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自業自得
自業自得(5)
しおりを挟む「あのっ…!黒田製菓さんのことやなかったんですかぁっ」
ミーティングルームのドア付近で彼にしっかりと抱き込まれたまま、あたしは必死に訴える。
まかり間違っても、『密室にふたりきり』なんてことにならないよう、毎日気を遣って過ごしてきたのに。まさか自分からその事態を招くやなんて…!
今ほど自分のうっかりを恨んだことはない。
自分がやらかした失敗のことで、上司から『詳しい話はミーティングルームで聞こう』と言われたら逃げきれるはずがなかった。
「そうだけど? ――黒田製菓の阿部さんが今日で定年退職されるんだったよな」
「そ、そうですぅっ……、やからそのぉっ阿部さんになんとかご挨拶を――って…! ちゃんと話を聞いてくださぁいっ…!」
「ちゃんと聞いている」
「そやったらっ…!」
この体勢はおかしいでしょーがっ!
ミーティングルームで席にも着かず立ったまま――というところまでは許容範囲としても、しっかりと抱きしめられているなんて絶対に変!
「要は今日の定時までに黒田製菓さんに行ければいいんだろう?」
「そ、そうですけどぉっ」
あたしが今日担当するツアーは、十六時半で上がり。
そこからダッシュで黒田製菓さんへ向かっても、阿部さんの退社時刻にギリギリ間に合うかどうか。
ここから黒田製菓さんまで、直線距離的にはそんなに離れていないのだけど、いざ行こうとすると電車を乗り継がなければならないから思ったより時間がかかる。
空を飛んでいければ余裕で間に合うんだけど、残念ながらあたしには無理。
直接ご挨拶するのはもう無理だとしても、定年退職のお祝いくらいはお渡ししたい。せめてそれだけでもなんとかならないか調べようと思っているのに、こんなことで足止めを喰らっている場合じゃない。
課長の腕の中で歯噛みをしたそのとき。
「俺の話を聞いてくれるのなら、おまえの要望も聞いてやる」
「は?」
「逃げずに俺の話を聞いて欲しい。その機会を作ってくれるのなら、俺がおまえを黒田製菓へ連れて行ってやるよ」
まったく意味の分からないセリフに思いっきり眉をひそめたあと、その言葉に息を呑んだ。
「今日はちょうど車で来ているから、途中で手土産を買いに寄っても充分に間に合うだろう」
「ず、ずるいっ…」
提示された“交換条件”に思わずそう声を上げると、彼が沈黙した。
だって、これってまるっきり公私混同やないの。
これまでの彼は、たとえプライベートであたしとどんなやり取りをしたとしても、仕事は仕事。素知らぬフリを決め込んで、絶対に表には出さなかったのに。こんなこと初めて。
本当にこの人、あの結城課長ですかぁっ!?
そんな疑惑を否定するみたいに、さっきからずっと、あの、控えめな甘い香りがあたしを包んでいた。
彼の腕の中にいるのだ。そう思うだけできゅうっと強く収縮する心臓に、まだ自分が全然彼のことを好きなことを思い知る。そんなの知りたくもないのに。
悔しいのか嬉しいのか悲しいのか。
自分の感情なのにそれすらよく分からない。
ごちゃ混ぜになった感情にどうしていいのか分からず、ただまぶたが熱く湿っていくのを感じたとき――。
「自分でもズルいことは分かっている」
少し掠れた声が降ってきた。
あたしは彼の腕の中で、身じろぎひとつできない。彼の顔を見るのが怖い。
「自分でもなんでこんな……公私混同極まりないことをしているのか……ハッキリ言ってよく分からない」
「そやったら、」
「だけど…! ――分かっていても、どうしてももう一度きちんと話をするチャンスが欲しいんだよ、希々花」
名前を呼ばれたことに驚いて、反射的に顔を上げる。
目が合った瞬間、息を呑んだ。
ゆらゆらと揺れる虹彩。
苦しげに寄せられた眉根。
彼の顔はひどくせつなげに歪められていて、まるで心の底からそれを希っていると訴えてくるよう。
切羽詰まったその表情に、あたしは返すべき言葉を見失ってしまう。
すると頬に大きな手がスッと差し込まれて、肩がビクリと跳ねた。
「午後からのアテンドが終わったら、一緒に黒田製菓へ行こう。阿部さんへのご挨拶が無事済んだら、そのあと俺との時間を作ってほしい」
「………」
黙ったままのあたしに彼は困ったように眉を下げたけれど、引くつもりはないらしい。
頬に当てた手の親指が頬をスーっと撫でた。
「希々花、頼む……」
そう懇願する彼の瞳は、まっすぐにあたしに注がれていて、あたしはそこから逃げ出したいのに一ミリも逸らすことが出来ない。
息をするのも忘れて固まっていると、みるみる彼の顔が近付いてくる。
漆黒よりは少しだけ明るめの虹彩に、自分の顔が映っているのがハッキリと見えた。
キスされる――。
そう思った瞬間、口から言葉が飛び出していた。
「わかったっ…!」
ぎゅっと両目をつむったままそう叫ぶと、彼の動きが止まった。
あたしはその隙に、必死に言葉を紡いだ。
「時間作る、話ちゃんときく。それでよかっちゃろっ…!?」
「ああ、もちろん」
「じゃあ、」
もう離して。
そう言いかけた時――。
「ありがとう、希々花」
そう聞こえてからすぐ。ふわりとおでこに感じた柔らかさと温もり。
「っ…!」
驚きに目を見張るあたしにそう言うと、彼は両腕をそっと解く。
そしてすぐそこにあるドアを開けると、あたしのほうを振り返えらずに言った。
「直帰申請はしておいてやる。森は黒田製菓さんへ訪問のアポをきちんと取っておくように」
「は……い」
パタンと閉まるドア。
あたしは彼の唇の感触が残る額を片手で押さえ、その場にへなへなと座り込んで、しばらくそのまま動けなかった。
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