上 下
393 / 984
第6章 誰ガ為ニ

77 湯船の母娘

しおりを挟む
「あのねアリスちゃん。お母さん、またお仕事でしばらく帰れないの」
「え、そんなの?」

 浴槽の中に二人でなんとか収まってから、お母さんがポツリと言った。
 私のことを背後から抱き締めながら浸かっているお母さんの声は、少しだけ萎らしい。
 私のお腹辺りで緩く手を組みながら、その顎をコトンと肩に乗せてきた。

 私が浴室に行くなり、洗いっこがしたいと子供のように駄々を捏ねたお母さん。
 仕方ないなと頷くと、洗ってくれる時も洗われてる時も上機嫌だった。

 まるで子供同士でじゃれ合うように洗い合ったのだけれど、高校生にもなって何をやっているんだという気がしなくもなかった。
 でも、相手は高校生どころかアラフォーのいい大人だから、私は深く考えないことにした。

 そんな感じだったから、二人して湯船に浸かってやっと一息ついた、というかゆっくりできた。
 だっていうのに、らしくないしんみりとした声で切り出すものだから、私は少し大げさなリアクションを取ってしまった。

「帰ってきたばっかりなのにごめんね。お母さんいないと寂しいでしょ?」
「そりゃあ寂しいけど、もう慣れたから大丈夫だよ」
「えー。そこは、寂しくて泣いちゃうから行かないでぇーって、お母さんは言って欲しかったんだけどなぁ~」

 私が笑顔で返すとお母さんはぷくっと頰を膨らませた。
 実際のところ、帰ってきたばっかりのお母さんがまたすぐ出て行ってしまうのは嫌だけれど。
 でもお母さんに心配をかけまいと、元気に答えたのに。
 まぁ、お母さんはそんなこと全部わかった上で言っているんだろうけれど。

「私だって子供じゃないもん。そんなわがままは言いませんよー」
「ちぇー。つまんないの」
「じゃあ、私がそうやって言ったらお母さんはうちにいてくれる?」
「まぁ、そういうわけにもいかないんだけどねぇ~」

 私の指摘にお母さんはにへらっと笑った。
 お互いにわかりきった上での、取り留めのないやり取り。
 大した意味もないようなこんな軽口が、それでもお互いを大切に思っていることを確認させてくれる。

「いつも通り、このうちでお母さんが帰ってくるのを良い子にして待ってるよ。だから、お仕事頑張って」
「……うん! お母さん頑張るよ!」

 私の顔のすぐ真横にあるお母さんの顔に、一瞬だけ寂しそうな色が浮かんだ。
 でもそれは浴室の湯気のせいで朧げで、もしかしたら私の錯覚だったのかもしれない。
 お母さんはすぐに元気のいい笑顔を向けてきたから。

「多分ね、今回はそんなに長くはかからないと思うから。きっとすぐにまた会えるよ」
「ホントに? なら良かった」
「うん。だから、心配しないでね」

 そう言うと、お母さんは私のことをぎゅっと強く抱き締めてきた。
 狭い浴槽の中で身を寄せてきて、お湯がピチャピチャと跳ねる。
 お母さんの洗ったばかりの湿った髪が頰に触れて、なんともこそばゆい。

「お母さん、どうしたの?」
「なんでもなーいよー。ただね、ぎゅーってしたくなっただけ」
「えーなにそれー」

 顔は見て取れなかったけれど、声はいつも通りの快活さだった。
 お母さんがベタベタしてくるのはいつものことだけれど、でも今のこれには何だか違うものを感じてしまう。
 抱き締める腕の力が妙に強いように思えた。

「お母さんはね、いつでもどこにいたってアリスちゃんのことを想ってるよ。誰よりも、アリスちゃんの味方なんだから」
「うん、わかってる。ちゃんとわかってるつもりだよ。ていうかそれ、これから死んじゃう人の台詞みたいで不吉なんだけど……」
「あれ、もしかして死亡フラグってやつ!? お母さんピンチ!?」

 私の指摘にお母さんはニシシと笑いながら言った。
 声色だけは普通なのに、やっぱりどこか神妙な空気を感じてしまう。

「お母さんは死なないよん。アリスちゃんを一人ぼっちになんてするもんですか」
「まぁお母さんなら何があっても平気そうだよね」
「えーひっどーい。お母さんだってねぇ、か弱いレディなんだからー!」

 ぶーぶーと文句を垂れるお母さんは、私を抱く腕をぐいぐいと締め付けて圧迫してくる。
 私が苦しいとお湯の中で大げさに足をばたつかせると、お母さんはニコニコと笑って腕を緩めた。

 ぱっと見はいつもと変わらない。でもやっぱりどこか違う。
 声色も行動もいつもと同じなのに、お母さんにしてはどこか暗さを感じさせる何かが、そこにはあった。

 お母さんは何も聞いてはこないけれど、でも私が何か大きなものを抱えていることに気付いているんだ。
 だから直接口にしないまでも、こうやって私にその想いを伝えてくれている。
 心配しているんだと、想っているんだと。

 その気持ちが嬉しくもあり、同時に申し訳なくもあった。
 だから私は、少しだけ気持ちを固めた。

「ねぇ、お母さん」
「ん?」

 私を抱いている手に自分の手を重ねて、私はゆっくり口を開いた。
 お母さんはやんわりと顔をこちらに向けてきて、穏やかな瞳が私を包んだ。

「今私、すっごく大きな悩みがあって……でも、それをお母さんに上手く話す方法がわからないの。ごめんね」
「……そっか。そうなんだね。別にそんなこと謝らなくてもいいのに」
「うん。でもね、一人で抱えちゃってるんじゃなくて、ちゃんと支えてくれて、力を貸してくれる友達がいるから、私は大丈夫だよ。もう少し、お母さんには心配かけちゃうかもしれないけど、でも私、きっと大丈夫だから」

 お母さんに全てを話すことはできない。
 魔法使いとか魔女とか、異世界とかお姫様とか、そんな突拍子のない話をしてもお母さんは戸惑うだけだ。
 いや、このお母さんならもしかしたらすんなり受け入れたりするかもしれないけれど。

 でも、今そんな話をしても、本当にただ心配をかけるだけだから。
 だから具体的なことは話せない。でも、私のことを心配してくれるお母さんに、ただ気を使わせているわけにもいかないから。

 私だって、いつまでも子供じゃいられない。

「ちゃんと話せなくてごめんね。私、今のこの悩みには、ちゃんと自分の考えで向き合いたいって思ってるの。友達に頼ったり助けてもらったりもしてるけれど、自分の心でぶつからなきゃって思ってるの。だからお母さんには、私が全部スッキリさせられたら、またこうやってぎゅってして欲しいんだ」
「もちろん。嫌って言うまで、いくらでも」

 お母さんはとても柔らかく微笑んだ。
 いつもの溌剌とした笑みとは違う、とても温かい包み込むような笑顔で。

「お母さんは、アリスちゃんのお母さんだからね。アリスちゃんが答えを見つけるのを見守ってるよ。アリスちゃんが見つけた答えを尊重するよ。だってお母さんは、誰よりもアリスちゃんの味方だから。どんなアリスちゃんだって、全部全部包み込んであげる」
「……うん。ありがとう」

 後ろからふんわりと包み込まれる。
 力強い抱擁じゃなくて、柔らかくそっといだかれる。
 お湯の温かさよりも心地いいお母さんの温もりが、私の心を満たしてくれる。

 何にも話せない私を信じてくれている。
 全てを受け入れて、何も言わずに包み込んでくれている。
 それが嬉しくて堪らなくて、私は鼻をすすった。

 こうやって私を信じて見守ってくれている人がいる。
 優しく抱き締めて、何もかも受け入れてくれる人がいる。
 私のたった一人しかいない、掛け替えのないお母さん。

 お母さんにこれ以上心配をかけないためにも、もうあまり時間はかけていられない。
 記憶も力も運命も、全て取り戻して受け入れて、私は本来のあるべき姿に戻らないといけない。
 それこそが、私の周りにいる人たち全てを救うことになるはずだから。

 母の温もりに包まれながら、私は改めてそう思った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

チート薬学で成り上がり! 伯爵家から放逐されたけど優しい子爵家の養子になりました!

芽狐
ファンタジー
⭐️チート薬学3巻発売中⭐️ ブラック企業勤めの37歳の高橋 渉(わたる)は、過労で倒れ会社をクビになる。  嫌なことを忘れようと、異世界のアニメを見ていて、ふと「異世界に行きたい」と口に出したことが、始まりで女神によって死にかけている体に転生させられる! 転生先は、スキルないも魔法も使えないアレクを家族は他人のように扱い、使用人すらも見下した態度で接する伯爵家だった。 新しく生まれ変わったアレク(渉)は、この最悪な現状をどう打破して幸せになっていくのか?? 更新予定:なるべく毎日19時にアップします! アップされなければ、多忙とお考え下さい!

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

キャンピングカーで往く異世界徒然紀行

タジリユウ
ファンタジー
《第4回次世代ファンタジーカップ 面白スキル賞》 【書籍化!】 コツコツとお金を貯めて念願のキャンピングカーを手に入れた主人公。 早速キャンピングカーで初めてのキャンプをしたのだが、次の日目が覚めるとそこは異世界であった。 そしていつの間にかキャンピングカーにはナビゲーション機能、自動修復機能、燃料補給機能など様々な機能を拡張できるようになっていた。 道中で出会ったもふもふの魔物やちょっと残念なエルフを仲間に加えて、キャンピングカーで異世界をのんびりと旅したいのだが… ※旧題)チートなキャンピングカーで旅する異世界徒然紀行〜もふもふと愉快な仲間を添えて〜 ※カクヨム様でも投稿をしております

美少女だらけの姫騎士学園に、俺だけ男。~神騎士LV99から始める強くてニューゲーム~

マナシロカナタ✨ラノベ作家✨子犬を助けた
ファンタジー
異世界💞推し活💞ファンタジー、開幕! 人気ソーシャルゲーム『ゴッド・オブ・ブレイビア』。 古参プレイヤー・加賀谷裕太(かがや・ゆうた)は、学校の階段を踏み外したと思ったら、なぜか大浴場にドボンし、ゲームに出てくるツンデレ美少女アリエッタ(俺の推し)の胸を鷲掴みしていた。 ふにょんっ♪ 「ひあんっ!」 ふにょん♪ ふにょふにょん♪ 「あんっ、んっ、ひゃん! って、いつまで胸を揉んでるのよこの変態!」 「ご、ごめん!」 「このっ、男子禁制の大浴場に忍び込むだけでなく、この私のむ、む、胸を! 胸を揉むだなんて!」 「ちょっと待って、俺も何が何だか分からなくて――」 「問答無用! もはやその行い、許し難し! かくなる上は、あなたに決闘を申し込むわ!」 ビシィッ! どうやら俺はゲームの中に入り込んでしまったようで、ラッキースケベのせいでアリエッタと決闘することになってしまったのだが。 なんと俺は最高位職のLv99神騎士だったのだ! この世界で俺は最強だ。 現実世界には未練もないし、俺はこの世界で推しの子アリエッタにリアル推し活をする!

1×∞(ワンバイエイト) 経験値1でレベルアップする俺は、最速で異世界最強になりました!

マツヤマユタカ
ファンタジー
23年5月22日にアルファポリス様より、拙著が出版されました!そのため改題しました。 今後ともよろしくお願いいたします! トラックに轢かれ、気づくと異世界の自然豊かな場所に一人いた少年、カズマ・ナカミチ。彼は事情がわからないまま、仕方なくそこでサバイバル生活を開始する。だが、未経験だった釣りや狩りは妙に上手くいった。その秘密は、レベル上げに必要な経験値にあった。実はカズマは、あらゆるスキルが経験値1でレベルアップするのだ。おかげで、何をやっても簡単にこなせて――。異世界爆速成長系ファンタジー、堂々開幕! タイトルの『1×∞』は『ワンバイエイト』と読みます。 男性向けHOTランキング1位!ファンタジー1位を獲得しました!【22/7/22】 そして『第15回ファンタジー小説大賞』において、奨励賞を受賞いたしました!【22/10/31】 アルファポリス様より出版されました!現在第四巻まで発売中です! コミカライズされました!公式漫画タブから見られます!【24/8/28】 よろしくお願いいたします。 マツヤマユタカ名義でTwitterやってます。 見てください。

校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが集団お漏らしする話

赤髪命
大衆娯楽
※この作品は「校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが小さな公園のトイレをみんなで使う話」のifバージョンとして、もっと渋滞がひどくトイレ休憩云々の前に高速道路上でバスが立ち往生していた場合を描く公式2次創作です。 前作との文体、文章量の違いはありますがその分キャラクターを濃く描いていくのでお楽しみ下さい。(評判が良ければ彼女たちの日常編もいずれ連載するかもです)

記憶がないので離縁します。今更謝られても困りますからね。

せいめ
恋愛
 メイドにいじめられ、頭をぶつけた私は、前世の記憶を思い出す。前世では兄2人と取っ組み合いの喧嘩をするくらい気の強かった私が、メイドにいじめられているなんて…。どれ、やり返してやるか!まずは邸の使用人を教育しよう。その後は、顔も知らない旦那様と離婚して、平民として自由に生きていこう。  頭をぶつけて現世記憶を失ったけど、前世の記憶で逞しく生きて行く、侯爵夫人のお話。   ご都合主義です。誤字脱字お許しください。

【全話挿絵】発情✕転生 〜何あれ……誘ってるのかしら?〜

墨笑
ファンタジー
『エロ×ギャグ×バトル+雑学』をテーマにした異世界ファンタジー小説です。 主人公はごく普通(?)の『むっつりすけべ』な女の子。 異世界転生に伴って召喚士としての才能を強化されたまでは良かったのですが、なぜか発情体質まで付与されていて……? 召喚士として様々な依頼をこなしながら、無駄にドキドキムラムラハァハァしてしまう日々を描きます。 明るく、楽しく読んでいただけることを目指して書きました。

処理中です...