愛なんかなかった

拓海のり

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十五話

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 疲れた身体を引きずって料亭の外に出ると、いきなり目の前に黒い影が現れた。
「楽しんだか」と男が言う。直樹は腕を振り上げて男の頬を引っ叩いた。男は避けもせずそれを受けた。僅かにそらせた顔に街灯の光が当たってくっきりした横顔を浮かび上がらせる。


 磯崎だと分っていた。殴った自分の手が信じられない。
「あんた、何でこんな所にいるんだよ」
「出張から帰ったところだ。お前のいい声が聞こえて来て、部屋に入るのを遠慮した」
 暗がりでなかったら直樹のパッと染まった顔が見えただろう。
「帰るぞ」と男は背を向けた。
「イヤだ…」
 直樹の唇から勝手に言葉が飛び出た。
「もう、いやだっ!!」
 首を横に振って駄々をこねた。
「どうしたんだ」
 男が不審げに振り返る。
「俺はあいつらと寝たんだ」
「そのことか。二度としなければいい」
 何を言っても平然としている男が信じられなかった。
「何故だ。俺はあんたのものじゃない。あの家だって出て行っていいんだ。俺は、俺はあんたなんか──」
 支離滅裂に思いだけが口から溢れ出た。磯崎は平然と直樹を見下ろしていたが、直樹の言葉を遮ってぽんと言葉を投げつけた。
「分かっている。俺の方がお前を愛しているんだ」
 今、何と言ったんだこの男は──。

 直樹は自分の耳を疑った。どんな顔をして言っているのかこの男は。街灯に男のくっきりした顔立ちが浮かび上がる。磯崎のいつもと変わらない表情が──。傲然と顎を上げて直樹を見下ろしている。
「……嘘だ」
「何で嘘を言わなければならない」
「だって、あんたは結婚するんじゃないか」
 景山の話によれば既に式の日取りまで決まっているという。相手の女は屋敷にまで検分に来て、こちらがいいと言った。直樹を蔑んで見た。あんな女に、あんな女に何で譲らなければいけない。日頃言えなかった思いが、抑えた感情が堰を切って溢れてくる。抑える気力もとうに失っていた。
「仕方がない」
「仕方がないって……」
「結婚しなくてもいい。お前と二人、静かに暮らしてもいい。だがそんな男とお前はいつまでも一緒にいるか。厭きて逃げていくだろう。俺は何もかも手に入れる」
 磯崎は淡々と説明する。まるで他人ごとのように。直樹は駄々っ子のように首を横に振った。
「俺が結婚するなと言ったらどうする」
「止める。だが俺はトップになるチャンスを失う。そして、お前も失う」
 磯崎の言うことが分っても直樹の感情は溢れるばかりだった。
「あんな女と結婚なんかするなっ!!」とはっきり磯崎に向かって叫んでいた。磯崎は怒りも驚きもしなかった。直樹を見下ろして言った。
「お前は何も持たない俺には満足しないだろう」
 傲慢でプライドの高い男だった。そして自分の上に君臨する。そうだ、他の誰でもいけない。この男でなければ──。
 直樹は磯崎の首に腕を回して、囁くように言い切った。
「大丈夫だ。あんたは何があってもトップに立つ人物だ」
「分かって言っているのか」
 磯崎があきれたように言う。
「知るものか。俺のカンだ」
「カンか…」
「俺が選んだからだ、あんたを」
「たいした自信だな」
 直樹は磯崎に向かって笑いかけた。「きっとだ」ともう一度言った。

 * * *

 狭い事務所にひっきりなしに鳴る電話の呼び出し音。景山は直樹をデスクに呼びつけて低い声で言った。
「この会社は実力本位なんだ」
 フレームレスのレンズの奥には、この前いい所で獲物を攫われてしまった恨みが色濃く残っていた。
「はい」
「君の評価は全て私に任されている」
 景山はデスクに座って、神経質そうに自分の手を擦り合わせている。その指に鈍く光るプラチナの指輪を見ながら直樹は答えた。
「お言葉を返すようですが課長、あんたの評価は部下がすると聞いています」
「君一人の評価くらい、私には何ともないが」
 景山は木で鼻をくくったような返事を返した。二人とも低く抑えた声で話していた。しかし二人のただならぬ様子を感じ取っていた香田が立ち上がって景山のデスクまで来た。
「一人の評価だと思いますか、課長」
「き、君は……」
「香田さん…」
「私も公正な評価をお願いしたいです」
 山田が立ち上がった。
「山田さん…」
 事務所の皆の目が景山に注がれている。直樹は目頭が熱くなるのを感じた。
「も、もちろん評価には公正を期すよ」
 景山の負けだった。直樹は頭を下げて香田とデスクを離れた。


「景山課長はあんたの結婚する予定だった女の義兄だと言った」
 広い屋敷の直樹に与えられた部屋に久しぶりに磯崎が訪れていた。話すより先にとりあえずの飢えを満たして、直樹はベッドにその艶冶な姿態を横たえていた。
「何かの間違いだ。景山については調べてある」
 磯崎は裸体にガウンを羽織ってグラスにブランデーを注いでいる。直樹の方を振り向かず背中で答えた。
「ユエンといったか、あの中国人が送り込んできた男だ。仕事はするようだからそのままにしてあるが」
「俺は会社を辞めなくてもいいんだろう?」
「お前の好きにしろ」
 片手に持ったグラスをゆっくりと回しながら振り向いた。
「たまには火遊びをしても構わんが、お前には遊びでも相手にとってどうかは少しは考えておけ」
「どうって」
「一夜のことが忘れられなくて心も身体も狂う。ユエンは本国にトラブルが起きて帰国した。しばらくは出て来れん」
 磯崎は唇の端を少し歪めた。
「まさか…、俺はただの男だ」
「そう思っておけ」
 磯崎はグラスを呷って直樹に手を伸ばした。唇を重ねてブランデーを流し込む。唇から零れた酒を磯崎の舌が舐め取った。
「ああ…ん…」
 身を捩って直樹は男の身体に腕を絡めた。
「こんな恥ずかしい身体を、そうそう他の男に晒すんじゃない」
 磯崎の所為でこんな身体になったのに。押さえつけて王のように命令をしてくる。相変わらず直樹の上に君臨する男に腕も足も絡めて全てを曝け出し、悪足掻きのように上擦った声を上げた。
「あんたなんか、あんたなんか──」
「分っている。俺がお前を愛しているんだ」



 終

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