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第6章 誰ガ為ニ

39 裏切り者

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、君が裏切り者だったか、アゲハ」
「レ、レイっ……!」

 つい今しがたまで余裕に満ち溢れていたアゲハさんの表情が急激に強張った。
 私の目の前に立つレイくんの白黒の姿をまじまじと見て、血色のいい肌から血の気が引いていく。

 アゲハさんのその姿を見て少し満足したのか、レイくんはニカっと笑いながら私の方に振り返った。
 雪のように白い髪をサラサラとなびかせているせいか、その端正な顔立ちがいつもよりも輝いて見える。

「やぁアリスちゃん。無事で何よりだよ」
「レイくん……どうして、ここに……?」
「そりゃアリスちゃんのピンチだからね。それに身内の問題だ。流石に出張らないわけにはいかないよ」

 いつもとは違う見た目。けれど、爽やかな笑みを浮かべるその姿は、紛れもなく私の知るレイくんだった。
 人のものとは思えない禍々しい気配を感じる。純白の髪と兎の長耳は、穢れがなさすぎて逆におぞましいと思えるほど。
 この感覚はアゲハさんの蝶の羽と同じだ。兎の耳を生やしているこの姿こそ、レイくんが転臨の力を解放したものなんだ。

 私に朗らかに微笑みかけたレイくんは、再びアゲハさんに視線を戻した。
 背中越しではその表情を窺い知ることはできないけれど、感じるのは強い敵意と怒りだった。

 颯爽と私を助けに現れたレイくん。
 その背中はとても頼もしく、そして力強く映った。
 今までレイくんに感じていた疑心や不安が解消されるわけではないけれど。
 それでも、今はとても頼もしく、そして心強く思えてしまった。

「さてアゲハ、お仕置きの時間だ。僕を欺き、ワルプルギスを欺き、君がやったことは僕らに対する明確な裏切り行為だ。流石の僕も、笑って許してあげることはできないよ」
「っ……! だったらなんだっていうのよ! 私を殺す!?」
「裏切り者には死を、か。確かにそれはシンプルでわかりやすい。でもさ、僕はそこまで優しくないよ。特に今回は、アリスちゃんに手を出されたからね」

 顔を引きつらせながらも、強がって声を張り上げるアゲハさん。
 焦燥の色は隠しきれておらず、早口で捲したてる。
 対するレイくんは、口調こそ普段通りの穏やかなものだけれど、その内側には明確な怒りが込められていることがわかる。
 ふつふつと煮えたぎる抑えようのない怒りが、レイくんから発せられるおぞましい気配に乗って周囲に振りまかれている。

「アリスのことになると、ホントムキになんのね。それじゃ何? どうしようっての?」
「君には色々と聞かないといけないことがあるからね。取り敢えず死なない程度に痛めつけて拘束でもしようかな」
「できるもんならやってみなよ。私だってね、それなりに覚悟決めてんだからさ!」

 アゲハさんが声を張り上げて身構えた。
 それが強がりであることは明らかだった。
 自分の裏切り行為を見咎められたアゲハさんは明らかに焦っている。
 アゲハさんがいくら強くても、同じく転臨に至っているレイくんには簡単に勝てないと、きっとわかっているんだ。

 対するレイくんは、余裕そうな佇まいで静かにアゲハさんを見返している。
 そこにはアゲハさんのような焦りは一切なく、二人の間にある実力差を思わせた。

 いつも飄々としていて、私に対して人当たりのいい笑みを浮かべていることの多いレイくん。
 そんなレイくんの実力というのを、私は知らなかった。
 けれど顔を強張らせてつぅーっと冷や汗を流すアゲハさんを見れば、二人の間に明確な差があることは窺えた。

「安心しなよ。君の相手をするのは僕じゃない。生憎僕は忙しいからね」
「はぁ!? 何寝ぼけたこと言ってんの!? じゃあ、一体誰が私のこととっ捕まえんのよ!」
「僭越ながら、わたくしがお相手させて頂きましょう」

 唐突に、アゲハさんの背後からぬめっとした静かな声が響いた。
 背後からの声にアゲハさんはびくりと肩を震わせたけれど、正面を向いている私も声が聞こえるまでその姿を見つけられずに驚いた。
 薄暗い闇の中からクロアさんがすぅーっと静かに現れた。

 黒い日傘を差しながら、悠然とした足取りでアゲハさんへと迫る。
 暗闇に浮かぶ青白い顔だけが目立って、後は闇夜に溶けているように黒々しい。
 その姿はまるでホラー映画のお化けのような、血を凍らせるような薄気味悪さがあった。

「ク、クロア……! アンタまで」

 ぎりっと歯軋りするアゲハさんに、クロアさんは冷たい視線を向けた。
 私に対してはいつも柔和な笑みを浮かべている彼女からは、とても想像のできない凍りついた顔。
 けれどその顔を私に向けると、すぐにいつも通りの温かな笑みを浮かべた。
 そこには、さっきホテルの前で見せた黒々とした感情は見えなかった。

「姫様、先程はお見苦しい所をお見せしてしまい申し訳ございませんでした。言い訳のしようもございません。せめてもの償いと言ってはなんですが……」

 恥ずかしそうに頬を染めてから、クロアさんは日傘を両手で持って高く上に掲げた。
 すると周囲で倒れている千鳥ちゃん、カノンさん、カルマちゃんの体がふわりと浮かんで、クロアさんの背後に呼び寄せられた。

 そして日傘から三人に向かって淡い光が降り注いだ。
 それは治癒の魔法のようで、苦痛に歪んでいたみんなの表情がどんどん和らいでいくのが見て取れた。
 みんな突然の状況に戸惑いつつ、体が自由に動かないからか大人しくそれを受け入れていた。

「ご友人の身の安全、そして怪我の治療は責任を持ってお引き受けいたします」
「クロアさん……でも、私……!」

 私はさっき、クロアさんのことが信じられず、その気持ちに恐怖を感じて手元を離れてしまった。
 アゲハさんの言葉を真に受けて、クロアさんこそが裏切り者で、私によくないことをしようとしているんだと思って。
 私が感じたものそのものは間違っていなかったとは思うけれど、クロアさんなりに想ってくれている気持ちを信用しなかったのは事実だ。
 だっていうのに……。

「良いのです。姫様に恐ろしい思いをさせてしまったことは事実。わたくしの不徳の致す所でございます。姫様は何もお気になさる必要などないのですよ」

 柔らかく、そして温かく微笑むクロアさん。
 そこにあるのは明確な愛。私のことを純粋に想う気持ちだった。
 クロアさんの場合それが拗れて私の意思に反することもあるけれど、私のことを想ってくれているということだけは事実だ。

「さてアゲハさん。あなたにはわたくしの姫様を恐怖に陥れた報いを受けて頂きましょう。わたくしが、その罪の重さを身体に刻み込んで差し上げます」
「っ……! どいつもこいつもアリスアリスアリス! うるさいったらありゃしない! 私はね、アンタらみたいにアリス第一なんかじゃないのよ!」

 私からアゲハさんへと視線を戻すと、クロアさんの表情は再び冷たいものへと戻った。
 その声色も冷ややかで、とても同一人物とは思えない。
 その変わりようを目の当たりにしたからか、アゲハさんはややヒステリック気味な声を上げた。
 けれどそれは、彼女の根本的な叫びのようにも聞こえた。

「いいじゃない、やってやるわよ! かかってきなさいよ! 私の邪魔をする奴は、誰だって容赦なんかしないんだから!!!」

 蝶の羽をピンの広げ、クロアさんに向けて悲鳴のような声を張り上げるアゲハさん。
 おぞましい魔力が彼女の怒りと共に充満した。

「さて、それじゃあ僕たちは行こうか」
「え?」

 そんな光景を尻目に、レイくんな呑気な声で言った。
 私が反応する隙を与えずにスッと素早く近寄ってきて、自然な動作で抱き上げた。
 俗に言うお姫様抱っこを軽々された私は、何がなんだかわからず目を白黒させてレイくんを見た。

「え? え!? なに、どういうこと? 行くって、どこに……!?」
「ここは危険だからね、離れないと。安全な場所へ行こう」
「で、でも、まだみんなが……!」
「大丈夫、君のお友達はクロアが責任を持って面倒を見るよ。彼女たちは今ボロボロだし、寧ろここで治療を続けていた方がいいだろう」
「でも────」
「今は君の身の安全が最優先だ」

 反論する私の唇を、レイくんのほっそりとした人差し指が塞いだ。
 たったそれだけの行為が、私の言葉を押し留めてしまった。
 どうってことないないはずなのに、

 私の口が止まったのを見て、レイくんはニコッと優しい笑みを浮かべた。
 華奢な体で軽々と私を抱きかかえてそんな柔らかい表情をされると、場違いにも少しどきりとする。
 さっきの指もそうだけれど、一つひとつの動作が人を惑わす魔力を孕んでいるように思える。

 そして私を抱っこしたレイくんは、強く地面を蹴って大空に跳び上がった。
 クロアさんと対峙するアゲハさんの姿を見ながら、私たちはその場から距離をとった。
 クロアさんの背後で治癒を受けている三人が、まだ重いであろう身体をもたげて私を見ている。

「……アリス!」

 千鳥ちゃんが弱々しく手を伸ばしながら叫んだ。
 私も同じように手を伸ばそうとして、でも体が思うように動かないことに気づいた。
 その事実に戸惑っている間に、距離はぐんぐんと離れていく。

 自分が窮地を脱することよりも、みんなを置いていってしまうことが気がかりで仕方なかったけれど。
 今の私には何故か、どうすることもできなかった。
 その姿が見えなくなるまで、私たちは視線を交わらせることしかできなかった。
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