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Episode.01 蒼の月/夜の女王の涙
File.08(一章結)
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2月28日 00:45 ミード・ブライダル会館 地下 下水道
雨の所為かごうごうと逆巻く下水道。真っ暗闇のその側路を歩く人影が一つ。
暗闇の中に白面がぼぉと光る。
「やばかったー。おっちゃん全然動かないんだもんな」
『にっ。あちがちゃんとモニターしてなかったら、危うく鉢合わせするところだったね。感謝するんだよ』
「はいはい、わかったよ。今度またいいご飯用意するから」
『そいつは楽しみだねぇ』
通信機越しにパリュと軽口をたたきながら、人影は歩を進める。その足取りは軽い。
「ま、ちょっと予定外はあったものの無事、【夜の女王の涙】が手に入ったからね。今回はいつにも増して順調だね」
『にぃ。帰るまでが遠足だよ』
「まあそうなんだけどさ。真っ暗闇のこの中じゃ追っ手もこれない。油断のしようがないってものだよ。俺でもこの中じゃ走れないんだよ」
『確かにそうだけどねぇ。おっともうすぐ行き止まりだ』
人影の前で側路が途切れる。前にあるのは逆巻く汚水だ。
「ここを過ぎれば出口のマンホールだよね」
『にぃ。そうなるよ、もう少しだ』
「よし、なら――、《我、川面を走る白鹿を追いかけん》」
胸元の【蒼のメリクリウス】がほぉと光る。
人影は調子を確かめるように小さくジャンプをした。
「うん、大丈夫そうだ。それじゃあさっさとおさらば――」
「――まあそう言うな。もうちょっと付き合えよ」
振り向く人影。その瞳に映るのは、暗闇に浮かび上がるくたびれたスーツの男。
「嘘だろ。なんで吉柳のおっちゃんがいるんだよ」
「真っ暗な中追いかけるのは苦労したぜぇ、ミード・ブライダルの三浦支配人。いやさ、快盗キャスパリーグ」
そこではじめて吉柳はライトをつける。照らし出されたのはキャスパリーグの姿だった。
◆
キャスパリーグは吉柳を警戒しながらも、話しかける。
「で、なんでおっちゃんがこんな所にいるんだよ。この迷路みたいな下水道で鉢合わせるなんて、偶然じゃあり得ないだろ」
吉柳はふんと鼻で笑う。
「そりゃ、お前さんが後生大事に俺の名刺を持ってくれたからだよ。そいつは発信器になっているんだよ。ま、1時間くらいしか持たんがね」
「ちっ」
キャスパリーグは懐から取り出した名刺をぐしゃりと潰し、下水の中へと投げ捨てた。
「おいおい、そいつは結構高いんだぜ。簡単に捨てんなよ。何なら快盗事件の際にお電話いただけりゃ、安く解決してやるぜ。ま、お前さんがしっかり被害を弁済した後ならな」
「うるせぇ。捕まるかよ。にしてもそんな前から疑われてるとわな……」
キャスパリーグはじりと後ろに下がる。
「はん。おめえは小手先の技はたいしたもんだが、知識も経験もたんねえんだよ。知ってるか? ペルシャやヒマラヤンって基本おとなしい猫なんだってよ。井草警部が言ってたぜ」
吉柳は一歩足を進める。
「あとてめえ言ったよな『なかなか気の強い猫ちゃん』って。本物の三浦さんはなかなかの愛猫家で何匹も猫を飼ってる方だそうだ。だとするとその言い方はおかしいわな? ただまあちょっとした言い間違いかもしれん、気の強いペルシャも中にはいるだろう。だからちょいと粉かけようと思ってな、名刺を渡しといたのさ」
「そういうことかよ……」
ちょっとの言い間違い、それに気づいた吉柳にキャスパリーグは内心舌を巻く。
「だけどまあ、決定的だったのはトイレだ。てめえ、トイレのために部屋を出ても不思議と思われないよう、色々小細工してただろ。わざわざ茶を飲むそぶりを見せたりな」
「ああ」
キャスパリーグは頷く。
「だけどそいつは無駄な努力なんだよ。ガキのお前は知らなかったんだろうが、普通新郎新婦の控え室ってのはなトイレは必ずついてるんだよ、何なら風呂がついてるところだってある。なのにトイレに行くと言って支配人が部屋から出るなんておかしいだろうが。そう思って発信器を確認したら……、案の定、上はダミーで本命は地下ってな。いや、あの発信器、高いだけ合って高低差もわかるのさ。はじめて助かったぜ」
「こりゃ参ったね。確かに知識と経験が足りないみたいだ」
肩をすくめるキャスパリーグに、今度は吉柳が質問を投げかける。
「それで……、てめえはいつ【夜の女王の涙】を盗みやがった」
「ん? そりゃ金庫にしまう際にちょいちょいっとね」
「てめえ、あの衆人環視の中やりやがったのか。……ちっ。しっかり見てたはずなのに気づけねぇとは……。やっぱ小手先の技だけはたいしたもんだ、ここで捕まえとかねぇといかねえな」
キャスパリーグは後ろに一歩……、下がれない。もうその先は濁流しかない。
「もう後ろはねえぜ。下水で溺れたくなけりゃ観念しな」
「どっちも勘弁願いたいな」
キャスパリーグは懐から漆黒のナイフを取り出す。
それを見て吉柳は呆れた声を上げた。
「おいおい、この期に及んでナイフかよ。快盗法で禁止されてるだろ……」
吉柳は肩をすくめる。
「だけどまあいいさ。前回俺も使ったしな。……それにお前の腕じゃあ俺を傷つけられねえよ。ちゃんと快盗として捕まえてやるから安心しな」
キャスパリーグは首を横に振る。
「そんな物騒な使い方はしないよ、こいつの使い道はこうなんだ」
手袋を脱いだ手で、そのヘマタイトのナイフを握りしめた。
「《魔女の血は、ローランドの身代わりとなる》――のさ」
「てめえ、何言ってやが――」
したたる血をそのままに、キャスパリーグは手を振るう。
迫る血しぶきに吉柳は思わず目を閉じるも、伸ばした吉柳の手は、確かにキャスパリーグの腕を取る――。
――取ったはずだった。
開いた吉柳の目の先、握った手のひらにキャスパリーグの姿はない。
――ザブン。
水に飛び込む音が聞こえた。
「ちくしょぉおおっ、また逃がしちまった」
吉柳は吠え猛った。
「だけど、だけどまだ終わりじゃねぇ」
吉柳は通信機を取り出した。
「警部殿、すみません。またキャスパリーグを取り逃がしました」
『いや、いい。君のことだ、しっかり時間は稼いでくれたのだろう?』
「それは……、はい」
吉柳は悔しさをにじませながらも頷いた。
『おかげで今君のいる場所を中心として、一帯のマンホールの封鎖は終わった』
「ああ、よかったです……」
吉柳の眉根が少し和らぐ
『あと、君が言ってたように水道局員に協力してもらって、ここから下流域の下水のマンホールも順次封鎖していっている。包囲は完成していってるよ……。君も一旦こちらに帰ってきなさい』
「はい、わかりました」
吉柳は頷ききびすを返す。何か見落としているような、一抹の不安を感じながら……。
◆
「ここのマンホールなら大丈夫か……?」
キャスパリーグの口から漏れる小さなつぶやき……。
一つ前のマンホール口、そこは上から強い光で照らされていた。警察が完全に張っていたのだ。
だが今回のマンホール口。そこにはまだ灯りが照らされていない。なんとか間に合ったのだろうか。
そう思いはしごに手をかけようとしたキャスパリーグを鋭い声が止める。
『にっ。そこもダメだ。上で警察が張ってる。フェイクだね』
「あっぶな……。あやうく上るところだったぜ」
キャスパリーグは口の中でつぶやいた。
『油断を誘う手口だね。なかなかにうまい。ぬし一人じゃ引っかかってたね』
キャスパリーグはぐうの音も出ず無言で歩む。
『にぃぃぃ、ダメだ。次も、その次も、ここいら一帯はすべて手配が回ってるね』
「うっそだろ……。さすがに対応早すぎないか?」
『あの探偵の手はずだろうね』
「うああ、おっちゃんの手配かよ……」
『敵ながらあっぱれと言ったところかねぇ』
「褒めてる場合かよ~」
キャスパリーグは天を仰いだ。
「こうなったらどっかを強行突破するしかないか? あえて灯りで照らしてるところを……」
『それしかないかねぇ。調べてる所じゃあマンホールの封鎖を下水の下流域を中心にどんどん進め……』
「おい、どうした? パリュ?」
キャスパリーグの問いかけが聞こえないのか、パリュはぶつぶつとつぶやく。
『そうか、上なら……。うん、ビンゴだ……。下水に詳しい奴がいるのが逆にあだになったねぇ』
「おい、パリュ?」
『なんだい? 今逃げる算段がついた所なんだ。黙ってお聞き』
「お、おう……」
キャスパリーグは気圧されたように頷いた。
『ぬし、体力には自信があるね』
「ああ、ここのところ山の中歩き回ってたからな」
『だろうね。イベントすっぽかしたぐらいだからね』
「その話はもういいだろ」
『にっ。すまないね。いやなに、昔下水はそのまま川に流してたって知ってるかい?』
「そりゃ知ってるけど……。もう何十年も昔の話だろ。それに今そんなこと関係あるのか?」
突然振られた関係のない話に、キャスパリーグは少しいらだちを見せる。
『それがあるんだよ、今の都市の下水ってのはね、下水の流れてた川の上に道路をつくったりして蓋をしただけの暗渠ってものも多いんだ。そしてぬしがいる場所もそうなのさ』
「えっと、それって……」
キャスパリーグの考えが、だんだんとパリュに追いついてくる。
『そう、上流に行けば川につながっている。ただその下水暗渠は上っていくとすぐに側路がなくなる。今日はあいにくの雨。雨で増水した下水を上ることは不可能だ。だから警察が張るのは下流域。でも――』
キャスパリーグがパリュの言葉の後ろを追いかける。
「――でも、今の俺なら出来る。俺なら上流に上がれる」
『にぃ。ただし、体力と魔力が続く限り、だがね。途中でつきたら下水にどぼんだ。やれるかい?』
「やる、やってやるよ」
キャスパリーグは軽く笑って言の葉を口に乗せる。
「《我、川面を走る白鹿を追いかけん》」
そうして逆巻く下水を駆け上っていった。
■2月28日 04:30 香坂家 玄関
やっとの思いで家までたどり着いた麻琴は、雨なのか川水なのか汚水なのか……。全身しとどに濡れていた。
「おつかれさまだねぇ。お風呂を入れてあるよ。ゆっくり入って暖まりな」
あまりに疲れているのか、玄関で出迎えたパリュに言葉を返すことも出来ず、麻琴は小さく頷き風呂に向かう。
「ああ、戦利品もそこに置いときな。あちが片付けとくよ」
その言葉に甘えて、麻琴は宝石をそのままに風呂場に向かった。
それを確認し、パリュは麻琴の荷物を探る。
しばしののち、探り当てた目当ての品、【夜の女王の涙】の上に前の肉球を乗せ目を閉じた。
「ああ……。やっぱり月のエレメントだ。あちの力が取り戻せちまう……」
パリュは目を閉じたまま、小さく、でも何度も首を横に振る。
「まったく……。これからどうしたもんかねぇ」
パリュは目を開き、麻琴の入った風呂場を見つめる。
「ただまあ、今はあの子をいたわるとするかね……」
風呂場へと歩いて行った。
◆
風呂場では、麻琴が頭からシャワーを浴びていた。
冷えた指先がじんとなる。もう動きたくない。目を閉じてただその心地よさを感じていた。
ガラリ。扉が開く。
「あちも入るね」
背後にパリュの気配を感じた麻琴は、湯船をつくってあげようと風呂桶に手を伸ばす。
だが風呂桶はさっと取られた。
「いい、いい。今日くらいはあちがぬしをねぎらってやるよ」
ざばぁ。
背中に湯がかかる。
「ほれ、今日は特別だ。背中を流してやるよ……」
パリュの手がゆっくりと麻琴の背中をなで上げる。
(…………手?)
麻琴は違和感に気づいた。
(なんで手が……?)
回らない思考で無理矢理確認するように、麻琴は体をゆっくりとねじる。
「こら、うごくでないよ」
そこには両の手のひらを石けんで泡立たせたパリュがいた。
見上げる麻琴の目に映るのは艶めく紫黒の髪。だが人間でないことを湿すように、頭頂部に猫を模した耳があった。
視線を下に移すと切れ長の瞳が麻琴をみつめている。さらにその下にはスレンダーではあるものの、女性であることがしっかりとわかる、つんと上を張った胸が……。
麻琴は信じられなとでも言うように目をつむって首を振る。
再度ゆっくりめを開けた麻琴。その正面にあるのはパリュの、下腹部の淡い茂み。
「なんだい、そんなにまじまじと見るでないよ。いくらあちでも恥ずかしいさね」
パリュは身をくねらせた。だがそのおかげで余計にいろいろなものが強調される。
「な、な、な……」
壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す麻琴。
「どうしたい?」
心配になったのか頬に触れるパリュの指先。その感触で疲れた体に加えて精神までもがオーバーヒートし、麻琴は目を回した。
と同時に、ぽんとパリュの姿が猫に戻る。
「にぃ。今はこれぐらいが限界のようだね」
パリュの姿が紫黒の猫になっても麻琴は目を回したままだ。
「これ、ぬし。このままだと風邪を引いちまうよ。起きないかい」
そうして、てしてしと肉球で麻琴を叩きながらパリュは思う。
これから先どうなるかはわからない。ただまあ出来ればこのかわいい弟子を、もう少しだけでも見守っていたいものだと……。
雨の所為かごうごうと逆巻く下水道。真っ暗闇のその側路を歩く人影が一つ。
暗闇の中に白面がぼぉと光る。
「やばかったー。おっちゃん全然動かないんだもんな」
『にっ。あちがちゃんとモニターしてなかったら、危うく鉢合わせするところだったね。感謝するんだよ』
「はいはい、わかったよ。今度またいいご飯用意するから」
『そいつは楽しみだねぇ』
通信機越しにパリュと軽口をたたきながら、人影は歩を進める。その足取りは軽い。
「ま、ちょっと予定外はあったものの無事、【夜の女王の涙】が手に入ったからね。今回はいつにも増して順調だね」
『にぃ。帰るまでが遠足だよ』
「まあそうなんだけどさ。真っ暗闇のこの中じゃ追っ手もこれない。油断のしようがないってものだよ。俺でもこの中じゃ走れないんだよ」
『確かにそうだけどねぇ。おっともうすぐ行き止まりだ』
人影の前で側路が途切れる。前にあるのは逆巻く汚水だ。
「ここを過ぎれば出口のマンホールだよね」
『にぃ。そうなるよ、もう少しだ』
「よし、なら――、《我、川面を走る白鹿を追いかけん》」
胸元の【蒼のメリクリウス】がほぉと光る。
人影は調子を確かめるように小さくジャンプをした。
「うん、大丈夫そうだ。それじゃあさっさとおさらば――」
「――まあそう言うな。もうちょっと付き合えよ」
振り向く人影。その瞳に映るのは、暗闇に浮かび上がるくたびれたスーツの男。
「嘘だろ。なんで吉柳のおっちゃんがいるんだよ」
「真っ暗な中追いかけるのは苦労したぜぇ、ミード・ブライダルの三浦支配人。いやさ、快盗キャスパリーグ」
そこではじめて吉柳はライトをつける。照らし出されたのはキャスパリーグの姿だった。
◆
キャスパリーグは吉柳を警戒しながらも、話しかける。
「で、なんでおっちゃんがこんな所にいるんだよ。この迷路みたいな下水道で鉢合わせるなんて、偶然じゃあり得ないだろ」
吉柳はふんと鼻で笑う。
「そりゃ、お前さんが後生大事に俺の名刺を持ってくれたからだよ。そいつは発信器になっているんだよ。ま、1時間くらいしか持たんがね」
「ちっ」
キャスパリーグは懐から取り出した名刺をぐしゃりと潰し、下水の中へと投げ捨てた。
「おいおい、そいつは結構高いんだぜ。簡単に捨てんなよ。何なら快盗事件の際にお電話いただけりゃ、安く解決してやるぜ。ま、お前さんがしっかり被害を弁済した後ならな」
「うるせぇ。捕まるかよ。にしてもそんな前から疑われてるとわな……」
キャスパリーグはじりと後ろに下がる。
「はん。おめえは小手先の技はたいしたもんだが、知識も経験もたんねえんだよ。知ってるか? ペルシャやヒマラヤンって基本おとなしい猫なんだってよ。井草警部が言ってたぜ」
吉柳は一歩足を進める。
「あとてめえ言ったよな『なかなか気の強い猫ちゃん』って。本物の三浦さんはなかなかの愛猫家で何匹も猫を飼ってる方だそうだ。だとするとその言い方はおかしいわな? ただまあちょっとした言い間違いかもしれん、気の強いペルシャも中にはいるだろう。だからちょいと粉かけようと思ってな、名刺を渡しといたのさ」
「そういうことかよ……」
ちょっとの言い間違い、それに気づいた吉柳にキャスパリーグは内心舌を巻く。
「だけどまあ、決定的だったのはトイレだ。てめえ、トイレのために部屋を出ても不思議と思われないよう、色々小細工してただろ。わざわざ茶を飲むそぶりを見せたりな」
「ああ」
キャスパリーグは頷く。
「だけどそいつは無駄な努力なんだよ。ガキのお前は知らなかったんだろうが、普通新郎新婦の控え室ってのはなトイレは必ずついてるんだよ、何なら風呂がついてるところだってある。なのにトイレに行くと言って支配人が部屋から出るなんておかしいだろうが。そう思って発信器を確認したら……、案の定、上はダミーで本命は地下ってな。いや、あの発信器、高いだけ合って高低差もわかるのさ。はじめて助かったぜ」
「こりゃ参ったね。確かに知識と経験が足りないみたいだ」
肩をすくめるキャスパリーグに、今度は吉柳が質問を投げかける。
「それで……、てめえはいつ【夜の女王の涙】を盗みやがった」
「ん? そりゃ金庫にしまう際にちょいちょいっとね」
「てめえ、あの衆人環視の中やりやがったのか。……ちっ。しっかり見てたはずなのに気づけねぇとは……。やっぱ小手先の技だけはたいしたもんだ、ここで捕まえとかねぇといかねえな」
キャスパリーグは後ろに一歩……、下がれない。もうその先は濁流しかない。
「もう後ろはねえぜ。下水で溺れたくなけりゃ観念しな」
「どっちも勘弁願いたいな」
キャスパリーグは懐から漆黒のナイフを取り出す。
それを見て吉柳は呆れた声を上げた。
「おいおい、この期に及んでナイフかよ。快盗法で禁止されてるだろ……」
吉柳は肩をすくめる。
「だけどまあいいさ。前回俺も使ったしな。……それにお前の腕じゃあ俺を傷つけられねえよ。ちゃんと快盗として捕まえてやるから安心しな」
キャスパリーグは首を横に振る。
「そんな物騒な使い方はしないよ、こいつの使い道はこうなんだ」
手袋を脱いだ手で、そのヘマタイトのナイフを握りしめた。
「《魔女の血は、ローランドの身代わりとなる》――のさ」
「てめえ、何言ってやが――」
したたる血をそのままに、キャスパリーグは手を振るう。
迫る血しぶきに吉柳は思わず目を閉じるも、伸ばした吉柳の手は、確かにキャスパリーグの腕を取る――。
――取ったはずだった。
開いた吉柳の目の先、握った手のひらにキャスパリーグの姿はない。
――ザブン。
水に飛び込む音が聞こえた。
「ちくしょぉおおっ、また逃がしちまった」
吉柳は吠え猛った。
「だけど、だけどまだ終わりじゃねぇ」
吉柳は通信機を取り出した。
「警部殿、すみません。またキャスパリーグを取り逃がしました」
『いや、いい。君のことだ、しっかり時間は稼いでくれたのだろう?』
「それは……、はい」
吉柳は悔しさをにじませながらも頷いた。
『おかげで今君のいる場所を中心として、一帯のマンホールの封鎖は終わった』
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吉柳は頷ききびすを返す。何か見落としているような、一抹の不安を感じながら……。
◆
「ここのマンホールなら大丈夫か……?」
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一つ前のマンホール口、そこは上から強い光で照らされていた。警察が完全に張っていたのだ。
だが今回のマンホール口。そこにはまだ灯りが照らされていない。なんとか間に合ったのだろうか。
そう思いはしごに手をかけようとしたキャスパリーグを鋭い声が止める。
『にっ。そこもダメだ。上で警察が張ってる。フェイクだね』
「あっぶな……。あやうく上るところだったぜ」
キャスパリーグは口の中でつぶやいた。
『油断を誘う手口だね。なかなかにうまい。ぬし一人じゃ引っかかってたね』
キャスパリーグはぐうの音も出ず無言で歩む。
『にぃぃぃ、ダメだ。次も、その次も、ここいら一帯はすべて手配が回ってるね』
「うっそだろ……。さすがに対応早すぎないか?」
『あの探偵の手はずだろうね』
「うああ、おっちゃんの手配かよ……」
『敵ながらあっぱれと言ったところかねぇ』
「褒めてる場合かよ~」
キャスパリーグは天を仰いだ。
「こうなったらどっかを強行突破するしかないか? あえて灯りで照らしてるところを……」
『それしかないかねぇ。調べてる所じゃあマンホールの封鎖を下水の下流域を中心にどんどん進め……』
「おい、どうした? パリュ?」
キャスパリーグの問いかけが聞こえないのか、パリュはぶつぶつとつぶやく。
『そうか、上なら……。うん、ビンゴだ……。下水に詳しい奴がいるのが逆にあだになったねぇ』
「おい、パリュ?」
『なんだい? 今逃げる算段がついた所なんだ。黙ってお聞き』
「お、おう……」
キャスパリーグは気圧されたように頷いた。
『ぬし、体力には自信があるね』
「ああ、ここのところ山の中歩き回ってたからな」
『だろうね。イベントすっぽかしたぐらいだからね』
「その話はもういいだろ」
『にっ。すまないね。いやなに、昔下水はそのまま川に流してたって知ってるかい?』
「そりゃ知ってるけど……。もう何十年も昔の話だろ。それに今そんなこと関係あるのか?」
突然振られた関係のない話に、キャスパリーグは少しいらだちを見せる。
『それがあるんだよ、今の都市の下水ってのはね、下水の流れてた川の上に道路をつくったりして蓋をしただけの暗渠ってものも多いんだ。そしてぬしがいる場所もそうなのさ』
「えっと、それって……」
キャスパリーグの考えが、だんだんとパリュに追いついてくる。
『そう、上流に行けば川につながっている。ただその下水暗渠は上っていくとすぐに側路がなくなる。今日はあいにくの雨。雨で増水した下水を上ることは不可能だ。だから警察が張るのは下流域。でも――』
キャスパリーグがパリュの言葉の後ろを追いかける。
「――でも、今の俺なら出来る。俺なら上流に上がれる」
『にぃ。ただし、体力と魔力が続く限り、だがね。途中でつきたら下水にどぼんだ。やれるかい?』
「やる、やってやるよ」
キャスパリーグは軽く笑って言の葉を口に乗せる。
「《我、川面を走る白鹿を追いかけん》」
そうして逆巻く下水を駆け上っていった。
■2月28日 04:30 香坂家 玄関
やっとの思いで家までたどり着いた麻琴は、雨なのか川水なのか汚水なのか……。全身しとどに濡れていた。
「おつかれさまだねぇ。お風呂を入れてあるよ。ゆっくり入って暖まりな」
あまりに疲れているのか、玄関で出迎えたパリュに言葉を返すことも出来ず、麻琴は小さく頷き風呂に向かう。
「ああ、戦利品もそこに置いときな。あちが片付けとくよ」
その言葉に甘えて、麻琴は宝石をそのままに風呂場に向かった。
それを確認し、パリュは麻琴の荷物を探る。
しばしののち、探り当てた目当ての品、【夜の女王の涙】の上に前の肉球を乗せ目を閉じた。
「ああ……。やっぱり月のエレメントだ。あちの力が取り戻せちまう……」
パリュは目を閉じたまま、小さく、でも何度も首を横に振る。
「まったく……。これからどうしたもんかねぇ」
パリュは目を開き、麻琴の入った風呂場を見つめる。
「ただまあ、今はあの子をいたわるとするかね……」
風呂場へと歩いて行った。
◆
風呂場では、麻琴が頭からシャワーを浴びていた。
冷えた指先がじんとなる。もう動きたくない。目を閉じてただその心地よさを感じていた。
ガラリ。扉が開く。
「あちも入るね」
背後にパリュの気配を感じた麻琴は、湯船をつくってあげようと風呂桶に手を伸ばす。
だが風呂桶はさっと取られた。
「いい、いい。今日くらいはあちがぬしをねぎらってやるよ」
ざばぁ。
背中に湯がかかる。
「ほれ、今日は特別だ。背中を流してやるよ……」
パリュの手がゆっくりと麻琴の背中をなで上げる。
(…………手?)
麻琴は違和感に気づいた。
(なんで手が……?)
回らない思考で無理矢理確認するように、麻琴は体をゆっくりとねじる。
「こら、うごくでないよ」
そこには両の手のひらを石けんで泡立たせたパリュがいた。
見上げる麻琴の目に映るのは艶めく紫黒の髪。だが人間でないことを湿すように、頭頂部に猫を模した耳があった。
視線を下に移すと切れ長の瞳が麻琴をみつめている。さらにその下にはスレンダーではあるものの、女性であることがしっかりとわかる、つんと上を張った胸が……。
麻琴は信じられなとでも言うように目をつむって首を振る。
再度ゆっくりめを開けた麻琴。その正面にあるのはパリュの、下腹部の淡い茂み。
「なんだい、そんなにまじまじと見るでないよ。いくらあちでも恥ずかしいさね」
パリュは身をくねらせた。だがそのおかげで余計にいろいろなものが強調される。
「な、な、な……」
壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す麻琴。
「どうしたい?」
心配になったのか頬に触れるパリュの指先。その感触で疲れた体に加えて精神までもがオーバーヒートし、麻琴は目を回した。
と同時に、ぽんとパリュの姿が猫に戻る。
「にぃ。今はこれぐらいが限界のようだね」
パリュの姿が紫黒の猫になっても麻琴は目を回したままだ。
「これ、ぬし。このままだと風邪を引いちまうよ。起きないかい」
そうして、てしてしと肉球で麻琴を叩きながらパリュは思う。
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彼女の無邪気な笑顔に背中を押され、葉羽は月影館へと足を運ぶ。しかし、館に到着すると、彼を待ち受けていたのは、過去の悲劇と不気味な現象、そして不可解な暗号の数々だった。兄弟が失踪した事件、村に伝わる「月影の呪い」、さらには日記に隠された暗号が、葉羽と彩由美を恐怖の渦へと引きずり込む。
果たして、葉羽はこの謎を解き明かし、彩由美を守ることができるのか? 二人の絆と、月影館の真実が交錯する中、彼らは恐ろしい結末に直面する。
サイキックソルジャー
蒼井肇
ミステリー
ある日、心臓病を患っていた涼は警視庁サイバーアイズのエージェントとなることで助かる見込みがある、サイキックディヴァージュ薬を投与される。しかし、それはもう一つの別人格が半永久的に埋め込まれるというものだった。
第三章突入。おまたせしました。新キャラ登場です。
この満ち足りた匣庭の中で 二章―Moon of miniature garden―
至堂文斗
ミステリー
それこそが、赤い満月へと至るのだろうか――
『満ち足りた暮らし』をコンセプトとして発展を遂げてきたニュータウン、満生台。
更なる発展を掲げ、電波塔計画が進められ……そして二〇一二年の八月、地図から消えた街。
鬼の伝承に浸食されていく混沌の街で、再び二週間の物語は幕を開ける。
古くより伝えられてきた、赤い満月が昇るその夜まで。
オートマティスム、鬼封じの池、『八〇二』の数字。
ムーンスパロー、周波数帯、デリンジャー現象。
ブラッドムーン、潮汐力、盈虧院……。
ほら、また頭の中に響いてくる鬼の声。
逃れられない惨劇へ向けて、私たちはただ日々を重ねていく――。
出題篇PV:https://www.youtube.com/watch?v=1mjjf9TY6Io
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