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第十一章

第十一章

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 アーレがマールスフェルト基地へ来てから、S01シュルーケンの修理は順調に進み始めた。それは、もちろん、オスカーが上に強く具申したこともあいまってではあったが、ユリウスにとっては、シュルーケンの側にいて、整備を手伝えるようになったことが一番嬉しかった。
「ティーゲルハイト少尉が撃墜王エースでいてくれてよかったですよ」
 オスカーはこのマールスフェルト基地でも撃墜数一位を維持していた。それにより、多少のわがままも通るのだ。
「これほど、S01の板金が手に入りにくいものだったとは、正直思っていませんでした」
「ごめんなさい」
「どうして、ザルツハイム二飛が謝るんですか?」
「わたしが、メンメルトでの戦いで、爆風をもろに受けたから…」
 S01の胴体の下半分は、ほとんど板金がはがされた状態になっている。焼け焦げとともに、細かい穴が無数に空いていたからだ。
「何言ってるんです。これだけの損傷を受けながら、よくここまで飛んでくれました」
 アーレは微笑みながら、ユリウスの頭を撫でてくれた。
「本当は、S02になるはずだった部品を、無理にまわしてもらえたんです。頑張って仕上げないと。ザルツハイム二飛も手伝ってくれるんでしょ」
「了解!」
 ユリウスがそう言って敬礼すると、アーレも冗談めかした敬礼をかえしてくれた。
 この分だと、あと一日か二日で整備は終わるだろう。
 今日も他の三人は出撃していったが、次の作戦では、なんとか一緒に出撃し、少しでも戦果をあげたい。そう思っただけで、整備の手もはかどる。

「おい! 火を噴いた機体が降りるぞ! おまえらも手を貸せ!」
 格納庫の外から声がかかる。戦況が悪くなってきてから、このマールスフェルト基地でも、被弾して不時着する機体が多くなっていた。
 ユリウスはアーレと一緒に手漕ぎポンプのついた消防用の手押し車を格納庫から出し、いそいで滑走路に向かった。
「逆光で見えにくいなぁ」
「かなりの煙だな。翼をやられたんじゃないのか、ふらつきが酷いぞ」
「誰の機体だ?」
 整備士たちが、手でひさしを作りながら、見上げる横で、ユリウスも逆光に目を細めながら、空を見上げた。
「カール!」
 ユリウスの眼には、はっきりと映っていた。それは、カールのL25改だった。
「シフェラー二飛の機体なんですか? なってこった!」
 アーレは頭を抱えた。L25改キーリャは、それでなくても制御の難しい機体だ。翼を損傷した状態で、不時着するのは、ほかの機体の比ではないほどの離れ業だ。
 ふらつきながらも、ユリウスたちが消化ポンプを持って待ち構えている、二番滑走路に向かって飛んできている。
 ようやく誰の目にもL25改だとわかったときには、その被弾の状況がわかってきた。
「エンジンから煙は出ていますが、火が出ているわけじゃない。すぐにエンジンを切って滑空に切り替えたんでしょう。それよりも、右翼のほうが…。機銃を受けたんだと思います。数発連続した穴が。六…いえ八箇所、空いている」
「本当にそこまで、見えてるんですか?」
 眼鏡の上から双眼鏡を使っているアーレでもそこまでは、見えないらしい。
「いまは、わたしのことより、カールのことを…」
「と、言われてもできることは、そんなにありませんよ。シフェラー二飛にはとにかく降りてもらわないと。われわれの仕事はそこからなんです」
 アーレの言うことはもっともだ。もう誰の目にもL25改の姿がはっきりと見えていた。ふらつきながらも、まっすぐに滑走路の延長線上に機体を持ってきている。近づいてきてもエンジンの音はしない。やはり、火災を恐れてエンジンを切り、滑空しているのだ。エンジンを切っているということは、止まるときにギアを切り替えることで、エンジンブレーキを利かせることができない。
「ここにいたら危ないです! 滑空からの不時着になります!」
 その言葉の意味がわからないものはここにはいない。皆、全速力で駆けだし滑走路の側から離れた。それとほぼ同時に、L25改キーリャの車輪が地面を擦った。右翼に穴があいているため、どうしても機体が斜めになり、両足がつかない。左の車輪がついた瞬間、翼がばたついた。それでも、かくかくと左右に揺れながら、L25改が、腹をすることもなく滑走路を走っていく。左右の車輪が交互に地面にぶつかる衝撃に耐えきれず、とうとう左の足が折れた、それと同時尾翼と左翼端が地面に落ち、派手な火花を上げながら滑っていった。それでも、滑走路の先の格納庫に突っ込む手前で、無事止まることができた。
 消防ポンプの手押し車が数台、L25改に駆け寄ったが、エンジンの煙は大したことなく、水を数分かけるだけでおさまった。
 風防にも被弾したのか、ガラスが白くなるほどひびが入っている。
「カール!」
 ユリウスはすぐに機体へ駆け寄り、胴体横の梯子をよじ登ると、風防を開けようとしたが、被弾したことで掛け金の嵌っている枠が歪んで開かない。中にいるカールも動く様子がない。
 ユリウスは、割れた風防に肘鉄を何度も食らわせ、ガラスを割りぬいた。そしてなんとかユリウスの小さな手が入るだけの大きさの穴を空けると、手が傷だらけになるのも構わず、その穴に腕を突っ込んだ。風防の中で握りこぶしをつくり歪んだ部分を拳で殴ると、がちっという音がして、風防の掛け金が外れた。
 ユリウスは、自分の手を風防の中から引き抜いた。肘の先から拳までガラスの欠片で血まみれになっていたが、そんなことを気にしている暇はなかった。風防を開けると、カールは中で意識を失っていた。肩に被弾していて、そこから血が染みて飛行服を朱く染めていた。上空で出血すると、気圧の関係でなかなか血がとまらないことがある。着陸してほっとして気を抜いたあと、失血で気絶したのだろう。
「誰か手を貸してください! シフェラー二飛を医務室へ! 担架をお願いします!」
 そう叫んで、ユリウスがL25改の胴体から飛び降りると、大柄な医務班の兵士が、カールを操縦席から担ぎ下ろした。その体から、ぽたりと血の滴が落ちる。
「はやく止血しないと!」
「そんなに騒がなくても、このくらいの怪我では死にませんよ」
 医務班の兵士は、怪我人を見慣れているからか、冷静な対応で手早くカールの腕を縛って止血すると、そのまま担架に乗せて官舎のほうへ戻っていった。
「ザルツハイム二飛も医務室へ」
「あ、はい。一緒に行って様子を見てきます……」
「違いますよ。その腕、手当してもらってください」
 ユリウスの右腕には、風防の硝子で無数の切り傷ができていた。そして、ぽたぽたと血が筋を作って地面を朱く濡らしていた。
「気がついてなかったんですか?」
 アーレが呆れたようにそう言った。実際、ユリウスはカールのことで頭がいっぱいで、自分の腕のことまで思いがいたらなかった。
「L25改のほうは、整備班が何とかしてみせますよ。だから、ザルツハイム二飛は、ちゃんと腕を治してもらってください。わかりましたね」
「……了解」

 ユリウスは、アーレに言われた通り、官舎に併設されている医務室へ向かった。このマールスフェルト基地には軍病院もあるが、怪我の程度によっては医務室での処置で済ますことが多い。
 カールは上半身脱がされて、機銃で肉がえぐられた箇所を手当されていた。
「派手な出血の割には、怪我は浅い」
 軍医は看護兵に包帯を巻くように指示をだすと、手元のカルテになにやら難しそうな文言を書いていた。
「空の上で怪我をしたから、派手に出血しただけだろう。たいしたことはない」
「良かった…」
 腕や手に刺さったガラス片を看護兵にピンセットで抜いてもらいながら、カールの状況をきくと、ほっとして小さく息をはいた。そのすぐ後、容赦なく傷痕を消毒され、思わず声が出そうになったが、歯を食いしばっただけで、何とか堪えた。
「風防を割って、そこに手をつっこんだって、おまえは馬鹿か」
 軍医がユリウスの右手をつかんで引き寄せた。
 ユリウスの右腕は切り傷よりも、注射の後の黒ずんだ痣のほうが数段痛々しかった。軍医はその痣を見たあと、ようやくユリウスと目を合わせた。
 その後、驚いたような顔になり、なんども口を開けたり、閉じたりを繰り返して、ようやく言葉が出てきた。
「おまえ。その眼の色…。ザルツハイム研究所にいた子どもか……?」
 ザルツハイム研究所。
 ユリウスは、久しぶりにその言葉を聞いた。今は自分の名前になっている、湖のほとりにあった、小さな研究所の名を。

 ノルトシュットランドの空襲で、少年に助けられたユリウスは、まだ六歳だった。飛行機から降ろされた後、しばらくは、その基地の官舎の隅でおとなしくしていたが、戦災孤児だとわかると、孤児院に収容されることになった。
 ユリウスを引き取りにきたのは、白衣をきたやせぎすの男で、なぜか十歳以下の子ともだけを選り分けていた。
「歯をみせてごらん」
 ユリウスは言われた通りに歯を見せた。
「ああ、いいね。健康かどうかは歯をみればおおよそ見当がつくものなのだよ」
 そう言って、ユリウスを車の荷台に乗せた。そこにはユリウスのような子どもが数人乗せられた。
 ユリウスは、隙をみて逃げ出すつもりだった。少しでも早く、あの街へ戻るのだ。クラリスを置き去りにしてきた、あの港町に。そればかりを考えていた。しかし、荷台の戸は鍵がかかっていて、子どもの力ではどうすることもできなかった。
 何時間走ったのだろう。朝、基地を立ったのに、真っ暗な荷台から外に出ると、すでに空が朱く染まり始めていた。湖の水面に夕陽が反射して、美しい。
 その景色に見とれていると、背中を突きとばされ、建物の中に押し込まれた。引き取りにきた者とは違う、頭の禿げあがった柄の悪い男だった。
「とっとと歩けよ! このクソガキ」
「何すんだよ!」
 子どもたちから、文句が出る。ほとんどが路上で暮らす繊細孤児だ。こちらも口が悪い。
 男は扉を後ろ手で締めると帽子を脱いでおじぎをした。奥から出てきたのは、あの白衣のやせた男だった。
「ザルツハイム博士。すいません、遅くなっちまって。オッテンシュミット基地で集めてきた分で」
「ノルトシュットランド周りで帰ってきた私より、遅くなるなんてね」
「途中、空襲で道がやられちまってて、遠回りするしかなかったんでさ」
「それは、わたしも同じだったがね」
「いやあ、面目ないです。でも、ほら、ちゃんと送り届けたんですから」
「わかっている、持って行きたまえ」
 革袋のようなものを受け取ると、禿げ頭の男は、ほくほく顔で出て行った。
「ハインツくん。この仔たちを部屋へ」
 そう呼ばれたのは、こちらも白衣を着ていたが、随分と若い、少年の域を少し出たくらいの男だった。
「ノルトシュットランドから到着した仔の中には、火傷の重い者もいたようですが」
「応急手当はしてある。まあ、容体が悪くなるようなら、今回の実験からは除外しよう」
「わかりました」
 ハインツは、ユリウスと一緒にいた子どもたちを連れて、廊下に出ると、突当りにある大部屋に連れて行った。そこには、二段ベッドがぎっしり詰め込まれていた。
「好きなところに寝ていい。ただし、けんかはするな。奥の二つのベッドにいる仔たちは具合が悪い。世話をしてやれ」
 ユリウスは、ハインツが扉を閉めて出て行くとすぐ、扉に耳をあてて様子を探った。足音が遠ざかっていく。しばらく時間が稼げるかもしれない。すぐ部屋の奥にある窓辺に近づいた。窓には鍵がかかっておらず、簡単に上に上げることができた。冷たい風が部屋の中に吹き込むカーテンを揺らした。
「…んーん。うっ…ん」
 その風が肌にあったのだろう。奥のベッドに寝ていた子どものひとりが呻いた。こんなささやかな風でも痛むのかと、少し気になって、ユリウスはベッドを覗き込んだ。随分と小さい、まだ、三つか四つか。頭の後ろから顔にかけて包帯がまかれており、上半身も包帯だらけだ。
 その子がまた、我慢できずに寝返りをうった。包帯をしていないほうの顔がユリウスのほうにむけられた。
「ク…、クラリス………!」
 ユリウスはその場にへたり込んだ。体中酷い火傷を負って、うめき声をあげているのは、数日前に、自分がノルトシュットランドで置き去りにした妹だった。

 この孤児院では、病気でもないのになぜか毎日山のように薬がでる。昼過ぎには、みなで並んで診察を受けてから注射だ。ユリウスもここに来て数日後から、こうやって注射を受けるようになり、すでに、腕のあちこちが痣になって、消える暇がない。
 こんなところすぐにでも逃げ出したかったが、重症のクラリスを動かすことはできない。ここでは最低限の手当はしてくれる。二日に一度は、包帯を替え、薬を塗ってもらえる。逃げ出したとしても、路上で暮らしていたのでは、これほどの手当を受けることはできないだろう。
 クラリスの痛みを思えば、ユリウスの腕にいくら痣が残ろうと、そんなことはものの数ではなかった。
 いくつも注射を打った。
 注射を打たれると、気分が悪くなったり、頭痛がしたりすることもあった。なかには、頭が痛いといって横になった後、そのまま冷たくなってしまった子どももいた。
 重症だったクラリスは、少しづつ回復していった。しかし、記憶が曖昧になっていたようで、ユリウスのことを姉だとわからなくなっていた。たとえ、クラリスが思い出せなくても、ユリウスは、ずっとつききりで看病をし続けた。
 半年もすると、クラリスはなんとか起き上がることができるようになった。しかし、空襲の恐怖からか、どこかぼんやりとしていて、あれだけおしゃべりだったのに、ひとことも口をきかなくなっていた。
 これまで、怪我が重かったこともあり、クラリスは他の子どもと違って、まだ、薬も注射も受けていなかった。しかし、歩けるようになると、大人たちはクラリスを診察室に連れて行った。
 妹が初めて注射を受けることになり、心配だったユリウスは、こっそり診察室の前までつけていき、その扉の鍵穴から様子をうかがった。
 クラリスは袖をめくりあげられ、肩の少し下あたりを消毒される。ユリウスや他のこどもたちがいつもされることだ。
 ザルツハイム博士が注射器を取り出し、小さな瓶から薬を吸い上げる。その後注射器を少し上に向け、一滴、薬液を吐き出した。
 細くて柔らかい、クラリスの腕にぷすりと注射針が刺さった。
 クラリスの泣き声が診察室いっぱいに響きわたった。
 ユリウスのように慣れていても、針が刺さる瞬間は痛い。小さなクラリスにとって、初めての注射はさぞ辛いことだろう。自分のところに帰ってきたら、いっぱいいっぱい褒めてやろう、そう思っていた。
 火のついたような鳴き声が突然途切れた。
 ユリウスは、扉の隙間から必死にクラリスの様子を確かめた。大人の陰からみえたクラリスは口の端に泡をうかべ、ぐったりとしていた。
「ああ、この子には合わなかったようだね」
「仕方ない、そういう子はたくさんいるよ」
「カンフル剤を打ってみよう」
 そういうと、違う注射をクラリスに打とうとしていた。
「やめて!!」
 ユリウスは思わず、白衣の大人たちの前に飛び出した。しかし、クラリスにたどり着く前に、引き倒され、肩をおさえつけられた。
「なんだ、こいつは?」
「ああ、この子の姉ですよ」
 助手をしていたハインツがそう答えた。
「うん? この眼の色、この子には適合したとようだね」
「そうです。良い結果がでつつありますよ」
 嬉しそうにそう答えるハインツの腕から逃れようと、ユリウスは必死で体をひねった。
「クラリス! クラリス! あんたたち、クラリスに何したの!」
「何って、いつも君たちが打っているのと同じ注射だよ。ただ、きみの妹には合わなかったみたいだね」
 そういうと、ザルツハイム博士はその手にあった注射をクラリスに打った。
「やめて!」
「ああ、これは、ただの気付け薬だ」
 ぐったりとしていたクラリスが、突然はげしく咳込みはじめ、その後、ぜいぜいと苦しそうに激しくあえぎ始めた。
「一時間もすれば、落ち着くだろう。ただ、この子はもう用済みだね」
「わかりました」
「クラリス! クラリスを返して!」
「姉のほうは、部屋に戻しなさい」
「いやだ! クラリスと一緒でないなら、戻らない!」
 ユリウスは力いっぱい暴れたが、たかが六歳のこどものことだ。ハインツがユリウスの腹に一発くらわすと、あっけなく意識を失った。

 ユリウスが目を覚ましたとき、窓の外はすでに暗くなっていた。すぐに自分の部屋の寝台だとわかった、二段ベッドがいくつも押し込められた。いつもの大部屋だ。下の段のひとつに、いつもクラリスと二人で寝ていたが、今日はたったひとりだ。体を起こそうとすると、腹にずんと重い痛みがあったが、そんなことを気にしている時ではなかった。
 部屋の扉の鍵は空いていた。共有のトイレが部屋の外にしかないからだ。
 クラリスの状態を確かめなければ、そればかりが、頭のなかにあった。音をたてないように廊下を走りながら、鍵穴をのぞきこんではクラリスを探した。
 けほけほと小さい咳が聞こえる部屋があった。クラリスのものかもしれない。すぐに飛び出して、その背中をさすってやりたい。扉にぴたりと耳をつけて、様子をさぐった。誰もいないことを確信してから、部屋の扉を薄く開け、クラリスの側まで小走りで駆けより、その小さな体を抱きしめた。
 そのとき、部屋の灯りがついた。
「また、おまえかね…」
 ザルツハイム博士が腕を組み、扉の前に立っていた。
「その眼いいね。暗闇でもよく見えるだろう」
「それが何?」
 確かに、真っ暗な部屋のなかでも、クラリスがいるのがわかった。
「うん? きみたちは全然似ていないね? 本当に姉妹なのか」
「そうよ!」
「いや、違うな。顔の骨格からして違う。路上の浮浪児には、よくあることだ。幼いものたちが片を寄せ合って暮らしているうちに、兄弟姉妹のように大きくなっていくなんてことがね」
「クラリスは、私の妹だ。あんたがどう言ったって、それはかわらない」
「なら、その妹が生まれたときのことは覚えているのか? さあ、どうだ? 血のつながった姉妹だというなら、妹が生まれたときまでは、母親は一緒だったはずだ」
「……っ」
 ユリウスには答えられなかった。ユリウスが路上で暮らし始めたときには、もうすでにクラリスと一緒だったからだ。ザルツハイム博士の言うことはもっともだが、母親のことはうっすらとも思い出すことはできなかった。
「いや、まあ、そんなことはどうでもいい。私はきみが欲しい。単刀直入に言えば、逃げられては困る」
「あんたたちが、クラリスに酷いことをするからだ。こんなところにはいられない」
「まあ、可能性があるうちは、試したいからね」
「そこをどいて、わたしは出て行く」
「どかないね。その仔を連れだしてどうする。女の子だというのに顔の半分が焼けただれた状態で、かわいそうに。どうだい、わたしと取引をしよう。ここにいれば、その子の火傷の痕を治してやろう。皮膚を移植するんだ。ただ、この仔の火傷は範囲も広く、治療に時間がかかる。きみがわれわれの言うう通り、ここに留まって実験に付き合ってくれたら、妹を治療してあげよう」
「その言葉は嘘じゃないの」
「ああ、約束しよう」
「クラリスに変な注射を打ったりしない?」
「しないよ。そんなことをしても無駄だからね」
「わかった。クラリスの体を元通りにしてくれるのなら、わたしのことはどう扱ったってかまわない」
「何か誤解しているようだね。そんな酷いことをしないよ。きみにはわたしの素晴らしい実験につきあってもらうだけだ」
 それから、飛行学校に入学するまでの六年間、ユリウスの腕には数えきれないほどの注射が打ちこまれた。淡い褐色だった眼の色は、暗い赤に変わってしまった。それと引き換えに驚異的な視力を得ることができた。ユリウスの眼には、昼の星でも見ることができるようになっていた。

「あなたは、ザルツハイム研究所を辞めたんですか?」
 このマールスフェルト基地の医務室でユリウスの手の怪我を診察していたのは、ザルツハイム博士の助手をしていたハインツだった。あの頃は十八くらいに見えたが、いまでは、二十代半ばの医師で、年相応に見える。
「辞めた? いや、違うな。ザルツハイム研究所はもうない」
「どういうこと!」
 ユリウスは思わず椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「なんだ、聞いていないのか。ザルツハイム博士は、ノイエ・デモクラティアに亡命したんだよ。実験対象の仔どもたちと、その実験結果のカルテと一緒にね」
 ハインツには知らされていなかった。博士の指示で空軍本部へ実験で良好な結果が出た者たちを飛行学校に送り届け、研究所に帰ってみると、そこはもぬけの殻だった。
「もし、ザルツハイム博士に亡命の話をもちけられてとしても、わたしは断っただろうけどね。わたしは、リヒテン・ライヒに忠誠を誓っている。デモクラティアの奴らと一緒に研究などまっぴらだ」
「クラリスは? 妹はどうなったの?」
「それこそ、聞いてないのか? おまえの妹は、とっくに亡くなっていたと思うけど。おまえが研究所を出て、飛行学校へ入学した少し後だ。あの頃使っていた薬には適合しない仔が多くてね。確か、おまえの妹もだめだったんじゃないかな」
 そんなはずはない。ユリウスがこうしてS01に乗って戦っているのは、クラリスに治療を受けさせるためだ。体を作り変えて、軍で戦果をあげるためだ。
「ああ、それを知らせたら、おまえが軍を辞めるかもしれないから、教えてなかったんだな。ザルツハイム博士がやりそうなことだ。おまえも、わたしもあの男にまんまと騙されたんだ。わたしは栄えある帝国研究所の主席研究員の座を、おまえは妹の命を失ったってわけさ」
 うそだ。
 クラリスは、あの湖のほとりで待っているはずだ。
 あれから一度もお姉ちゃんと呼んでくれなくなったけれど。自分を見て笑ってくれなくなったけれど。それは、ユリウスがクラリスを見捨てて、自分ひとりで逃げたせいだ。ユリウスは怪我ひとつなく逃げおおせて、クラリスは体中に火傷を負った。そんな姉を許すことなんてしなくていい。
 もう、二度とクラリスのことを見捨てない。
 わたしが頑張って戦争を終わらせるから。そうしたら、お姉ちゃんが迎えにいってあげるから。また、一緒に暮らそう。
「おまえの眼、随分と紅味が増しているな。ちゃんと見えてるのか? 飛行学校に入学したとき、あと四年持てばと言っていたが、それほど進行が早いなら、そろそろ失明するんじゃないのか?」
 ザルツハイム博士の研究により、ユリウスの視力は考えられないレベルまで引き上げられていた。それは眼にいく血流を異常なほど増幅させることで初めて成せたことだった。あまりの血流の激しさで、眼が暗い紅になっていた。しかし、そのような状態が長く続くわけもない。
 ユリウスの視力は、飛行学校入学時を頂点として、下がり続けていた。ザルツハイム博士は、ユリウスの視力の限界をそこから四年と判断を下していたのだ。
「まあ、今となっては、その眼がどうなろうと、リヒテン・ライヒの敗戦は間違いないさ。いままで、いくつ基地がやられたと思っている? もう終わりなんだよ、リヒテン・ライヒも、わたしも、おまえも!」
「勝手に終わらせるんじゃねぇよ」
 ハインツの左頬にカールの握りこぶしがめりこんだ。
「人の枕元で、ごちゃごちゃうるさいと思っていたら、何胸糞悪い話してやがるんだ!」
 右の拳でも殴ろうとしていたが、さすがに肩の傷に響いたのか、小さくうめき越えを上げた。
「おい、ユリウス。こんな奴の話を真に受けるな。おまえには、仲間がいる。ティーゲルハイト小隊がおまえの帰る場所だ。わかったな」
 そう言うと、カールはへたり込んでいたユリウスを立たせた。
「こんな奴と一緒の空気を吸いたくないぜ。ユリウス、部屋に戻るぞ」
 そう言って、ふらつくユリウスの腕を引き、医務室を出て行った。
 
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