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第6章 誰ガ為ニ

139 逃亡

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「やっぱりアリスちゃんはすごいね。君の心を持ってすれば、不可能はないのかもしれない」

 私たちの光景を見て、レイくんが口を開いた。
 薄い笑みを浮かべたまま、穏やかな目で私を真っ直ぐ見つめてくる。

 そんなレイくんの言葉を受けて、私は咄嗟に千鳥ちゃんを抱き庇った。
 レイくんは、千鳥ちゃんは裏切り者だと制裁しようとしていた。
 私たちの中で問題が解決したとしても、ワルプルギスとしてはそうではない。

「待ってよアリスちゃん。僕はクイナをどうこうするつもりはないよ」
「で、でも……」

 張り詰めた私の顔を見て、レイくんは慌てて言った。

「確かにクイナは僕らを裏切った。明確にワルプルギスの意思に反った行動をとった。けれど結果としてアリスちゃんは生きている。真宵田 夜子のことも……まぁそれはそれでいいだろう。それになにより、アリスちゃんが許したクイナに手を出すなんて、僕には恐ろしくてできないよ」

 そう口にするレイくんの言葉は、確かに敵意を感じさせない。
 それはつまり、私に免じてということなのかな。
 千鳥ちゃんが脅かされないのならいいけれど、ワルプルギスとしてそれでいいんだろうか。

 訝しげな視線を向けると、レイくんは困ったように笑った。

「僕はアリスちゃんに嫌われたくないからね。今回は結果オーライということで不問にするよ。ただもちろん、君にもしものことがあったら、ただでは済まさなかったけどね」
「…………」

 レイくんは私に笑いかけてから、とても冷静な視線を千鳥ちゃんに向けた。
 それを受けた彼女は静かに息を飲んで視線を落とした。

 その様子を見たレイくんはもう追求をするつもりはないようで、緩やかな笑みを浮かべるだけだった。
 そしてその余裕に満ち溢れた笑みを浮かべたまま、後方に下がっていたロード・ケインへと視線を向けた。

「ま、そういうわけだよロード。君の目論見は潰えた。アリスちゃんを前に、その心情を乱す計画は意味をなさなかったね」

 まるで勝利を得たように、レイくんは強気な言葉を向けた。
 それを受けたロード・ケインは困ったように眉を上げて、やれやれと頭を掻いた。
 全員の視線が彼に突き刺さり、一気に場が引き締まる。

「参ったなぁ、やっぱりこうなっちゃったかぁ。流石は姫様ってことかねぇ」

 ニヘラと困り顔をするロード・ケイン。
 けれどやっぱり、それは切羽詰まったものではなかった。
 結果がどっちに転んでもよかった彼にとって、この状況もある意味想定通りなんだ。

「残念と言えば残念だよ。結構念入りにあの手この手を打っておいたからね。あくまで保険だったけれど、ちゃんと本気で取り組んだんだぜ?」

 本命のスパイを隠す為アゲハさんを焚き付け、アゲハさんをスパイだと思わせる為にカノンさんを組み込んで。
 自ら身を乗り出すことで私たちを翻弄して、最後の最後まで私たちにその真意を悟らせなかったロード・ケイン。

 保険とは言うけれど、どちらでも良いとは言うけれど。
 でも、その計画は酷く用意周到だった。
 どちらでもいいからこそ、どちらにでも転べるように最善を尽くしている。
 その彼の姿勢がやっぱり恐ろしい。

「まぁでも、失敗しちゃったんなら仕方ない。僕にできるのはここまでだ。そろそろ、大人しく失礼させてもらおうかな」
「ふざけたこと抜かしてんじゃねぇ!」

 あっさりと身を引こうとしたロード・ケインに、カノンさんが噛み付いた。
 木刀をぐっと握りしめ、一人前に出る。

「散々人のことをおちょくりやがって! このままおいそれと帰すか!」
「カノンちゃーん。穏便にいこうよ。結果としてみんな無事だったんだからいいじゃないか」
「よくねぇ! みんな無事なもんか! こいつの姉ちゃんが死んじまったのは、紛れもなくてめぇのせいだ!」

 口を尖らせてひらりとかわすロード・ケインに、カノンさんは声を荒げた。
 さっきまで命懸けで戦った相手の、その死を悼んでいる。
 敵だったとしても、アゲハさんは千鳥ちゃんのお姉さんだから。
 彼女は、その愛によって亡くなってしまったから。

「そう言われてもなぁ。もう君には言ったけど、彼女の行動は飽くまで独断なんだぜ? 僕は何も指示していないし、全て彼女自身の意思だ。僕に責任を問われてもなぁ」
「っ………………」

 やれやれと肩を竦めるロード・ケインに、千鳥ちゃんは息を飲んだ。
 私にしがみつきながら、悔しそうに唇を噛んで震えている。

 確かに、アゲハさんは自分の感情で自分の為、千鳥ちゃんの為に動いた。
 でもそれはロード・ケインが焚き付けたからだ。
 彼はアゲハさんの気持ちを利用して、自分の計画に組み込んだ。

 それは十分、アゲハさんを踏みにじる行為だ。

 ロード・ケインののらりくらりとした態度に私が立ち上がろうとした時、それよりも早くカノンさんが動いた。

「ふざけんな! やっぱりてめぇは、ここで叩き潰す!」

 大きく吠え、激しい脚力で飛び出した。
 たった一つの跳躍でロード・ケインとの距離を詰めたカノンさんは、突撃の勢いに合わせて木刀を振るった。

「勘弁してくれよぉ。君みたいな乱暴なタイプの相手は苦手だって言ったろう?」

 軽く溜息をついて、ロード・ケインは正面に障壁を張った。
 激突した木刀は鈍い軋んだ音を鳴らす。けれど同時に、彼が張った障壁にもヒビが入った。

「おー怖い。またボコボコにされないうちに、僕はさっさとお国に帰るよ」
「────まぁそう慌てるなよ、坊や」

 ヒビの入った障壁を見て目を見開いたロード・ケインは、そう言うが早いからそそくさと身を翻した。
 しかしそんな彼を、夜子さんが酷く落ち着いた口調で呼び止める。

 次の瞬間、暗雲に覆われた薄暗い中で、ロード・ケインの足元の薄い影から大量の黒い猫が沸き上がった。
 以前私が戦った時にも出てきた、闇をくりぬいたようなのっぺりとした黒塗りの猫だ。

「今回は結構みんながお世話になったからね。大人として、手ぶらで返すのは申し訳ない」

 足元より這い出してきた大量の黒猫は、ロード・ケインにかわす暇を与えずその身体にまとわりついた。
 すると途端に猫の姿を崩す。形ある影となって一つにまとまり、体をグルグル巻きにして動きを封じる。

「ざまあみやがれ!」

 その隙にカノンさんが障壁を叩き壊した。
 同時に砕け散った木刀を投げ捨て、その手に新しいものを握る。
 そんな彼女が迫るのを見て、流石のロード・ケインも僅かに顔を引きつらせた。

「これはまずい」
「人の痛みを、その身をもって知りやがれ!」

 ロード・ケインは咄嗟に何か魔法で対抗しようとしていたけれど、それよりもカノンさんが木刀を振り下ろす方が断然早かった。
 その場に固定されたロード・ケインの左腕に、鈍い音を立てて木刀が減り込んだ。

「っ…………!」

 木刀の一撃は、それだけで彼の骨を砕いているようだった。
 しかしそれだけでは終わらず、魔法による付加効果か、打撃点から衝撃が広がってその腕が暴れ狂った。

「これだけで済むと思うな!」
「いや、流石にこれ以上は勘弁だ」

 追撃を仕掛けようとしたカノンさんに、ロード・ケインは顔を歪めながら言った。
 すると、その周囲の空間がまるで陽炎のようにぐにゃりと歪んで見えた。

 そして、瞬きのうちに影の拘束の中からロード・ケインの姿が消えてしまった。
 目の前にいたカノンさんも、その姿を追いきれずに急いで辺りを見回している。

「いやぁホント、カノンちゃんはおっかないよね」

 そうやって私たちが辺りを見回していると、上からヘラヘラとした声が降ってきた。
 急いで空を見上げてみれば、ロード・ケインが左腕を庇いながら、少しぎこちない笑み作って空中にふわふわと浮かんでいた。

「左腕の骨、全部粉砕しちゃったよ。これは大怪我だぜ。僕も歳だからさ、怪我の治り遅いんだよねぇ」

 流石の彼も堪えたのか、その額には脂汗が滲んでいた。
 それでも笑みを浮かべているけれど、今までほどの余裕はない。

「でも本気でこれ以上は勘弁だ。オジサン死にたくないからね」
「てめぇ、逃げんのか!」
「逃げるさぁ。はじめから言ってるじゃないか。僕の今回の試みはここで終了。この先はまた、なるようになるだろうさ」

 吠えるカノンさんにロード・ケインは薄く微笑む。
 結局、こっちの感情は全く彼には届かない。
 全てはのらりくらりとかわされてしまう。

「最後にちょっぴりしてやられちゃったし、あんまり余裕をかましてちゃいけないと、この歳になっても学ばせてもらったよ。いやぁ、ホントに痛いなぁ」

 ハハハと笑っているけれど、腕の骨を尽く粉砕されて痛くないわけがない。
 大人の余裕を醸し出したいのか強がっているけれど、相当な激痛が走っているはずだ。

 ロード・ケインはカノンさんから私に視線を向けて、それでも薄く微笑んだ。

「それでは姫様、これにて失礼。また生きてお目にかかれる時を楽しみにしているよ」

 そう言ってささやかにウィンクをしてから、ロード・ケインはバサリと大仰に白いローブをはためかせた。
 そのローブが姿を覆い尽くしたかと思った次の瞬間、もう空に彼の姿はなかった。

 ロード・ケインは、私たちのことを引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、あっさりと消え去ってしまった。
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