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第七章

第七章

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「最近、出撃回数が多いですね」
 アーレが疲れた顔をみせている。それもそのはずだ。ここのところシュルーケンは連日作戦にかりだされている。一昨日など一日に二回も出撃することになった。S01シュルーケンは、とにかく手のかかる機体だ。それは、100キロもある爆弾を投下する際の反動で、微妙にフラップがやられたり、機体の下部に損傷を受けたりするためだった。
「すみません」
 ユリウスが思わず謝ると、アーレが慌てて手を振った。
「ザルツハイム二飛が謝るようなことじゃないですよ。ここの機体も数が減ってしまって、生き残った操縦士の負担が大きくなっていること、わかってますから」
 ここ数週間、デモクラティアの攻勢がとまらない。
 比較的小型の戦闘機を大量に戦場に投入してきてから、一気に形勢が逆転した。すでにメンメルト諸島のあたりは、完全に抑えられてしまった。
 新鋭機を次々と投入してくる敵軍に対して、リヒテン・ライヒ軍では、新鋭機の話はまったく聞かない。
「S01からこっち、一機種も投入されていないですからね。それどころか、L27だって、ここ何か月か補充がありません」
「カールは、ツェッペンベルグ大佐からL25改を譲ってもらえて、幸運だった?」
「いやあ、あの機体に乗るのを幸運って言えるのかどうか。実際シフェラー二飛は良くやってると思います。あの難しい機体で、しっかり護衛の任務を果たしているんでしょう」
 ユリウスは、こっくりとうなづいた。
 先週、カールはようやっと撃墜数一を上げた。雲中を飛び出してきた敵機を、正面から機銃で打ち抜いたのだ。
「もちろん、大佐の飛行技術には遠く及ばないですけど、シフェラー二飛は、基本に忠実にしっかりと飛んでくれるので、損傷がほとんどなくて整備が楽で助かってます」
「ツェッペンベルグ大佐が飛んでいるのを見たことがあるのですか?」
「ええ、もちろん。あの人の飛び方はむちゃくちゃです。キーリャには加重がかかってないのかってくらいにね。まるで羽根の生えた猫ですよ」
 でも、あの飛び方は嫌いになれないのだと、アーレは笑って言った。
 ユリウスは、オスカーの飛び方が好きだった、どこか凛としていて、隙のない飛び方をする。オスカーとアルベルトは、この基地に配属されて、キリエに徹底的に飛び方を仕込まれたと言っていたが、どうやら、飛び方というものには、その人の性格が反映されるものらしい。
「午後の出撃には、間に合わせます。軽く腹に入れてきてください」
 アーレは、機械油で汚れた雑巾をユリウスの手から取り上げるとそう言った。
「いい。別にお腹すいてないから」
「だめですよ。また痩せてしまうでしょう」
「痩せてない。ずっと37キロだし」
「このアーレ・ノイマンの目はごまかせませんよ。ザルツハイム二飛は背が伸びてるんです。その分、体重も増やさないと、どんどん痩せてしまいます」
 ユリウスはこの基地に来て三センチも背が伸びた。軍服の裾からは、膝を折って座らなくてもくるぶしが顔を出したままだ。
「出撃前に食べたら、空で気分が悪くなる…かも…」
「なんて言葉信じるわけないでしょ。もう新兵扱いはしませんよ。なにも腹いっぱい食べて来いなんて言ってません。パンでもなんでもいいので、つまんできてください。上空で貧血でも起こされたら、たまったもんじゃありませんから」
 アーレはそう言って、ユリウスを格納庫から追いやってしまった。

 ユリウスは仕方なく官舎に向かったが、その途中でいつもカールに嫌味を言っていた連中と行き合ってしまった。
「おれは見たんだ! メンメルト諸島の近くにいた。絶対にあれは新型艦だった」
「おまえは、いつも大げさなんだよ。偵察隊に所属してるくせに、報告は正確にするんだな」
「本当だ! 司令部にも報告した」
 ユリウスはその話に耳をそばだてながら、廊下をすり抜けた。この奥のつきあたりが食堂だ。食堂前の掲示板には、今日も官報が張り出されていた。
『メンメルト諸島近海で、艦隊を撃滅』
 前にアルベルトが官報の言葉をそのまま信じるなと言っていたが、その通りだと、いまのユリウスにはわかる。
 現実では、メンメルト諸島近海の小競り合いでは敵の優勢が続いている。このヴェストホーフェン基地の目と鼻の先にまで、敵軍は押し迫っているのだ。
「あの、何か軽食を…」
 食堂に入って、近くにいた厨房兵に声を掛けると、嫌そうな顔をしてユリウスの言葉を無視して、流し台の掃除を始めてしまった。ユリウスは意味がわからず、食堂を見回したが、昼時だというのに、ほとんど人がいない。いつもなら、この時間は席を取るのも難しいほど押し合いへし合いになっているはずだ。
「ザルツハイム」
 奥からオスカーの声がして、そちらに顔を向けると、何かがユリウスに向かってとんできた。咄嗟にそれを受け取ると、非常食に使う固焼きのビスケットだった。
「いまはそれしかない。口の中がからからになるから、一緒に水分を捕れ」
「少尉…?」
「しばらくの間、昼飯の支給はない。掲示板に出ていただろ。操縦士には特別にそいつが支給されることになった」
 食料の供給が悪くなっているのは感じていたが、一斉に昼食が省かれるほど追い詰められていることに驚いた。チーズがないだの、ハムがないだの、カールがときどきぼやいていたが、このヴェストホーフェン基地の状況はもっと悪くなっていたのだ。
「それから、午後のS01での出撃はなしだ」
「え?」
 ユリウスは、敵の新型艦がでてきたかもしれないこの時期での出撃とりやめに違和感を覚えた。それが顔にでてしまったのだろう、オスカーが説明を付け加えた。
「S01での、だ。別機でおれと一緒に出撃してもらう」
「別機?」
「おまえのその眼が必要になった」

 オスカーに連れられて格納庫の前までくると、アーレが気付いて声をかけてきた。
「ティーゲルハイト少尉、S01の整備は終わりましたよ。L27は給油の順番待ちです」 
「L27の給油はいい。W04で出ることになった。副座をこいつに合わせてやってくれ」
「W04って、ヴァイザーヴォルフ? 偵察機じゃないですか。少尉が偵察に?」
「時間がない。手早く頼む」
「ああ、もう、わかりましたよ! ザルツハイム二飛、W04の副座に上がってもらっていいですか」
 表の駐機場にある、W04まで小走りで向かい、副座にあがった。まだ機体に温もりが残っている。午前中に誰かが乗っていたのだろう。もしかしたら、官舎ですれちがった男かもしれない。
 ユリウスが偵察席に座ると、足先しか床につかない。前に乗っていた人間が大柄だったのかもしれない。というよりも、この空軍にあっては、ユリウスが小さすぎるのだ。
「ああ、こりゃ全然ですね。一杯まで前に寄せてもだめですか」
 アーレがユリウスの足先を確認して、ため息をもらした。
「大丈夫です」
 飛行学校の訓練機のころから、体格に合わない操縦席には馴れていた。
「だめですよ。訓練とは違うんです。空戦になった場合、足がつかないと踏ん張れないでしょう。特に副座は自分の予測できない方向に振られます。こんな状態で出撃させるわけにはいきません」
 そう言うと、アーレはユリウスを副座から降ろし、手早く座席を取り外してしまった。足元に踏み台を組み込んで、ビスで固定すると、再び座席を戻した。
「踏み台分くらい重くなったところで、偵察隊の体重よりずっと軽いですからね。ザルツハイム二飛は。どうですか、足元」
「ありがとう、足の裏、ぴったりつきます」
「良かったです」
 副座の整備をすませて、アーレが地面に降りると、背中からオスカーの指示がとんだ。
「給油も、機銃の装填も半分でいい。近場だ」
 アーレの他にも数名が手伝いにきてくれており、手早く、W04の整備が進んでいく。
「ティーゲルハイト少尉は、W04に乗ったことはあるのですか?」
 ユリウスはヴァイザーヴォルフの機体に背を預けている、オスカーに問いかけた。
「ない。おれは戦闘機乗りだ。本来なら、偵察機には搭乗しない」
「なのに、なぜ?」
「言っただろう。おまえの眼が必要だと。午前中に出た偵察隊の情報があてにならん」
「偵察なら、わたしがS01で」
「あれは、爆撃機だ。見つかったら逃げられない」
 S01は優秀な機体だが、本来爆弾を運ぶために設計された機体であるため、機動性には欠けるところがある。
「それに、操縦をしていると、細かい箇所を偵察するのは難しい。そのため、偵察機は複座になっている。飛行学校で習っただろう」
「…すみません」
 習ったのかもしれないが、ユリウスの記憶には残っていなかった。飛行学校で学んだ座学は、十二歳でしかなかったユリウスには難しすぎた。しかも、その頃のユリウスはまだ文字もほとんど読めなかった。いまでも、難しい文章を読むのには時間がかかる。
「整備が終わったようだ。すぐに上がるぞ」
「了解」

 オスカーの操縦する機体に乗るのは始めてだった。もしかすると、普段単座の戦闘機にしか乗らないオスカーもこうして、後ろに人を乗せて飛ぶのは初めてなのかもしれない。
 一瞬の揺らぎもない、滑らかな離陸は、とても一度も搭乗したことのない機体を操縦する人間のものとは思えなかった。
 W04は、ヴァイザーヴォルフ・白狼と名づけられた偵察機だ。鳥の名前がつけられることの多い空軍の機体の中で、異色の存在だった。雪の中に潜む白狼になぞらえて、空の青と雲の白で塗装されていた。全体的に細身で機動力にすぐれているのが最大の特徴だった。機銃の装填数や対空弾の搭載に制限はあるものの、その分燃費が良く長距離飛行が可能だった。
「少尉、目的地をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「メンメルト諸島だ」
 給油を半分と言っていたから、近海だとは思っていたが、本当に目と鼻の先だ。この機体ならものの十五分で到着するに違いない。
「敵にみつかりたくない。高度を限界まで上げる」
 そう言うと、オスカーは操縦桿を引き、徐々に高度を上げて行った。薄い雲はあるものの、午後の光が眩しい。
 雲があるのもうっとうしいが、まったくの快晴も偵察には厄介だ。敵から丸見えになるからだ。
「どうだ、この高度では無理か?」
「いえ、雲間に島影が見えています」
「…さすがだな」
 ユリウスの答えに、オスカーは驚きを隠しきれないようだった。高度をとって、なおかつ雲間を縫うようにして、海上を見ているのだ。それで島影を判断できるというのは、ユリウスのこの眼だからこそできる技だった。
「メンメルト諸島は、判別できるか?」
「はい、南西、十一時の方向、島影が四。現在の速度ですと、後、二分で上空かと」
「上等だ」
 W04は高度を落とさず、そのままメンメルト諸島上空まで差し掛かった。前の操縦席に座っているオスカーに向かって、ユリウスが叫んだ、
「少尉! 敵、艦影、一!」
「新型か?」
「……あれは、艦、なのでしょうか?」
「どういう意味だ?」
 おそらく、オスカーの目には艦影すら判別できていないのだろう。この異様さをどう伝えていいものか、ユリウスには適切な言葉を探すのに必死だった。
「普通の戦艦の二倍から三倍はあるかと。しかも戦艦の上が滑走路になっていて、そこに小型機が駐機しているようです。その数二十二いえ、二十三」
「戦艦の甲板が滑走路…?」
「はい。あ、そのうち一機が、滑走路へ…」
「気付かれたか!」
 上空を飛ぶうちに、雲が随分と流れていってしまい、こちらの機影が海上に落ちている。いくら塗装していも、影が海面を差すのをとめることはできない。
 ユリウスの眼には、敵の小型機が離陸する姿がはっきりと見えた。甲板にある滑走路だけで離陸するため、必然的に機体があの小ささになったのだ。長距離飛行には不向きでも、海洋上に母艦があるのなら、そこで羽を休めることができる。そもそも戦闘領域へは艦で向かい、そこで離陸するのなら、燃費はさほど重要な要素ではない。小型で艦上滑走路の距離で離陸可能かどうかが、この敵機の必須条件だったのだ。
「何機上がった?」
「確認できたのは五機です」
「撒くぞ!」
「了解」
 オスカーはW04のエンジンの回転を限界まであげ、振り切ろうとしたが、敵の小型機はその背後に追いすがってきた。W04は、やや旧型機ではあるが、リヒテン・ライヒ空軍では足の速さに定評のある機体だ。しかし、デモクラティアの技術力はすでに、リヒテン・ライヒを上回っているのだろう。
「ザルツハイム、舌を噛むなよ!」
 そう言うと、オスカーは、わざと飛行速度を緩め、敵機のすぐ前方についた、これでは敵の機銃の格好の的だとユリウスが思ったその瞬間、W04は、右翼を傾けながら上昇し、機体をひねるように、背面飛行となった。その間も飛行速度を徐々に緩めていったため、敵機は、逆さまになったユリウスたちの頭の下を通過していった。敵機が通過した瞬間、今度は右翼を下に傾けひねることで、一回転して元の状態にもどった。これで、完全に敵の背面に躍り出たのだ。
 ほんの一瞬の曲芸じみた動きの後、W04の機銃が火を噴いた。本来なら、十数発連射するはずの機銃で、オスカーが撃ったのはたったの六発だった。しかし、その六発は、正確に敵機の小ぶりのエンジンを打ち抜いていた。火を噴いた機体から、操縦士が脱出し、落下傘で洋上へと堕ちていく。
 W04ヴァイザーヴォルフは狼という名だ。しかし、アーレの言葉にあったように、オスカーの操縦はまるで羽根の生えた猫のようだった。猫というより、その獰猛さは、虎か豹あたりなのだろうとその自由自在な動きにユリウスは呆気にとられた。
 普段、S01の護衛をしているとき、オスカーはこんな派手な空戦はしない。L27という最新鋭の戦闘機に搭乗しながら、ユリウスの乗るシュルーケンの左脇から離れることなく、小隊に近づく敵を牽制し、隙があれば、撃ち落とすにとどめているのだ。
 これほどの操縦士が、自分の護衛をしているということに、ユリウスはいたたまれない気持ちでいっぱいになっていた。
「まだ、うるさい小蠅どもがいるな」
「残り四機です。下方、艦上に出撃準備をしていると思われる機体が、さらに二機」
「よっぽど、この間の情報を我々に知られたくないと見える」
 デモクラティアとしては、この艦の情報がリヒテン・ライヒ軍にもれるのは、一日でも遅い方が良いのだ。あの艦はまるで洋上を動く空軍基地だ。自由に戦闘機を運びそこから離陸させる。そして、戦闘が終われば着陸させ、戦況が悪くなれば、洋上を撤退するのも容易だろう。
 だからこそ、オスカーとユリウスは、この情報をなんとしてもヴェストホーフェン基地まで持ち帰らなくてはならない。
「ちょっと、荒っぽくなるぞ。歯をかみしめ過ぎるなよ」
「了解」
 了解と答えたものの、何をどうしたら先ほどの操縦より、荒っぽくなるのかユリウスには想像がつかなかった。
 W04の後ろには、まだ四機の小型機がしつこく追尾している。機銃でこちらを銃撃してくるが、ほんのわずかな操縦桿さばきで、オスカーはそれをよけていく。
 後ろから機銃掃射されているにもかかわらず、その弾路を的確に予測して、躱しているのだ。しかし、四機もの機体に追い回されているのでは、いつかは限界がくる。
 そして、今回の出撃にあたっては、偵察のみということもあり、貴重な銃弾は最低限しか装填してこなかった。その上、燃料も十分とはいえない。派手な空戦をしていたずらに動きまわるだけの余裕はないのだ。
 オスカーは、突然、極限まで操縦桿を前に倒した。すると、W04は機首をぐんと真下に向け、墜落するかのように下降を始めた。しかも、エンジンの回転を最大限にあげ加速すると、海面めがけて突進した。
 猛烈な加重がかかり、風防がぎしぎしと派手な音を立ててきしむ。ユリウスは、足元の踏み台をしっかりと踏みしめようとしたが、あまりの下降速度に、体が浮き上がる。体を固定している安全帯が肩に、腹にくいこんで、息がつまる。
 後部の偵察席からは、操縦席が邪魔で、前方がすべて見えているわけではない。それでもほぼ垂直に降下しているため、風防の見える限りのすべてが海の色に染まっていた。この状況に恐怖を抱かないものがいるのだろうか。
 かみしめるなと言われても、奥歯に力が入り、ユリウスの口の中に血の味がひろがる。このまま堕ちるのかと、覚悟を決めたとき、エンジンの回転音が切れるのを感じた。
 W04は、完全に自重だけで落下していく。
 その隣を、W04を追い掛けるようにエンジン全開で追尾降下していた敵機がそのまま海面に突っ込み、撃沈した。
 その水しぶきを浴びるほど海面に近い距離で、オスカーは力いっぱい操縦桿を手前に引き、エンジンを全開で回した。
 海面すれすれで、W04は直角に近い軌道を描きながら、波をかすめるように水平飛行に持ち込んだ。
 後ろついてきていた残りの敵機も同じように、水平飛行に移行しようとしていたが、一機はそのまま水中に突っ込み、もう一機は機体を起こすことはできたものの、胴体を海面に打ち付けそのまま動かなくなった。残りの一機は、垂直降下の途中で離脱したようで、姿が見えなくなっていた。
「ようやく、撒けたか」
 慣れない複座の偵察機で、四機を葬り去ったオスカーは、まるで大したことはまるでなかったのように、平然とそう言った。
 海面すれすれで、水平飛行していたW01は徐々に高度を戻し、基地へ帰還することになった。 

「ザルツハイム二飛! しっかりしてください!」
 アーレの声だというのはわかっているのに、返事ができない。勢いのあるしゃべり方をしているのに、声がひどく遠くから聞こえるような気がする。
 ヴェストホーフェン基地に帰還したはずだ。いつも見ていたオスカーの滑るようになめらかな着陸を体で感じた。だから、もう機体から降りていいはずなのに、体が思うように動かない。
 重いまぶたをようやっとのことで開けてみたが、白い膜がかかったように何も見えなかったので、もう一度閉じた。
「ノイマン、ちょっと下がれ」
 ユリウスは、荷物のように自分の体が持ち上げられたのがわかったが、どうすることもできなかった。ただ、頭が割れるように痛いのと、腹の中がよじられるような不快感でどうにもならなかった。
「腹のものを全部吐け。寝床でやられたら、たまらんからな」
 冷たい言葉とは裏腹に、背中をさする手は優しい。
 ユリウスは、言われたとおり、気持ち悪いと思っていた胃の中のものをすべて吐き出した。胃液と一緒に血の味がする。
「ちょっと待ってください! ザルツハイム二飛! 血が出て! どこか被弾したんですか!! 怪我は!?」
 焦っているアーレの声が耳元でしているが、やはりとぎれとぎれにしか聞こえてこない。
「馬鹿が、加重のかかった状態で歯を食いしばっていたんだろう。この出血は歯茎からだ。W04は被弾なしだ」
「ティーゲルハイト少尉! 後ろに人を載せているのに、曲芸じみた操縦をしたんじゃないでしょうね。いくらなんでもこんな状態になるなんて…。偵察席は、操縦席と違って、自分が感知できない動きで振り回されるんですよ。それ、ご存じですよね!」
「おまえが言う曲芸じみた操縦でもしなければ、こちらが堕とされていた。ザルツハイムは飛行酔いだ。吐くだけ吐いたら、医務室のベッドに放りこんでおいてくれ」
「少尉!」
「おれは司令部に報告にいく、後は頼んだ」
 オスカーの手がユリウスの背中から離れた。その温もりが去っていくのと同時、ユリウスのぼんやりとしていた意識は、さらに薄く靄がかかるように濁っていき、やがてすべてを手放した。

 頬に風を感じる。潮を含んだ少し重い風は、ヴェストホーフェン特有のものだ。窓が開いているんだろう。ゆっくりと目を開いたが、まだはっきりとは見えない。それでも、ユリウスは、官舎の自分の部屋の二段ベッドではないことはわかった。
「気が付いたか…?」
「カール? ここは?」
「医務室だ。おまえ着陸した後、派手に吐いて、意識を失ったんだ。覚えてないのか」
「……口の中が気持ち悪い」
「だろうな」
 そう言うと、カールが水の入ったブリキのカップと洗面器を渡してくれた。口をすすげということだろう。
 ユリウスはありがたく、その通りにさせてもらうと、いくらか人心地がついた。
「飛行酔いだそうだ。時間がたてば自然に治るってさ。後で軍医が来てくれることになっているけど」
 カールの説明を聞いて、ユリウスは自分の不甲斐なさに、顔をうつむけた。
「…飛行酔い」
「ティーゲルハイト少尉に聞いた。偵察機でかなり無茶な操縦をしたって。後ろにある偵察席に座っている者にはままある症状らしいぜ」
「少尉の操縦はすごかった。ほとんど機銃を使わずに、敵を四機も堕とした」
「ああ、そうだってな」
「わたしの護衛をしているとき、少尉は自分の力を出せていない…」
「でも、それがおれたちの小隊に与えられた任務だろう。ユリウスが気に病むようなことじゃない」
「でも…」
 そう言って、体を起こそうとしたユリウスは、猛烈な眩暈に襲われた。身をよじるように突っ伏すと、上掛けの布が寝台の下にすべり落ちていった。
 そのときはじめて、自分が飛行服を脱がされて、軍で支給されている薄い袖なしの肌着と下履き一枚になっていることに気が付いた。
 カールは少し赤くなって、ユリウスの背中に手を貸して横にさせると、上掛けを拾い上げてかけなおしてくれた。
「いや、これはおれが脱がせたんじゃなくて、看護兵が……」
「別に、気にしてない」
 もうすぐ十五になるが、まったく胸にも尻にも丸みがない、女とは思えない骨ばった体だ。飛行機に乗るなら、女らしく見えるための余分な肉は必要ないと思っている。だから、カールにそんな顔をさせたくなかった。
「なあ、おまえのその腕…」
「腕?」
「ああ。言いたくなら言わなくていい。ちょっと気になって、悪かった」
 カールに言われて、久しぶりに思い出した。ユリウスの左の二の腕から肘にかけて、内側には青黒い痣が無数にある。痣の数が多すぎて、皮膚が固く変質しているところもある。普段気にしていないので忘れていた。
「別に。小さいとき、注射ばっかりしてたら、こうなった」
「注射? 体でも弱かったのか」
「そう言うわけじゃないけど…」
「ザルツハイム。目が覚めたか?」
 ノックもせずに病室に入ってきたのはオスカーだった。
「はい」
「気分は?」
「もう、大丈夫です」
「なら、着替えろ。司令部へ行く」
「了解」
「ティーゲルハイト少尉、ユリウスは、本当にさっき意識が戻ったばかりです。もう少し休ませてやったほうが」
「ザルツハイムが持ち帰った情報は急を要するものだ。水をかけて目を覚ましてやっても良かったんだが、自然に意識が戻るまで待ってやったのだ。これ以上は待てない」
「カール。ありがとう。わたしは大丈夫。少尉、着替えますので少し時間をください」
 ユリウスの言葉にカールも立ちあがり、部屋を出た。
 ひとり部屋に残されたユリウスは、ベッドの脇においてあった軍服に袖を通した。少し袖丈と裾が短くなってしまった軍服。ボタンを止めようとして、まだ視界がぼやけていることに気が付いた。どうしてもうまく焦点が合わない。だからといって、もたもたしている時間はない。指先の感覚だけでボタンをとめ、足元においてあった軍用ブーツに足を突っ込んで、扉の外に出た。

「甲板に滑走路とはね。デモクラティアの奴らとんでもないことを思いついたもんだ」
 ユリウスが指令室にある黒板に、W04に乗って見てきた敵の新鋭艦の絵を描くと、キリエ・ツェッペンベルグが感心したようにそう言った。
「リヒテン・ライヒ海軍の持つどの戦艦よりも大きかったです。おそらく、戦艦級の二倍から三倍の大きさはあります。そして、その艦上の機体は、L27の六割程度の大きさの戦闘機かと。まだあの艦上に二十機近く搭載されていると思います」
 オスカーが四機始末したとはいえ、まだまだ脅威となる数の戦闘機があそこにはある。
「艦砲の種類は? さすがにそこまでは見えなかったか?」
「いえ、確認できた範囲では、主砲級の装備はありませんでした。かわりに、直上に打てる機銃を備え付けているように見えました」
「大佐、おそらく、機体の離着陸や格納に、主砲は邪魔なのでしょう。戦闘機のための母艦としての機能に特化しているとみました」
 そうオスカーが口を添えると、ユリウスはうなづいた。
「メンメルト諸島上に、新たな基地建設は?」
「申し訳ございません。あの艦を見つけたあと、すぐに敵に察知されてしまい…」
「このヴェストホーフェンまで逃げかえることになった、とそういうわけだな。飛行酔いでぶっ倒れたらしいな。ザルツハイム二飛」
 キリエは、からかうようにそう言った。机の引き出しを開け煙草の箱を取り出すと、火をつけた。
「吸うか?」
 ユリウスは差し出された煙草の箱にどうしたらいいかわからず固まっていた。これは上官のそれも司令官の命令なのだろうかと戸惑っていると、オスカーが横からその箱を受け取り、自分の分を一本取り出すと、キリエに返した。
「わたしが代わりにいただきますよ。いくらなんでも、こんなこどもに煙草は良くないでしょう」
「ふん。従軍している以上、一人前として扱っているだけさ。ザルツハイム、このティーゲルハイトも、初めて私の後ろに乗ったときには、飛行酔いになって、べろべろのげろげろだったから、気にするな。背面飛行や捻りといったあの手の飛行技術は、うまい奴の後ろに乗って感覚を覚えるのが一番手っ取り早い。空いてる機体があれば、わたしが直接教えてやっても良かったんだが…」
「あなたの後ろに乗りたいなんていう、奇特な部下は誰もいませんよ」
「残念なことにな。ティーゲルハイトとヘッセが最後だったか」
 そこまで言って、煙をふうと吐き出した。
「あの頃は可愛かったのにな」
「人は成長するものですから」
「本当に、可愛くなくなったな」
 ぎりぎりの長さまで煙草を吸い切ると、キリエは、灰皿に吸殻を押し付けて消した。
「さて、本題に戻そうか。ザルツハイム二飛。、明朝、S01で出撃だ。あいつに、100キロを落としてきてもらう」
「了解」
 ユリウスはそう言って、キリエ・ツェッペンベルグ大佐に敬礼をし、司令官室を後にした。
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