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六 あのコーヒーをもう一度

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 ピピピピっ。

 スマホのアラームを指で消して、のそのそとベッドから起き上がる。

 まだ開かない目を無理矢理開けながら、キッチンの冷蔵庫にふらふらと向かい、炭酸水を取り出し、一口飲んだ。

 「はぁ…」

 時刻は午前七時過ぎ。
 
 低血圧の私がアラームを一回目で止めて動いているのはなかなかに貴重な姿だ。

 とりあえず眠気覚ましに、と思いテレビのスイッチを入れる。

 淡々と話す女性アナウンサー。
 その姿をぼんやりと眺めながら、トースターにパンを突っ込む。

 まだパジャマのままうろつく私はだらしなさの塊だ。

 いつもなら土曜日も出勤でバタバタしている時間だったけど、今週はたまたま休みで今日はダラダラ過ごすことに決めていた。

 チンっ。

 「あっ、焼けた」
 
 独り言が妙に寂しく感じるのは、最近ずっと雉野君といたからだろうか。それとも純香さんのことを思い出す余裕が出来たからだろうか。

 どちらもかもしれない。

 「あちっ」

 適当な皿にパンを移して、ブルーベリージャムで飾った。

 「いただきます」

 サクサクのパンは、休日の朝に幸福感を与えてくれた。

 『続いてのニュースです…』

 「あ、牛乳あったっけ…」

 冷蔵庫に向かう私の足を女性アナウンサーの言葉が強く引き止めた。

 『六年前に起こった殺人事件の容疑者が逮捕されました…』

 ゆっくりと冷蔵庫からテレビに視線が吸い込まれる。

 映し出されるよく知った女性の小さな写真。

 「明花……」

 パタンと閉めた冷蔵庫に私の感情も閉じ込めて、パンの待つリビングへ戻った。

 明花は約束通り自首してくれたようだった。長かった六年がようやく終わったような、そんな気がした。

 パンを齧りながら、昨日の出来事を思い返していると、明花のことよりも雉野君のトマトみたいに赤くなった顔を思い出して笑い声が漏れた。

 雉野君は、思っていることや感情がすぐ顔に出る。裏表がなくて素敵だと思う。

 そんな雉野君の気持ちをこれ以上、はぐらかすのは間違っている。

 こんな私を純香さんはどう思うだろうか。

 「ごちそうさまでした」
 
 モヤモヤした気持ちを抱えたまま、食器を洗い始める。いつの間にかテレビは通販番組に変わっていて、着飾った女性や男性がにこやかにありきたりな商品を紹介している。

 食器を洗い終わり、次の行動に悩んでいると、来客を知らせるインターフォンがリビングに響いた。

 「はーい」

 急ぎ足で玄関に向かい扉を開けると、そこには笑顔の美琴さんが立っていた。

 「おはよう、彩綾ちゃん!」

 「美琴さん?おはようございます…あっ、髪ボサボサだしすっぴんだし、恥ずかしい…」

 まだ身支度を整えていないことを思い出して、顔を赤くした。

 「いきなり来てごめんね、すぐ帰るから気にしないで!」

 「いえいえ、上がってください」

 慌てながら美琴さんを招き入れようとすると、美琴さんは首を横に振ってから笑みを向けた。

 「すぐの用だから大丈夫!ありがとうね、今朝のニュース見たよ…なんか、ホッとして涙出てきちゃった…ちゃんと、罪は償ってもらわないとね…」

 美琴さんには昨日、明花と話したことは雉野君から伝えてもらっていた。明花が逮捕されたことで美琴さんも少しは安心出来ただろうか。

 そんなことを考えながら、小さな声で頷いた。

 「はい…」

 「ふふっ、なんか暗い話になっちゃったね…そんなことよりっ!今日は、彩綾ちゃんに頼みたいことがあって来たの!」

 「私にですか?」

 いきなり明るい声で言う美琴さんに、私は驚きながらも少し安心していた。美琴さんは私に構わず続ける?

 「そう!彩綾ちゃん今日、お仕事お休みだったよね?これを由乃に届けてくれない?住所はメッセージで送っとくから!私、急用があって今から行かないといけなくて…頼めるの彩綾ちゃんしかいないから…」

 美琴さんはそう言いながら、私に大きめの紙袋を差し出した。

 「じゃ、よろしく!由乃のとこに行くことは伝えてあるから!」

 「えっ?!ちょっと!美琴さん!!」

 慌てる私をよそに、美琴さんは手を振りながらどんどん遠ざかっていく。

 「行っちゃった…」

 とりあえず一旦、部屋に戻った私は、急いで着替えを済まし、身支度を整えた。

 いつものようにメイクを済ませ、薄手のシャツとジーンズを身につけて、部屋を出た。

 美琴さんはさっきの言葉通り、雉野君の住所をメッセージで送ってくれた。

 「えっと…ここからだと…こっち方面…」

 一人でにスマホ片手に呟きながら、アパートの前の道を歩く。スマホのマップによると雉野君の住んでいる場所はここから意外と近いみたいだ。

 数分歩くと、目的にしている建物が目に入ってきた。

 「ここの三階…」

 エレベーターもあったけれど、気分的に階段を登って三階へ向かった。

 「着いた!」

 雉野君の部屋の前にたどり着いた。
 その瞬間に急に緊張し始めて、深呼吸を繰り返す。

 三回ほど息を整え、意を決してインターフォンをそっと押した。

 ピーンポーン。

 数秒後、部屋から足音が聞こえ、ゆっくりと扉が開いた。

 「はーい、って…桜樹さん?!なんでっ?俺ん家知ってたっけ?えっ?あれ?」

 慌てふためく雉野君は、普段会う時と違い、眼鏡姿に白いシャツを肩まで捲り上げ、ハーフパンツというラフな格好だった。

 「あれ?美琴さんから聞いてない?私が行くって伝えてあるからって言われたんだけど…」

 「いや、姉さんが来るって聞いてて…あー!知ってたらちゃんと支度したのに…なんか、ごめん…眼鏡だし、ダサい服だし…髪だってちゃんとしてないし…」

 「ふふっ、さっきの私と一緒」

 思い出し笑いをしている私を雉野君は不思議そうに眺めていた。

 「あの…よかったら、ちょっと上がってく…?せっかく来てくれたんだし…ってきもいか」

 恥ずかしさからか笑って誤魔化す雉野君に私は頷いて答えた。

 「せっかくだから、上がってもいい?」

 「もちろん…男の部屋だから汚いけど、許して…」

 雉野君はそう言いながら、玄関の靴をさっと並べてから案内してくれた。

 汚いなんて言っていたけど、廊下も、リビングも私の部屋より綺麗で自分の女子力に幻滅する。

 「好きなとこ座って…ちょっと待ってて」

 雉野君はそう言いながら、リビングから姿を消した。

 雉野君を待つ間に、そわそわしながら部屋をじっと眺めていた。
 丁寧に畳んであるシャツ。
 床には埃も落ちてなくて、生活感があまり感じられない。

 ちらりとガラステーブルに視線を移すと、純香さんが残した指輪が置かれていた。

 「お待たせ…朝から散々だった…、はい、これ」

 雉野君はテーブルにマグカップを二つとお菓子の入ったカゴを並べた。

 「ありがとう、いただきます」

 「インスタントだけど…カフェオレ、ごめん…チョコレートとちょっとしたナッツしかなかった」

 そう言って雉野君は困ったように笑った。

 「いきなり上がったのにごめんね」

 「元はといえば姉さんが悪いんだから、桜樹さんは謝らないで」

 雉野君の言葉で、美琴さんから預かった荷物を思い出して慌てて手渡した。

 「そうだっ、これ…美琴さんが渡してって言ってたの」

 「なんだ?開けてみるか…てか姉さん、今日から海外行くらしい…空港行く前に寄るって言ってたくせに…」

 文句を言いながら、袋を開ける雉野君とそれを待つ私。

 「え?海外?」

 「そ、姉さんの彼氏が海外で働いてるから遊びに行くんだってさ…久々に日本食作ってあげないと、とか言って張り切ってた」

 小馬鹿にしたように美琴さんの真似をする雉野君。雉野君に笑いを返しながらも寂しさは拭えなかった。

 「そうなんだ、美琴さんがいないの寂しいな…」

 「まっ、気分屋だからそのうち帰ってくるよ」

 雉野君はそう言いながら、袋の中から箱を取り出し、箱についていたメモを読み上げる。

 『由乃、彩綾ちゃんへ

 彩綾ちゃん、一日早いけど誕生日おめでとう!プレゼント、良かったら着てください!

 由乃、純と彩綾ちゃんをよろしくね』

 「んだよ…俺に関係なくないか…」

 「確かに、どうして雉野君のところに…」

 雉野君はしばらく考え込んでから、思い出したような顔をして溜息を吐いた。

 「はぁ…兄貴も姉さんも考えることは一緒か」

 雉野君の言葉の意味が分からず、首を傾げて返した私に雉野君は微笑みながら、美琴さんからのプレゼントを手渡してくれた。

 「桜樹さんにもそのうちわかる…はい、とりあえずプレゼント!」

 「ありがとう、見ていいかな?」

 雉野君が頷いたのを見て、私はプレゼントを受け取り、箱を丁寧に開いた。

 「わっ!可愛い」

 箱の中身は真っ白のレースのワンピースだった。丈は膝下で、サラッとした生地は夏に向いている。

 「私にはもったいないな…」

 「そんなことないよ」

 雉野君は私の言葉を否定してから、照れたのを誤魔化すようにカフェオレを口に運んだ。

 「美琴さんにお礼伝えないと」

 「姉さん喜ぶよ」

 そんな話でしばらく盛り上がっていると、遠くの方で何かの終了を知らせる音が聞こえてきた。

 「あっ、洗濯終わった…恥ずかしいけど、干してもいい?こういうこと、来客中にする男って引く?」

 私は雉野君の言葉に思わず吹き出してから、首を振った。

 「あはは、そんなこと気にしないしそんなことで引いかないよ」

 「ならいいけど、恥ずかしいものもあるから、あんまり見ないで…」

 「わかってるよ」

 雉野君は慌ただしくベランダに洗濯を干し始め、五分ほどで戻ってきた。
 
 「はぁ…シミにならなくて良かった…」

 「シミ?」

 「うん…信じられない話してもいい?」

 雉野君は険しい顔で話し始める。

 「昨日夢に兄貴が出てきてさ…俺は何故かあの場所にいて…兄貴がコーヒー出してくれて、飲んでたんだけど…兄貴と話してるうちに気が立って、机叩いたらカップからコーヒーが飛び散ってさ…服についたんだ、夢だからいいやって思ってたんだけど、朝起きたら本当に服に茶色いシミができてて、慌てて洗ってさ…」

 雉野君は頭を抱えながら、私の近くに腰を下ろした。

 「マジで最悪」

 「シミにならなくて良かったね…純香さん、何か用事があったのかな…」

 私の問いに雉野君は答える。

 「要件を言ってきたよ…」

 「えっ?」

 「桜樹さんの誕生日にあの場所に指輪を持ってきて欲しいってさ…人使いが荒いな…相変わらず」

 困ったような笑う雉野君と、純香さんの言葉が気になる私。

 今日という日、この場所にいるのもきっと意味があるのかもしれない。
 そう感じ始めた。

 結局、お昼も雉野君にご馳走になり、お手製のオムライスをいただいた。

 雉野君いわく、両親が亡くなってから兄弟三人で家事をしてたから料理も苦手じゃないとのこと。私も見習わないといけないなと焦り始めた。

 日も暮れ始めて、そろそろ帰宅しようか悩み始めていると雉野君が私に優しく言葉をかけてくれた。

 「せっかくだし、日付変わる頃に兄貴のところに行かない?桜樹さんが嫌じゃなければ、夕飯も食べていってよ」

 「でも…悪いよ、私、朝からずっといるんだよ?疲れたでしょ?」

 雉野君は、首を横に振ってから続ける。

 「俺が一緒にいたいだけ…気持ち悪いかな?」

 雉野君の顔はみるみる真っ赤に染まり、俯いてしまった。

 「私も、居心地良くて時間忘れちゃった…雉野君が良ければ、いてもいいかな…」

 
 私は、雉野君の部屋で夜まで過ごし、日付が変わるまで後一時間に迫った頃、あの場所に行く支度を始めた。

 「もしかしたら、純香さんに会えるかもしれないのに、この格好はラフすぎるよね…」

 靴こそローヒールのサンダルできたものの、シャツにジーンズだとあまりにラフすぎる気がしてきた。

 「あっ!姉さんがくれた服を着たら?」

 雉野君が思いついたように言い、私はその提案に頷いた。

 脱衣所を借りてワンピースにそっと袖を通す。

 サイズもちょうど良くて、サラサラとして着心地も気持ちが良かった。

 「お待たせ、行こうか」

 「お、おう」

 雉野君は私を見ると、顔を赤くして目を逸らしてしまった。

 「どうかした?」

 「いや、すげー似合ってるなって…」

 雉野君のストレートな言葉に私まで恥ずかしくなって俯いた。

 午後二十三時五十分。

 いつもみたいに雉野君の運転で、あの場所に着いた。雉野君といると時間が溶けていくみたいに早く感じて、道中何を話したかなんて思い出せないくらい笑っていた気がする。

 「行こうか…」

 車から降りた雉野君の手には、純香さんが残した指輪がしっかりと握られていた。

 「雉野君…純香さんのところに行く前に一つだけ聞いてもいい…?」

 寂しげな夜風が私のワンピースと髪を優しく撫でた。

 「いいよ」

 いつもより雉野君の声色が低くて、車内にいた時とは別人のようだった。

 「前に雉野君が言ってたこと…純香さんと別れて欲しいって…私にそれが出来なかったらどうする?」

 雉野君はまっすぐな瞳で私を捉えて、はっきりと言う。

 「俺はしつこい男だから、その時が来るのをずっと待ってる」
 
 そうか。
 雉野君の気持ちは六年前からずっと変わらない。

 「答えてくれてありがとう」

 私はそう言って深く息を吸う。

 雉野君はそっと私から視線を離してから頷いた。

 雉野君が解錠し、店内を明るくした。
 まるで以前来た時と全く同じ動作だった。

 私達が店内を数歩歩き始めた時、壁掛け時計が午前零時を告げた。

 ボーン…ボーン…。パッポー、パッポー。

 時計の中から慌ただしく鳩が顔を出して、ゆっくりと帰っていく。

 「ハッピーバースデー…桜樹さん…後は兄貴を探すだけ…」

 雉野君はそう言いながら、目の前の光景に驚いて口をつぐんだ。

 「雉野君?」

 つられて私も動けなくなる。

 「あれ…昨日、俺が飲んだコーヒー…」

 雉野君が指を指したのはカウンターだった。
カウンターにはコーヒーカップが受け皿の上で斜めになって存在していた。

 「兄貴…」

 雉野君はカウンターにそっと近づいて、腰を下ろした。

 私もそっと隣に腰を下ろす。

 「兄貴…おかわりくれないかな…」

 カタンっ。

 キッチンの方から物音が聞こえた。

 「兄貴っ?そこにいるのか?」

 雉野君が慌てたように立ち上がった瞬間。

 一瞬だった。

 「雉野君…?」

 雉野君がビクッと小さく後ろに反り返った。

 「大丈夫っ?どうかしたの?」

 慌てて、背中を支える私。

 十秒くらいの沈黙の後、雉野君は悪戯っぽく笑ってみせた。

 『どう?驚いた?』

 たった一言。
 それだけだったのに、私の目からは涙が溢れて止まらなくなる。

 今、目の前にいるのは雉野君だけど、雉野君じゃない…。
 はっきりと分かる…純香さんだ。

 「うん…驚いた…」

 それしか返せなかった。

 雉野君の長い指が私の涙を優しく掬う。

 『サプライズ成功?!彩綾…お誕生日おめでとう、それと…すっごく綺麗になったね…』

 「ありがとう」

 純香さんは相変わらず、さらりと私を褒めてくれる。

 『由乃の体力とか考えると一時間くらいしか話せないんだ…六年も待たせてごめん…』

 そう言いながら寂しそうに笑う純香さん。
 顔も声も雉野君なのに、何故だろう。

 純香さんでしかない。

 「いいの…私こそ、六年も純香さんから逃げてた…ごめんなさい」

 『お互い、謝り合いは終わりにしよう、せっかくの誕生日なんだから、たくさん話そう!』

 「うん!」

 『実を言うとね、六年前から由乃に取り憑いて彩綾のこと見てたんだ…由乃の不眠症は僕が原因なんだ…由乃にも聞こえてるはずだから、今頃怒ってるかも…』

 「そうだったの?」

 びっくりする私に、純香さんはにっと笑ってから続ける。

 『六年経ってやっと、由乃と僕が近づけたからコンタクトを取れた…多分、約束してた年だったからだと思う…』

 「それって純香さんは悪霊ってこと?」

 真剣な声のトーンで聞く私に純香さんは盛大に吹き出した。

 『あっはは、悪霊だなんて!一応、守護霊にしておいてよ、彩綾ってば』

 六年経っても純香さんは変わらずに優しくて、いつまでも一緒にいたくなってしまう。
 だけど…。

 だけど…。

 だからこそちゃんと言わないといけない。

 「純香さん…私…」

 『彩綾の気持ち、ちゃんと分かってる…だからこうして今日、話しをしに来た』

 純香さんは優しく私の手を握りしめて、じっと目を見つめる。

 『彩綾、僕は今でも彩綾のことを愛してる…』

 「うん」

 『だけど、僕は彩綾の過去にならないといけない…』

 「私…」

 純香さんは私の両手を優しく包んだまま頷いた。

 「私、純香さん以外の人を好きになれないって思ってた…今だって純香さんが好き…何かあれば純香さんを思い出して涙が出る…」

 『うん、知ってる』

 「だけど、雉野君から、純香さんと別れてくれって言われたあの日から、少しずつ雉野君に惹かれてて…ずるい女だって分かってるのに…どうしたらいいかわからなくて…」

 純香さんは優しく頷いてから口を開いた。

 『人間って欲張りだから人間なんだと思う…恋が愛になって、愛が家族になって…だからこそ、人間なんだ…だからね、彩綾は間違ってないよ、由乃も彩綾も僕に遠慮しすぎなんだ…恋のライバルは強敵じゃなきゃ、僕も戦いにくいよ』

 悪戯っぽく笑う純香さん。
 ずっとずっと大好きな人。

 「純香さん…」

 『うん』

 「私、雉野君のこと好きなんだと思う…」

 純香さんはゆっくり頷いた。

 『僕が由乃にこだわってた理由、彩綾なら分かるよね』

 「うん…雉野君と私の距離を縮めるためでしょ?」

 純香さんは優しい笑みを浮かべる。

 『もし僕に何かあったら、他の誰でもなく由乃に彩綾を任せたいと思ったんだ、由乃の気持ちを知ってて後ろめたかったからじゃなくて、由乃なら彩綾を任せても安心だなって、だから指輪も由乃に託した』

 「純香さん」

 『答えは出てるね、僕も後悔はない、こうしてまた会えたから』

 「うん…私、純香さんに会えて嬉しかった」

 『僕も…彩綾に会えて幸せだった』

 そう言って純香さんはゆっくり立ち上がると、無言のままキッチンに足を運んだ。

 数分して純香さんはコーヒーカップを二つ持って戻ってきた。

 『ミルク二つと砂糖一つ…由乃も一緒なんだ』

 「そうなの?」

 純香さんは肩をすくめて見せると、言葉を続けた。

 『最初から、こうなるような気がしてて…僕は彩綾と由乃を会わせたくなかった…僕が要らなくなるような気がして…』

 私は首を横に振った。
 純香さんは笑いながら続ける。

 『だけど、そうじゃなかった…二人は僕を死んでからも一番に考えてくれてた』

 少しだけ間をおいた純香さんは、私の目を優しく見つめる。

 『ありがとう…』

 「こちらこそ…ありがとう」

 『そろそろだね…』

 純香さんは柔らかい笑みを浮かべ最後の言葉を私に送る。

 『さよならって好きじゃないから…さよならは言わないよ…彩綾…またね』

 「純香さん…またね」

 ボーン、ボーン…。パッポー、パッポー…。

 午前一時を告げる壁掛け時計。
 湯気の立つ二人分のコーヒー。

 机に突っ伏して眠る雉野君。

 「あ…あれ?桜樹さん…」

 「おかえり?雉野君」

 雉野君はゆっくりと顔をあげて、私を見つめる。

 「今、すげームカついてる」

 「うん」

 私は笑いながら頷く。

 「純香さん、コーヒー淹れてくれたの…いただこうよ」

 「うん、そうする」

 雉野君はコーヒーを一口飲んだ後、目に浮かんだ涙を私に隠すように急いで拭った。

 「隠さなくていいのに」

 「好きな人に泣いてる姿は見せたくないんだよ」
 
 そう言って俯く雉野君に私は笑いながら言う。

 「私は、好きな人の全部を知りたい…だから隠さないで」

 雉野君は次々に溢れる涙を拭う。

 「桜樹さん、それ本気にしちゃうよ?」

 自分の顔が赤くなるのを感じながらも私は頷いた。

 「さっきの会話、全部聞いてたから…兄貴と…その…区切り着いたの…知ってる」

 雉野君は言葉を続けた。

 「だから…俺、桜樹さんのそばにいていいかな?…いつか、俺の気持ちが固まったら、兄貴の想いのこもったこの指輪を渡そうと思ってる」

 雉野君の涙まじりの声に私までつられて泣きそうになる。

 「私、雉野君にそばにいて欲しい…純香さんの分まで一緒にいて欲しい…」

 雉野君は強く頷いた。
 涙が残る顔に笑顔を宿して。
 
 六年の間もずっと片想いしていた雉野君。

 そんな雉野君をそばで見ていた純香さん。

 六年越しの思いを受け取った私。

 いろんなことがありすぎて、ふわふわした感情のまま私達はあの場所で朝を迎えた。
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