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1 (完結)
しおりを挟む森は赤々と燃えていた。
悲鳴と怒号が飛びかう中、森の陰に隠れるようにして、レニは母に手を引かれて走っている。がむしゃらに通り抜けるせいで、枝や草が肌に傷をつけ、服の端が切れた。
レニは十七という年齢のわりに小さい。初対面の者には必ず十四か十五だと間違われるほどだ。
灰色のワンピースの裾をからげ、革製の長靴を履いた足で必死に前へ進む。その時、枝に引っかかって、生成り色のフードが外れた。さらりと零れ落ちたのは、肩辺りの長さをした白髪だ。母はすぐにフードを被せなおし、また走り出す。
息が苦しい。だが、立ち止まるわけにはいかなかった。
藪を突っ切ったところで、母が立ち止まった。レニもつんのめるようにして止まる。
目の前には崖があった。対岸は遠く、星明かりだけでは底は見えないが、川の流れる音がゴウゴウと響いている。渓谷だ。
「レニ、翼を広げなさい。ここを飛ぶの」
「でもお母さん、私、上手く飛べない」
「それでも飛ぶの!」
母の鋭い声に、レニは首をすくめる。
怖い。怖い。怖くてたまらない。
足を震わせ、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、レニは必死に翼を広げる。マントの下で、みすぼらしい一対の白い翼が広がった。
「いたぞ、あっちだ!」
後ろのほうから声がした。
母はレニを強く抱きしめると、レニを両腕に抱え上げる。
「待って、お母さん。やだ、怖い。いやーっ」
「生きなさい!」
母はレニを渓谷へと放り投げる。叫んだ声には、レニを案じる響きがあった。
風をつかむこともできず、渓谷を吹く突風にもみくちゃにされながら、レニは背中から落ちていく。
その赤い目は、母の体に突き刺さるいくつかの矢を見た。
「お母さ――」
レニは母へ手を伸ばす。
あらがうこともできず、谷底へ落ちていく。そして、そのまま意識を失った。
ピチョンと雫が落ちてきて、レニの頬にぶつかった。
その刺激と冷たさに、レニはゆっくりと目蓋をもたげる。
暗い空の真ん中に、青空が細い線を引いていた。
ゆっくりと起き上がったレニは周りを見回す。どうやら崖の途中に岩が張り出していて、幸運にも、そこにレニは引っかかったみたいだ。
――幸運にも?
レニはひくりとしゃくりあげた。
うつむいて、静かに泣き始める。誰もいないけれど、自然と声を殺していた。
レニの暮らす村で、子どもはこう教えられる。――襲撃者が来たら、すぐに隠れて、静かにしていること。
レニはカラス族という鳥人だ。黒髪黒目、黒い翼をもつカラス族だが、時折アルビノが生まれる。アルビノとは、色素欠乏のために白化して生まれてきた動物のことだ。カラス族のアルビノは、白髪赤目、白い翼を持ち、体が小さく弱かった。それでも一族は爪弾きにすることもなく、村の仕事は分業にして、村の奥まった所に保護していた。
日光でやけどをする者がいるので、アルビノは夜に仕事をする。体が弱いので村を守る仕事はできなかったが、賢く魔法に長けた者が多かったので、昼の仕事で手が足りないところをよく補っていた。
「なんで……ひどいよ。アルビノだからって、どうしてこんな目にあうの?」
たった一晩で、村の奥にいたアルビノ達の居所は壊滅した。一族は守ろうとしてくれたが、大型の肉食系の獣人達にはとても及ばない。
この獣人や鳥人、魚人が住まう世界には、ある醜悪な逸話があった。
――アルビノを食べると、寿命が延びる。
色素欠乏した姿を神聖視した結果、そんな話が広まったのだ。
そのため、どの一族でも、アルビノは大事に保護されている。中には生まれた時点で食べてしまう者もいるらしいが、ほとんどは同族には寛容だ。
昨今では、肉食系の獣人が、他者を殺して食べるのは禁忌とされている。昔よりは減ったが、逸話を信仰している邪教徒の一団がいて、被害は後を絶たなかった。
「お母さん……っ」
父は普通のカラス族だったが、幼い頃に病死した。レニは親を亡くし、天涯孤独の身となった。
いっそあの時死んでいれば、そう思った時、母の最期の声が耳の奥に聞こえた。
――生きなさい!
レニは奇跡的に生き残った。母の願いが天に届いたのだ。
「……うん。分かった。私、がんばってみるね」
このまま何もせずに死ねば、天国に行った母を悲しませてしまう。どうせ死ぬならば、もう少しあがいてからにしよう。
レニは涙をぬぐうと、露台のようになっている岩の上に立ち上がった。
振り返ってみて驚く。
「洞窟……?」
暗い穴を覗き込む。奥へと道が続いているようだ。
あいにくと夜目はきかないが、明かりを持っていないので、このまま奥へ向かうしかない。
谷底は冷たい川がごうごうと流れていて、落ちればレニはあっという間に流されて溺死するだろう。かといって、虚弱ゆえに空を飛ぶこともままならないレニには、この崖の上まではとても行けない。
この道が上へと続いていることを祈るしかなかった。
壁を助けにして、じりじりと奥へ進んでいくと、広い場所に出た。壁に埋め込まれた灯火石が淡く輝き、部屋を照らし出している。
そう、ここはどう見ても部屋なのだ。
真ん中には大きな丸い石のテーブルと木製の椅子があり、左奥には台所のような場所もある。右のほうには衝立があって、大きなベッドが一つ。クローゼットや箪笥も置いてある。
人の気配がないことに安心したレニは、奥の小部屋も覗いてみた。本がぎっしり詰まった棚と、書類が詰まれた机があった。
台所の左側にも小部屋が二つあり、風呂場とトイレがある。どうやら椅子の下に引き出しがあって、汚物を捨てる形式のようだ。
「他に道がない……」
レニは青ざめた。
最初から詰んだ。これではどこにも行けず、レニは飢え死にしてしまう。慌てて台所をあさると、干し肉やハーブを見つけた。
どうやら湧水を使った水道があるようで、蛇口をひねれば水が出る。
しばらくは生き延びられるが、そう長くはもたない。
くうっとお腹が鳴り、レニはひとまず干し肉をかじることにした。こういう時、雑食のカラス族で良かったと思う。
部屋は薄らと埃かぶっているので、主の長い不在を告げている。
ひとまず上に行く手筈を見つけるまではお邪魔させてもらおうと決め、レニはベッドに寝転んだ。思った以上にふかふかしていて、疲れ切っていたレニはあっという間に眠りに落ちた。
「おい、起きろ」
怒りをはらんだ低い声での呼びかけに、レニの意識は急浮上した。パチッと目を開けると、うすぼんやりとした明かりの中で、麗しい容姿の男が不機嫌そうに立っていた。
腰まである長い髪は白銀で、一瞬、女かと思ったが、顔や体格は男のものだ。二十代後半くらいだろうか。背が高く、細身ながら引き締まった体躯をしているようなのが、黒衣の上からでも感じられる。くっきりした顔立ちは色白で整っているが、無表情なせいで精巧な人形のようだ。
――神経質そうな人。
レニの彼への第一印象はこうだった。
「私の留守中に家に忍び込むとは、いったい何が目的だ?」
鋭く問う男の目は、黒曜石の刃みたいだ。冷たく、温度が感じられないのに、なぜか目を惹かれる。
見とれたレニは、慌ててベッドから下りて、床で土下座をした。
「すみません! どうしようもない事情がありまして、泥棒じゃないんです。崖から落ちてしまったんですが、上に戻れなくて」
男はレニのすぐ前に立ち、くんとにおいをかぐ仕草をした。
「くさい」
「えっ」
「カラスくさい。立派な翼があるくせに、下手な言い訳を。食ってやろうか」
冷たい脅しに、レニは震えあがった。彼がどの獣人か分からないが、きっと肉食系だ。
「わ、わた、私……」
「なんだ?」
脅すくせに、話を聞いてくれるつもりはあるらしい。それでも気が変われば、レニは殺される。
「飛ぶのが下手なんです。こんな崖、とても飛べません。それに泳げないし、虚弱体質なので登れないんです」
震えながら話すと、男はおもむろにレニのマントのフードをひっぺがした。レニは身をすくめる。白髪と白い翼を見れば、レニの正体は一目瞭然だ。
「ふん、なるほどな。アルビノカラスか」
レニの目に涙が浮かんだ。
この男も邪教徒なのだろうか。レニは殺されて、この男に食べられるのだろうか。
男は眉間に皺を刻み、苛立たしげに舌打ちした。
「お前、料理はできるか?」
「え?」
「料理はできるのかと聞いている。のろまめ、ぐずぐずしてると食ってしまうぞ!」
「できます! 得意です! お掃除も洗濯も、畑のお世話も、糸紡ぎや織物もできます!」
よく分からないが、レニは必死に自分のできることを主張した。
「そうか。では料理と掃除、洗濯を頼もう」
男はそう言って、長椅子のほうに座った。レニは土下座の姿勢から恐る恐る顔を上げ、男に問う。
「ええと……どういうことです?」
「お前を弟子にしてやると言ってるんだ。雑用に励むならば、ここに置いてやる」
「は、はいっ。ありがとうございます!」
レニは急いで頭を下げて、恐る恐る立ち上がる。
遅れて、この男の使用人として雇われたのだと気付いた。
レニが迷い込んだ洞窟の主は、どうやらヘビ族の隠者のようだった。
どうやら……というのは、この男は質問と余計な会話を嫌うので、一ヶ月が過ぎた今でも、レニは男の名前すら知らないせいだ。
てっきり使用人にされたのだと思っていたが、魔法使いである彼の弟子にされたようだった。雑用を終えて暇をしていると、急に魔法の勉強の時間になったりもした。
レニは必死に働いた。ここを追い出されたら、行く当てがない。カラス族の村の仲間がどれだけ生き残っているか分からないし、彼らには弱いレニを守る余力はないかもしれない。お荷物になりたくないので、この男に追い出されるまでは、ここでがんばろうと決意したのだ。
それに、元々、綺麗好きだったので、埃かぶっている部屋には耐えられない。部屋を磨きあげ、台所は整理整頓し、男が持ち帰る食材を料理する。
どうやら男は魔法を使って出入りしているらしく、あの谷底の入口から出かけていき、またそこから戻ってくる。
たまたま遠出していたところ、レニが自分の家のベッドを占拠していたのだと、ぽつりとひとり言みたいに教えてくれた。
魔法使いとしては有能なようで、町で仕事を引き受けては、小部屋にこもって作業をしている。そして出かけて、引き換えにお金を得て、買い物をする。
(あんまりしゃべらないし、何か話すと私への悪態が多いけど、悪い人ではなさそう)
レニは男のことをそんなふうに見ていた。
いじめる真似はしないし、気が向けばレニに菓子を買ってくることもある。
ただ、魔法への物覚えが悪いと、舌打ちされるのだけは怖かったが、後で勉強するのに適した本をテーブルに置いてくれることを知り、感情表現が不器用なだけで、なんだかんだ優しいのではという気がしてきた。
(料理が好みだと、目を細めるくせがあるのよね)
よく観察しているうちに気付いたことだ。
最初は機嫌を損ねて追い出されるのが怖くて、顔色を伺っていただけなのに、今ではあの顔が見たいと思い始めている。
「師匠はどうして町に住まないんですか? 不便じゃありません?」
昼食をとっている時に、レニは思い切って訊いてみた。
「……町に住みたいのなら、送ってやる」
少しの沈黙の後、眉間に皺をくっきりきざんで男は言った。
「えっ、嫌です。私はここにいたいです。ただ、いつも町にお出かけになっていらっしゃるから、面倒ではないのかなって思って」
男の怒りに触れたことに慌て、レニはそう言い訳した。
「ここは静かでいい。それに……」
「なんです?」
「お前は物を知らなすぎるな。ヘビは嫌われているのだ」
苦虫をかみつぶしたみたいな声で、男は答えた。
「えっ、師匠はこんなに優しいのに?」
「私が居場所をやったから、勘違いしているだけだ。私は邪教徒どもは嫌いなのだ。お前、この渓谷の傍に住むカラス族の者だろう? ここに戻った日、壊滅した村を見た」
「皆……死んじゃったんですか?」
「何人かは生き残ったようだ。町に避難していた。だが、お前は身を隠していたほうが良かろう。邪教徒がどこにひそんでいるやら、分からないからな」
「やっぱり優しいです!」
レニは笑みを浮かべたが、男の眉間の皺は更に深くなった。何故だ。
「うるさい。静かに食べろ。ぐずぐずしてると、食べてしまうぞ!」
「ひゃっ、ひゃいっ。ごめんなさい!」
レニは首をすくめ、急いで食事の続きをした。
どうやらこの男が脅すのは、照れている時や面倒くさい時のようだと気付いたのは、それから随分経ってからである。
驚くことに、三年が経った。
春の日に二十歳の誕生日を迎え、レニはこの奇跡に感謝した。
アルビノは虚弱体質な者が多く、長生きできずに病死することがほとんどだ。何度か風邪を引いたものの、男が看病してくれたおかげで、レニは持ち直した。
男はレニを町へ連れていくことはしないが、健康のためにも少しは日射しを浴びるようにと、入口の露台を魔法で広げてくれたり、女には色々と必要だろうと衣類や日用品を調達してきてくれたりと、結構気遣ってくれている。
弟子なのにこんなに良くしてもらっていいのかなと気にするレニだが、うれしかった時はちゃんと喜ばないと、男がすねて、いつも以上にだんまりになってしまう。それに、特に気に入ったところを細かく褒めると、次回に生かしてくれるから、大袈裟くらいに喜ぶようにしていた。
「なんだ、鼻歌など歌って。妙に機嫌が良い」
朝から手の込んだスープを作っていると、においを嗅ぎつけた男が、衝立の向こうからのそのそと起きだしてきた。白い絹の寝間着を着ている。けだるげな様が男の麗しさを増すので、レニはちょっと視線のやり場に困ってしまう。
レニの寝床はその向かいだ。材料集めに時間がかかったが、男はベッドを用意してくれた。それまでは床で寝ていたので、今は快適に過ごしている。
「おはようございます、師匠。今日、私の誕生日なんです。だからうれしくて」
「そういえばお前が来て、もう三年だな。どうして小さいままなのだ」
男はしげしげとレニを眺め、心から不思議そうに言った。
「いったいいつ大人になる? まだ十五くらいだから、あと一年くらいか?」
カラス族の成人は十六だ。男の話ぶりから察するに、ヘビ族も同じようだ。
「私、今日で二十歳ですよ?」
「にじゅ……」
男は絶句した。
硬直する。そんな表現がぴったりで、レニは心の中で笑った。顔に出したら、男がへそを曲げてしまう。貫禄ある大人に見えて、意外と子どもっぽい性格をしているのだ。
「てっきり子どもかと。そうか、大人なのか」
よほど驚いたらしく、男は何度も呟く。そして、レニの髪に指先で触れた。白い髪はこの三年で腰まで伸びている。
「師匠は何歳なんですか?」
「私はもうすぐ三十歳だ。……この歳の差は犯罪か? いや、子どもよりマシか?」
「師匠?」
何かをぼそぼそと呟くので、レニは首を傾げる。男は気を取り直して問う。
「節目の祝いに、何か贈ろう。欲しいものはあるか?」
「ものじゃないんですけど……」
レニはずっと知りたいことがあった。
「なんだ」
「師匠のお名前を教えてください」
すると男はまたもや絶句した。かと思えば、頭を抱える。
「どうしたんですか、お加減が悪いのでしょうか」
こんな男を見るのは初めてのことで、レニは心配になった。
「い、いや、そうではなく……。私は名前も教えてなかったのか。何故、訊かない」
「師匠は質問をお嫌いですし、特に不便はなかったので」
「ではどうして、今更になって知りたがる?」
「ずっと知りたかったんです。助けていただいたこと、感謝しています」
レニは温かい気持ちを込めて、男に礼を言った。深々とお辞儀をする。
男のおかげでレニは生きながらえ、魔法についても深く学んでいる。生活に使う魔法程度ならば造作もない。もしここを追い出されても、レニは生きていけるだろう。だが、男にそんなつもりがないことは分かっていた。レニに魔法を教えるのはいとわないくせに、男が教えようとしない魔法があったのだ。
男は慎重に問う。
「本当にそれが望みでいいのか? お前は、本当は飛行の魔法を学びたいのではないのか」
「私は師匠の傍にいたいんです。どうか今後も、飛ぶ魔法は教えないでください」
レニが飛べるようになったら、ここを出て行くと思っているのだろう。飛行の魔法をかたくなに教えようとしない男を見ていて、彼が他人との関わりを避けるくせに、寂しがりだという内面に気付いてしまった。
この不器用な男が、レニにはどうにも愛おしい。
「馬鹿な奴め」
悪態をついた男は、言葉に反して目を細める。好ましいと思った時の仕草を見て、レニも微笑んだ。
「良かろう。私の名は」
教えられた名を、レニは呼ぶ。
「ルシアン様」
「様はいらん。もう一度、呼べ」
「ルシアン」
よくできたと褒めるかのように、ルシアンはレニの額にやんわりとキスを落とした。
レニが大人だと知ってから、ルシアンとの距離が縮まった気がする。
以前からも、滅多にないものの、褒める時に頭を撫でることはあった。だが最近は、ルシアンはレニの髪に触れてきたり、わざわざ隣の席に座ったりするのだ。
レニはその都度、心臓がはねた。弟子にするにしては、なんだか親密な気がする。
(私、カラスなんだけどな……。こんな気持ち、持っていてもいいのかな)
違う種の獣人に恋をする日がくるなんて、村にいた頃は考えもしなかった。
もんもんとしながら日常を送っていた日、いつものように食事ができたと小部屋に声をかけたレニは、返事がないことをいぶかしく思った。
「師匠? えっ、どうなさったんですか!」
机に突っ伏して、ルシアンがぐったりしている。
「ああ、どうも体調が……」
ごほごほと咳をして、ルシアンは机を支えに立ち上がる。レニは手を貸した。
「休んでいれば治るから、お前は離れていろ。うつるぞ」
ルシアンはベッドに横たわり、気を失うみたいに眠ってしまった。
離れていろと言われたが、レニは恐る恐るルシアンの額に触れた。高熱に驚いて、レニは手を引っ込める。それからルシアンの手を触ってみた。ルシアンの指先はいつもひんやりしているのに、今はとても熱い。
すぐにたらいに水を汲んできて、濡れ布巾を額にのせる。衣類も少し緩めて、掛け布をかけた。
「どうしよう、解熱剤がない……」
置き薬を確かめてみたが、肝心の薬が無い。
「この間、私が寝込んだ時に使ってくれたからだわ」
レニは台所や小部屋も探してみたが、代わりになる薬草も見当たらない。
「どうしよう、このままじゃ師匠が死んじゃう」
部屋をうろうろと歩き回り、箪笥から鞄を取ってくる。背負って前で結ぶ形のもので、ルシアンが町に行く際、荷物が少ない時だけ使っているものだ。
ルシアンを助けるためには、町に行って、薬を買ってくるしかない。
いくらかかるか分からないので、財布はそのまま鞄に入れ、レニは生成りのマントを着た。
そして、急いで洞窟の外、露台へ飛びだす。
外はあいにくの小雨だ。レニは暗い空に線を引く、にぶい曇り空をにらみつけた。
レニは飛行の魔法は使えない。飛ぶのも下手だ。だが、浮遊の魔法ならば使える。
いったん、洞窟の中に引き返し、助走をつけて飛び上がる。必死に翼を使って羽ばたき、なんとか対岸の壁に着いた。
岩に取りつき、浮遊の魔法で休憩をする。
また羽ばたいて、腕力も使って少し登り、浮遊の魔法で休憩する。
そんなことをしてじりじりと上へ登り、なんとかてっぺんに着いた。
「はあ、はあ……」
指先の皮膚はさけ、爪は割れてボロボロだ。
「師匠、待ってて!」
雨足が強くなり始めた空の下、レニは走り出した。
村から出たことはないが、峡谷の向こう、街道を行った先に町があるのは知っている。
そしてなんとか薬を手に入れて、峡谷まで戻る。
帰り道は浮遊の魔法をかけたまま、羽ばたいて進路を取り、ゆっくりと降りていけばいいので楽だ。
それでも慣れない飛行と魔法、走ったことで、体力も精神もほとんどギリギリだ。
なんとか露台に着地すると、安堵のあまり涙が出た。
ルシアンはまだ眠ったままで、荒い息をついている。なんとか薬を飲ませると、レニはルシアンの足元に倒れ込んで、そのまま気を失った。
「レニ、レニ! どうしたんだ、その有様は」
肩を揺すられて、目が覚める。
「師匠、大丈夫なんですか!」
レニはがばっと身を起こす。昨日の様子が嘘みたいに、ルシアンは落ち着きを取り戻していた。まだ軽い咳をしているが、危険な事態は脱したみたいだ。
「良かった。良かったーっ」
安心のあまり泣きだしたレニを、ルシアンは戸惑いを込めて見ている。
「薬を飲ませてくれたみたいだな。ありがとう。だがお前、これはいったい……。手が傷だらけではないか」
「町に行って、お薬を買ってきました」
「何? しかしお前、飛行の魔法は教えていないのに」
どういうふうに崖を登ったかを教えると、ルシアンは信じられないと眉をひそめた。
「何故だ」
「え?」
「どうしてそのまま立ち去らなかった。私は弱っていた。金を盗んで逃げたとしても追えなかったのに。飛べないのを良いことに、お前をここに引きとめているような卑怯な私を、どうして助ける?」
黒曜石のような鋭い目が、レニをまっすぐに見つめる。
真剣に問うルシアンに、レニはぽかんと口を開く。
「それ……本気で訊いてます?」
「ああ」
「分からないんですか?」
「……まったく」
その返事に、レニは呆れてしまった。
ルシアンは感情表現が下手だとは思っていたが、こんなところも不器用だとは。
――ああ、やっぱり愛おしい。
なんて可愛い人だろう。ルシアンは寂しがりなのに、理由がなければレニを傍に置いておけないのだ。そして、いつかレニが傍から去るのだと思っている。
レニは両手を伸ばし、ルシアンの右手をやんわりと包んだ。
「好きだからです」
「好き……?」
「私は、ルシアンが好きです」
豆鉄砲でもくらったみたいに、ルシアンが面食らう。その頬が、熱だけではない赤に染まった。
「だが、私はヘビだぞ?」
「そんなことを言ったら、私はカラスですよ」
「しかしな……」
ルシアンの戸惑いは深いようだ。
――ヘビだから。
それだけで、ルシアンは誰からも嫌われると思い込んでいる。種族がどうしたというんだろう。そんなこと、ルシアン自身を知れば、些末なことなのに。
「寂しがりで、優しいルシアンが好きです。私、カラスですけど、お傍にいてもいいですか?」
レニが問いかけると、ルシアンの表情が歪む。泣き出す直前のような顔をして、レニの腕を引っ張った。
「ぶっ」
ルシアンの胸に飛び込む形になり、レニは顔をぶつける。
「……寂しがりは余計だ」
ルシアンは悪態を返したが、レニを強く抱きしめた。
「物好きめ。……傍にいてくれ」
レニは笑いをこぼす。
こわれたことが、とてもうれしい。
「はい……! ありがとうございます」
「それはこちらの台詞だ。まったく」
ああ、うれしい。
うれしくて、頭に血が昇って。なんだかふらふらする。
「……ん? レニ、おい、レニ!」
焦った声で、ルシアンがレニを呼ぶ。
雨の中、崖登りをした無茶のせいで、レニは寝込んだ。
「ごめんなさい、ルシアン。そちらも体調が悪いのに……」
「私はもう治ったから、気に病むな」
三日も寝込み、トイレ以外ではベッドから出られないでいるレニを、ルシアンが看病してくれて申し訳なくて涙が出てくる。
ぐすんと鼻をすするレニの頭を、ルシアンが優しく撫でる。
「私のせいで無茶をしたのだから、私が世話をするのは道理だろう」
「あなたの役に立ちたいのに」
「そんなものは求めん。傍にいてくれるだけでいい」
レニの目からほろほろと涙が落ちて、ルシアンは目を丸くした。
「どうした、何故泣くのだ」
「……うれしくて」
そう呟くと、ルシアンはふっと微笑んだ。目を細める仕草。レニはこの顔が大好きだ。
ルシアンは軟膏を手に取ると、レニの傷だらけの指に塗る。
「まったく。お前が回復したら、飛行魔法を教えよう」
「いいんですか……?」
「私に何かあるたびに、こんな無茶をされては、私の心臓がいくつあっても足りぬからな」
ルシアンの悪態が、レニの心を震わせる。
飛ぶ手段を奪わなくても、レニがどこかに行くことはないと信用してくれた。
「おい、どうして泣くんだ」
「ルシアン、大好きです」
レニが思いのままに呟くと、ルシアンは息を飲み、そろりと目をそらす。
「静かに寝ていないと、食ってしまうぞ!」
照れているだけなのは、耳まで赤くなった顔を見ればひと目で分かる。レニの生ぬるい眼差しに気付いたのか、ルシアンはたらいを手に立ち上がった。
「水をかえてくる」
「ふふ」
ついさっき、新しい水を持ってきたばかりなのに。
ルシアンの誤魔化しかたが面白くて、レニは笑みを零した。
それからレニは更に二日寝ていたが、三日目にしてようやくベッドを出られた。
朝はゆっくり起きて台所仕事を再開すると、物音を聞きつけたルシアンが小部屋から顔を出す。
「無理はしなくていい。後で、町で何か惣菜やパンを買ってくるからな」
「はい。では、スープだけ。温かいものを食べたくて」
「食べたいならしかたがないな」
ちょっと不服そうにしたが、ルシアンは頷いた。
レニの体調が落ち着いてから、ルシアンは小部屋にこもりがちだった。なんでも仕事の納期に間に合わせないといけないらしい。
物に魔法の模様を刻み込み、守りや癒しの効果を持たせる。そんな道具を作るのが、ルシアンの得意なことらしい。たまに複雑な魔法の仕掛けが施された呪物を持ち帰り、解呪に打ち込んでいることもある。
魔法使いにも色々いて、魔法を攻撃や防御の手段として戦いに使う者もいれば、ルシアンのように道具を扱う者もいる。悪い魔法使いは呪物をばらまくが、ルシアンは人を守るような物しか作らないそうだ。だが、手段として呪物の作り方も知っているので、それを解くこともできる。
ヘビ族が嫌われているのは、呪術に精通しているからだという。だからルシアンはあまり呪物に関わりたくないらしいが、解呪は報酬が高いので、生活資金のために引き受けているらしい。よく領主に依頼されるそうだ。
ルシアンは木箱に呪物を放り込みながら、ぶつぶつと文句を言う。
「まったく、アドルは恨みを買いすぎだ。レニ、これはな、奥方が流産するようにというのろいの品だ」
アドルとは、峡谷の向こうにある町を含んだ一帯を統べている領主のことだ。ルシアンの師が領主家で世話になっていたつながりで、ルシアンは今の領主と友人関係にある。奥方とは、領主夫人のことだ。
「ええっ、大丈夫なんですか?」
「対象から遠く引き離したから、効果はほとんどない。だが、気味が悪いから、解除しておいたほうがいいだろう? 面倒な仕事だった。意味の無い言葉を織り交ぜて、解除しにくいように本質を隠している。そんなものに、私の目はごまかされぬがな」
至極当然と呟くルシアンに、レニは拍手を送る。
「師匠、すごいです!」
「……まあな」
眉を寄せて呟くわりに、満更でもないのは分かっている。こういうところが可愛いと思うのだ。
「少し出かけてくるが、大丈夫か?」
レニの様子を慎重に観察しながら、ルシアンは問う。
「はい」
「滋養に良いものでも買ってこよう。卵や鳥肉が良いだろうな。それから薬に、蜂蜜も欲しいところだな」
「蜂蜜だなんて、高価ですから」
「病み上がりの者に食べさせるくらいの蓄えはある。心配するな」
ルシアンは気軽に返して、部屋を見回す。
「お前の調子が良くなったら、部屋を増やすかな。私はあまり眩しい光が好きではないが、お前はもう少し光を浴びたほうがいい。窓のある部屋がいいな」
「私の部屋を作ってくれるんですか?」
「ああ。大地の魔法を使えば、造作もない。少し時間はかかるがな。ここは元々、少しくぼんだ洞窟だったのを、私が改造したんだ。誰も――獣も近づけなくて静かで防犯にも良く、川が増水しても届かぬ高さであるし、家賃もとられない」
にやりとルシアンは笑みを浮かべた。
打算的なことをわざわざ言うのは、照れによるのだろうか。ルシアンは悪態をつくことで、良いことをしようとする気恥ずかしさを誤魔化そうとするところがある。
「でも、私、ここも居心地は良いですよ。私は色素欠乏のせいで、強い光は視力を弱める原因になるので……」
「分かった。窓にカーテンはとりつけよう。日射しが弱い日は、窓辺にいればいい。私と違って、カラスは昼の種族だろう。太陽を浴びないのも良くない」
「ありがとうございます」
レニはお礼を言った。本当にずっと傍に置いてくれるのだと、ルシアンの態度で分かったからだ。
「それでは行ってくる」
「はい。ルシアン、気を付けて」
露台まで見送ってから、レニはスープ作りを再開した。
ルシアンが出かけてから、三十分ほど経った頃、ふと出入り口のほうに人の気配がした。
「ルシアン、忘れ物ですか……?」
振り返ったレニは、ぎくりと動きを止める。
「え?」
信じられなくて、声が漏れた。そこにいたのはルシアンではなく、見知らぬ男だったのだ。
男は二十代半ばくらいだろうか。目つきが鋭く、背が高い。体格もがっしりしている。薄茶色の髪と、吊った焦げ茶色の目をしていて、皮鎧を身に着けていた。そして、手に杖を持っている。魔法使いだろうか。
「誰!?」
レニは鋭く誰何して後ずさり、調理台に腰をぶつけた。
「やっぱりな、見間違いじゃなかった。アルビノ、見ーっけ」
男はにまりと目を細めた。
まるで隠れん坊で遊んでいる子どもみたいな、無邪気な響きの声だった。
レニはハッと自分自身を見下ろす。ここは安全だから、マントで身なりを隠していない。腰まで伸びた白い髪と赤い目、白い翼があらわになっている。色の抜け落ちたこの姿を見れば、レニの正体など一目瞭然だ。
「まさか……邪教徒?」
「その言い方は失礼だな。正式名は、逸話教っていうんだぜ」
男がゆっくりと近付いてくるので、レニはまな板の上の包丁をつかんだ。両手でしっかりと持ち、体の前で構える。
「はは。かーわいい。震えてる」
男は立ち止まった。
レニはそのことにほっとしたが、すぐに気を引き締めて警戒しなおす。男はこの程度を障害と思っていない。
必死に逃げ道について考えるレニに、男は余裕たっぷりの態度で、まるで道端ですれ違った知人のような態度で話しかけてくる。
「お前、この間、町に来ていただろう? その時にな、ちらっとその白い髪が見えたんだ。それに、地面には白い羽が落ちてた」
レニはさあっと青ざめた。あの時は必死なあまり、周りを警戒する余裕がなかったのだ。
「あの日、カラス族のアルビノが、一人行方不明だったからよ。お前じゃないかと追いかけたんだよなあ」
――あの日。
その言葉にも、息を飲む。
この目の前の男は、三年前、カラス族の村を襲った者の一人だというのか。
あの夜の恐怖を思い出して、レニは足から力が抜けそうになる。なんとか踏ん張って、仲間の――そして母の敵をにらむ。
男の語りは続く。
「だけど、残念。住処は分かったが、ヘビの巣じゃあな。ここは、あの魔法使いのにおいがプンプンしてやがる」
男は鼻に皺を寄せて、くさいという仕草をした。
あいにくとレニは生まれつき、あまり鼻がきかない。男の言うことは分からない。
「あいつ、嫌いなんだよな。ヘビのくせに、正義ぶってるだろ? あいつらは汚れ役がお似合いだってのに」
「師匠を馬鹿にしないで!」
聞き捨てならず、レニは震えながら反論した。
「あの人は……口や態度は悪いけど、本当は優しい人なの。ヘビにだって色んな人がいるのに、そんな色眼鏡で見ないでよ!」
「どうだろう。お前が死んだら、食べるつもりなのかもしれないぞ。アルビノを食べたら、寿命が延びるんだからな」
「そんなの嘘よ! 古臭い迷信で、私達を傷付けないで!」
カッと頭に血が昇り、レニは言い返した。
その瞬間、男の空気が変わる。怒気をはらんだ冷たい気配に、レニはひやりとした。
「古臭い迷信? 馬鹿にするな!」
そして、男は踏み出した。
「きゃあっ」
レニはビクッとし、男を遠ざけようと、無我夢中で包丁を前に突きだす。
しかしその手首を取られ、包丁が手を離れた。カランと床に転がって、甲高い音が響く。
「楽に殺してやろうと思ったが、やめた。少し遊んでやろう」
男の捕食者の目に、レニは身をすくめる。肉食系の獣人なのは間違いないが、レニにはこの男が何者なのか分からない。
男に突き飛ばされ、レニは居間の床に敷いてある絨毯へと倒れ込んだ。その後ろから頭を押さえつけられる。
「綺麗な羽だな。こいつで枕でも作るか」
「痛い! やめて!」
ブチブチという音とともに、翼から羽根を引きちぎられる。先のほうを切るくらいなら問題はないが、生え変わりの時期に勝手に抜けるならともかく、根本には痛覚があるのだ。
レニはじたばた暴れ、翼も羽ばたかせたが、男にはまったく歯が立たない。
あまりの痛みに集中できず、魔法も使えない。やがてぐったりと、レニは倒れ伏す。そのレニの首に、男は容赦なく噛みついた。鋭い牙が皮膚を突き破り、そこがカッと熱を持ったようだった。
「~~っ」
あまりの痛みに声も出ず、レニは涙を零して、息をしようとあえぐ。
(ああ……私……もう死ぬのね)
徐々に狭まっていく視界の中、レニが思い出すのはルシアンのことだ。
「ルシアン……」
こんな時なのに、レニは悔しい。
(どうせ食べられるなら、あなたが良かった)
本当に、残念だ。
ゆっくりと目の前が暗くなり、そのまま深い闇へと意識が沈みかけたその時、急に首の痛みが退いた。
「ぎゃああっ」
男の悲鳴が上がり、吹っ飛ばされて、洞窟の壁にぶつかった。そのまま無様に床に転がる。
「貴様、よくもレニにこんな真似をっ」
ルシアンの声は凍えるようだった。冷静さに怒りをはらませ、男を怒鳴りつける。
「そのまま大人しくしておれ!」
ルシアンは魔法で植物を呼び出して男を縛り上げ、魔法を使えないように猿ぐつわまでした。男はむぐむぐと何か騒いでいるが、ルシアンは無視してレニの傍らに膝をつく。
「レニ、しっかりしろ! 意識をたもつんだ。クソッ、まずは止血を」
舌打ちとともに床を走る音がした。ルシアンはすぐにレニの傍に戻ってきて、首の怪我に厚い布を押し当てた。
「見たところ、傷はそこまで深くはない。大丈夫だ。がんばれ、レニ」
また動き回る音がして、今度は手に石を握らせられた。じんわりと痛みがにぶくなった気がして、それが不思議で、レニはぼんやりとしたままゆっくりと瞬きをする。
「癒しのまじないを刻んだ石だ。そこまで血は流れていない。大丈夫だ」
ルシアンはレニに安心させるように言い、苛立ちを込めて舌打ちをする。
「売り物を忘れてな、たまたまとはいえ、取りに戻って良かった。まさか邪教徒に住処をかぎつけられるとは! あのイタチ野郎、お前を弱らせてからゆっくりと食うつもりだったのだろう。おぞましい!」
心からの嫌悪を込め、ルシアンは男に悪態を放つ。
「貴様を殺して川に捨ててやりたいのはやまやまだが、貴様は領主に突きだしてやる。死ぬほうがマシな、手ひどい尋問が待っているぞ! 構わぬだろう? お前はこんなふうに、何人も食ってきたのだろうからな。いつかしっぺ返しがくるのは、分かっていたはずだ」
ぐうう。獣のうなり声が返る。身をよじって暴れる男を冷めた目で見て、ルシアンは男に魔法をかけた。
「うるさい。寝てろ!」
眠りの魔法をかけられ、男はバタッと眠りに落ちた。部屋の中が静かになる。
ルシアンはイライラしているが、レニの傷を押さえる手には気遣いが感じられる。
「レニ、もう大丈夫だからな」
ルシアンが傍にいる。
それだけで、レニは気が緩んだ。そのまま目蓋が落ちそうになると、ルシアンが焦りをにじませて声を張り上げる。
「駄目だ、レニ。寝るな! 起きていろ!」
そして、レニの意識が落ちそうになるたび、ルシアンが呼び止める。
レニは必死に起きていようと努力しながら、左手をルシアンのほうへ動かす。体全体が重くて、たったこれだけのことにとても疲れる。
ルシアンが励ましてくれるが、レニはもう無理だと思った。自分の虚弱さは、レニが一番よく分かっている。きっと眠りに落ちたら、それが最後だ。だから、どうしても伝えたいことがあった。
「動くな、体力を使うと疲弊する。どうした?」
レニの左手に触れ、ルシアンがレニの顔を覗き込む。その綺麗な顔も、今のレニにはよく見えない。
「……べて」
「何?」
衣擦れの音がした。ルシアンがレニの口元に耳を近付けたようだ。
「私のこと、食べて」
レニがなんとかしぼりだした言葉に、ルシアンが息を飲む。怒ったように言い返す。
「食べない。どうしてそんなことを言う。弱気になるな!」
がんばれと励ます声に、レニは涙が溢れてくる。
「あなたに……感謝してる。でも、私は何も持ってない」
いつかお返ししたいと思っていた。もう叶わないなら、自分の身をあげるしかない。
「だから、食べて」
「クソッ。お前ときたら、どうしてこんな時まで……」
やるせないと言いたげな呟きをして、ルシアンはしばし黙り込む。そして、静かに頷いた。
「分かった。そんなに望むなら、食べてやるから。今は治すことを考えろ。死にかけはまずいからな!」
レニは微笑んだ。
「約束……」
そして、なんとかたもっていた意識の糸を離す。
「おい、レニ! レニ!」
ルシアンの呼ぶ声を遠くに聞きながら、レニの意識は闇へと沈んでいった。
それからレニは、一日、生死をさまよった。
ぷかりと水面に浮かぶみたいに、時折意識が浮上する。
ルシアンがレニに何か声をかけたり、医者と話しているルシアンの声が聞こえたり。記憶はまばらだ。
そして三日後、意識をはっきりと取り戻した時、ルシアンは憔悴しきった顔をしていた。
「ルシア……?」
声がかすれて最後まで呼べなかったが、ルシアンは腰を浮かせた。
「レニ、私が分かるか?」
レニは小さく頷く。
「ああ、良かった」
深々と溜息をつき、ルシアンはレニの右手の甲を、まるで祈るみたいに包んで顔に近付けた。
「ありがとう、生きのびてくれて」
鼻をすする音がして、冷たい雫が手に当たったことで、レニは彼が泣いていることに気付いた。
それから甲斐甲斐しく看病をしてくれながら、ルシアンはこの三日のことを話す。ルシアンはレニの救急処置をした後、すぐにレニを抱えて町に行き、医者に診てもらったそうだ。ここはその医者が運営している医院の一室らしい。それから、レニが持ち直したのを確認してから、捕縛した男を衛兵に突きだしたことも教えてくれた。余罪を明らかにして、仲間のことを聞きだした後、死刑になるだろうという話だ。
死刑と聞いても、レニの心は暗く沈んだだけだった。仲間の敵だ。気持ちが晴れるかと思ったが、そんなことはない。敵が死のうが、あの事件はずっとレニの中に残る。だがもう犠牲者は出したくないから、彼らが捕まることを祈った。
「本当に、どれだけ私が気をもんだか」
最後に、ルシアンがいかに胸がつぶれるような思いをしたか、こんこんと聞かされた。
水で喉をうるおし、痛み止めと化膿に効く薬などを飲んでから、レニはふうと息をつく。
「……ごめんなさい」
「耐えきってくれたから、それでいい。私も悪かった。家には誰も来られないと踏んで、結界もかけずに出かけていたからな。怖かっただろう? 本当にすまない……」
すっかり自己嫌悪しているルシアンに、レニはふるふると首を振る。
「ルシアンは悪くないの。私が町に来た時に、あの人に気付かれたみたい。それに、カラス族のアルビノのことも知ってたわ。あと一人、行方不明だって……。襲撃者の一人なんだと思う」
「つまり、行方不明の一人が生きていれば近辺にいることを見越して、町で張っていたのか? ――分かった。すぐにあの男の顔なじみにも怪しいところがないか、調べさせよう。ここの領主はな、邪教徒排斥運動をしているのだ」
だから恨まれることも多く、よくのろいの品が送りつけられるのだという。厳しい表情をして、ルシアンはすっと椅子を立つ。
「レニ、私は邪教徒どもが嫌いだ。私の母もアルビノだった。だから、お前達の苦労はよく知っている」
「もしかして、ルシアンのお母さんも……?」
「いいや。父が有能な魔法使いだったし、母も魔法の腕はかなり良くてな。病死してしまったが、最後まで幸せに生きたと思うよ。ただ、父が母の死に耐えられず、後を追うように弱って死んだのはきつかったがな」
レニは急に納得した。
ルシアンのレニへの気遣いが妙に的を射ているので、どうしてそんなに分かるんだろうと不思議だったのだ。ルシアンがアルビノの母を持っていたからだったのだ。
ルシアンは部屋を出て行こうとして、戸口で立ち止まり、また戻ってくる。
「レニ、これをやろう。もし悪党が来たら、これを投げつけるのだ。草の蔦が飛び出して、捕縛してしまうからな。足止めをしたら、眠りの魔法をかければいい」
「ありがとう」
レニが礼を言うと、ルシアンは部屋を出て行った。レニは守りの魔法が仕込まれた石を眺める。彼の過保護さが、くすぐったかった。
それから一週間後、レニはようやく退院できた。
「あの……ルシアン。これはさすがに恥ずかしいのですが」
もう大丈夫だと言っているのに、ルシアンがレニを腕に抱え上げて下ろそうとしない。少しでも歩いたら、レニが倒れると思っているみたいだ。
「気にするな。軽いからな」
「でも、周りの人の視線が気になるので……」
「全員、かぼちゃだと思え」
「そんな無茶苦茶な」
レニの抗議にも、ルシアンはどこ吹く風だ。
「私をさんざん心配させた罰だと思うのだな」
「うっ、それを言われると何も言えません」
結局、レニは諦めて、ルシアンの肩に頭を預けて寄りかかった。
惣菜やパンもたくさん買いこんだので、しばらく料理はしなくていいそうだ。彼が堂々と甘やかすので、レニはちょっと気まずい。
「私、弟子なのに」
「弟子ならば、師匠の言うことは黙って聞け」
「はーい」
何を言っても無駄だと悟り、レニは悪あがきをやめた。
ルシアンは町を出た後、魔法で空へと飛んだ。そして、対岸の森に下りて、遠回りをしてから住処に戻る。
後をつけられていないか警戒していたようだ。
部屋を確認して、安全が分かってからレニを中へ入れた。そして、入口には結界を張る。まるで蜘蛛の糸のように編まれた光の壁だ。物理も魔法も弾くものである。
あっさりと高等魔法を使ってのけるルシアンのすごさに面食らいながら、レニは久しぶりの我が家にほっと息をつく。心配していたよりも綺麗だ。
「たまに戻って、掃除と洗濯をしておいたからな。しばらくは何もしなくていいぞ」
「ありがとうございます」
なるほど、レニがすぐに家事をしだすのを見越して、ルシアンは先手を打っていたようだ。
おかげで、その日はゆっくりと過ごすことができた。
買ってきた料理を食べ、ルシアンが用意してくれた風呂にも入る。
だが、寝間着に着替えてさあ就寝という時、急にレニはルシアンに抱き上げられた。
「きゃっ。な、なんですか?」
「お前、私に食べろと言っていただろう」
「そうですけど……」
レニは首を傾げる。こうして生き延びたのに、食べるとはどういうことだろう。その意味が分かったのは、ルシアンのベッドに運ばれて、押し倒された時だ。
「えっ、まさか、そっちの意味ですか!?」
「私は食人をするような悪食ではないし、こっちのほうがずっと美味そうだ」
ルシアンにとろけるような笑みを向けられて、レニはヘビににらまれた蛙みたいに身動きができない。かあっと顔を赤くしたが、結局、体の力を抜いた。
そして、甘いキスが降ってきた。
一夜を共にした翌朝、レニの左の薬指には、銀製の指輪がはまっていた。
「る、ルシアン、これ……!」
感極まって涙目のまま詰め寄ると、相変わらずのルシアンは、目をそらして悪態を返す。
「弟子ではなく、嫁になれという意味だ。嫌なら外せばいい!」
「そんなわけないじゃないですかっ。ありがとうございます。私、うれしくて……」
泣きだしてしまったレニを、ルシアンはほとほと困った様子で抱きしめる。
「おい、泣くな。どうして泣くのだ」
「うれしいんですぅ」
「お前は……まったく。嫌がっても、もう離してやらぬからな」
「いいです、構いません。――ルシアン、愛しています」
ひしっとルシアンにしがみつき、レニは心からの言葉を口にする。
少しの沈黙の後、ルシアンはレニの耳元で同じことをささやいてくれた。
それから少しして、レニ達は引っ越すことになった。
レニが邪教徒に襲われたことが、よほどルシアンの痛手になったようで、ルシアンは師の後を継いで、領主家の顧問魔法使いになることに決めたのだ。
家は領主館のすぐ傍に構え、領主から派遣された衛兵が、常に警備している。何かがあれば、すぐに領主館に知らせが来るという寸法だ。
前々から打診されていたのをルシアンが断っていたらしく、ルシアンの考えを変えるきっかけになったことで、レニは領主に感謝された。
新しい生活を穏やかに楽しみながらも、レニは時折、夫となったルシアンにこう話しかける。
「ルシアン、私、やっぱり、いつかはあなたに食べられたいです」
「ふん、馬鹿を言うな。もったいなさすぎて、とても食べられぬ」
ルシアンは少しだけ呆れを混ぜて、しかし真剣にそう返す。
そしてレニの額に、甘いキスを贈った。
……終わり。
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