アンリ千紀

源燕め

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第13章

アンリ・シリンドゥル

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 ローザニアは軍を三つにわけ布陣しているようだった。
 リフランは平原に見えて、小川や小さい丘などの高低があり、大軍を展開するのが難しい地形だ。
 もちろんクレイターヴはそれを知って、この地を戦場に選んだ。兵力差があるぶん地の利は最大限に活かさなくてならない。
 先手を打ったのはローザニア軍だった。南に流れる小川を避けるように、ぎりぎりまで兵を展開して押し寄せてきた。
 これに対するクレイターヴ軍は、左翼のサラン候の一軍だ。
 アンリは、敵が南に兵を展開すると予測できていた。北側には小さな丘が波打つように続いている。馬で駆けたとしてもその威力はどうしても落ちる。兵の数で圧力をかけるためには、ある程度軍を展開できるだけの広さが必要だ。そうなると一手目は南側となるのだ。
 ローザニアの動きを見切ってから、アンリは左翼に六千の兵を出すように進言した。本来ならば布陣は前もって決められている。しかしアンリは、それこそが慣例による弊害だといったのだ。
 混戦状態の場合は、兵は流動的に動かすものだ。なのに何故、最初だけ布陣を決めてから動かさないといけないのか、というのである。
 この言葉にはリュシオンもサラン候もはっとさせられた。これまで疑問に思ったことがなかったからである。
 アンリはこの戦に臨むにあたり兵を五百単位に分け、効率的に陣を組み替えられるよう編成しなおした。
 そして、ローザニア軍が動かした兵の数五千より千多い六千を左翼に割り当てた。
 それと同時に、特に駿馬をそろえた遊撃隊を集め、南の小川へ回りこむように指示をだした。
 ローザニア軍とクレイターヴ軍が激突する直前、遊撃隊からの矢の雨がローザニア軍に降り注いだ。
 戦いの幕が切って落とされたのである。

 遊撃隊は矢の雨を降らせただけで、小川を渡ることなく本陣へ引き返した。
 そもそもこの襲撃は、敵に痛手を与えることが目的ではない。矢の雨に気を取られた瞬間に、クレイターヴ軍が突撃できるようにとの小手先の技だ。
 東の丘の本陣から見ていても、クレイターヴ軍が押しているのがわかる。
「サラン候の攻めは容赦ないですね」
「俺もあいつとだけは戦いたくないな」
 サレイ・ド・サランは怜悧な文人風の容姿から想像もできないほどの猛々しさで、敵兵をねじ伏せていく。
 ひとりの騎士として技量もさることながら、よく軍をまとめローザニアの突進を食い止めていた。左翼は押し気味ながらもこのまま膠着状態になりそうだった。
 そして北側に目を転じると、歩兵の一団が丘の起伏をものともせず、クレイターヴの本陣めがけて突進してくるのが見えた。
 中央の一軍が動かずにいるのは、あれがローザニアの本陣、皇女ロゼ・ヒルデガルドの親衛隊だからだろう。
「リュシオン卿、数が合いません」
「なんだと」
「見えている敵の数が合わないのです。ローザニアにも遊撃兵がいるようですね。この丘から見えないとすると、すでに裏側に回られた可能性があります」
 おそらく、ローザニア軍は朝靄を利用して、一軍をクレイターヴの陣の背後をつく策なのだろう。遊撃隊はおそらく騎馬兵だ。
 正面右から歩兵軍、背後から騎馬兵に攻め入られてはさすがに苦戦を強いられる。
「この丘はくれてやりましょう。遊撃兵を潰しにかかりますよ。足のある奴らは残しておくと、後々厄介なことになる」
 大軍で小軍にあたること、これが兵法の鉄則である。敵が兵を小数に分けたのだと考えるとこれは好機ともいえる。
 アンリはリュシオンの元に残していた六千の兵を一気に相手の遊撃軍にぶつけた。ローザニア遊撃軍は約二千。正確な数がわかっていたわけではないが、戦場に投入されている兵から引き算した数だ。
 丘を駆け下りる勢いがついた三倍の兵を前に、ローザニアの遊撃軍はあっという間に壊滅の憂き目をみることになった。
 丘の上で無聊を囲っていたリュシオンにとって、この遊撃兵たちは格好の獲物だった。
 アンリは初めてリュシオンが剣を振るう姿を見た。クレイターヴの獅子の紋が打ち出し模様になっている甲冑が眩しい。その剣が弧を描くとき、敵兵がひとりまたひとりと地に伏せた。
 リュシオンはアンリを完全に自分の陰に置き、かすり傷ひとつつける隙を与えなかった。
 アンリはせっかく身に着けた剣技を使うことなく、丘を下りきった。
 この頃、やっとローザニア軍の歩兵部隊は東の丘を登りきりそこに軍旗を立てた。それは勝利によってもたらされたものではなく、クレイターヴの本陣が放棄したから可能であっただけだった。
 丘を裏側に駆け下りて遊撃軍を蹴散らしたクレイターヴ軍は、丘を迂回するようにリフランの中央へ戻るしかなかった。この間、丘が邪魔をして戦況がつかめない。朝から始まった戦闘だが、陽はすでに中天を越えていた。
 丘を回りきって、サラン候の軍が見えたとき、リュシオンとアンリは息を飲んだ。
 完全にサラン候の軍が押されていたからだ。
 そこにあったのは、銀色の甲冑の一軍。皇女ロゼ・ヒルデガルドが率いる、ローザニアの重装騎兵の姿だった。

 アンリの背筋に冷たい汗が流れるのがわかった。
 ローザニアの重装騎兵。兄から何度か話を聞いたことがある。兄はどうすれば重装騎兵と戦わずにすむかを考えたと言っていた。
 相手が重装騎兵を繰り出す前に勝敗を決してしまうことが肝要なのだと。それができない場合は、こちらが疲弊する前に退却すべきだと。
 サラン候の軍はこの鬼神のような軍団を相手に、まだ瓦解することなく戦線を保っている。しかしそれは時間の問題のように見えた。
 リュシオンの率いる軍を円錐陣に再編成して、重装騎兵の横腹にぶち当てる。それしか方法は残されていなかった。
 サラン候の左翼軍と正面から戦っていた重装騎兵は、横からきた突然の襲撃に一瞬ひるんだ。楔のような突進である。通常の軍なら中央突破も可能な勢いだが、さすがに皇女の麾下にいる兵だけあって踏ん張りが違っていた。楔は中央まで食い込んだものの、そこで動きが止まった。
 しかしそれで良かったのだ。この意図を間違うことなく汲み取ったサラン候は、疲れ切った自軍を退却させることに成功した。
 そして、さすがの重装騎兵も新たな兵と戦うのは不利と考えたのだろう。徐々に兵を退却させにかかった。アンリはこの機を逃すことなく、じりじりと兵を下げさせた。
 アンリが次々と兵の動きの指示を出すと、その後ろから伝令兵が蜘蛛の子のように散っていく。そしてまた次の伝令兵が集まってくる。この仕組みは戦いが始まる前に絶対に必要だと、リュシオンに進言して編成したものだ。
 特に退却戦では、息を合わせながらの引き際が難しい。それに気を取られ過ぎていたのかもしれなかった。
 伝令兵に紛れて近づいてきた影があったことに気付くのが遅れたのだ。
 その影は明らかに王弟であるリュシオンの背を狙っていた。リュシオンは正面の重装騎兵を食い止めている。
 アンリは剣を抜くと、ためらうことなくリュシオンとその影の間に身を滑らせた。

『おやおや、またお客さんか。どうやらわたしは人気もののようだね』
 斬られたと思った。
 その瞬間、どうやらまた別のアンリの中へ入り込んでしまったらしい。
『しかも、今度はかわいいお嬢さんときたものだ』
『あの…』
『わたしの中にいるんだから、そのくらいはわかるよ』
「おい、シーリ。なにをひとりでぶつぶつ言っている?」
 開けっ放しになっていた扉を、挨拶もなしに入ってきたのは、丸めた紙を腕からこぼれるほど抱えた女だった。
「おや、アーギ。またすごい荷物だね。それは何?」
「新しい軍の編成を考えているんだ。おまえも知恵を出せ」
「知恵ねぇ」
「サルヘジの弓箭隊に手こずっているんだ。次の秋にはまた遠征軍を出すことになる。そのときまでに対策を練る必要がある」
「どうして、わたしが」
「考える必要がるだろう。おまえがこの国の軍師なのだからな。シリンドゥル」
『シリンドゥル!』
 アンリは思わず声をあげそうになったが、この人の中にいるため実際の声はでない。
『へえ、わたしは当代殿の時代では有名人ということかな』
『シリンドゥルの兵法書を記された…』
 騎士であればシリンドゥルの兵法書を知らないものはいないだろう。シリンドゥルはローザニア中興の祖である、ロゼ・アウグスタの軍師である。
 ローザニアはこの時代に版図を広げ、帝国の名を大陸に知らしめた。勢力を二分していたサルヘジ帝国を滅ぼした功績は後世まで語り継がれている。
 しかし、自分はなぜその軍師シリンドゥルの中にいるのだろうか。アンリが戸惑っているのをシリンドゥルのほうが先回りして答えてくれた。
『それはわたしが、アンリ・シリンドゥルだからだよ』
 その答えにアンリは驚いて何も返せなかった。
 あの伝説の軍師が、セルシーヴのアンリだったなど聞いたことがなかった。アンリももちろんシリンドゥルの兵法書を学んだが、そんな話はどこにも書いてなかった。
『もちろん、そんなこと書くわけないだろう』
 シリンドゥルは自分がセルシーヴのアンリであることを誰にも話さなかった。そのことを知っているのは、ロゼ・アウグスタだけだという。
 アンリにそう答えながらも、ロゼ・アウグスタが持ってきた資料に目を通し始めた。そこに記されていたのは、重装騎兵隊の編成案だった。
 ローザニア切っての精鋭である重装騎兵はこのシリンドゥルが編成したものだ。もとは弓箭隊への対策であったことはアンリも知ってはいた。しかし重装騎兵誕生の場に居合わすことになるとは思わなかった。
 アンリ・シリンドゥルとロゼ・アウグスタは意見を戦わせながら、騎兵の装備の良し悪しを検討していく。この日は天気が悪かったのか窓に雨が叩きつけられている音がする。そのうち、雷鳴がとどろきはじめた。
 ぱたぱたという小さな足音が聞こえたかと思うと、開け放しの扉に小さな影がふたつ見えた。
「ははうえ。こわいよう」
 小さな女の子が手を取り合って、ロゼ・アウグスタのもとへ駆け寄った。妹のほうはすでに涙と鼻水の大洪水になっている。姉のほうは、なんとか涙を堪えていたが、それでも母親に抱きついた瞬間に涙がぽろりとこぼれた。
『あなたの娘なのですか?』
『そう、かわいいだろう』
 アンリ・シリンドゥルは、母親にまとわりついている娘たちの姿をみて、和やかな表情を浮かべている。
『あなたが、ロゼ・アウグスタの夫だとは知りませんでした』
『そうだろうね。離婚する予定だから』
『え』
 確かにこの時代、離婚した夫のことを系譜に記すことはないだろう。シリンドゥルはあくまでもロゼ・アウグスタの軍師としか歴史には現れてこない。
プティアンリが生まれるまでだ。わたしたちが一緒にいられるのは』
 アンリ・シリンドゥルの心が曇るのが手に取るようにわかった。
プティアンリが生まれたらわたしはセルシーヴに帰らなくてはならないからね。先に娘が生まれてよかった。あの子たちはアーギの側に残しておける』
 そのとき雷が光った。窓に映ったアンリ・シリンドゥルの姿は、驚くほどサレイ・ド・サランに似ていた。もしかしするとアンリ・シリンドゥルの二人の娘のどちらかがサラン候家に嫁いだのかもしれない。
プティアンリはセルシーヴの静寂の塔でしか育つことができないし、アーギはローザニアを離れられないからね』
『静寂の塔?』
『きみは子供のころ塔の外へ出たことはない? わたしは外に出てえらい目にあったよ。何日も熱が下がらなくなって大変だった』
『あります』
『先祖のアンリたちは枕元でうるさく騒ぎまわるし、えらい災難だった』
『先祖?』
『あれ、知らないの? プティアンリの間はうまくセルシーヴの記憶を整理できないだろう。静寂の塔からでると記憶が制御できず悪くすれば発狂寸前までになる。だから、アンリとして生まれた子供は静寂の塔から出すことはできない。十四・五になれば逆に記憶が薄れて、先代のアンリに記憶の鍵を開放されない限り、こうして先祖の記憶の中に入りこむことはできなくなる』
 アンリ・シリンドゥルは小さく溜息をついた。
『今度男の子が生まれるとその子はアンリかもしれない。でも、女の子でもアンリとして生まれることがあるんだね。わたしも知らなかったよ。これまで、たくさんのアンリがわたしを訪ねてきたけど、みんな男だったしね』
 ふふと小さく笑うと、さらにサラン候に似ている気がした。
プティアンリが生まれたら、私はその子を連れてセルシーヴへ戻る。アーギは女皇としてここに残る。彼女を盟約者に選んだときからわかっていたことではあるんだけどね』
『それなのに、どうしてロゼ・アウグスタを選んだのですか?』
『選んだ? 選ぶ余地なんてなかったよ。初めて会ったときからアーギしかいないと思った。アーギがローザニアの皇女でも女皇でもかまわなかった』
『わたしには盟約者というものがわかりません』
『困ったね。こればっかりは教えてわかるものではないだろうし。さて、きみの盟約者候補が心配しているようだよ。土産をやるから帰りなさい』
 アンリ・シリンドゥルが土産だと言って見せてくれたのは、小さな紙片だった。
『娘たちに重装騎兵を遺したのに、きみに何も遺さないってのは不公平だからね。言っておくけど、わたしの重装騎兵は強いよ。それでも、きみに勝機がないわけじゃない』
 アンリ・シリンドゥルはそう言うと、アンリを元の時間へ送りだしてくれた。

「アンリ、やっと気づいたのか!」
 リュシオンンの声が耳もとで響く。
「そんな大きな声を出さなくても聞こえていますよ」
「馬鹿野郎! なんで俺をかばった!」
「かばったつもりはありませんけど」
「しらばっくれるな。刺客との間に割り込むなんざ、正気の沙汰じゃないだろう」
 意識がはっきりしてくると、そこが野営地の天幕であることがわかった。どうやら退却戦はなんとかうまくいったようだった。
 天幕の厚い布を通しても西陽の朱さが透けている。意識を失っていたのは数時間といったところだろう。
 手当はされているものの、左肩から胸にかけて斬り傷が走っているのがわかった。痛みはあるがそれほど傷は深くない。念のためと着込んでおいた鎖帷子が役にたった。傭兵ならば皮一枚といって笑い飛ばすくらいの傷だ。
「俺は自分の身は守れる。危なっかしいのはおまえのほうだ!」
「そうですけど…」
「二度と俺の前にでるな」
「…」
「約束しろ」
「約束しろと言われても、体が勝手に動いて…」
「それが、たまらないんだ」
 リュシオンはアンリの前にひざまづくと、体を起こしていたアンリを掛け布ごと抱きしめた。
「兄上のことですか?」
「それもある。それにもうひとり」
「もうひとり?」
「おまえの母親だ」
 リュシオンの言葉に、アンリは絶句した。まさかこんなところで自分の母親の話を聞くとは思いもよらなかったからである。
「おまえの父親の盟約者は、俺の父上じゃない。お前の母親だ」
 前クレイターヴ候には異母姉がいた。男子が生まれなかったこともあり、側室の娘でありながら女騎士として育てられたらしい。その後、正妻に男児が生まれ、この子がクレイターヴ候家を継いだ。その後、異母姉は表舞台に出ることはなかったが、陰ながら弟の補佐を続けていた。それを見初めたのがアンリの父であるセルシーヴ候だというのだ。
 表向きには、クレイターヴ候がセルシーヴのアンリの盟約者ということになっていた。どちらにしろ、アンリの盟約者の意味を正しく知るものはほとんどいなく、クレイターヴ候とセルシーヴ候が親友であったことも間違いない。誤った噂を正す者もいなかったのである。
「初めてあったのは、初陣のときだ。伯母上は自分にも同じ年頃の息子がいるのだといって、もうひとり息子ができたようだと喜んでくれた」
 アンリは初めて耳にする母の話がなんだかおとぎ話の一節のようにしか聞こえなかった。
「一緒にいられたのはたった一日だった。翌日、夜明け前に敵の奇襲にあった。斬りかかる敵の刃とセルシーヴ候の間に、おまえの母親はためらうことなく割って入った。セルシーヴ候は止める暇もなく、ただ茫然と亡骸を抱き留めていた」
 リュシオンのまぶたにはまだそのときの光景がやきついているのだろう。
「アンリの奴も俺をかばって、敵の矢の前に立った。考えたうえでの行動じゃなく、本当に体が咄嗟にそう動いただけだというように。おまえも同じように俺の前に立つつもりか。それだけは、やめてくれ」
 リュシオンの腕に力がこもるのがわかった。
「だから、俺の前には立つな。俺がお前を護るから、俺の前には立ってくれるな」
「はい…」
 アンリはそう答えるしかなかった。
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