る。
(荷物の運び出しのことも、一彰さんが手伝うって言ってくれたからすぐに行動に移せたのだし、いつもいつも優しくて、私のことをこんなにも大事にしてくれてるのに、どうして私はこんなに不安になるの……)
裕也とも、これで完全に決別したと言える。
一彰の自分に対する気持ちを疑っているわけではない。
(じゃあ、どうして……)
そんなことを考えながら車窓から外を眺めると、車が向かっているのが帰る方向とは違うことに気付く。
「あれ?まだどこか行くんですか?」
右側を向いて問うと、運転中の一彰はまっすぐす前を向いたまま応える。
「ああ。昼を食べて少し買い物をしてから帰ろうかと思って」
車のデジタル時計は【11:46】と表示している。
(もうこんな時間だったんだ…)
元恋人と暮らした部屋に、今の恋人を連れて入ることに、やっぱり少しだけ気を張っていたのかもしれない。もう昼時だというのに、千紗子は全然空腹を感じていなかった。
「ちぃはそれでもいいか?疲れてるなら、何か食べるものを買って帰ってもいいけど?」
「全然疲れてませんよ。私も久々のランチ、楽しみです」
「良かった。もう着くから何が食べたいか考えておいて」
「はい」
千紗子が短い返事を返すと、一彰はウィンカーを出して、滑らかに車を左折させた。
「ここは……」
一彰が車を駐めたのは、前に二人で来た、あのショッピングモールだった。
「ここは嫌か?もしちぃが嫌なら他に行ってもいいぞ?」
車から降りると、心配そうにそう尋ねた一彰に、千紗子は慌てて首を振る。
「そんなこと、ありません。大丈夫です」
前にこのショッピングモールに来た時には、悲しみや混乱のど真ん中にいた上に、ここで更なる追い打ちをかけられたことはまだ記憶に新しい。けれど、それは少し前の出来事のはずなのに、もう随分と昔のことのような気がする。
千紗子の中にこの場所に対しての複雑な気持ちはあるけれど、だからと言って『行きたくない』と言うほどの強い嫌悪感はもう湧いて来ない。
「―――そうか。じゃあ、行こう」
一彰は千紗子の手をそっと握ると、店の方へと歩き出した。
二人はまずレストランの集まっているフロアに行き、案内板を見ながら飲茶が美味しそうな中華レストランに入ることにした。店内は落ち着いた雰囲気で、平日のランチメニューは、点心以外にも契約農家の野菜や漁港直送の魚の新鮮な素材が味わえるようなメニューがセットになっているものだった。
熱々の小龍包や蒸し餃子を食べてすっかりお腹が満たされた二人は、今度は店内を見て回ることにした。
「ごちそうさまでした、一彰さん」
隣に並んで歩く一彰を見上げて、千紗子は食事のお礼を伝える。
店を出る時、千紗子は財布を出す隙をわずかも与えてもらえなかった。
席を立つ時、千紗子が鞄を持ったりしているうちに一彰は会計に行き、店員にサッとカードを渡して全てを支払ってしまっていた。自分の食べた分は自分で支払うと言う千紗子に、一彰は「代わりにまた手料理を作って。」と言って、その手を取って有無を言わさず歩き出してしまったのだ。
「ちぃは何か見たいものとか欲しいものある?」
「そうですね……食器類を見たいな、と思います」
「そうか。じゃあ、食器や雑貨のあるフロアに行こう」
「はい」
それから二人は、時間を忘れて買い物を楽しんだ。
千紗子のマンションの部屋で使う食器類を選んで、その他にもリネンカバー類やクッションやキッチン雑貨などをあれこれと見て回る。
一彰は自分では料理をしないが、調理器具や食器を見るのは好きなようで、千紗子の買い物に嫌な顔をするどころか、彼の方が興味津々で楽しそうに商品を見て回っていた。
二人の両手いっぱいに荷物が溜まった頃、このショッピングモールの思い出もすっかり楽しいものに変わっていた。
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