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第6章 誰ガ為ニ

75 嫉妬とマーキング

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 千鳥ちゃんと別れ、私たちは廃ビルを後にした。
 氷室さんは私を家まで送ると言って聞かなくて。
 申し訳ない気持ちもあったけれど、とても断れる雰囲気ではなかったから大人しく好意に甘えることにした。

「…………」

 氷室さんは私の手を強く握って放さない。
 まるで私が離れていってしまうのを恐れているように、がっしりと私を捕らえている。
 けれどそんな気持ちもどんな気持ちも相変わらず顔に出すことはなくて、口にも出さない。

 一見普段と全く変わらない氷室さんは、いつも通り淡々と肩を並べて歩いている。
 こうして隣にいる分には、千鳥ちゃんが言うような不機嫌さは感じなかった。

 無表情で無口な氷室さんの気持ちを汲み取るのは、この数日で大分上手になったつもり。
 だから千鳥ちゃんの言っていたことは、ただの杞憂だったんじゃないかと思ってしまう。
 それともあるいは、氷室さんの気持ちを読み取れるようになっていたというのは私のおごりだったのかな。

 でもどちらにしたって、私は今日のことについて改めて謝らないといけない。
 そのことには変わりがないんだから。

「ねぇ氷室さん……」

 おずおずと口を開くと、氷室さんはその静かな瞳を音のない動作で向けてきた。
 その流れるような動きに無駄はなく、まるで待ち構えていたかのようだった。
 透き通るスカイブルーの瞳に見つめられ、私は僅かに息を飲む。

「今日は色々と、ごめんね……」
「……どうして、謝るの?」

 ほんの数ミリ首を傾げる氷室さん。
 その言葉を聞いた瞬間、私は気付いてしまった。
 氷室さんは何も怒ってはいない。だって、氷室さんはそんな嫌味ったらしいことは言わないから。
 だからそれは、彼女の純粋な疑問だ。

 やっぱり千鳥ちゃんの思い過ごしで気のせいだ。
 でもそうだったとしても、私が迷惑をかけたことには変わりないから。
 だから私は言葉を続けた。

「沢山心配をかけて、迷惑もかけて振り回しちゃったから、申し訳なかったなぁって。氷室さんがいくら優しくて色々助けてくれるからって、甘え過ぎちゃったよなぁって思ってさ」
「……そんなこと、気にしなくていい」
「でも……」
「あなたといるのは私の意思、だから。心配をするのも、力を貸すのも、全部、私がしたいから。だからアリスちゃんは、そのことで気に病まなくていい、から」

 ぎゅぅっと繋いだ手を握って、氷室さんはポツリポツリと言った。
 そして少しだけ目を泳がせてから、控えめに続ける。

「それに……あなたのそれは、今にはじまったことではない、から……」
「え、えぇ!?」

 思わぬ言葉に私は変な声を出してしまった。
 まさか氷室さんの口から、そんな言葉がでてくるなんて。

 皮肉のようで、嗜めるようで、呆れるようで。
 けれど全部含んだ上でそれを受け入れてくれている、そんな言葉だ。
 そういう私を想ってくれているという、そんな気持ちがそこにはあった。

 謝っていたはずなのに、私は笑みを浮かべすにはいられなかった。
 そんな私を見て、氷室さんも控えめに口元を緩めた。
 二人でニタニタしながら歩いていたら、なんの話をしていたのか有耶無耶になってしまった。

「……アリス、ちゃん…………」

 そうやってしばらく歩いていた時、氷室さんがつっかえながら口を開いた。
 顔を向けてみれば、氷室さんは少し顔を下に向けて前髪で目元を隠してしまった。

 何を恥ずかしがっているのか、ほんのり僅かに頬がピンクがかっている氷室さん。
 繋いだ手とは別に、もう片方の手がそっと控えめに私の腕に添えられた。

「…………」

 無言で、氷室さんは一歩身を寄せてきた。
 私の腕を抱くようしながら、その華奢な体がきゅっと寄せられる。
 それでも氷室さんは顔を上げず、未だ目元を私から隠している。

 その行動に疑問を覚えつつ、私は特に言葉をかけなかった。
 氷室さんなりに何か思うところがありそうだし、急かすのは可哀想だから。

 そう思ってしばらく待っていた時、そういえばさっきもこんなことがあったなぁと思い出した。
 千鳥ちゃんと話している私の手を引いて、しがみついてきた。
 あの時も特に何を言うわけでもなく、ただただ身を寄せてくるだけだったなぁ。

 ただ、あの時の無言の圧力は普段にはないものだった。
 手を引いて身を寄せてきていただけなのに、その目は私に何かを訴え掛けていたし。
 それに比べると、今はただくっついてくるだけでとても穏やかだ。

 さっきと今に、何か違いがあるのかな。
 強いて挙げるなら、みんながいるか二人きりの違いだけれど……。

 そこまで考えて、私はもしやと思ったことを口に出してみた。

「氷室さんさ、もしかして……ちょっと嫉妬してたり、する?」
「……………………………………」

 沈黙が長い。我ながらどストレートに聞き過ぎた。
 だって氷室さんが嫉妬とかイメージできなくて、ほんの思いつきの冗談のつもりだったから……。
 でもこの沼の底に沈み込むような沈黙は、決して否定ではない。

 だって氷室さんが俯いてしまった。
 前髪で目元を隠すという可愛らしい照れ隠しから、完全に顔を伏せてしまった。
 でも手の力はどんどん強くなっていて、蛸のように私の腕を締め上げてくる。

 図星をつかれた恥ずかしさの行き場を、私に縋りつく行為に向けている。
 氷室さんに抱かれて、もはや一体化してしまったんじゃないかと思うほどに、私の腕は氷室さんに取り込まれていた。
 私の肩に頭を預けて俯くものだから、その顔は完全に窺えない。

「あー……えーっと」

 冗談まじりだったとはいえ、核心をついてしまったわけで。
 私はどうフォローしたものかと頬をかいた。
 この場合、本人である私からのフォローはあんまり適切ではないと思うけれども。
 だからといって、このまま何も言わないというわけにもいかないし……。

「今日は、あなたとあまりいられなかった、から……」

 どうしたものかと私が悩んでいると、氷室さんがポツリと言った。
 掠れるような酷く小さな声で、俯いたまま。

「今日の私は、あなたを守れなかった。全て、他人に任せてしまった。肝心な時、側にいられなかった。だから……」
「氷室さん……」

 私を想ってくれているからこそ、大切に思ってくれているからこそ、氷室さんは自分の手で私を守りたかったんだ。
 私が困った時、大変な時、一番に寄り添いたいと思ってくれているんだ。
 けれど今日は、彼女からしてみれば何もできなかったから。

 だから、今回の窮地を一緒に切り抜けて、助け助けられた私と千鳥ちゃんを見て妬いてしまったのかもしれない。
 その上二人で話し込んだりしていたから、一層思うところがあったのかもしれない。
 自分が守りたかったって、自分の方が一緒にいたいって、そう思ってくれていたんだ。

 けれどそういう言い方をしつつ、こうやってくっついてくるということは。
 私を守りたいとか側にいたいとか、それはもちろん本音だろうけれど、でも実の所は建前で。
 つまる話、私が他の子とばっかり仲良くしたり、頼りにしたりしているのが、嫌だったってことなんだ。

 でもそれが自分の勝手だとわかっているから口には出せなくて。
 そもそもそんなことを口に出すような子でもないし。
 だから、こうやって私くっつくことでしか、その感情を吐き出せなかったんだ。
 それもきっと、氷室さんにとってはそれなりに勇気が必要だったんだろう。

 なんていじらしいんだろう。可愛いなぁこの子は。
 その健気さというか不器用さに、私は思わずにやけてしまった。

「…………」

 氷室さんはまた黙ってしまって、私の腕を抱きしめながら顔を埋めている。
 そんな氷室さんがなんだか無性に愛おしく思えてしまって、私は空いた手でその艶やかな黒髪の頭をすっと撫でた。

 ピクリと身を震わせたのがまた可愛らしい。
 そんな氷室さんにあてられてしまった私は、思わずその頭を引き寄せてしまった。

 そこからは特に何を考えたわけでもなく、ただ思うがままに体が勝手に動いた。
 引き寄せたことで眼前に来た真っ黒な頭と、その下でドギマギしている氷室さんがなんとも愛らしくて。
 この気持ちを吐き出すために、私はその絹のような黒髪の頭にちょこんとキスをしてしまった。

 おでこのほんの少し上。前髪の生え際あたり。
 まるで恋人に愛を示すかのように、私は唇を押し当ててしまった。
 そこに深い意味はなくて、ただただこの愛でる気持ちを発散させただけだけれど。
 でもそれは、ある種のマーキングのような気がした。

 ただ頭に、髪に唇を触れさせただけ。
 ただそれだけ。そんなことわかっているのに。

 唇を離した瞬間私は我に返って、一瞬で全身が熱くなったのを感じた。
 身体中のいたるところから熱い汗が吹き出して、シャワーを浴びたようにびちゃにちゃになった。
 でも、私の手を握る氷室さんの方が何倍も熱かった。

「…………」
「…………」

 それからうちまでどう帰ったのか、さっぱり覚えていたない私なのでした。
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