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第6章 誰ガ為ニ
73 大先輩
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「おや、こんな所にいたのか」
ひとしきり透子ちゃんの手を握って、そろそろ帰ろうとした時だった。
静かな部屋の中で不意にそんな声が響いた。
気を抜いていた私がビクッと飛び跳ねながら声のした方に顔を向けると、夜子さんがニヤニヤしながら入口の扉に寄りかかっていた。
「もう遅いんだから早く帰りなさい。華の女子高生がこんな時間まで怪しいビルにいるもんじゃない。それに、お母さんが心配するよ?」
「は、はい」
夜子さんの口調は柔らかく、とても大人びていた。
普段から余裕に満ち溢れていて毅然としている夜子さんではあるけれど。
今の夜子さんはなんというか、普通の大人のお姉さんみたいな感じだった。
オーバーサイズでダボダボなズボンのポケットに両手を突っ込んで、のっそりとした足取りでこちらにやってくる夜子さん。
ニヤニヤというかニコニコというか。緩い笑みを浮かべたまま私を見て、そして透子ちゃんに視線を落とした。
「君はとても優しく、とても強い女の子だ。だから私は、君ならばきちんと分別をわきまえて取捨選択ができると信じているよ」
「夜子さん……?」
私と並び立ってベッドの上の透子ちゃんを見下ろしながら、夜子さんはそっと言った。
私が乱したベッドのシワをすぅーとなぞって整えながら。
「人の人生というものは簡単にひっくり返ってしまう。良いことも悪いこともね。まだ子供の君にはわからないかもしれないけれど、人というものは案外簡単に覆ってしまうもなのさ」
夜子さんにしては妙には落ち着いた声色。
純白の乱れは、滑らかな動作で整えられていく。
「生き死にも善悪も、まるではじめからそうであったかのようにあっさりと入れ替わってしまう。価値観も優劣も、優先順位もね。人間の重みというのは、実の所あるようでないものなのさ」
「人間の、重み……」
それはもちろん、物理的な話ではないんだろう。
存在の重みというか、人が何に価値を感じて何に重きを置くのか。そういった意味に聞こえた。
「私は君の友達だけれど、人生の大先輩だ。今の君には想像できないほどの時を生きてきた。今思えば、全てがあっという間だったけれどね。でもだからこそ、私には君には見えていないものが視えている」
「…………」
「君は今、自分自身の真実に向き合うことに必死だ。自分自身の運命に向き合うことで精一杯だ。もちろん、それはいけないことじゃない。むしろ自分自身にきちんと向き合えるのはとっても偉いことだ。私はそういうことが苦手だから尊敬しているよ」
顔を上げ、夜子さんはパチリとウィンクした。
普段は軽薄なニヤニヤ顔ばかりで、少し童顔気味な顔も相まって呑気にしか見えない夜子さん。
でもその仕草は妙に大人っぽくて少しドキリとした。
「けれど、間違えてはいけない。自分自身の真実も運命も、それは君の永い永い人生の中で、いくつもあるターニングポイントの内のたった一つでしかないのさ。だから本来、君が目を向けるべきは君自身の人生なのさ」
「…………は、はい」
頷いてはみたけれど、その考えを私の中で消化するには時間がかかりそうだった。
言っている意味はなんとなくわかるし、それがきっと正しいんだろうなという気もする。
ただ今の私は目の前のことに精一杯で、それを咀嚼して自分のものにする余裕がないから。
そんな戸惑いが顔に出ていたのか、夜子さんはふふっと緩やかに笑った。
「別に急ぐ必要はないよ。そんなものなんだと、頭の片隅に置いておいてくれれば良い。何かを思い悩んだ時、そんなことを言っていたお姉さんがいたと、なんとなーく思い出してくれたら良いのさ」
「わかり、ました」
特に深く気にしたそぶりを見せず、何事もないように言う夜子さん。
ぴっちりとベッドを整えると、真っ直ぐに私の方に向き合ってきた。
その目は穏やかで、いつものニヤニヤ顔は少しばかり抑えられている。
「まぁだから、あまり深く考えすぎないことだ。どんなに決意を固め、想いを込めたことでも揺れ動いてしまうのが人間だ。特に君のように可能性に溢れた若者は、早いうちから自分自身を決めつけてはいけない。考えるのは大切なことだけれど、考え込むのはあまりオススメできない。人生にとって必要な答えというのは、案外その場の直感が教えてくれたりするものなのさ」
夜子さんは具体的なことは言わない。
でもその言葉は、これからの道筋を迷う私に向けられているものだとわかった。
記憶を取り戻し、真実を目にして私はどうするべきなのか。どうしたいのか。
今の私は、例え何があったとしても今を貫いていきたいと思っているけれど。
でも本当にそれが私にとっての最善かはわからない。
もしかしたら、もっと良い何かがあるかもしれない。
全てを思い出したことで、やっぱり心変わりしてしまうかもしれない。
今を守りたい気持ちは確かなもので、私にとってとても大きいものだけれど。
だからといって何も知らない今の私が、一つの方法に今から固執するのは良くないかもしれない。
今を大切にする気持ちを保ちつつ、もっと柔軟に受け入れていく姿勢が、私には必要なのかもしれない。
「移ろうのが正しいと言っているわけじゃない。芯が通っていることは良いことだ。けれど自分自身に囚われないことだ。君という女の子の可能性は無限大だ。進むべき道も守るべきものも寄り添うべきものも、視野が狭くならないようにしなさい」
夜子さんの言っていることは難しい。
その意味はなんとなくわかるけれど、でも今の私には全てを理解するのは難しかった。
それはまだ私が子供で、まだまだ未熟だからなのかな。
だから私は、ただ夜子さんのことを見つめることしかできなくて。
そんな私を見て、夜子さんは可笑しそうに微笑んだ。
「アリスちゃんから見たら、なんて適当だと思うだろうね。そんなふらふらした考えでいいのかって。でも人生なんてそのくらいふわっとしているもので、凝り固まった考えというのは案外、いざという時に役に立たない。人というのは、存外スカスカな生き物さ」
「考えるよりも、思うままに生きた方がいい。その場の気持ちを大切にした方がいい。そういうことでしょうか……?」
「うん、まぁそんな感じかな。いい感じに、綺麗な感じに言うとそういうことだ。うら若き君には、そういう解釈の方が合っているかもね」
ふふっと笑うと、夜子さんは透子ちゃんに視線を落とした。
「人の命っていうは軽いんだよ。吹けば飛んでしまうくらいにね。だからその命に重みをつけるために、人は必死で生きるんだ。でもそれのせいで先が見えなくなってしまっては元も子もない。本当に大切なものを見失っては意味がない。私はね、そう思ったりするわけさ」
「………………」
それはまるで自分に言い聞かせているような言葉だった。
過去の自分に言っているような。はたまた、過去の誰かに言っているような。
どこか寂しさを覚える、そんな表情をしていた。
私はなんて返したらいいのかわからず、少しだけ静かな沈黙が流れた。
夜子さんは別に私からの返答を待っているわけではないようで、少しするとまたニッコリと私に微笑んできた。
「まぁ、お姉さんの戯言だと思って聞き流してくれていいよ。私の自己満足の独り言のようなものだ。だけどまぁ、人生の大先輩として、少しでも君の助けになればこれ幸いさ」
そう言うと夜子さんはくるりと背を向けた。
その女性らしい小柄な背中には、私よりも多くの時を刻んだ大人の重みが感じられた。
でもそれと同時に、言いようのない寂しさを思わせた。
その数多の時間の中に、夜子さんは何を置いてきてしまったんだろう。
ふと、さっきのカノンさんたちとの話を思い出した。
夜子さんを狙っているのはアゲハさんだけではなく、そのバックには魔女狩りが、魔法使いがいるかもしれない。
それを夜子さんに伝えるべきじゃないかと思った。
でも、それはきっと無駄だ。
もし私がそれを伝えたとしても、夜子さんはさっきと同じような反応しかしない。
全く気にせずふんわりと笑うだけだ。
もし、それが夜子さんにとって深刻なことだったとしても。
きっと夜子さんは私に心配されることを良しとはしない。
だからこの話もこの気持ちも、今は胸にしまっておくことにしよう。
万が一夜子さんがピンチになるようなことがあれば、全力で駆けつければいい。
夜子さんがそんなことになる状況なんて、とても想像できないけれど。
「────あぁ、そうだ」
一人先に部屋を出て行こうとした夜子さんは、扉のところで不意に立ち止まった。
のっそり振り返って、でもそっぽを向きながらポツリと言葉を続ける。
「千鳥ちゃんのこと、よろしく頼むよ」
別にどうでもいいと言う風にポンとそれだけ言うと、夜子さんは私の返答を待たずにささっと踵を返して出て行ってしまった。
ひとしきり透子ちゃんの手を握って、そろそろ帰ろうとした時だった。
静かな部屋の中で不意にそんな声が響いた。
気を抜いていた私がビクッと飛び跳ねながら声のした方に顔を向けると、夜子さんがニヤニヤしながら入口の扉に寄りかかっていた。
「もう遅いんだから早く帰りなさい。華の女子高生がこんな時間まで怪しいビルにいるもんじゃない。それに、お母さんが心配するよ?」
「は、はい」
夜子さんの口調は柔らかく、とても大人びていた。
普段から余裕に満ち溢れていて毅然としている夜子さんではあるけれど。
今の夜子さんはなんというか、普通の大人のお姉さんみたいな感じだった。
オーバーサイズでダボダボなズボンのポケットに両手を突っ込んで、のっそりとした足取りでこちらにやってくる夜子さん。
ニヤニヤというかニコニコというか。緩い笑みを浮かべたまま私を見て、そして透子ちゃんに視線を落とした。
「君はとても優しく、とても強い女の子だ。だから私は、君ならばきちんと分別をわきまえて取捨選択ができると信じているよ」
「夜子さん……?」
私と並び立ってベッドの上の透子ちゃんを見下ろしながら、夜子さんはそっと言った。
私が乱したベッドのシワをすぅーとなぞって整えながら。
「人の人生というものは簡単にひっくり返ってしまう。良いことも悪いこともね。まだ子供の君にはわからないかもしれないけれど、人というものは案外簡単に覆ってしまうもなのさ」
夜子さんにしては妙には落ち着いた声色。
純白の乱れは、滑らかな動作で整えられていく。
「生き死にも善悪も、まるではじめからそうであったかのようにあっさりと入れ替わってしまう。価値観も優劣も、優先順位もね。人間の重みというのは、実の所あるようでないものなのさ」
「人間の、重み……」
それはもちろん、物理的な話ではないんだろう。
存在の重みというか、人が何に価値を感じて何に重きを置くのか。そういった意味に聞こえた。
「私は君の友達だけれど、人生の大先輩だ。今の君には想像できないほどの時を生きてきた。今思えば、全てがあっという間だったけれどね。でもだからこそ、私には君には見えていないものが視えている」
「…………」
「君は今、自分自身の真実に向き合うことに必死だ。自分自身の運命に向き合うことで精一杯だ。もちろん、それはいけないことじゃない。むしろ自分自身にきちんと向き合えるのはとっても偉いことだ。私はそういうことが苦手だから尊敬しているよ」
顔を上げ、夜子さんはパチリとウィンクした。
普段は軽薄なニヤニヤ顔ばかりで、少し童顔気味な顔も相まって呑気にしか見えない夜子さん。
でもその仕草は妙に大人っぽくて少しドキリとした。
「けれど、間違えてはいけない。自分自身の真実も運命も、それは君の永い永い人生の中で、いくつもあるターニングポイントの内のたった一つでしかないのさ。だから本来、君が目を向けるべきは君自身の人生なのさ」
「…………は、はい」
頷いてはみたけれど、その考えを私の中で消化するには時間がかかりそうだった。
言っている意味はなんとなくわかるし、それがきっと正しいんだろうなという気もする。
ただ今の私は目の前のことに精一杯で、それを咀嚼して自分のものにする余裕がないから。
そんな戸惑いが顔に出ていたのか、夜子さんはふふっと緩やかに笑った。
「別に急ぐ必要はないよ。そんなものなんだと、頭の片隅に置いておいてくれれば良い。何かを思い悩んだ時、そんなことを言っていたお姉さんがいたと、なんとなーく思い出してくれたら良いのさ」
「わかり、ました」
特に深く気にしたそぶりを見せず、何事もないように言う夜子さん。
ぴっちりとベッドを整えると、真っ直ぐに私の方に向き合ってきた。
その目は穏やかで、いつものニヤニヤ顔は少しばかり抑えられている。
「まぁだから、あまり深く考えすぎないことだ。どんなに決意を固め、想いを込めたことでも揺れ動いてしまうのが人間だ。特に君のように可能性に溢れた若者は、早いうちから自分自身を決めつけてはいけない。考えるのは大切なことだけれど、考え込むのはあまりオススメできない。人生にとって必要な答えというのは、案外その場の直感が教えてくれたりするものなのさ」
夜子さんは具体的なことは言わない。
でもその言葉は、これからの道筋を迷う私に向けられているものだとわかった。
記憶を取り戻し、真実を目にして私はどうするべきなのか。どうしたいのか。
今の私は、例え何があったとしても今を貫いていきたいと思っているけれど。
でも本当にそれが私にとっての最善かはわからない。
もしかしたら、もっと良い何かがあるかもしれない。
全てを思い出したことで、やっぱり心変わりしてしまうかもしれない。
今を守りたい気持ちは確かなもので、私にとってとても大きいものだけれど。
だからといって何も知らない今の私が、一つの方法に今から固執するのは良くないかもしれない。
今を大切にする気持ちを保ちつつ、もっと柔軟に受け入れていく姿勢が、私には必要なのかもしれない。
「移ろうのが正しいと言っているわけじゃない。芯が通っていることは良いことだ。けれど自分自身に囚われないことだ。君という女の子の可能性は無限大だ。進むべき道も守るべきものも寄り添うべきものも、視野が狭くならないようにしなさい」
夜子さんの言っていることは難しい。
その意味はなんとなくわかるけれど、でも今の私には全てを理解するのは難しかった。
それはまだ私が子供で、まだまだ未熟だからなのかな。
だから私は、ただ夜子さんのことを見つめることしかできなくて。
そんな私を見て、夜子さんは可笑しそうに微笑んだ。
「アリスちゃんから見たら、なんて適当だと思うだろうね。そんなふらふらした考えでいいのかって。でも人生なんてそのくらいふわっとしているもので、凝り固まった考えというのは案外、いざという時に役に立たない。人というのは、存外スカスカな生き物さ」
「考えるよりも、思うままに生きた方がいい。その場の気持ちを大切にした方がいい。そういうことでしょうか……?」
「うん、まぁそんな感じかな。いい感じに、綺麗な感じに言うとそういうことだ。うら若き君には、そういう解釈の方が合っているかもね」
ふふっと笑うと、夜子さんは透子ちゃんに視線を落とした。
「人の命っていうは軽いんだよ。吹けば飛んでしまうくらいにね。だからその命に重みをつけるために、人は必死で生きるんだ。でもそれのせいで先が見えなくなってしまっては元も子もない。本当に大切なものを見失っては意味がない。私はね、そう思ったりするわけさ」
「………………」
それはまるで自分に言い聞かせているような言葉だった。
過去の自分に言っているような。はたまた、過去の誰かに言っているような。
どこか寂しさを覚える、そんな表情をしていた。
私はなんて返したらいいのかわからず、少しだけ静かな沈黙が流れた。
夜子さんは別に私からの返答を待っているわけではないようで、少しするとまたニッコリと私に微笑んできた。
「まぁ、お姉さんの戯言だと思って聞き流してくれていいよ。私の自己満足の独り言のようなものだ。だけどまぁ、人生の大先輩として、少しでも君の助けになればこれ幸いさ」
そう言うと夜子さんはくるりと背を向けた。
その女性らしい小柄な背中には、私よりも多くの時を刻んだ大人の重みが感じられた。
でもそれと同時に、言いようのない寂しさを思わせた。
その数多の時間の中に、夜子さんは何を置いてきてしまったんだろう。
ふと、さっきのカノンさんたちとの話を思い出した。
夜子さんを狙っているのはアゲハさんだけではなく、そのバックには魔女狩りが、魔法使いがいるかもしれない。
それを夜子さんに伝えるべきじゃないかと思った。
でも、それはきっと無駄だ。
もし私がそれを伝えたとしても、夜子さんはさっきと同じような反応しかしない。
全く気にせずふんわりと笑うだけだ。
もし、それが夜子さんにとって深刻なことだったとしても。
きっと夜子さんは私に心配されることを良しとはしない。
だからこの話もこの気持ちも、今は胸にしまっておくことにしよう。
万が一夜子さんがピンチになるようなことがあれば、全力で駆けつければいい。
夜子さんがそんなことになる状況なんて、とても想像できないけれど。
「────あぁ、そうだ」
一人先に部屋を出て行こうとした夜子さんは、扉のところで不意に立ち止まった。
のっそり振り返って、でもそっぽを向きながらポツリと言葉を続ける。
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