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六章 戦争

29 離宮に待ち構える者

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「頭が痛い」
 翌日は、また朝から頭を抱えている梨奈に、クリス王子がボソッと言う。
「昨日は魔王陛下に抱かれて眠っていた」
「え」
 梨奈はぽっと頬を染めた。
「何だ、その顔は」
 殿下の声が低い。
「だって、わっ、どうしよう」
「私が抱いても素面のくせに」
「だって、殿下とは、もう十年も連れ添っている夫婦みたいなんですもの」
「まだ何もしていない」
「あんなことも、こんなこともしたじゃないですか!」

 クリス殿下はチラリと梨奈を見ると、ついと側に寄り耳元に唇を寄せ、
「もっと色々なことを、してみたいと思わないか?」と、囁くように言った。
 梨奈の顔どころか、身体中がボンッと染まる。
 くそう。
 口惜しいと思う。恥ずかしいと思う。どうしてこうなるのか。
 その顔を睨み上げると、殿下が澄まして手を差し出した。
 梨奈はその手に、自分の手を重ねてきゅっと握りしめた。

  * * *

 離宮に帰ったのは、次の日の昼過ぎになった。
 ダールグレン教授はしばらく魔領に留まるという。

 魔道具の仕様詳細について魔族の職人ギルド、商業ギルドの人達がお城に呼ばれて、話を詰めるという。大層なことになったがただの電話だし、こちらには伝書鳥とかいう便利なモノがあるし、それがどんな風に使えるのか梨奈には想像が出来ない。

 それより秘密の結婚だが、クリスティアン殿下はまだ立場も不安定な身の上、離宮にて謹慎の身で、婚姻などとんでもない事であった。
 どうせしばらく離宮に居てどこにも行けないし、一緒に暮らしている訳で、盛大なお式や、お偉方への挨拶もなければ、返って気楽かと梨奈は思う。


 ベルナドット伯に西の森まで送ってもらうとシドニーとジョサイアが迎えに来た。のんびり離宮に戻るとお客様が待っている。ランツベルク将軍であった。
 精鋭の騎士20名に、それに従う剣士、従士からなる、もはや変則軍隊を引き連れていて、物々しい様相である。
 離宮で待っていたスチュアートとフォルカーが、クリスティアン殿下を見て安堵の顔をする。
 梨奈ののんびり気分は吹っ飛んだ。

「皆様お揃いで、何をしていらっしゃるのかな」
 ランツベルク将軍が指揮杖を手に、低い威圧感のある声で言う。
「ダールグレン教授は居られないようだが、どちらにいらっしゃったのか」
 きつい目で、順に睨みつける。
「クリスティアン殿下、返答次第では反逆罪にも、問われましょうぞ」
 ジョサイアが引きつった息を吐く。

「それで、リナ嬢とは──」と、鋭い目付きでゆっくり見回した。

「私ですけど」
 クリス王子の後ろから、目立たない栗色の髪の少女が現れた。
 将軍の震えるような威圧を受け止めて、平然と将軍を見返す。
 どこにでもいるような普通の少女だ。

 なのに──、


 誰も声が出ないのはどうしてだろう。身体が勝手に震えるのはどうしてだろう。
 周りの誰もがシンと静まり返って、声一つ、しわぶき一つ立てる者がないのはどうした訳だろう。

『食べる―?』と、梨奈の陰に隠れた魔物が囁く。
「ダメよ、ジェリー」
 梨奈が小さな声で返す。あのスライムと内緒話も出来るようになったか。この場で囁くだけの分別を身に着けている、この魔獣はどこまで進化するのか。
 その魔獣を従える梨奈は、少しの怒りで皆を居竦ませている。

 彼女は『愛とエロスと豊穣の女神』なのだ。

「リナ、疲れただろう。部屋で休んでいろ」
 クリス王子の言葉に、その場に居た皆がホッとした。
 ランツベルク将軍の身体を滝のような汗が流れ落ちる。

 そこに慌ただしい音がして、王家から早馬が駆け込んできた。
「国王陛下が将軍をお探しです。至急お戻りを!」

  * * *

 ランツベルク将軍は少女だけでも連れ帰ろうと思ったが、隣に庇うように王子、その前にシドニーとジョサイア、後ろにスチュアートとフォルカーが陣形を作っていて、離宮の使用人たちも、そのすぐ後ろで固唾を飲んで見守っている。

 捕らえるように命令を下そうと騎士たちを見ると、皆一様に首を横に振る。
 仕方がないのでクリス王子にいう。
「その娘に出頭するように、ご命令を」
「何の容疑で?」
「知れた事、殿下を魅了した咎で」
「私を魅了した男爵令嬢マリアは攫われたのだ。離宮に謹慎する身であれば行方は知らぬ」
「では、今まで何処に行ってらっしゃったのか」
「西の森に」
「西の森で何を」
「謹慎しておった」
「では、ダールグレン教授は」
「あの方の行動など、私が把握することはできぬ」
 目の前に立つ白面の貴公子は、白々と答えるだけであった。

 早馬の使者が焦れて、
「将軍、陛下がお急ぎでございます」と再度督促した。
 もはやこれまで。騎士を残して周りを固めておくか。
 出入りを厳しくすれば誰か引っかかるか。
 ランツベルク将軍は騎士を手配して馬上の人となった。

 将軍を見送って、王子達は離宮に戻った。
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