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連載 / 第四部 世界の終末と結婚式 編
序章
しおりを挟む空には分厚い雲がかかり、月を隠している。
夜の闇の中を、その女は明かりも持たずに歩いていた。
髪を覆うヴェールに、くるぶしまでの白いローブ。ひと目で聖竜教会の神官だと分かる彼女は、注意深く周りを見回した。
城下町の外れには商店の倉庫が多くあり、夜はひとけがない。
名前を呼ばれて、肩をすくめた。
「驚かさないで。良かった、来てくれたのね」
女は声のほうを振り返り、安堵をあらわにする。物陰から出てきたのは、女がひそかに付き合っている恋人の男だ。
長身で、男らしさを兼ね備えた見目の良い男だ。神官は恋愛をするのはご法度だが、女は好きで神官になったわけではない。持参金を惜しがった父親に、無理に入れられたのだ。今まで貴族の子女として悠々自適に暮らしてきた彼女には、神殿の暮らしは向いていなかったし、結婚したかった。
「ああ、持ってきたか?」
男は女を抱き寄せて、耳元で問う。
「ええ。これをあげたら、あなたは私をここから連れ出して、嫁として大事にしてくれるんでしょう? なんでこんなものが欲しいのか知らないけど、衛兵に見つかったら、私、死刑になってしまうわ」
女は暗い未来を想像し、罪の重さを恥じて、身を震わせた。
「まずは見せてくれ」
急いでいると言っているのに、男が動かないのに焦りながら、女は服の下、腰に巻き付けていた帯から布袋を取り出した。袋の中には、やわらかい布に包んだ卵の欠片がある。
闇の中でも、ほんのりと青く光っていた。
「これが、聖竜の卵の殻……」
男は殻を持ち上げて、ほうっと息をつく。
聖竜は死ぬと光に還り、死体も残らない。だが、卵の殻は消えずに残っていると、女は他の神官の噂で聞いていた。聖竜教会の地下には、王家と聖竜を祀る墓地があり、そこに共に納められるのだ、とも。
出入りは限られているが、神官は掃除のために入ることができる。
男に持参金代わりに聖竜の卵の殻が欲しいと言われ、決死の思いで盗み出してきた。ちょうど、ドラゴンの導き手が異世界に戻るため、聖竜や上役の神官達がいっせいに出払っていた。そのチャンスをいかして、ほんのひとかけらだけ持ちだした。あの程度ならそうそう気付かないだろう。
「こんなに少ししか持ってこられなかったけど、約束は守ってちょうだいね」
女は男に催促する。
家を出された貴族の娘には、一人で生きていく術はない。夫となるこの男だけが頼りだ。男は平民のようだが、はぶりが良さそうだ。行商人で、腕っぷしも立つらしい。名を捨てて暮らしていくなら、良い嫁ぎ先に思えた。
「ありがとう、お前は俺の大恩人だ」
男は甘い声でささやいて、女を再び抱き寄せる。女はうっとりと身を預けたが、その時、胸を襲った灼熱の痛みに声を漏らす。
「がはっ」
心臓をナイフで一突きにされ、疑問を上げる余力も無く、地面へと倒れる。
そのまま血を流して倒れ伏す女を見下ろして、男は嬉しそうに微笑んだ。闇の中で、目が金色に輝く。
「これでアスラ国王がお喜びになる。そして俺も出世して安泰だ。心から感謝しているよ、浅はかな娘」
あざけりも込めて、礼を呟く。
そしてもう女を見向きもせず、城下町の闇へと姿を消した。
*****
菊池結衣がふと気付くと、自室にぽつんと立っていた。
この瞬間はいまだに慣れない。白昼夢から覚めたようで、現実味が薄いのだ。
部屋の姿身に、パンツスーツ姿の小柄な女が映っている。黒のショートヘア、真ん丸の目は大きくて、背の低さもあって童顔に拍車をかけていた。二十四歳だが、初対面の人には必ず年下と間違われる。
リヴィドール国の聖なる泉に飛び込んだのに、どこも濡れていない。結衣はついさっき日本に戻ってきたばかりだった。異世界にいる間、こちらでの時間は止まっていたから、転職活動での面接から帰ってきた頃だ。足元の床にコートが落ちている。
結衣はコートを拾い上げると、すぐに着替えた。シャツとジーンズというラフな服装になり、さっそく動き始める。
異世界にあるリヴィドール国。その若き王、アレクシス・ウィル・リヴィドール三世と結婚する予定だ。次にあちらに戻る時、結衣は永久に日本を離れ、アレクと共に生きると決めた。
こうして日本に戻ってきたのは、家族と最後のお別れをして、今後の生活に必要な物を持っていくためだ。
結衣は自分の部屋をゆっくりと見回す。
もう戻らないのだと思うと、どれも置いていくのは惜しい。寂しさに胸が痛んだが、結衣は気を取り直してクローゼットに向かった。トランクとスポーツバッグを引っ張り出し、目に付いたものを入れていく。
お気に入りの服、誕生日にもらった大事な物、アルバムなど、一通り詰めてから、これでは足りないと気付き、近場の本屋に出かけた。
食事は大事だ。絶対に和食が恋しくなるだろうから、資料を持っていくことにした。他の国に似た物があれば取り寄せてもらえばいいが、似たような食材を使って、一から作らないといけないかもしれない。レシピ本を数冊と、手作り味噌や醤油、米についてもそろえておいた。
幸いにして、あの世界での結衣の立場は、ドラゴンの導き手という特殊なものだ。
リヴィドール国の現在の国王であるアレクの王妃になったとして、多少できが悪くても、いじめられることはないだろう。……恐らく。
結衣だって努力するつもりだが、文化の違い――それも世界をへだてた感覚の違いは大きい。ときどきアレクと会話がかみ合わないことがあった。
帰宅すると、そういえばと思い出して、成人式用にと祖父母が買ってくれた振袖や飾りを箪笥から引っ張り出した。他にも、浴衣や履物も並べてみる。
菊池家はごく一般的な家庭だ、そんなに高価なものではない。だが、前に振り袖姿でリヴィドール国に渡った時に、細かな刺繍が姫君の衣装のようだと褒められたのを思い出したのだ。嫁入りの品に持っていったら、喜ばれるかもしれない。
しかし、着ることができなければ意味がない。実家にある共用のパソコンで、着物や浴衣の扱い方を調べて印刷し、それも荷物に突っ込んだ。
「ま、こんなもんかな」
あちらは娯楽が少ないので、時間を持て余すのが難点だ。それ以外は、生活にはあまり不便を感じない。あちらには魔法の便利な道具があるし、結衣には侍女がいる。彼女の助けが大きい。
一通り準備を済ませると、結衣は釣書入りの紙袋を手に、一階へと下りる。前回、リヴィドール国に渡る前、近所の人から見合いをすすめられ、断る隙もなく押しつけられたものだ。
「お母さん、これ、返しておいて」
「もう少し見てみたらいいのに」
母はぼやきながらも、カウンターに置いておくように言った。夕食の下ごしらえが忙しそうで、また調理台のほうを向く。
結衣はカウンターに紙袋を置くと、ほっと息をついた。これで準備は終わりだ。
リヴィドール国に戻り、聖竜ソラに頼んだ時点で、結衣の存在は地球という世界から消える。職場に退職について話す必要もない。
それから程なくして、父と弟が帰ってきた。父は仕事を早めに切り上げてくれたようだ。弟の隆人も、大学で講義が終わってすぐに家に戻ってきてくれたようだ。
皆ですき焼きの鍋を囲んだものの、もう戻らないと思うと、つい結衣の目には力が入ってしまう。食事しながら家族を凝視し、そのうちなんだか泣けてきて、目を潤ませていると、気付いた隆人が心配そうに問う。
「姉ちゃん、そんなに転職がはかどらないの?」
「え?」
「落ち込んでるみたいだから。母さん、また何か余計なことを言っただろ」
隆人ににらまれた母は、心外そうに言い返す。
「そろそろ仕送りを打ち切りたいとは言ったけど」
「言ってるじゃん」
「前から話してたでしょ」
母と弟がにらみあいになったところで、父が口を挟む。
「まあまあ。結衣、無理しなくても大丈夫だからな」
「ありがとう、お父さん。でも、今回は手ごたえがあったから、お母さんも心配しないで」
結衣が取り成すと、三人は安堵したようだ。
「姉ちゃん、転職が上手くいったら何かご馳走してよ」
「あんた、食事中によくそんな話ができるわね」
「それはそれ、これはこれだよ」
大学生になっても食べ盛りの弟に、結衣は苦笑交じりに頷いてみせる。
「いいよ、合格したらね」
「やりぃ!」
「こら、隆人。あまりプレッシャーをかけるんじゃないぞ」
「そうよ。お母さんのことを言えないじゃないの」
父母にたしなめられ、隆人は首をすくめたものの、食事に集中すると気まずさもすっかり忘れたようだった。生意気な弟だが、今生の別れだと思うと、妙に可愛く見えてくる。
「隆人って彼女はいるの?」
「ごほっ、なんだよ、急に……」
「これはいるわね。幸せになってね」
「今日の姉ちゃん、本当に変だぞ。大丈夫?」
照れて赤い顔をしながら、弟が心配そうに問う。
「気を付けないと、社会に出たら、意外と出会いがないのよ」
「そうなんだ」
結衣の返事に納得したようで、弟はすき焼きの鍋へと興味を戻す。お玉で豆腐をすくうのを横目に、結衣は両親に心の中でお礼を言う。
(直接言えなくてごめんね。今まで、お世話になりました。皆が私を忘れちゃっても、私はずっと覚えてるから)
うっかり泣きそうになり、ぐっと我慢する。挙動不審な結衣を見て、家族らは顔を見合わせてアイコンタクトをはかる。母が急に立ち上がった。
「ほら、結衣。お腹が空いてるんでしょ。お肉をもっと食べなさい。あんた、小さい頃はお腹が空くと泣いてたものね」
「いつの話よ。……ありがとう」
「小学校高学年くらいまではそんなだったわよ。学期末に、大量に荷物を持ち帰るのにヘロヘロになって、お腹空いたーって駄々をこねてたわ」
そんなことがあったのか。全く覚えていない。
「はは、懐かしいな。父さんのラーメンを横取りしたんだよ」
「そうそう。隆人は疲れたり空腹だったりすると、無言で玄関に座り込むタイプだったから、お母さん、そっちのほうが焦ったけどね」
とんだとばっちりに、隆人が両手を挙げる。
「もう、思い出話はやめてくれよ~」
そんな話をするうちに、結衣も笑いだす。すき焼きとごはんをたっぷり食べて、楽しい夕食を終えた。
お風呂に入り、部屋に戻ろうと階段を上った結衣は、自分の部屋の前に寝そべっている犬に気付いた。黒のラブラドールで、おばあちゃん犬のモモだ。モモは結衣の足にすり寄ると、寂しげにクゥンと鳴いた。
「モモ……、あんたには分かっちゃうんだね」
結衣は苦笑して、廊下にしゃがみこんでモモを撫でる。
これから結衣が日本から立ち去るのを察知したのだろうか。高齢なモモは、昔みたいに階段を上らなくなったのに、わざわざあいさつに来てくれたようだ。
「ありがとう、モモ。最後まで見送れなくてごめんね」
モモが虹の橋を渡る日は遠くない。いつかの日は、傍で見送ろうと決めていた。それが叶わないのは悲しい。
結衣はモモをひとしきり撫でて、モモとも最後の別れを済ます。モモは部屋の中までついてきた。結衣は何気なさをよそおって、友達にも電話をかけ、近況の話をしあう。最後に雑談できたので、もう思い残すこともない。
(皆、元気でね!)
スマホを机に置き、結衣はトランクとスポーツバッグを手に取る。
部屋を見回し、他に忘れ物がないことをチェックすると、首から提げているお守り袋から、聖竜の鱗を取り出す。
モモがお座りしたまま、悲しげに結衣を見上げる。結衣はモモに笑いかけてから、鱗に話しかけた。
「ソラ、私をリヴィドールに呼んで!」
少しの間があいて、足元の地面が抜けた。暗い闇の中を落下して、そのまま水へと飛び込んだ。
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