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9 オセローの最後 君のいない白黒の世界

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「お母さま! やめてください!」

「オセロー! その手を離しなさい! 五歳にもなって人形遊びなど、これ以上ブランバンティオ家の恥を晒さないでちょうだい!」
 

 バシッ! と母は力任せに私の頬を思い切りはたいた。私は叩かれた頬を庇い、人形を大事に抱き抱えていた腕を緩めてしまう。

 その隙を逃さず、母は悪魔のような形相で私の人形を取り上げた。
 

「やめて! かえしてください! お願いです……それは、わたしにとって大事なものなのです」

 それは、私が最近気に入って肌身離さず持ち歩いていた人形であった。人形はドレスを着た女の子の姿で、それがきっと母の癇に障ったのだ。
 

「こんなもの! 男児が持つべき物ではありませんよ」

「いやだ!…………っ」
 

 私にはなすすべもなく、母は私から奪った人形を暖炉の火の中に投げ捨てた。すぐに火が移り、人形のカールした長い金髪がめらめらと燃えていく。可愛らしい大きな瞳を持った顔は焦げ付いて黒ずんでいった。
 

「ああ……私の……っ」

「人形遊びをしている暇があったらもっと勉強なさい! そんなことをしているから、キャシオン家のモアーナの方が優秀だと言われるのです。相手の婚約者の方が優秀だと言われて恥ずかしくはないのですかオセロー!」

「っ……!」


 暖炉の前で膝をつき、込み上げてくる感情も涙も拭えず、泣き声は必死で噛み殺した。

 母であるこの女は冷ややかな目で、しばらく私の様子を伺いながら、人形が黒く灰になるまで待っていた。
 
 はぁ、と母は大袈裟なため息を吐き私に言う。
 

「こちらに来なさい」


 その言葉に、私はびくり、と肩を揺らす。


「今すぐに」


 母の、はっきりと断言する口調に逃れられないと悟った。
 私は諦めて床から膝を浮かせ、足を母の方へと進めた。
 母が立っている前まで来ると、腕を組んだ彼女がとてつもなく大きな存在に感じて萎縮してしまう。
 私の体は強張って硬くなった。


「オセロー、腕を出しなさい」


 やはり今日もか……。

 その声に従って、片腕のシャツを捲って腕の内側を母の前に出した。
 

「両腕に決まっているでしょう。さっさと出しなさい」


 私はくっ、と顔を歪めて仕方なくもう片方の腕も捲り、震えながら母の前に両腕を差し出した。
 腕には無数の傷跡が残っており、古い傷もあれば、数日前にできた真新しい傷もあった。

 母が手に教鞭を持った。柄の先がしなるようになっているのは、対象を最大限に痛めつけるよう設計されているのだと私は身をもって知っている。

 母が教鞭を天井まで振り上げ、私の腕まで一気に振り下ろした。
 鞭がしなり、ぶん! と虫の羽音に似た音がする。

 バシンッ!
 

「っ……っ゛!」
 

 激痛が腕に走り、顔が苦痛に歪む。だが、そんな私の様子をみても構わず彼女は腕を振り上げた。
 母は冷淡な顔で、言葉を区切りながら息子である私の細腕に鞭を振るう。

 
「二度と」

 バシン!

「私の前で」

 バシン!

「人形遊びなど」

 バシン!

「しないで」

 バシン!

「ちょうだい!」

 バシン!
 

 一振り一振りが重たく、鋭い痛みが無数に腕に走り血が滲む。
 声を張り上げて泣き叫びたいのに、それをするともっと酷く打たれるのはわかっている。
 だから顔が真っ赤になるくらい歯を食いしばって我慢するしかない。

 早く終わってくれ……。

 私はひたすら、母が満足するまで耐え忍んだ。
 彼女がひとしきり鞭を振って鬱憤を発散し、動きが鈍くなるまで打たれた。

 教鞭は傷口から吹き出してきた赤い血で汚れてしまっていた。


「拭くものを」


 いつからいたのか、部屋の隅に控えていた乳母に母が指示をする。
 乳母は腕に掛けていた白い布を母に渡した。
 
 鞭を拭うと白い布が赤く滲む。

 母は布を無言で乳母に差し出すと、乳母も何も言わずに受け取った。


「お前がしっかりと見ておかないから、こんなことになるのです」

「申し訳ございません。奥様」


 母は深く首を垂れる乳母を叱責した。


「お前からもよく言い聞かせておくように」

「はい。奥様」

「消毒も任せましたよ」
 

 そう言い残して母は部屋から出て行った。
 
 私はこれから起こることに戦慄した。


「オセロー様、傷の消毒をいたしましょう」
 

 無機質に聞こえてくる乳母の声。何の感情もそこにはこもってはいない。
 

「い、いやだ……」

「消毒をしないと、傷口が化膿してしまいますからね」


 乳母はそう言って乱暴に私の手首を掴んで引きずっていく。

 五歳の力では母より大分年上であろう乳母であっても叶わない。

 キッチンまで引きずられ、戸棚にあった酒精の高い酒瓶を乳母の皺ついた手が掴む。
 

「ひっ……ああぁあ!」


 どばどばと私の真新しい傷口にアルコールがかけられた。

 落ち着いたと思った傷の痛みは更に増し、焼けるような熱を持って骨の髄まで浸透した。


「うあぁああっ……」
 

私の叫び声だけが屋敷全体にこだました。

 どくどくと血管が脈動する。指の先の感覚が麻痺するくらいまで、拷問のような消毒は何度も何度も繰り返された。
 

「もういやだっ……だれかっ」

 
 ――たすけて。
 

 だが助けなど来るはずもない。
 



  
 貴族の家庭に愛はない。少なくともブランバンティオ家には。
 
 体罰は教育の一環であり、母にとっては親としての当然の行為であった。
 
 婚約者であるキャシオン家のモアーナ。彼女の優秀さはどこからでも聞こえてくる。私と彼女は常に比べられた。そして、私は彼女のように天才ではなかった。
 努力に努力を重ねてやっと彼女に追いついたと思ったら、また彼女は上に進んでしまう。
 そんなことが続けば、母にとっては面白くない。ことあるごとに理由をつけて、罰として鞭を振るわれた。
 
 そして私についていた乳母も、母の指示にただ従うのみで私という子どもに愛情なんて持ちあわせてはいなかった。
 嫌がる私に消毒として傷口にアルコールを注ぐ。水で溶かした塩をかけられたこともあった。
 傷口が化膿してしまっては大変だからと。

 父は息子にもその子どもの教育にも興味はなかった。執務室にこもり仕事を淡々とこなしており、姿を見ることもあまりない。
 
 希薄な関係。愛など何一つ与えられず、教えられなかった。
 
 だが血縁だけは嫌になるほど受け継がれてしまった。
 鏡を見ればそこに映る自分の顔に父と母との血縁が色濃く反映されていることがわかる。彼らの美貌をかけ合わせたような美しさを持ってしまった。
 白い肌にグレーの瞳、きりりと整った眉とくっきりとした目鼻立ちは、特に母親そっくりだった。鏡を見るたびに嫌になる。

 私は、体付きや体力が女子のそれとは変わり始めたころ、剣術を習い始めた。それからは体罰を受ける回数は極端に減っていった。

 私自身、剣術に夢中になったことも、罰を避けることができた大きな要因であった。いつもモアーナと比べられていたが、剣術だけは違う。
 貴族の令嬢である彼女が剣術を習うことはなかったからだ。

 私は一心不乱に剣を振った。その時だけは全てを忘れられた。

 けれども、私は常に悪夢にうなされていた。


 七歳になった頃、酷く恐ろしい悪夢を見てしまったことがあった。悪夢の内容は覚えてはいない。だが、とてつもなく恐ろしかったことだけは忘れられなかった。
 飛び起きた時には全身が濡れており、ベッドを濡らしてしまったのが自分の汗だけが原因ではないことに気づいた。

 粗相をしてしまったことをなんとか隠し通そうとしたが、すぐに乳母に見つかってしまった。
 母には内緒にして欲しいと懇願したが、聞き入れてもらえなかった。

 母が寝室へと現れる。

 手に教鞭を握った母に、シャツを脱ぐように指示された。
 私はシャツに手をかけながら背中を母に向ける。

 シャツを脱ぐと傷だらけの背中が顕になった。服で隠れる腕と背中はすでに古傷となって一生この身に残る痣となる。
 私の罪と許しの跡だ。

 今日もまたその傷が増えていく。

 バシン!


「っ……」
 

 母の鞭が剥き出しの肌を傷つける。
 私は無心で鞭を受け続け、一言も声を漏らさない。
 だが母は常に私をおとしめた。


「粗相など七歳にもなって恥ずかしい!」
 

 バシンッ! 
 

「母の手をこれ以上煩わせないでちょうだい!」


 バシン! バシン!
 

 鞭が私の皮膚を直接叩く音だけが聞こえてくる。

 しばらく経ってようやくこの苦痛の時間は終わりを告げた。
 

「これであなたの罪は許されましたよオセロー」

「……ありがとうございました。お母様」


 私の罪を許すために罰を与えるのだ、と主張する母。許された私は母に感謝の言葉を捧げなければならなかった。
 

「はぁ全く、本当にあなたは手のかかる子だわ……。こんなに手がかかるならば産みたくなどなかった」


 産むのだって大変だったのに、と母はこぼしながら私の部屋を出ていった。

 その言葉が鋭いつるぎとなって私の胸に突き刺さった。
 

 (私は、この世に生まれるべきではなかったのかもしれない)
 

 傷跡のある醜い両腕で自分自身を抱きしめた。



 



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