悪魔のカナリア

はるの すみれ

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第二章 悪魔のカナリア

* 狂った哀の舞台

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    カナリアのデスゲームから三ヶ月が過ぎようとしていた。俺は相も変わらず、研究、仕事、休養というローテーションの毎日を過ごしていた。今朝は俺に来客が来ていると知らせ受け、俺の監視という名目を付けてアリスと一階にある面会室に出向いていた。


  俺を訪ねて来る客人の正体は知れていた。俺の腹違いの兄弟の萩野目奈津『はぎのめなつ』だった。奈津の容姿は俺とは違い、高校生ながら、どこか大人びていて、漆黒の黒髪と瞳はいつ見ても憂を孕んでいる。


  俺達が面会室に足を運ぶと、ガラス窓を隔てて奈津は俺を視界に入れると、笑みを浮かべた。


  「お久しぶりですね、


  「どうも」


  愛想良く振る舞う奈津と相反して俺は冷たい態度を奈津に向けた。奈津は困ったような表情を浮かべると俺の方を漆黒の瞳でじっと見つめた。


  奈津の顔は見れば見る程、俺の血縁者だとはっきりと分かってしまう。髪の色や纏っている雰囲気は違えど、言葉に出来ない根本的な何かが俺の遺伝子と奈津の遺伝子が同じだと伝えているような気がしてならない。


  俺は奈津に冷たい声色で言葉を放った。


  「それで君の今日の要件は何?俺もこんな身分だけど忙しいんだ、君と会うのは半年に一度くらいでいいんだけど?」


  俺の言葉を聞いてアリスが呆れたようにふふっと笑みを漏らした。俺はそれを気にする事なく、奈津の方を見つめ続けた。奈津は俺の方を 漆黒の瞳で見つめ直すと、優しい声色で囁くように呟いた。


  「今日は咎愛兄さんの頼みの綱に無事にコンタクトを取れた事を報告に来たんだ、監視官が居ないとはいえ名前は出さない方がいいよね?それで計画も立てて来たから例の件は安泰だよ、これでアリスさんも安心して出産出来るね」


  奈津の言う例の件とは、外部の人間に俺達の子供を預けるという計画の話だろう。その計画はアリスが子供を無事に出産して、もう一人の子供にマイクロチップが埋め込まれた時に初めてスタートする計画だ、そして奈津の言う頼みの綱とは、俺があのデスゲームの最終日に殺さずに逃した平の事だ。


  俺は奈津の瞳をじっと見つめた。その瞳からは奈津の感情は読み取れない。何故、彼は犯罪者である俺達の計画に賛同してここまでしてくれるのか。


  それには彼なりの罪悪感が絡んでいる事が大きいようだ。


    彼と俺を繋いでいるのは俺達の父親という事だった。奈津は初めて俺を訪ねて来た時、俺の顔を一目見ると納得したように笑みを漏らした。
 そして。


  「あぁ、本当に居たんだ」


  なんて声に出していた。
  奈津の話だと父親にから腹違いの兄弟が存在していると聞かされ、奈津が詳細を尋ねたところ、父は固く口を閉ざしたそうだ。
  その様子が気になり、奈津は思い切って父の過去を調べ周り、結果、俺に辿り着いたという。


  普通ならこんな場所にいる兄(罪人)に会いに来る奴なんて居ないだろう。だが、奈津は違っていた。


  今、俺の目に写っている奈津はオレを見据えると口を開いた。


  「また、何で僕が兄さんに協力するのか…なんて考えているんでしょう?前にも言ったけど、父親が仕出かした責任は息子にもある、それに、僕は兄さんが苦しんでいた時に笑っていたかも知れない…それが許せないんだ、兄さんは家族を知らないで生きてきたのに、僕はそれを知っている…それが許せなくてこうして会いに来たんだ」


  俺は初めて会った時から意志の変わらない奈津に呆れたような笑みを向けた。


  「ははっ、奈津は俺を可哀想だと思ってるわけ?だったら違うよ、俺は今とっても幸せだ、それに…家族ならアリスが居れば充分だよ…奈津が悔やむ話じゃない、そもそも、俺の母の松雪幸にも責任はあるだろう?家庭のある人間と肉体関係を持っていたんだ、恨まれるのは幸じゃないのか?」


  松雪幸『まつゆきさち』…俺にとってはかけがえのない人だった。だけど、萩野目家の人間からしたら恨まれるべき対象なのには間違いはない。


  俺の言葉に奈津は首を横に振った。


  「兄さんと僕はどこか似ているんだ…だから、僕は兄さんに会いに来た、そして、会いに来れて良かったと思えてる…これが正しいって思えてる…僕は後悔しないよ」


  俺は大きな溜息を吐いてから奈津に向き直った。俺の前に居る奈津の漆黒の瞳は強い決意を宿しているように見えた。


  「はぁっ…まぁ、自分の人生だから俺は奈津の人生に口出しはしない、だけど、後悔しても責任は取れないからな」


  奈津は頷いた。


  「僕はここに足を運んだ時点で引き返せなかったんだ、だから、これからは進む事しか出来ないんだ!逃げる気も裏切る気もさらさらないよ」


   俺は奈津の言葉を聞いてから口を開いた。そして、奈津に問いを投げかける。


  「なぁ、お前はさっき、俺達の頼みの綱に会ったと言ったな…どうやってコンタクトを取れたんだ」


  俺の言葉を聞いて、奈津は怪しげな笑みを浮かべた。細い指で自身の顎をなぞると十秒程の間を空けてから口を開いた。


  「それは簡単な事さ、僕の家は金だけは余分にあるからそれを使って探偵に依頼したんだ、勿論、世間にバラさないように別料金も渡してある…すぐに彼の居場所は掴めたよ、姉と暮らしていたマンションを売り払って狭いアパートに越してた、黴臭い畳の部屋に住んでるみたいだった、僕が尋ねたのは二週間くらい前だからそのくらいに越したんじゃないかな、荷解きが終わってなかったし…」


  俺は奈津の話を聞いて、安堵していた。平が生きている…それだけでも俺がしたことの意味があったと思えたから。そんな俺を気に留めず奈津は俺の目を見ながら言葉を続けた。


  「あの人は運が良いよね、たまたま暮らしていた家が悪魔の鳥籠から近くて、腕を撃たれていながら逃げのびたんだから、これでもし住んでる場所が遠かったら死んでいただろうに…まぁこれも兄さんの計画通りだったのかな?」


  俺は奈津から視線を外して呟いた。


  「さぁな…」


  奈津俺の言葉を聞きながら、再び口を開いた。


  「あの人は今、職探しの最中だと言っていたから、萩野目家の手伝いを頼んだんだ、父には兄さんの存在の口止めも兼ねて手を打ってもらったよ、これであの人は一生、苦労はしないね、それにあの人は愛想がいいから営業に向くだろうし、父にもプラスになる」


  奈津の話す、萩野目家の手伝いとは不動産業の事だった。奈津の父親は不動産業を営んでいて、経営は順風満帆、金銭には苦労をしたことが無いと話を伺っていた。


  「悪いな、知り合ったばかりの異母兄弟の為に、そんな事まで助けてもらって」


  奈津は首を横に振ってみせた。


  「ううん、別に兄さんが気にする事はないよ、僕は僕が正しいと思った事をやってるだけさ、それよりも僕はあの人に兄さんの計画を事細かに伝えてきた、その上で彼は兄さんの計画に賛同したよ、あの人もなかなかにチャレンジャーだよね」


  チャレンジャー…確かに平にはぴったりかもな…。恋人とはいえ大切な人の為に命を失う危険を犯してまでこの施設に侵入したのだから。

 
    そんな考えに耽っていると奈津が徐にパイプ椅子から腰を持ち上げた。


  「じゃあ兄さん、話は済んだからそろそろ僕は帰るよ、今日は午後から登校しないといけないんだ、進路について面談があるから…本当に面倒くさいよ」


  掌で顔を覆いながら大きな欠伸を一つ残して奈津は俺達に手を振った。俺はそんな奈津の去り際に一言だけ声を掛けた。


  「奈津…色々、ありがとう…」


  俺の言葉を背中に受けた奈津の表情は読み取れなかったけれど、きっと笑っていたに違いない。奈津は俺に右手を上げてヒラヒラと振って見せた。


 それに合わせてアリスが俺に戻ろうと声を掛けた。俺達は面会室から歩いて研究室へと向かった。


  「なぁ咎愛…僕等の計画はうまくいくのだろうか…?僕等が死んだ後の事は子供達に任せるしかないし…奈津も愛美もこんな僕等に本心から協力してくれているのだろうか…僕は時々怖くなるんだ…僕等の子供が無残に殺されないか…不安になるんだ」


  歩きながら不安気に言葉を漏らしたアリスの腰にそっと手を回して引き寄せた。アリスの長い髪から漂う甘い香りに鼻腔を擽られる。


  「アリス…今は信じるしかないよ…俺達は奈津や平に縋るしかないんだ…今は子供を安心して産む事だけを考えよう…それとマザーには研究のレポートを包み隠さず提出する事で不審に思われる事を回避出来たんだ、それだけでもかなり計画の順調性を示せているようなものさ」


  アリスは俺の肩に頭を預けて目を閉じた。俺はアリスの頭を優しく撫でながら研究室の扉を開いた。いつもと変わらないキーボードを叩く音が室内には響き渡っている。


  俺達は室内のソファに腰を下ろしてその光景に目を馳せた。


  「今は俺達のやろうとしている事が正しいと信じよう、それしか方法はないんだ」


  アリスは桃色のグロスを光らせた唇を動かして俺に呟いた。


  「信じる…か…僕は咎愛しか信じられない…僕には咎愛しか居ないんだ…」


  俺はアリスの頭を優しく撫で続けた。アリスの不安はよく分かる。実の父親に裏切られ、孤独に生きてきたアリスの不安は、俺が一番良く分かっている。


  「アリス…最期の日まで俺は傍に居るから…安心して」


  「うん…約束…」


  アリスはそう小さく呟いて目を閉じたまま動かなくなった。 


    暫くすると、アリスの方から小さな呼吸音が聞こえてきた。きっと朝から奈津と会って緊張していたのだろう。俺はアリスの髪を撫でながら計画について思い返していた。


  『あの女を殺すための計画、つまりマイクロチップをどう攻略するのかが、この計画の大きな課題となる』


  俺はカナリアのデスゲームに勝利してからこうして飼われているカナリアとなったのだが、その初日に注射器を使って首筋から目に見えないくらい小さなマイクロチップを埋め込まれた。そのマイクロチップに関して独自で調査を進めた結果、このチップの弱点を掴む事に成功した。


  このマイクロチップは埋蔵された人間の細胞の情報を元にマザーに対して攻撃が出来ないように制御しているらしい。


  もし、マイクロチップの情報と同じ細胞を持つ人間が二人、存在したら…そうしたらどうなるのだろうか…。俺はそれに着目して当初は、自分達の細胞を使って二人のクローンを作り出そうとしていた。


  当初の計画では二人のクローンをマザーに内密に作り上げて、一人をマザー公認の俺達の子とし、もう一人を内密で影武者として育て上げマザー暗殺を実行する予定だった。


  だが、クローンの一人目の実験に成功したと同時にアリスの妊娠が発覚した。平にも話したけれど、アリスの内臓は櫓櫂順一の寄生虫の検体にされた事により人工の物を使って漸く機能している状態だった。


  それは女性特有の内臓も同じだった。左側の卵巣、子宮も欠損が激しく、卵巣は右側しか機能していない状態だった。医者の話でも自然妊娠は有り得ないという事で俺達はクローンの研究をするうちに自身の子供を望むようになっていったのだ。アリスから聞いた話だと、救助されてこの施設で暮らすようになった時点で、自身の人生で女性である事を忘れる為に一人称を僕と言うようになったそうだ。


  アリスは子供を産む事や身体中に残る虫の這った跡を気にして女性として生きる事を諦めたらしい。


  だけど俺と出会って少しずつ心を開き、今はこうして恋人として一生を添い遂げる覚悟を決めている。


  そんな彼女の妊娠をきっかけに俺達の計画はより正確なものになった。


  アリスが無事に出産を終えた後、マザーからすぐ様マイクロチップを埋蔵される事は確定事項だ、だがそれを利用して俺はマザーを殺す。


     もし、俺の推測が間違っていれば計画は水の泡、俺は返り討ちにあって死亡なのは間違いない。だけど、推測が正しければマイクロチップはクローンベイビーとオリジナルベイビーの区別が付かずに誤作動を起こし、俺が反旗を翻しても返り討ちに遭う事はないだろう。


  俺はこの計画に賭けるしかない。


   俺はあの女を殺して世界を変えたいんだ。


  こんな腐った世界を…。


  *「はぁ……疲れた…営業ってこんなに疲れるんだな…」


  黴臭いアパートの一室でゴロンと横になった男…愛美平は全身を襲う疲労感と戦っていた。平はスーツのネクタイを緩めながら雨漏りで出来たであろう天井の黒い染みを眺めながら心友の腹違いの兄弟の事を考えていた。


  はっきり言ってしまうと、第一印象は変わっている奴…だけど、松雪咎愛とどこか似ている雰囲気を纏っていた。
  このアパートを訪ねて来て一目見た瞬間から、萩野目奈津という男が咎愛の話していた腹違いの兄弟だという事を勘付いた。


  萩野目奈津の身に纏っていた制服はこの街では貴族校で有名な私立の学校の制服だった。平はその時に素直にこう思った。


  同じ父親を持つ子供の人生がこんなにも違うなんて…。世界は、神様は不平等だ…と。
  あの初対面の日からいきなり仕事の話を持ち掛けられ、将来的に咎愛の子供を預かる身として金銭的問題も山積みだった為、こうして職を恵んでもらえた事に関して、奈津には頭が上がらなくなってしまった。


  あれから仕事先でも奈津と話す機会もあり、奈津の人生観を知る事が出来た。奈津は自分の人生と咎愛の人生の違いについて罪悪感を抱えていると、口を零していた。


  平は奈津の言葉に首を横に振った。平の知っている心友は頼りない部分も多いけれど、芯はしっかりしている男だからだった。


  奈津の思う程、彼はきっと奈津を責めたりしないだろう。奈津だけではなく、奈津の父親も…きっと恨んだりする事はないだろう。


  平は緩め切ったネクタイをするりと外して、疲れ切った身体を思い切り勢いを付けて起き上がらせた。


  「はぁーっ、二十一歳で子持ちになるなんてな、ま…十九歳で父親になるんだもんなあいつは…、よしっ!気合い入れて働かねーと父ちゃんにはなれねーよな!頑張れ俺!!!」


  部屋の中にこだました平の声は風に乗って何処かへ飛んで行った。
 

    風に乗って、どこまでも…。


  *「咎愛…シャワーどうぞ…僕は先に眠る…」


  時刻は午後二十三時を回ろうとしていた。


  アリスが浴室から出て来たのを目で見送ってから、俺は浴室へと足を動かした。今日もまた、血に汚れた身体をシャワーで洗い流す為に。


  シャワーに打たれながら俺はアリスのお腹に宿った子供の事を考えていた。医者の診断では経過は良好、今のところ性別は女と断定されているようだ。
  最近ではアリスから子供の名前について考えようと話を持ち出される事も増えてきた。
  きっとアリスも子供が生まれる事を楽しみにしているのだろう。


  俺だって計画の事を考えなければ、子供が産まれるのが待ち遠しかった。一日でも早く、この腕に自分の子供を抱いてみたいと、そう思う事が増えてきている。


  そんな事、思ってはいけない…カナリアのくせに…。


  俺は適当に身体を洗い終え、浴室を後にした。
  真っ白なバスタオルを頭に掛けて、簡単に髪の水気を切る。


  「はぁ…さっぱりした」


  俺はベットに腰かけて布団の中に入ろうとした時、横で眠っていたはずのアリスの目が開いている事に気が付いて頭を撫でた。


  「どうした?起きてたの?もしかして眠れないの?体調悪い?」


  アリスは俺の矢継ぎ早な質問に苦笑すると口を開いた。


  「ううん、咎愛が来るのを待っていたんだ、咎愛は風呂から出るの早いからさ…水、嫌いだろ?だからすぐ来ると思ったんだ」


  「アリスと話せるのは嬉しいけど、無理はしないでくれよ…」


  アリスは俺の言葉に頷いて同意を示すと、、俺の胸元に頬ずりするように顔を押し付けてきた。小動物のような可愛らしいその仕草に俺の心臓はドキドキと煩く騒ぎ出した。


  「あぁ…本当に…アリスの前だと俺はただの男にしかなれない…困ったな…」


  アリスは俺の胸元から顔を覗き込んで首を傾げている。


  「なんだよ急に?僕も咎愛の前では女でありたいとは思っているけどなかなか難しいな、妊娠してもガサツなところは改善できない、それどころか悪化しているような気がする」


  俺はアリスの髪の匂いを吸い込んでから口を開いた。甘い花の匂い、幼い頃に嗅いだことのあるような懐かしい匂い。


  「アリスはアリスのままでいいんだよ…誰よりも愛しい人なんだから」


  自分でも恥ずかしいと思えるのにアリスにはこうやって素直になれる。
 

    きっとそれは、アリスと俺には残された時間が少ないからなのかもしれない。俺の内心を悟られないようにアリスから視線を背けていると、アリスがクスッと笑う声が聞こえてきた。


  「咎愛、こっち向いて」


  何で、と言おうとしていた俺の唇はアリスの紅を落とした色味のない唇で塞がれていた。数秒間重なったままの唇からお互いの体温を感じて頬が紅潮していくのを感じる。


  「咎愛…話さないといけない事があるんだ…だからこうやって待ってたんだ」


 唇が離れてすぐにアリスが俺にそう言った。


  「何?」


  アリスの顔はいつも通り、綺麗で儚くて、見ているだけで心臓が早く動き出す。そして、アリスは顔色を変えずに口を動かした。アリスは笑顔だった。ぞっとするほどに。


  「咎愛…僕は子供を出産すると同時に死ぬ事が分かった…三十歳の誕生日という約束は果たせそうにないんだ、申し訳ない…だけど、僕はそれでも咎愛の子供を産みたいんだ、どうか、僕が咎愛を置いて旅立つ事を許して欲しい、僕の代わりにマザーを殺す瞬間を僕も傍で見ていると約束する…」


  自然と頬に涙が伝っているのを感じた。ひんやりと感じたくない何かが俺の頬を滑っては落ちていく。スルスルと止まることもなく。


  「咎愛…愛している…咎愛は僕の分まで生きていいんだ、僕は咎愛を待っているから…いつになろうとも…咎愛も死んで、生まれ変わったら…またこうやって家族になれたらいいな」


  アリスは俺の頬に伝う涙を指でそっと拭ってくれた。


 「馬鹿…アリス…いつまでもなんて、待たせるわけないじゃないか…俺もすぐに行くから…一緒に行くから…それまで泣かないで待っててくれよ…」


  「うん」


  アリスは俺の身体に強く抱き付いていた。
  俺もそれに答えるようにアリスの身体に寄り添った。


 こんな夜が後、何回あるのだろうか…。
 こんな幸せが後、何回味わえるのだろうか…。
 こんな会話が後、何回出来るのだろうか…。


  俺はアリスの寝息を聞きながら目を閉じた。母になると決意してからのアリスは俺より色々な部分が強いのかもしれない。


  きっと俺の母親もそうだったのかもしれない。


  俺の前ではいつも笑顔を絶やさなかった母親…。
  俺の存在を否定しなかった母親。


  俺は薄れゆく意識の中で自分の辿ってきた人生を思い返していた。 


    俺が大型のショッピングモールで置き去りにされた日、あの日に松雪幸は自宅のアパートで首を吊って亡くなっていたらしい。自宅のテーブルの上には俺宛の一通の手紙が置いてあり、施設に入る事になった日に荷物と一緒に手紙も一緒に渡された。


  手紙にはこう書かれていた。


  『私の愛しい咎愛へ


  この手紙を読んでいるという事は、大きくなって字が読めるようになったんだね。


  そんな咎愛を生きて傍で見ていられない事を残念に思います。私は咎を出産して今日まで一度も後悔したことはありません。


  私が死んで、貴方の本来の苗字が違う事に驚いたでしょう。本当は萩野目ではなく、松雪だという事、それは私が貴方の父親を忘れないために名乗らせていた苗字ですから。


  貴方の父親は家庭のある人でした。大きな会社を経営している人で、水商売をしていた私の働くお店にやって来たのが運命の分かれ道でした。


  私は彼に家庭があると知りながら、彼との交際を始め、一年も経たない内に、貴方を身籠りました。彼は妊娠の事実を知ると、責任は取れないと言って、私に子供を下ろすように言ってきました。


  だけど、私は出来なかった…。


  愛する彼との間に出来た愛しい子供…。そんな子供を下ろすなんて考えたくもなかった。そうして、首を縦に振らない私に愛想を尽かした彼は私の元から姿を消しました。


 私はその日から彼を忘れようと必死に過ごしてきました。


 貴方を出産してからも…。


   だけど、私は貴方の父親の事が今でも忘れられず、毎日心が締め付けられる思いで生きていました。毎日生きている中で貴方を父親なしで育てる責任に押し潰されそうになって、その度に私が生きている事に対して胸の中で不安が溢れてきました。


  咎愛が大人になって結婚して家庭を持って、私もお婆ちゃんになって、そんな未来を見てみたい気持ちより、今すぐ死んで楽になりたいという私の我儘を優先させてしまった事を許して下さい…。


  私はどんな事があっても咎愛の味方です。


  咎愛は私の宝物…。どうか、幸せになって…。


  松雪幸』


   この手紙を読んだ時、母の気持ちが分からなかった。
  どうして俺を捨てるような真似をしたんだろう。
  俺は父親なんて要らないし、母親が居れば充分に幸せだったのに、なんてそう思っていたんだ。 


    この手紙に目を通せるようになった頃には俺の生活は地獄とも言えるようなものに変わり果てていた。


  初めて施設に来た日、気が弱いという理由で二つ歳上の男子に目を付けられた事がきっかけで虐めを受けるようになってしまった。
  最初は子供ながらの暴言や、仲間外れだけで済んでいた虐めは年齢を重ねる毎にエスカレートしていき、昼夜問わず、虐めの行為が行われるようになった。


  施設内の子供達全員が俺の敵で、職員も俺を助けるどころか、俺の姿を見て嘲笑する毎日だった。


  同じ施設で過ごしている以上、学校も同じで、施設育ちの子供を中心にクラスメイトも加わって、俺は生きているのがやっとの状態だった。


  精神的には勿論、食事や寝場所も奪われ、体力的にも生きるのに必死だった。


  そんな俺に残された選択肢は三つだった。


  母親と同じように自殺するか。このまま死ぬのを待つように生きていくか。それとも…今の状況を変えるために行動を起こすか。


  俺はそんな選択肢を頭の中に浮かべながら毎日を送るようになった。


  俺が十五歳、学年でいうと中学三年生に進級して半年程過ぎた頃、虐めの主犯は俺の服を皆の前で剥ぎ取り、全裸の状態にして嘲笑っていた。


  「松雪、変態だ!気持ち悪い!おい!こいつ下半身丸出しだぞ!!!」


  なんて大声で騒ぎ立てて皆の注目を集めて楽しんでいた。俺の身体は痣だらけで自分でも驚いてしまうくらい、身体のあちこちが赤紫に変色していた。


  主犯に続いて当直の職員も悲鳴のような声を上げた。


  「うわぁ…松雪君、服を着なさい!皆の前でそんな格好になるなんてどうかしてるわ」


  あの日の当直は二人で、二人とも女性だったのを記憶している。男女構わずに俺の身体を見てクスクスを笑い声を皆が零していた。


  そこまではよかったんだ。


  いつもと変わらない、何も変わらない、俺の人生にこの日も諦めて縋り付いていたんだから…。


  暫くして皆が俺の方から視線外し始めた時、主犯の男子が俺の着ていた服の中を探り、一通の手紙を見つけて掲げた。


  俺は思わず、声にならない声を上げた。


  それは母親が俺に残してくれた手紙(遺書)だった。


  「返せっ!!」


  
  普段は抵抗することもなく、虐めの行為を受け入れてきた俺のこの反応を面白がった主犯の男子は、皆の前で俺の母親の手紙(遺書)を音読し始めた。


  手紙が読み終わる頃、皆は俺を見てクスクスを笑い声を浴びせた。


  「あっははははは!!!!おいっ!!!傑作だっ!こいつのせいで、こいつの母親は死んだんだ!!こいつ人殺しだぜ!!それにこんな奴、生きてても仕方ねーのに馬鹿な母親だな!!最高に笑えるぜ!!!」


  この時、全身の力が一気に抜けて俺は床に崩れ落ちた。


  そうか…。俺が松雪幸という女性を殺してしまったんだ。


  俺が居なければ松雪幸という女性は生きていたかもしれないのに…。


  俺が脱力して動かないのを見兼ねた主犯の男子は、俺の頭上で手に持っていた手紙をビリビリと音を立てて破いて、俺の頭に雪のように振り注いだ。


  「お母さん…ごめんなさい…生きててごめんなさい…」


  この時、俺の零した言葉にその場にいた全員が笑い出したのを覚えている。


  不思議と怒りは湧いてこなかった、ただ、俺の中にあったのは不思議と安心感だった。


  俺の心を満たしていたのは怒りでも緊張感でもなく、安心感だった。



『僕は、もう一人殺しちゃってたんだ…そっか、もう怖くないよ…だってもう…』


  この日の深夜、皆が寝息を立てている中、俺は一人だけ玄関に佇んでいた。それは、いつもの松雪咎愛と同じ光景なのだが、その日は少しだけ違っていた。


  顔面にはあの日、母親に置き去りにされた日に着ていた水色の猫の絵がプリントされたシャツを纏い、右手には食堂から持ってきた包丁を握りしめ、深呼吸を一つすると、俺は当直の職員の居る事務所に足を運んだ。


  女性同士の楽しげな会話が聞こえる中、俺は堂々と歩いて中に足を踏み入れた。事務所の中の机に対面する形で座って話し込む女性の姿がそこにはあった。女性の一人が俺に気が付いて笑いながら声を掛けてきた。


  「誰?松雪君?何でそんな格好しているの?仮装パーティ?あはは、笑えるんだけど!!!」


  こうやって女性はいつものように俺を嘲る。


  俺は言葉を発することもなく、職員の一人に近付くと、勢いを付けて女性の胸に包丁を突き立てた。


  グサリ…。


    鈍い音と共に胸元に突き刺さった包丁を見て俺は思った以上に身体って硬いんだな、なんて感じた事を覚えている。


  「ぐっ…」


  「きゃやややややっやややぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


  蹲って倒れる女性、悲鳴をあげる女性を気にも止めずに包丁を抜いて、今度は喉元に突き刺した。首の中の骨に刃物が当たるような感覚が気持ち悪くて吐き気を催した。


  へぇ…そんな顔出来るんだ…。人を嘲笑うような表情しか持っていないのかと思っていた。


  勿論、罪悪感はあった…。どうしてこんな事、どうして血に手を汚してしまったのか…。なんて、考えていたりもした、だけど、それよりも俺を動かしていたのは、こいつらへの復讐心より大きな同情だった。


  『あぁ…なんて可哀想なんだろう…早く殺して倫理観を持った命に生まれ変わらせてあげないと』


  この時の俺はそう思っていた。


  俺はゆっくり包丁を女性から抜くと、込み上げて来た嘔吐物と共に罪悪感を飲み込んだ。


  もう…後には戻れない…。


  裏返しにされた、罪人としての砂時計は着々と零れ落ちている。


  悲鳴を上げ、顔面を涙でぐしゃぐしゃにし、その場から動けずにいたもう一人の女性職員の髪を掴むように乱暴に持ち上げた。女性は恐怖心のあまり声も出せず、じわじわと足元に失禁による生暖かい水溜を作り上げた。


  俺はそんな女性職員に構う事無く、包丁を女性の首に突き刺した。


  「ウゲェ…」


  咳とも嗚咽とも違う、奇妙な音を立て、女性の首からは赤い雫が生々しい暖かさを従えて滴り落ちる。


  俺はポツリと呟いた。


  「今までお世話になりました…今日から僕は一人立ちします」


  女性は何も答えなかった。


  俺は女性を掴んでいた髪を離した。


  どさっ。


  地面に女性の遺体が倒れては赤い染みを広げていく様を暫く呆然と眺めていた。


  俺は血生臭い室内の空気を肺に取り込んでから歩き出した。


  一部屋、一部屋、ただ、機械人形になったように歩いて訪れては、血に塗れて死体を作り出していく。


  何人かは暴れて抵抗した。


  何人かは悲鳴を上げ逃げようとした。


  何人かは眠りに落ちたまま静かに死んでいった。


   十六人殺し終えた時、俺の前には彼が立っていた。


  今はもう名前すら思い出せない、虐めの主犯の彼だった。


    彼は震える声で俺にこう言った。


  「なぁ…ま…松雪…これからは…仲良くするから…俺は殺さないでくれ…頼む」


  俺はそんな彼を光のない新緑の瞳で見つめ続けた。


  俺はこう思っていた。


  なんて滑稽な光景なんだ…数時間前まで俺を貶して楽しんでいた彼が俺に命乞いをしているなんて…こんな、こんな、滑稽な事があるのだろうか…。


 俺はそんな事を思いながら、首を横に振った。
 そしてポツリと呟く。


  『ねぇ…あんたは僕に倫理観とは何かを教えてくれた…そしてあんたは世界で一番インモラルな人間だと思うよ…だから、生まれ変わったら倫理観を持って生まれて来てね…最後にこれだけ言わせて欲しい…あんたを殺して僕は倫理観のない人間になってしまう事を…あんた、最高にインモラルだったよ』


  俺は彼に近付くと、躊躇いもなく腹部に包丁を突き刺した。
  彼は勿論、逃げようとしたが、足がもつれてしまい大袈裟なほどに転んだ。


  俺は包丁を何度も、何度も、彼の身体に突き刺しては引き抜いた。


  彼の身体が得体の知れないものに変わり始めた頃、施設の外に赤色灯がちらつき、何台かのパトカーがサイレンを鳴らして近付いて来た。


その時の俺は、警察に捕まるという漠然とした不安や恐怖よりも、安堵感が広がるのを感じていた。


  その後の事ははっきりとは覚えていない。


  ただ覚えているのは、初めて手首にかけられた手錠の重さは、テレビの刑事ドラマで見ていたよりも何倍も予想を上回る重さだったという事だけだ。


  きっと、自分の背負った罪の重さが俺の手首から主張していたのかも知れない。


  その後、メディアでは俺の事を連日取り上げられて、お茶の間では恐怖の声が上がっていたらしい。十五歳の少年が一晩で十七人を殺害、少年の関係者は、普段は大人しくてそんな事をするような人ではなかった…何て報道されていたらしい。


  普段から俺を笑っていたクラスメイトも、施設の近所に住んでいた住民も、俺の事を知ったように口を動かしてメディアに自分を売りつけるように話していたらしい。


  誰も、俺の本当を知らないで、口だけを動かしているなんて…。


  俺にとっては、そんな奴等も罪人だ思う。


    話して仕舞えばいいんだ…。


  『松雪咎愛の事は知りません…クラスメイトではありましたが、彼と関わると虐めの巻き添いになりそうなので一緒に虐めていました、だから、彼の性格も好きなことも、苦手なことも、趣味も特技も、家族構成も知りません…何一つ知らないし、知りたくもありませんでした』


  そう言ってくれれば、こちらの気持ちも救われるのに…。


  あいつらは口から出任せを吐く、そんな罪人なんだ。


  俺の意識が完全に途絶えたのは朝日が登り始めた頃だった。耳元で聴こえるアリスの寝息、心音…胎動…。


  全てがシャットダウンされたように消えて溶けていく。
  そんなような睡眠だった。


  もう…後悔はない。


  今はただ…アリスの為に生きるしかない。二人でした約束は叶わずとも、俺はアリスとしか生きられないのだから。


  あの日から俺は茶トラと呼ばれるようになった。


  あの日、溢れ出した砂時計の砂はもうあと少しで終わろうとしている。



  沢山の哀を織り交ぜながら。


  哀の台詞とシナリオはまだまだ演技の最中なのだ…。





 

 



 

 
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