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第6章 誰ガ為ニ

50 導くのは

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「アリスちゃんから、離れて……!」

 淡々とした声色の中に、隠しきれない焦燥を滲ませた声が、私からレイくんを引き剥がした。
 少し冷たいその手が代わりに私の身体を支えて、すぐに強く引き寄せて私を立たせた。

 私はされるがままに地に足をつけて、ガシッと抱きしめてきたその顔を見た。
 声を聞いた時点でそれが誰かなんてことはわかっていた。
 私がその声を今更聞き間違えるはずがない。
 その澄み渡る静かな声が聞こえたその瞬間から、私は安心しきってしまったんだから。

「氷室さん……」
「遅くなって、ごめんなさい」

 ここまで走ってきたのか若干息の切れた氷室さんが、レイくんから庇うように私を抱き締めながら呟くように言った。
 その声はいつも通りの静かで平坦なもの。その落ち着いた声を聞くと、とても心が安らぐ。
 今の今までレイくんに迫られて暴れまわっていた心臓が、みるみるうちに穏やかになっていく。

「ううん、大丈夫だよ。来てくれて、嬉しい」

 氷室さんの腕の中に埋もれるように顔を押し付けると、艶やかなショートヘアから柔らかく華やかな香りがした。
 少しスッとする、涼やかで落ち着いた氷室さんの香り。
 この香りに包まれて、この細腕に包まれると、びっくりするくらい気持ちが落ち着いていく。

「やれやれ、お迎えが来てしまったか。残念だけれど、お預けだね」

 お互いを確かめ合うように抱き合う私たちを見て、レイくんはのっそり立ち上がりながら溜息をついた。
 けれどその表情は言うほど残念そうではなく、まるでこうなることを予期していたかのように落ち着いていた。

「アリスちゃんにも思うところはあるだろうけれど、今日の所はお互いに我慢するってことにしようよ。大丈夫、明日また会いに来るよ」
「明日……?」
「あぁ。だから明日までは、僕の言ったことを考えておいてくれないかな。それはきっと、アリスちゃんのためになるからさ」
「で、でも……!」

 レイくんの言っていることがわからないわけじゃない。
 でも、それとこれとを繋げることが、私にはできなかった。
 氷室さんに抱かれながら噛み付く私に、レイくんは落ち着いた調子でウィンクをしてきた。

「お願いだよ、アリスちゃん。友達としての僕のお願い、聞いてくれないかな?」
「そんなこと、言われても……」

 お願い、と改まって仰々しく言われると、少し竦んでしまう自分がいた。
 レイくんにとって、自分の手で私の封印を解くことはそれほどまでに重要なことなのかな。
 私の要求を徹底的に拒んでまで、そうすることに何か意味があるんだろうか。

「アリスちゃん、あなたがどうしてもと言うのなら、私は今ここで戦う」
「ちょ、ちょっと待って氷室さん! そこまでしなくていいよ。それに、レイくんはさっき私を助け出してくれたし……」
「……そう」

 レイくんに対して強い敵意を向けた氷室さんだけれど、私が慌てて止めると、不安げにしながらも身を引いた。
 それでもレイくんを私に近づけまいと庇いながら、静かに睨んでいる。
 そんな氷室さんをレイくんは冷めた目で見つめて、鼻を鳴らした。

「さながらお姫様を守るナイトってところかい? まぁいいさ、今は君に預けておくよ。最終的にアリスちゃんを抱きとめるのは僕だからね」
「…………」

 冷ややかな言葉に、氷室さんは何も返さなかった。
 ただそのスカイブルーの瞳を、凍てつくような冷たさで向けるだけ。
 ただ、少しだけ私を抱き締める腕に力が入った。

「────じゃあこうしようアリスちゃん。僕の誘いに乗らずにその子を選んだ君への、意地悪だと思ってくれていい。当てつけに、アリスちゃんが嫌がることをしているんだってね」
「レイくん……」
「だから、今は君に鍵を返さない。でも、僕としてももうあまり時間をかけるつもりはない。だから明日さ。明日また、迎えに上がろう。その時こそ、全てを受け入れる時で、君が僕のものになる時さ」

 レイくんはもう一度パチリとウィンクをすると、ぴょんと飛び跳ねて街灯の上に乗っかった。
 灯りの影であることと、真っ黒な服装であることからあまり目立ってはいないけれど、誰かに見咎められてもおかしくない。
 けれどレイくんはそんなことなど気にした様子も見せず、ニッコリと微笑んだ。

「楽しみだね、君が全てを取り戻すのは。過去の記憶を取り戻せば、きっと君は自分にとって本当に大切なものを思い出すだろう。そうすれば後は簡単だ。僕が共にその深奥の扉を開き、僕らは新たなる世界で新たなる生を共に歩んでいくんだ」
「…………!」

 レイくんの言葉は朗らかなのに、私は身震いしてしまった。
 何も恐れることなんてないはずなのに、なんだかとても不安が駆け巡ったから。

「大丈夫だよ。今は怖いかもしれないけれど、ただ元に戻るだけなんだから。その先だって、恐れるに足りないさ。僕がついてる。僕が、君の行く先を照らしてあげるよ。だって、君を導くのはいつだって僕の役割なんだからね」

 緩くはためく黒髪を掻き上げて、レイくんは優雅に微笑んだ。
 余裕に満ち溢れた、確信を抱いている満ち足りた表情だ。
 自分の思い通りにならないなんてことは、想像すらしていないような顔。

「────向こうもどうやら、ひとまず落ち着いたようだし、僕は行くことにするよ。それじゃあおやすみ、アリスちゃん。いい夢を」

 一瞬遠くに目を向けて、僅かに顔をしかめたレイくん。
 けれど私に向き直ると微笑みを浮かべて、そう言うと大きく飛び跳ねた。
 レイくんはそのまま夜の闇に紛れてしまって、その姿を追うことができなくなってしまった。

 私たちはしばらく闇の中を見渡した。
 けれどいくら目を凝らしても、レイくんの姿を見つけることなんてできなかった。
 また一方的に言いたいことだけ言って去ってしまったレイくん。
 結局私は、レイくんから鍵を取り返すことができなかった。

「……アリスちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。大丈夫だけど……」

 呆然とする私に、氷室さんがおっかなびっくり尋ねてきた。
 いつものポーカーフェイスはほんの少しだけ心配に揺れていて、そっと私の顔を覗き込んでくる。
 私はなんとか笑顔を作ろうとして、でもどこかぎこちないのを自覚した。
 だからそれを誤魔化すように、氷室さんを強く抱きしめた。

「今はちょっとだけ、こうさせて」

 どんどんと増える不安。悩みや混乱は増していくばかりで、気を抜くと震えそうになる。
 でも、そんなことを言っている場合じゃないから。
 こうして氷室さんにくっついていると、乱れた心がじんわりと解れていく。
 だからちょっとだけ、甘えさせてもらうことにした。

「……わかった」

 氷室さんは静かに頷いて、私の頭を撫でてくれた。
 レイくんに撫でられた時と違って、じんわりと心に染みる。
 それだけの行為で、私の心は温かいものに満たされていく。

 私は氷室さんのことが大好きなんだなって、改めてそんなことを思った。
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