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7. 聞こえる声と見えない心
決別
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『俺にはなんでもハッキリ言って欲しい』
耳元で柔らかなバリトンボイスが囁く。
『俺は君の気持ちを知りたい』
『俺は君にちゃんと言葉にして話してほしい』
『俺には千紗子のどんな顔もどんな台詞も、すべてが魅力的に映るんだ』
聞こえないはずの声に、千紗子の胸が切なく締め付けられる。
いつだって千紗子の気持ちを一番に考えてくれた彼の言葉が、千紗子の記憶の中から次々と湧いてくる。
その言葉に背中を押されるように、気付くと千紗子は口を開いていた。
「ごめんなさい……」
千紗子はポツリと口にした。
その言葉を聞いた途端、裕也は口を噤んだ。
黙り込んだ裕也を見ながら、千紗子は一つ一つ丁寧に言葉を紡ぐ。
「私も裕也に甘えてた。何も言わなくても私のことを分かってくれてるって信じてた。そう思い込んでたのは私の甘えだったんだと思う…だから裕也だけが悪いんじゃないの……」
「だったら、千紗、」
「でも、だからこそ、ごめんなさい」
そう言って頭を下げた千紗子に、裕也は言葉をなくした。
「私、あの時まで裕也の気持ちを疑ったことなんてなかった。何も言わなくても私たちの間には信頼関係があるって思ってた。裕也がプロポーズしてくれて、このままずっと一緒に時を重ねて行くんだって、本当に幸せだったの……」
「千紗……」
「でも、あの夜、その幸せは終わったの……。すごく辛かった、自分でも驚くくらい絶望した。……私、きっともうあなたのことを信じることは出来ない。だから、ごめんなさい。あなたのところには戻れません」
きっぱりと言い切った千紗子の目を見た裕也は、がっくりとうなだれた。
「次の日に会った時、俺があんなふうに意地を張って千紗子にきつく当たったからか?すぐに謝っていたら……」
うなだれながら問いかけてくる裕也に、千紗子はハッキリと告げる。
「ううん、違う。あの時もショックは受けたけど、でもやっぱりあの夜が私たちの終わりだったの。私は他の女性と肌を重ねたあなたとは、もう一緒にいられない……それがすごく辛かった……」
「………そうか………」
千紗子の言っている意味がやっと腑に落ちたのか、裕也はしばらくの間顔を伏せて黙っていた。
「千紗の気持ちは、分かった。……俺がどんなに後悔しても時間は巻き戻らない…そういうことなんだな」
自分を納得させるように呟いた彼の言葉に、千紗子は小さく頷いた。
それからしばらく俯いたまま黙っていた裕也は、突如「はぁ~っ」と大きなため息をついて、千紗子を正面から見た。
千紗子と目が合うと、情けなさそうに眉を寄せて苦笑いを浮かべた。
「昔から千紗はそうだったな」
「え?」
「基本的に俺の言うことを否定せずに合わせてくれるのに、ここぞという時の決断は自分で下すんだ。本当の千紗は芯の強い女だってこと、俺はすっかり忘れてしまってたんだな……」
裕也の台詞に千紗子は目を見開いた。
「そ、そうだったかしら…?」
「ああ。千紗の周りの友人たちはみんな同じようなことを言ってたぞ。」
自分自身では思ってもみなかった裕也の発言に、千紗子は目を白黒させる。
それを見た裕也は楽しげな顔で「プっ」と吹き出した。
「無自覚なところが、千紗の怖いところだな」
そして「あははっ」と少し笑った後、真顔になった。
「あの彼とは……」
「え?なに?」
裕也の小さな呟きが聞き取りづらくて聞き直した千紗子に、裕也は苦笑を浮かべながら左右に軽く首を振った。
「いや、なんでもない。…あの部屋は千紗が必要な物を持って出てくれてもいいし、そのまま住んでもいい。俺は他に引っ越すよ」
「私、もう他に部屋を借りたの。今度裕也が居ない時に私の荷物だけ持って出るわね」
「そうか……分かった」
寂しげな顔で頷く彼に、千紗子の心も痛む。
「じゃあ俺、もう行くから。千紗子の気持ちをちゃんと聞けて良かった」
そう言って薄く微笑んだ裕也は、席を立つ。千紗子もつられて腰を上げる。
と、その時。千紗子の後ろにあるガラス張りの壁の向こうに目を遣った裕也の顔が、一瞬歪んだ。
「裕也??」
さっきまで何かを誤魔化すように笑っていた裕也の瞳が、真剣なものになる。そして何かに追われるように早口に言った。
「最後に…これで最後だから、一度だけ抱きしめさせてくれないか?」
そう言った裕也は、千紗子の返事を待たずに彼女の体をギュッと強く抱きしめた。
「ゆっ、ゆうや!?」
彼の腕の中で千紗子は固まる。
嫌悪感は湧いてこないけれど、恋人だった時のように温かくて幸せな気持ちも湧いてこない。
(ああ、やっぱり私……)
この身に馴染んだはずの、その腕の感触と匂い、それすらすごく遠くのものに思えた千紗子は、自分の気持ちが誰に向かっているのかを改めて理解する。
「千紗……千紗子、ごめんな。今までありがとう」
耳元で呟く裕也の声に、千紗子の胸がきゅうっと切ない音を立てた。
それは長く続いた恋が終わりを告げた音だった。
裕也は千紗子の体を抱きしめた腕をすぐにほどくと、踵を返して出口に向かった。
彼の後ろ姿を黙って見送った千紗子は、ふと自分の後ろにあるガラスの方を振り帰った。
―――目が合った。
千紗子は自分の目を疑った。
通りを挟んで自分と見つめあうその人は、雨宮だった。
人波が途切れることのない往来で、彼は立ち止まったまま千紗子をじっと見つめている。
太いフレームの奥の瞳が、数メートル離れていても千紗子にははっきりと見えた。
「雨宮さん……」
千紗子の唇が彼の名を紡いだ時、雨宮は千紗子から顔を逸らして雑踏の中へ身をひるがえした。
「待ってっ!」
千紗子の口から飛び出た言葉は、雨宮に届くはずもない。
勢いよく鞄を掴んで、千紗子は店を飛び出した。
耳元で柔らかなバリトンボイスが囁く。
『俺は君の気持ちを知りたい』
『俺は君にちゃんと言葉にして話してほしい』
『俺には千紗子のどんな顔もどんな台詞も、すべてが魅力的に映るんだ』
聞こえないはずの声に、千紗子の胸が切なく締め付けられる。
いつだって千紗子の気持ちを一番に考えてくれた彼の言葉が、千紗子の記憶の中から次々と湧いてくる。
その言葉に背中を押されるように、気付くと千紗子は口を開いていた。
「ごめんなさい……」
千紗子はポツリと口にした。
その言葉を聞いた途端、裕也は口を噤んだ。
黙り込んだ裕也を見ながら、千紗子は一つ一つ丁寧に言葉を紡ぐ。
「私も裕也に甘えてた。何も言わなくても私のことを分かってくれてるって信じてた。そう思い込んでたのは私の甘えだったんだと思う…だから裕也だけが悪いんじゃないの……」
「だったら、千紗、」
「でも、だからこそ、ごめんなさい」
そう言って頭を下げた千紗子に、裕也は言葉をなくした。
「私、あの時まで裕也の気持ちを疑ったことなんてなかった。何も言わなくても私たちの間には信頼関係があるって思ってた。裕也がプロポーズしてくれて、このままずっと一緒に時を重ねて行くんだって、本当に幸せだったの……」
「千紗……」
「でも、あの夜、その幸せは終わったの……。すごく辛かった、自分でも驚くくらい絶望した。……私、きっともうあなたのことを信じることは出来ない。だから、ごめんなさい。あなたのところには戻れません」
きっぱりと言い切った千紗子の目を見た裕也は、がっくりとうなだれた。
「次の日に会った時、俺があんなふうに意地を張って千紗子にきつく当たったからか?すぐに謝っていたら……」
うなだれながら問いかけてくる裕也に、千紗子はハッキリと告げる。
「ううん、違う。あの時もショックは受けたけど、でもやっぱりあの夜が私たちの終わりだったの。私は他の女性と肌を重ねたあなたとは、もう一緒にいられない……それがすごく辛かった……」
「………そうか………」
千紗子の言っている意味がやっと腑に落ちたのか、裕也はしばらくの間顔を伏せて黙っていた。
「千紗の気持ちは、分かった。……俺がどんなに後悔しても時間は巻き戻らない…そういうことなんだな」
自分を納得させるように呟いた彼の言葉に、千紗子は小さく頷いた。
それからしばらく俯いたまま黙っていた裕也は、突如「はぁ~っ」と大きなため息をついて、千紗子を正面から見た。
千紗子と目が合うと、情けなさそうに眉を寄せて苦笑いを浮かべた。
「昔から千紗はそうだったな」
「え?」
「基本的に俺の言うことを否定せずに合わせてくれるのに、ここぞという時の決断は自分で下すんだ。本当の千紗は芯の強い女だってこと、俺はすっかり忘れてしまってたんだな……」
裕也の台詞に千紗子は目を見開いた。
「そ、そうだったかしら…?」
「ああ。千紗の周りの友人たちはみんな同じようなことを言ってたぞ。」
自分自身では思ってもみなかった裕也の発言に、千紗子は目を白黒させる。
それを見た裕也は楽しげな顔で「プっ」と吹き出した。
「無自覚なところが、千紗の怖いところだな」
そして「あははっ」と少し笑った後、真顔になった。
「あの彼とは……」
「え?なに?」
裕也の小さな呟きが聞き取りづらくて聞き直した千紗子に、裕也は苦笑を浮かべながら左右に軽く首を振った。
「いや、なんでもない。…あの部屋は千紗が必要な物を持って出てくれてもいいし、そのまま住んでもいい。俺は他に引っ越すよ」
「私、もう他に部屋を借りたの。今度裕也が居ない時に私の荷物だけ持って出るわね」
「そうか……分かった」
寂しげな顔で頷く彼に、千紗子の心も痛む。
「じゃあ俺、もう行くから。千紗子の気持ちをちゃんと聞けて良かった」
そう言って薄く微笑んだ裕也は、席を立つ。千紗子もつられて腰を上げる。
と、その時。千紗子の後ろにあるガラス張りの壁の向こうに目を遣った裕也の顔が、一瞬歪んだ。
「裕也??」
さっきまで何かを誤魔化すように笑っていた裕也の瞳が、真剣なものになる。そして何かに追われるように早口に言った。
「最後に…これで最後だから、一度だけ抱きしめさせてくれないか?」
そう言った裕也は、千紗子の返事を待たずに彼女の体をギュッと強く抱きしめた。
「ゆっ、ゆうや!?」
彼の腕の中で千紗子は固まる。
嫌悪感は湧いてこないけれど、恋人だった時のように温かくて幸せな気持ちも湧いてこない。
(ああ、やっぱり私……)
この身に馴染んだはずの、その腕の感触と匂い、それすらすごく遠くのものに思えた千紗子は、自分の気持ちが誰に向かっているのかを改めて理解する。
「千紗……千紗子、ごめんな。今までありがとう」
耳元で呟く裕也の声に、千紗子の胸がきゅうっと切ない音を立てた。
それは長く続いた恋が終わりを告げた音だった。
裕也は千紗子の体を抱きしめた腕をすぐにほどくと、踵を返して出口に向かった。
彼の後ろ姿を黙って見送った千紗子は、ふと自分の後ろにあるガラスの方を振り帰った。
―――目が合った。
千紗子は自分の目を疑った。
通りを挟んで自分と見つめあうその人は、雨宮だった。
人波が途切れることのない往来で、彼は立ち止まったまま千紗子をじっと見つめている。
太いフレームの奥の瞳が、数メートル離れていても千紗子にははっきりと見えた。
「雨宮さん……」
千紗子の唇が彼の名を紡いだ時、雨宮は千紗子から顔を逸らして雑踏の中へ身をひるがえした。
「待ってっ!」
千紗子の口から飛び出た言葉は、雨宮に届くはずもない。
勢いよく鞄を掴んで、千紗子は店を飛び出した。
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