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2 愛人
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◇
メイドのマリーと夫のオセローが、中庭で微笑み合いながら薔薇を愛ているのが二階のわたしくの部屋から見える。
声は聞こえないが、きっとこんなことを言い合っているに違いない。
「旦那さま、薔薇が満開に咲いて綺麗ですね」
「ああ、本当に。可憐だ」
薔薇の花びらを撫でていた彼の指が、マリーのブルネットの髪をなぞる。
「私も好きにする」といった夫は本当に好き放題しているようだ。
二人の柔らかい笑い声が窓を開けたわたくしのいる部屋に響き渡る。
ふいにオセローはマリーの腰を抱き寄せてキスをする。
「もうっ、旦那さまったら……こんなところで」
「どこでだっていいだろう?」
「誰かに見られてしまいます」
「誰も見ていない。見ていたとしても、関係ないさ」
「……旦那さま、もっとして」
「いいだろう、可愛い人」
白やピンクの淡い色の薔薇が咲き誇り、二人のことを祝福しているかのようだ。
仲睦まじい二人の様子。
わたくしは二階の寝室の窓辺から見ているだけしかできない。
わたくしが町娘に生まれていたら、今あなたが微笑み返しているマリーはわたくしだったのかもしれない。
オセローとただの町娘の自分の姿を想像してしまうと、止まらなくなった。
はしたなく声をあげて笑い合い、芝生や土の上に遠慮なく二人で寝転ぶ。そうして見つめ合って人目も気にせずに熱くて甘いキスを交わす……。
そんな妄想を。
最初は二人の姿を見るたびにほんの少し、じくじくとした痛みが心臓に走るくらいだった。
だがそれは日々体中を蝕んで、憎悪が激しく自分の体の中で渦巻いていく。
憎しみが強く育っていくのを感じる。
こんなに自分以外の誰かに強い感情を抱いたのは初めてかもしれない。
どす黒い感情は、蛇のようにとぐろを巻いていき、わたくしの体を締め付けていく。
愛とはこんなにも汚くて黒く、醜いものだったのか。
わたくしの中の強い感情は、マリーだけではなく夫のオセローにも向いた。
どうしてオセロー。どうしてあなたはわたくしを愛してはくれないのか。こんなにわたくしはあなたを愛しているというのに。
貴族の一員として恥じぬように生活してきた。オセロー、あなたの妻として恥じぬように。
美しい美貌もプロポーションも保ち、勉強だってかかさなかった。
社交だってお茶会だって手を抜かず、あなたの妻として相応しいと周りに言われるまで努力してきた。
それでもあなたはわたくしには見向きもせず、どうしてどこにでもいるような女を愛おしそうに見つめるのだ。
マリー。
どこにでもいるような平凡な女。
貴族の娘と比べたらふくよかでだらしのない体つき。
とろとろとした所作は、わたくしをいらつかせる。
「これじゃないわ!」
「え? でも奥さま、先日こちらのドレスが素敵だとおっしゃって……」
体の線を強調するような、ぴったりとした美しいマーメイドラインの白いドレスをマリーが肩から腕にかけて、ドレスのデザインがよく見えるようにしている。
その顔は困惑ぎみで、わたくしに反論してくる。
「その後にわたくし言ったでしょう?! 何度言ったらわかるの! 今日は夜中の舞踏会なのだから、露出の多いもっと華やかな色のイブニングドレスに決まっているわ! ドレスコードがあるの! こんなデザインのものを着ていったら笑われるわ! わたくしを笑い物にしたいのね?」
今のドレスの流行りはマーメイドラインでなく、ベルラインだ。
ウエスト部分が細く、スカートにはかなりのボリュームを持たせてレースをふんだんに使用しているベルラインのデザイン。
流行から外れたデザインのものを社交界に着ていけば、笑い物にされるよりも酷い羞恥の目に晒されるだろう。
「そ、そんなことはございません。私の無知のせいです。申し訳ございません」
「しかもなに? この色は? 白はデビュタントしか着ないのよ? そんなことも知らないの?!」
舞踏会で白を着るのはデビュタントのみと決まっている。
そんな暗黙の了解もこのメイドは知らないのだろうか。
「ご、ごめんなさい! すぐに他のものを持ってきます」
ごめんなさいですって?
仕えている目上の相手に対して使っていい言葉ではない。
メイドとしての教養も言葉遣いも十分に身につけてはいない。
呆れすぎて指摘する気も失せた。
慌てた様子でマリーは部屋から出ていく。彼女一人ではまた満足なイブニングドレスも選べないだろうから、他のメイドも向かわせた。
どっと疲れが押し寄せてきて、ソファに体を投げ出したくなったが、まだ着替えの途中だ。はしたないことはできない。
着替えていた鏡の前で険しい顔をした自分と目が合う。
鏡の中の自分はとても恐ろしい顔をしていた。
マリーがヒロインだとしたら、わたくしはその悪役だろうか。
だがヒロインにしてはマリーはとろくさすぎる。
ドレス選びからなにから、彼女は他の仕事、わたくしのドレスの着付けや髪結いも満足に仕上げられないのだ。
わたくしは我慢ならずにマリーを怒鳴り散らす。時には気に入らないブローチやら髪飾りやらを投げつけたりもした。
そんなわたくしの癇癪をその身に受けて、そして夜な夜なわたくしの夫のオセローに慰めて貰うのだ。
なんて!
なんてふしだらな女なのだ……!
こんな女がヒロインであっていいはずがない。
けれどもそのふしだらな女を好むのはオセローだった。
そしてそんな女を羨ましく、妬ましく、そして取って代わりたいなどと思う自分も、浅ましい。
マリーのようにオセローの後ろに隠れたりなど、貴族の娘として生きて来たわたくしにできるはずもない。
弱々しく夫のオセローにしなだれかかるなど、わたくしには一生できはしないとも思うのだ。
わたくしがわたくしのままでいる限り、彼は貴族の娘であるモアーナを愛してはくれない。
でも、それを捨ててしまったら、もうそれはわたくしではない者になってしまう。
貴族としての自分を捨てるということがどんな怖いことか、オセロー、あなたは知らないのだ。
自分に纏う強固な鎧を捨てさって残る自分というものが、どんなものなのか。
憎い。
わたくし以外に微笑みかけるあなたが。
強い感情が心の奥から込み上げてくる。
あなたの首をこの手で締め付けて殺してしまいたいほどに憎い。
悔しい。
でも愛している。
激しく、ふしだらなキスであなたと共に夜を明かしたい。
相反する二つの感情が自分の中でせめぎ合ってわたくしをおかしくする。
ああ、今日も酷い頭痛がする。
ズキズキと痛む額に手のひらを当ててみても、何の効果もない。
「うぅっ……」
「奥さま……これをお飲みくださいまし」
ひっそりと部屋の奥に控えていたメイド長がわたくしに声をかける。
グレーの髪をひっつめた年配のエリーゼが、心配そうにわたくしに薬湯のグラスを差し出してくる。
わたくしを心配してくれるのは、もうこの屋敷中ではこのエリーゼだけだ。
エリーゼはわたくしが物心つく前から仕えてくれていたメイドだ。実家から嫁ぐ際に、一緒にこのブランパンティオ家へついてきてくれた。
みなわたくしの癇癪にほとほと嫌気がさして、遠巻きにしているのだ。
それでも今は、わたくしは気が立っていて彼女の気遣いを受け入れる気分ではなかった。
「こんなもの!」
「きゃあ! 奥さま!」
思い切り手を振り払うと、メイド長のエリーゼの手から床にグラスが落ちる。
ガシャーン!
けたたましい音が屋敷の外まで聞こえそうなほどだった。
砕け散ったグラスと薬湯で濡れた床を見つめて、せいせいした気分になった。
だってこれを飲むと、頭痛がましになる代わりにますます自分の中の激情が暴れ出す気がするのだ。
だから嫌い。
大嫌いだ。
この屋敷も、オセローも、メアリーも、エリーゼだって
そしてわたくし自身も……。
メイドのマリーと夫のオセローが、中庭で微笑み合いながら薔薇を愛ているのが二階のわたしくの部屋から見える。
声は聞こえないが、きっとこんなことを言い合っているに違いない。
「旦那さま、薔薇が満開に咲いて綺麗ですね」
「ああ、本当に。可憐だ」
薔薇の花びらを撫でていた彼の指が、マリーのブルネットの髪をなぞる。
「私も好きにする」といった夫は本当に好き放題しているようだ。
二人の柔らかい笑い声が窓を開けたわたくしのいる部屋に響き渡る。
ふいにオセローはマリーの腰を抱き寄せてキスをする。
「もうっ、旦那さまったら……こんなところで」
「どこでだっていいだろう?」
「誰かに見られてしまいます」
「誰も見ていない。見ていたとしても、関係ないさ」
「……旦那さま、もっとして」
「いいだろう、可愛い人」
白やピンクの淡い色の薔薇が咲き誇り、二人のことを祝福しているかのようだ。
仲睦まじい二人の様子。
わたくしは二階の寝室の窓辺から見ているだけしかできない。
わたくしが町娘に生まれていたら、今あなたが微笑み返しているマリーはわたくしだったのかもしれない。
オセローとただの町娘の自分の姿を想像してしまうと、止まらなくなった。
はしたなく声をあげて笑い合い、芝生や土の上に遠慮なく二人で寝転ぶ。そうして見つめ合って人目も気にせずに熱くて甘いキスを交わす……。
そんな妄想を。
最初は二人の姿を見るたびにほんの少し、じくじくとした痛みが心臓に走るくらいだった。
だがそれは日々体中を蝕んで、憎悪が激しく自分の体の中で渦巻いていく。
憎しみが強く育っていくのを感じる。
こんなに自分以外の誰かに強い感情を抱いたのは初めてかもしれない。
どす黒い感情は、蛇のようにとぐろを巻いていき、わたくしの体を締め付けていく。
愛とはこんなにも汚くて黒く、醜いものだったのか。
わたくしの中の強い感情は、マリーだけではなく夫のオセローにも向いた。
どうしてオセロー。どうしてあなたはわたくしを愛してはくれないのか。こんなにわたくしはあなたを愛しているというのに。
貴族の一員として恥じぬように生活してきた。オセロー、あなたの妻として恥じぬように。
美しい美貌もプロポーションも保ち、勉強だってかかさなかった。
社交だってお茶会だって手を抜かず、あなたの妻として相応しいと周りに言われるまで努力してきた。
それでもあなたはわたくしには見向きもせず、どうしてどこにでもいるような女を愛おしそうに見つめるのだ。
マリー。
どこにでもいるような平凡な女。
貴族の娘と比べたらふくよかでだらしのない体つき。
とろとろとした所作は、わたくしをいらつかせる。
「これじゃないわ!」
「え? でも奥さま、先日こちらのドレスが素敵だとおっしゃって……」
体の線を強調するような、ぴったりとした美しいマーメイドラインの白いドレスをマリーが肩から腕にかけて、ドレスのデザインがよく見えるようにしている。
その顔は困惑ぎみで、わたくしに反論してくる。
「その後にわたくし言ったでしょう?! 何度言ったらわかるの! 今日は夜中の舞踏会なのだから、露出の多いもっと華やかな色のイブニングドレスに決まっているわ! ドレスコードがあるの! こんなデザインのものを着ていったら笑われるわ! わたくしを笑い物にしたいのね?」
今のドレスの流行りはマーメイドラインでなく、ベルラインだ。
ウエスト部分が細く、スカートにはかなりのボリュームを持たせてレースをふんだんに使用しているベルラインのデザイン。
流行から外れたデザインのものを社交界に着ていけば、笑い物にされるよりも酷い羞恥の目に晒されるだろう。
「そ、そんなことはございません。私の無知のせいです。申し訳ございません」
「しかもなに? この色は? 白はデビュタントしか着ないのよ? そんなことも知らないの?!」
舞踏会で白を着るのはデビュタントのみと決まっている。
そんな暗黙の了解もこのメイドは知らないのだろうか。
「ご、ごめんなさい! すぐに他のものを持ってきます」
ごめんなさいですって?
仕えている目上の相手に対して使っていい言葉ではない。
メイドとしての教養も言葉遣いも十分に身につけてはいない。
呆れすぎて指摘する気も失せた。
慌てた様子でマリーは部屋から出ていく。彼女一人ではまた満足なイブニングドレスも選べないだろうから、他のメイドも向かわせた。
どっと疲れが押し寄せてきて、ソファに体を投げ出したくなったが、まだ着替えの途中だ。はしたないことはできない。
着替えていた鏡の前で険しい顔をした自分と目が合う。
鏡の中の自分はとても恐ろしい顔をしていた。
マリーがヒロインだとしたら、わたくしはその悪役だろうか。
だがヒロインにしてはマリーはとろくさすぎる。
ドレス選びからなにから、彼女は他の仕事、わたくしのドレスの着付けや髪結いも満足に仕上げられないのだ。
わたくしは我慢ならずにマリーを怒鳴り散らす。時には気に入らないブローチやら髪飾りやらを投げつけたりもした。
そんなわたくしの癇癪をその身に受けて、そして夜な夜なわたくしの夫のオセローに慰めて貰うのだ。
なんて!
なんてふしだらな女なのだ……!
こんな女がヒロインであっていいはずがない。
けれどもそのふしだらな女を好むのはオセローだった。
そしてそんな女を羨ましく、妬ましく、そして取って代わりたいなどと思う自分も、浅ましい。
マリーのようにオセローの後ろに隠れたりなど、貴族の娘として生きて来たわたくしにできるはずもない。
弱々しく夫のオセローにしなだれかかるなど、わたくしには一生できはしないとも思うのだ。
わたくしがわたくしのままでいる限り、彼は貴族の娘であるモアーナを愛してはくれない。
でも、それを捨ててしまったら、もうそれはわたくしではない者になってしまう。
貴族としての自分を捨てるということがどんな怖いことか、オセロー、あなたは知らないのだ。
自分に纏う強固な鎧を捨てさって残る自分というものが、どんなものなのか。
憎い。
わたくし以外に微笑みかけるあなたが。
強い感情が心の奥から込み上げてくる。
あなたの首をこの手で締め付けて殺してしまいたいほどに憎い。
悔しい。
でも愛している。
激しく、ふしだらなキスであなたと共に夜を明かしたい。
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ああ、今日も酷い頭痛がする。
ズキズキと痛む額に手のひらを当ててみても、何の効果もない。
「うぅっ……」
「奥さま……これをお飲みくださいまし」
ひっそりと部屋の奥に控えていたメイド長がわたくしに声をかける。
グレーの髪をひっつめた年配のエリーゼが、心配そうにわたくしに薬湯のグラスを差し出してくる。
わたくしを心配してくれるのは、もうこの屋敷中ではこのエリーゼだけだ。
エリーゼはわたくしが物心つく前から仕えてくれていたメイドだ。実家から嫁ぐ際に、一緒にこのブランパンティオ家へついてきてくれた。
みなわたくしの癇癪にほとほと嫌気がさして、遠巻きにしているのだ。
それでも今は、わたくしは気が立っていて彼女の気遣いを受け入れる気分ではなかった。
「こんなもの!」
「きゃあ! 奥さま!」
思い切り手を振り払うと、メイド長のエリーゼの手から床にグラスが落ちる。
ガシャーン!
けたたましい音が屋敷の外まで聞こえそうなほどだった。
砕け散ったグラスと薬湯で濡れた床を見つめて、せいせいした気分になった。
だってこれを飲むと、頭痛がましになる代わりにますます自分の中の激情が暴れ出す気がするのだ。
だから嫌い。
大嫌いだ。
この屋敷も、オセローも、メアリーも、エリーゼだって
そしてわたくし自身も……。
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