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第4話 インビジブル・プラム
4-6 無謀な決断
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それから、私は悶々と考え続けた。
でも考えたってベストな結論が出るわけがなくて。
数日が経った金曜日の放課後のこと、陰山さんが突然私の元にやって来た。
「は、葉月先輩……!」
「っ……!」
最初の時のように教室を出たところでパッと現れた陰山さんだけれど、今回私は悲鳴を上げることはなかった。
もちろん驚きはしたけれど、ちょっと慣れてきたところがあった。
先日彼女との話の中では半ば結論が出ていた手前、それから放置してしまていたのが忍びなかった。
けれど陰山さんはそれを追求しにきたわけではないようで、どことなく興奮気味な様子だった。
私の腕を握っている手に、妙に力が入っている。
「は、はは葉月先輩っ。その、ちょっと困ったことになりまして……」
「困ったこと……?」
言葉を詰まらせながらそう切り出した陰山さんに、私はとりあえず教室の前から動こうと促しながら首を傾げる。
陰山さんは頭をブンブンと縦に振りながら、慌てた口調で言葉を続けた。
「実は、少し前からヒメリンの裏垢の噂、というのがありまして……」
「う、裏垢……SNSの?」
「はい。あまり表沙汰にはなっていないのですが、一部厄介なファンが探し当てて、本人なんじゃないかと言っている動きがありまして……」
「はぁ……」
表沙汰にはなっていないネット上の噂までとらえているとは、陰山さんの徹底ぶりが窺える。
暇さえあればHIMEについてのいろんなことを調べたりしているということなんだろう。
「それで、その噂のアカウントを覗いてみたんですが、どうやら本物っぽいのです……」
「つまり、アイドルとしての公のアカウントじゃなくて、プライベートなものだったってこと?」
「はい。私が見るに、朝陽 姫莉さんとしてのアカウントのよう、でした……」
「…………」
重い溜息をつきながらそう言う陰山さんに、私は内心とてもひやっとした。
もしそれが本当なら、事態はかなり大きな問題だ。
朝陽さんがHIMEじゃない可能性がある以上、それは赤の他人のものなのだから。
いや、他のファンもネット越しでも朝陽さんをHIMEだと思う人が出たのなら、やっぱり真実なのだろうか。
それとも、見る人が見ればよく似ている、という感じの別人なんだろうか。
「それで、問題はここからで……」
私の表情から事態の深刻さが伝わったと思ったのか、陰山さんは早口になっていく。
「その裏垢を、特定したという人が、出たんです」
「特定って、それはHIMEの裏垢としてってことじゃなくて?」
「いいえ、もうそれは前提として。その裏垢の素性を特定した、という意味です」
「それってつまり、朝陽さんがどこの誰かわかったってこと……?」
私が尋ねると、陰山さんはまた大きく頭を縦に振った。
さっきの衝撃が軽く思えるほどに、全身の血の気が引いていくのを感じた。
朝陽さんとしてのアカウントだって、それなりの匿名性を持ってやっているはずだ。
知人友人は判別できても、赤の他人はわからないように。そのくらいのリテラシーは持って運用されているはず。
それを暴き出し、どこに住んでいる誰かを特定する人が現れたって、それは……。
「しかも! しかも、ですよ! 実はちょうど昨日ヒメリン、ストーカーに悩んでそうなニュアンスのことを、ポロッと言ってたんですよ……!」
混乱する私に、しかし陰山さんは畳み掛けるように続けた。
「動画のライブ配信中にほんの少しこぼしただけだったので、その話題は広げなかったし、すぐ別の話に移ったんですけど。でも私、これ、関係あるんじゃないかって……!」
そう慌てふためく陰山さんに、そのストーカーはあなたでは?とは流石に言えなかった。
ただ陰山さんの普段の行為がなくても、それが心配な状況なのは確かだった。
「それに、それにですよ!」
「ま、まだあるの……?」
「その特定したって言ってたアカウント、今日呟いてたんです! 『今日会いに行こうかな』って!」
「っ…………」
それは、朝陽さんに、ということだろうか。
彼女がHIMEだったとしても、プライベートを犯し個人的な接触を図ることは問題だ。
けれど全くの別人ともなれば、朝陽さんは無関係で無意味な恐怖を味わうことになる。
それは確かに、かなりの大問題だった。
「で、ですから、葉月先輩……!」
陰山さんは、私の腕をぎゅうぎゅうと握りながら、振り絞るように言った。
「これから私に、付き合ってもらえませんか!? これで最後にするって、約束しますから! 今日だけは、私、ヒメリンのこと、見守りたいんです……!」
「…………」
それはつまり、また朝陽さんの後を尾行するということだ。
陰山さんの心配な気持ちもわかるけれど、でもそれは果たして許されることなのか。
その情報だってどこまで正しいかわからないし、そもそも危険かもしれない。
あくまでいちファンである陰山さんが自ら動くことは、ある意味特定して接触を図ろうとしている人と同じなんじゃないだろうか。
そんな正論が頭の中を渦巻いたけれど。
でもやっぱり、いても立ってもいられない陰山さんの気持ちがわかってしまうから。
私は考えて、頷いた。
「わかった。でもこれで最後にして。それに、何もなかったら深追いせずに帰るよ」
「はい! ありがとうございます!」
これが正解かはやっぱりわからない。
女子高生の私たちが朝陽さんを見守って、何になるのかも。
でも、嬉しそうに、そして気合を入れて頷いた陰山さんを見て、間違いじゃないんじゃないかと、少し思えた。
それから陰山さんは私を引っ張って大慌てで朝陽さんの教室へと向かった。
下校が始まってから少し経っていたけれど、ギリギリ彼女が出てくる前で、その姿を確認することができた。
私たちは先日のように、王子と帰路へとつく朝陽さんの後を距離を保って追いかけた。
今日に限ってというべきか、朝陽さんを迎えにくる車はなかった。
王子と二人、歩いて校門を出ていく。きっと最寄りの駅に向かっているように思われた。
しばらくは、他の下校する生徒に紛れて歩いていた彼女たちだったけれど、駅に近づいて来たところで寄り道をし出した。
駅周辺の商業施設をフラフラと巡ったり、買い食いをしたり。普通の女子高生みたいに。
正体を隠しているとしても、その振る舞いはあまりに普通の高校生のように思えた。
本当に彼女がHIMEなら、普段の生活にもう少し警戒や気遣いが生まれそうなものだ。
そのあたりのことからも、やっぱり朝陽さんは別人なんじゃないか、という考えが強まっていく。
けれど陰山さんはきっと、彼女の安全が確認されるまでは納得できないだろう。
私は自分の感想は一旦脇に起きて、陰山さんに付き従って尾行を続けた。
というか、私の方がよっぽど注意して尾行をしなければいけなかった。
陰山さんは能力のおかげで決して気付かれることなく後を追えるけれど、私は下手な行動をすれば簡単に見つかる。
朝陽さんの動向に集中している陰山さんより、私の方がよっぽど気を使った尾行をしなければいけず、あまり余計なことを考える余裕がなかった。
「あっ!」
日が段々と暮れて来た時のこと。
陰山さんが突然声を上げた。
朝陽さんと王子は長いこと寄り道をしていて、下校の波は完全に過ぎていた。
学生の姿がなくなると途端に閑散とする駅周辺。
その近くのベンチで、二人は飲み物を飲みながら楽しくお喋りに興じていた。
そんな中、王子がトイレにでも立ったのか、その場を離れた。
その瞬間を突くように、ことは起こった。
「は、葉月先輩! あれって!」
大慌てで陰山さんが指をさす方に目を向けると、物陰からにゅっと姿を現わす人の姿が見えた。
一見すればただの通行人のようにも思えるけれど、その人の視線はまっすぐ朝陽さんの方に向けられている。
二、三十代くらいの若い男性。怪しいといえば怪しいし、怪しくないといえば怪しくない。
私たちが不審者の存在を想定しているから、そう思ってしまうような気もする。
けれどそれは、あまりにも楽観的な考えだった。
「あ! ああっ! ああああ!!!」
その男性はフラフラと、けれど確実に朝陽さんの方に向かって歩き出した。
その道のりは決して、駅へと向かう道中ではない。
確実に、彼女を目指しての進行だった。
わからない。たまたまかもしれない。勘違いかもしれない。
けれど私ですら怖いと思った。まずいと思った。
なら、陰山さんが我慢できるわけが、なかった。
「ヒメリン!!!」
陰山さんを止めなきゃと思った時には、彼女は大声を上げながら駆け出していた。
私の腕を放し、怯むことなく飛び出していく。
そんな彼女の後を追いかけたくとも、私から離れた陰山さんの姿は途端に視認できなくなってしまった。
男性はもう朝陽さんの間近に迫っていた。
声をかけられる距離。もう少しすれば手が届く距離。
いや、男性は何か口を開いているように見えた。
朝陽さんが、その人の存在に、気付く。
その時、男性が突然吹き飛ぶように横へ倒れ込んだ。
かと思うと、周囲をキョロキョロと見回して、腕をブンブンと振り回して取り乱し、挙句に耳を押さえてうずくまる。
そして一人で転げ回って、やがて引き攣った悲鳴を上げながら、逃げるようにどこかへ走っていってしまった。
そんな奇妙な光景をこわばった顔で見ていた朝陽さんの元に、王子が慌てて駆け戻ってくる。
朝陽さんは縋り付くように抱きついて、王子は彼女を庇うようにして足早に駅の方へと向かっていった。
目の前で起きた一連の光景にポカンとしていると、突然私の目の前に陰山さんが姿を現した。
ぜーぜーと息を切らして、目にはたくさんの涙を溜めながら、けれど安堵の笑みを浮かべている。
そんな彼女を見て、私は全てを察した。
「今の、陰山さんが……?」
「は、はい……! わ、私……ヒメリンを、守りました……!」
ポロポロと涙を流しながら、陰山さんは言う。
「怖かったけど、でもヒメリンが危なかった、から。あの人、ヒメリンに声、かけようとしてて。触ろうと、してて。私、頭真っ白になって、突き飛ばしちゃいました……。あっち行け、ヒメリンに近づくなって、いっぱい叫んじゃいました。蹴っ飛ばしてやりたかったけど、でもそれも怖くて。だからいっぱい、叫びました。ヒメリンを傷つける奴は、私が許さないって。ヒメリンは、私が守るって……!」
私の腕を握りしめる陰山さんは、今にもくず折れそうに弱々しく言葉を漏らす。
その震えが、痛いくらいに伝わってきた。
「怖かった。すっごく、怖かったけど……ヒメリンが嫌な思いをする方が、もっと、怖かった、から……!」
「陰山さん……」
よく頑張ったと、偉いと言ってあげるべきなんだろうか。
それとも、危ないことをしたと叱るべきなんだろうか。
どっちも伝えるべきなんだろうか。
朝陽さんを守ったことは、素晴らしいことだと思う。
けれど彼女は、HIMEじゃないかもしれない。
守った人は、大切な人じゃないかもしれない。
それもまた、伝えるべきなんだろうか。
私には言うべきことがたくさんあるように思えるのに。
その大きな体を縮こまらせて、安堵とともに涙を流す陰山さんを前に、何も言うことができなかった。
「葉月先輩。私、決めました」
ひとしきり涙を流した後、陰山さんは鼻を啜りながら言った。
泣き腫らした真っ赤な目を、長い前髪の隙間からこちらに向けて。
「私、この能力をもっと、使いこなせるようにしたいです」
「え?」
「これからも私は、ヒメリンを守れるように、なりたいんです」
そう言葉にした陰山さんの目には、確かな決意が秘められていた。
弱気で引け腰な大人しい彼女の中に、強い意志が燃えている。
「でも、陰山さんがどんなに頑張ったって、朝陽さんはあなただって気づいてくれない。それに、いつかばったり話すことだって、できなくなる」
それに、朝陽さんはHIMEじゃないかもしれないのに。
「陰山さんはこれからも、誰にも気づいてもらえないまま。危険だってたくさんあるかもしれないし。それに……」
「はい。わかってます。でも、いいんです。決めました」
私の言葉に頷いて、しかし陰山さんの顔にはもう迷いはなかった。
「いいんです。私はただのオタクですから。ヒメリンを応援することに、見返りは求めません。私は、誰に気付かれなくても、ヒメリンに気付かれなくても。ヒメリンが楽しく、キラキラ輝いてくれれば、それだけで幸せになれるんですから。今までだって、ずっとそうだったから」
そのためなら、自分が何を失っても構わない。
叶わない恋に苦しみ続け、その相手に気づかれない日々が続いても構わない。
そう、陰山さんは言った。
覚悟を決めた彼女に、私なんかが何を言えるだろう。
彼女が信じるものを打ち砕いて、揺るがない覚悟に水を差して、何になるだろう。
私がためを思って向ける言葉はきっと、ただ彼女の想いを汚すだけのように、思えた。
なら、それが正しくても、間違いでも。
陰山さんがそう決めたのなら、私はそれを受け入れるべきなんだ。
私は話を聞くだけ。求められた助けをするだけ。
寄り添うことしか、できないんだから。
何もできない私は、せめて陰山さんの味方であり続けよう。
その選択を、一緒に信じてあげよう。
「わかった。陰山さんの選んだ道を尊重する」
不安だけれど、怖いけれど。
それが彼女の意思だ。
「私はあなたを、応援するよ」
陰山さんはまたボロボロと涙を流しながら、何度も何度も頷いた。
でも考えたってベストな結論が出るわけがなくて。
数日が経った金曜日の放課後のこと、陰山さんが突然私の元にやって来た。
「は、葉月先輩……!」
「っ……!」
最初の時のように教室を出たところでパッと現れた陰山さんだけれど、今回私は悲鳴を上げることはなかった。
もちろん驚きはしたけれど、ちょっと慣れてきたところがあった。
先日彼女との話の中では半ば結論が出ていた手前、それから放置してしまていたのが忍びなかった。
けれど陰山さんはそれを追求しにきたわけではないようで、どことなく興奮気味な様子だった。
私の腕を握っている手に、妙に力が入っている。
「は、はは葉月先輩っ。その、ちょっと困ったことになりまして……」
「困ったこと……?」
言葉を詰まらせながらそう切り出した陰山さんに、私はとりあえず教室の前から動こうと促しながら首を傾げる。
陰山さんは頭をブンブンと縦に振りながら、慌てた口調で言葉を続けた。
「実は、少し前からヒメリンの裏垢の噂、というのがありまして……」
「う、裏垢……SNSの?」
「はい。あまり表沙汰にはなっていないのですが、一部厄介なファンが探し当てて、本人なんじゃないかと言っている動きがありまして……」
「はぁ……」
表沙汰にはなっていないネット上の噂までとらえているとは、陰山さんの徹底ぶりが窺える。
暇さえあればHIMEについてのいろんなことを調べたりしているということなんだろう。
「それで、その噂のアカウントを覗いてみたんですが、どうやら本物っぽいのです……」
「つまり、アイドルとしての公のアカウントじゃなくて、プライベートなものだったってこと?」
「はい。私が見るに、朝陽 姫莉さんとしてのアカウントのよう、でした……」
「…………」
重い溜息をつきながらそう言う陰山さんに、私は内心とてもひやっとした。
もしそれが本当なら、事態はかなり大きな問題だ。
朝陽さんがHIMEじゃない可能性がある以上、それは赤の他人のものなのだから。
いや、他のファンもネット越しでも朝陽さんをHIMEだと思う人が出たのなら、やっぱり真実なのだろうか。
それとも、見る人が見ればよく似ている、という感じの別人なんだろうか。
「それで、問題はここからで……」
私の表情から事態の深刻さが伝わったと思ったのか、陰山さんは早口になっていく。
「その裏垢を、特定したという人が、出たんです」
「特定って、それはHIMEの裏垢としてってことじゃなくて?」
「いいえ、もうそれは前提として。その裏垢の素性を特定した、という意味です」
「それってつまり、朝陽さんがどこの誰かわかったってこと……?」
私が尋ねると、陰山さんはまた大きく頭を縦に振った。
さっきの衝撃が軽く思えるほどに、全身の血の気が引いていくのを感じた。
朝陽さんとしてのアカウントだって、それなりの匿名性を持ってやっているはずだ。
知人友人は判別できても、赤の他人はわからないように。そのくらいのリテラシーは持って運用されているはず。
それを暴き出し、どこに住んでいる誰かを特定する人が現れたって、それは……。
「しかも! しかも、ですよ! 実はちょうど昨日ヒメリン、ストーカーに悩んでそうなニュアンスのことを、ポロッと言ってたんですよ……!」
混乱する私に、しかし陰山さんは畳み掛けるように続けた。
「動画のライブ配信中にほんの少しこぼしただけだったので、その話題は広げなかったし、すぐ別の話に移ったんですけど。でも私、これ、関係あるんじゃないかって……!」
そう慌てふためく陰山さんに、そのストーカーはあなたでは?とは流石に言えなかった。
ただ陰山さんの普段の行為がなくても、それが心配な状況なのは確かだった。
「それに、それにですよ!」
「ま、まだあるの……?」
「その特定したって言ってたアカウント、今日呟いてたんです! 『今日会いに行こうかな』って!」
「っ…………」
それは、朝陽さんに、ということだろうか。
彼女がHIMEだったとしても、プライベートを犯し個人的な接触を図ることは問題だ。
けれど全くの別人ともなれば、朝陽さんは無関係で無意味な恐怖を味わうことになる。
それは確かに、かなりの大問題だった。
「で、ですから、葉月先輩……!」
陰山さんは、私の腕をぎゅうぎゅうと握りながら、振り絞るように言った。
「これから私に、付き合ってもらえませんか!? これで最後にするって、約束しますから! 今日だけは、私、ヒメリンのこと、見守りたいんです……!」
「…………」
それはつまり、また朝陽さんの後を尾行するということだ。
陰山さんの心配な気持ちもわかるけれど、でもそれは果たして許されることなのか。
その情報だってどこまで正しいかわからないし、そもそも危険かもしれない。
あくまでいちファンである陰山さんが自ら動くことは、ある意味特定して接触を図ろうとしている人と同じなんじゃないだろうか。
そんな正論が頭の中を渦巻いたけれど。
でもやっぱり、いても立ってもいられない陰山さんの気持ちがわかってしまうから。
私は考えて、頷いた。
「わかった。でもこれで最後にして。それに、何もなかったら深追いせずに帰るよ」
「はい! ありがとうございます!」
これが正解かはやっぱりわからない。
女子高生の私たちが朝陽さんを見守って、何になるのかも。
でも、嬉しそうに、そして気合を入れて頷いた陰山さんを見て、間違いじゃないんじゃないかと、少し思えた。
それから陰山さんは私を引っ張って大慌てで朝陽さんの教室へと向かった。
下校が始まってから少し経っていたけれど、ギリギリ彼女が出てくる前で、その姿を確認することができた。
私たちは先日のように、王子と帰路へとつく朝陽さんの後を距離を保って追いかけた。
今日に限ってというべきか、朝陽さんを迎えにくる車はなかった。
王子と二人、歩いて校門を出ていく。きっと最寄りの駅に向かっているように思われた。
しばらくは、他の下校する生徒に紛れて歩いていた彼女たちだったけれど、駅に近づいて来たところで寄り道をし出した。
駅周辺の商業施設をフラフラと巡ったり、買い食いをしたり。普通の女子高生みたいに。
正体を隠しているとしても、その振る舞いはあまりに普通の高校生のように思えた。
本当に彼女がHIMEなら、普段の生活にもう少し警戒や気遣いが生まれそうなものだ。
そのあたりのことからも、やっぱり朝陽さんは別人なんじゃないか、という考えが強まっていく。
けれど陰山さんはきっと、彼女の安全が確認されるまでは納得できないだろう。
私は自分の感想は一旦脇に起きて、陰山さんに付き従って尾行を続けた。
というか、私の方がよっぽど注意して尾行をしなければいけなかった。
陰山さんは能力のおかげで決して気付かれることなく後を追えるけれど、私は下手な行動をすれば簡単に見つかる。
朝陽さんの動向に集中している陰山さんより、私の方がよっぽど気を使った尾行をしなければいけず、あまり余計なことを考える余裕がなかった。
「あっ!」
日が段々と暮れて来た時のこと。
陰山さんが突然声を上げた。
朝陽さんと王子は長いこと寄り道をしていて、下校の波は完全に過ぎていた。
学生の姿がなくなると途端に閑散とする駅周辺。
その近くのベンチで、二人は飲み物を飲みながら楽しくお喋りに興じていた。
そんな中、王子がトイレにでも立ったのか、その場を離れた。
その瞬間を突くように、ことは起こった。
「は、葉月先輩! あれって!」
大慌てで陰山さんが指をさす方に目を向けると、物陰からにゅっと姿を現わす人の姿が見えた。
一見すればただの通行人のようにも思えるけれど、その人の視線はまっすぐ朝陽さんの方に向けられている。
二、三十代くらいの若い男性。怪しいといえば怪しいし、怪しくないといえば怪しくない。
私たちが不審者の存在を想定しているから、そう思ってしまうような気もする。
けれどそれは、あまりにも楽観的な考えだった。
「あ! ああっ! ああああ!!!」
その男性はフラフラと、けれど確実に朝陽さんの方に向かって歩き出した。
その道のりは決して、駅へと向かう道中ではない。
確実に、彼女を目指しての進行だった。
わからない。たまたまかもしれない。勘違いかもしれない。
けれど私ですら怖いと思った。まずいと思った。
なら、陰山さんが我慢できるわけが、なかった。
「ヒメリン!!!」
陰山さんを止めなきゃと思った時には、彼女は大声を上げながら駆け出していた。
私の腕を放し、怯むことなく飛び出していく。
そんな彼女の後を追いかけたくとも、私から離れた陰山さんの姿は途端に視認できなくなってしまった。
男性はもう朝陽さんの間近に迫っていた。
声をかけられる距離。もう少しすれば手が届く距離。
いや、男性は何か口を開いているように見えた。
朝陽さんが、その人の存在に、気付く。
その時、男性が突然吹き飛ぶように横へ倒れ込んだ。
かと思うと、周囲をキョロキョロと見回して、腕をブンブンと振り回して取り乱し、挙句に耳を押さえてうずくまる。
そして一人で転げ回って、やがて引き攣った悲鳴を上げながら、逃げるようにどこかへ走っていってしまった。
そんな奇妙な光景をこわばった顔で見ていた朝陽さんの元に、王子が慌てて駆け戻ってくる。
朝陽さんは縋り付くように抱きついて、王子は彼女を庇うようにして足早に駅の方へと向かっていった。
目の前で起きた一連の光景にポカンとしていると、突然私の目の前に陰山さんが姿を現した。
ぜーぜーと息を切らして、目にはたくさんの涙を溜めながら、けれど安堵の笑みを浮かべている。
そんな彼女を見て、私は全てを察した。
「今の、陰山さんが……?」
「は、はい……! わ、私……ヒメリンを、守りました……!」
ポロポロと涙を流しながら、陰山さんは言う。
「怖かったけど、でもヒメリンが危なかった、から。あの人、ヒメリンに声、かけようとしてて。触ろうと、してて。私、頭真っ白になって、突き飛ばしちゃいました……。あっち行け、ヒメリンに近づくなって、いっぱい叫んじゃいました。蹴っ飛ばしてやりたかったけど、でもそれも怖くて。だからいっぱい、叫びました。ヒメリンを傷つける奴は、私が許さないって。ヒメリンは、私が守るって……!」
私の腕を握りしめる陰山さんは、今にもくず折れそうに弱々しく言葉を漏らす。
その震えが、痛いくらいに伝わってきた。
「怖かった。すっごく、怖かったけど……ヒメリンが嫌な思いをする方が、もっと、怖かった、から……!」
「陰山さん……」
よく頑張ったと、偉いと言ってあげるべきなんだろうか。
それとも、危ないことをしたと叱るべきなんだろうか。
どっちも伝えるべきなんだろうか。
朝陽さんを守ったことは、素晴らしいことだと思う。
けれど彼女は、HIMEじゃないかもしれない。
守った人は、大切な人じゃないかもしれない。
それもまた、伝えるべきなんだろうか。
私には言うべきことがたくさんあるように思えるのに。
その大きな体を縮こまらせて、安堵とともに涙を流す陰山さんを前に、何も言うことができなかった。
「葉月先輩。私、決めました」
ひとしきり涙を流した後、陰山さんは鼻を啜りながら言った。
泣き腫らした真っ赤な目を、長い前髪の隙間からこちらに向けて。
「私、この能力をもっと、使いこなせるようにしたいです」
「え?」
「これからも私は、ヒメリンを守れるように、なりたいんです」
そう言葉にした陰山さんの目には、確かな決意が秘められていた。
弱気で引け腰な大人しい彼女の中に、強い意志が燃えている。
「でも、陰山さんがどんなに頑張ったって、朝陽さんはあなただって気づいてくれない。それに、いつかばったり話すことだって、できなくなる」
それに、朝陽さんはHIMEじゃないかもしれないのに。
「陰山さんはこれからも、誰にも気づいてもらえないまま。危険だってたくさんあるかもしれないし。それに……」
「はい。わかってます。でも、いいんです。決めました」
私の言葉に頷いて、しかし陰山さんの顔にはもう迷いはなかった。
「いいんです。私はただのオタクですから。ヒメリンを応援することに、見返りは求めません。私は、誰に気付かれなくても、ヒメリンに気付かれなくても。ヒメリンが楽しく、キラキラ輝いてくれれば、それだけで幸せになれるんですから。今までだって、ずっとそうだったから」
そのためなら、自分が何を失っても構わない。
叶わない恋に苦しみ続け、その相手に気づかれない日々が続いても構わない。
そう、陰山さんは言った。
覚悟を決めた彼女に、私なんかが何を言えるだろう。
彼女が信じるものを打ち砕いて、揺るがない覚悟に水を差して、何になるだろう。
私がためを思って向ける言葉はきっと、ただ彼女の想いを汚すだけのように、思えた。
なら、それが正しくても、間違いでも。
陰山さんがそう決めたのなら、私はそれを受け入れるべきなんだ。
私は話を聞くだけ。求められた助けをするだけ。
寄り添うことしか、できないんだから。
何もできない私は、せめて陰山さんの味方であり続けよう。
その選択を、一緒に信じてあげよう。
「わかった。陰山さんの選んだ道を尊重する」
不安だけれど、怖いけれど。
それが彼女の意思だ。
「私はあなたを、応援するよ」
陰山さんはまたボロボロと涙を流しながら、何度も何度も頷いた。
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