春告げ

菊池浅枝

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4.雪催い

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 ぱちり、ぱちんと、囲炉裏の火の中で薪の折れる音がする。
 囲炉裏に掛けられた鉄瓶から、ゆらゆらと白い湯気が立ち昇り、草庵の低い天井へと吸い込まれて消えていく。冷えたでしょう、と、りくから渡された白湯で手指を温めていた小和は、真向かいに座るりくをそっと見遣った。

 いつもの、穏やかな微笑みを浮かべて、りくはお茶の用意をしてくれている。棚から取り出した茶筒から茶葉を摘まみ、急須に入れる。
 その茶葉を見て、小和は思わず訊ねた。

「……菊花茶ですか?」

 急須の中には、乾燥した島寒菊しまかんぎくの葉と花が入っていた。野菊の一つで、黄色の小さな花弁を平らに開いて咲く。

「はい。この前、御堂さんがお土産にくれたんです」

 りくは答えながら、鉄瓶の湯を少し冷まし、急須に注ぎ入れた。菊のすっきりとした苦い香りが、湯気と共に仄かに漂ってくる。小和は先に渡されていた白湯を一口飲んで、喉と肺を温めてから、口を開いた。

「私が来ること、分かっていましたか?」

 りくは、首を横に振った。

「予感は、ないこともなかったですが。けれど、人のすることを予知することは、できませんから」
「じゃあ、私が来た理由も」
「小和さんから話していただけたら、嬉しいですね」

 にこりと、りくは微笑む。
 小和は黙る。何をどう言えば良いか、どう話したところで、ここに逃げてきた言い訳にならないことは、分かっている。
 躊躇う唇を何度も叱咤して、ようやく、小和は重い口を動かした。

「喧嘩したんです」
「誰と?」
「御堂、さんと……」

 そうして、小和は、かいつまんだ事情を話した。たどたどしく、何度も言い淀みつつ。
 りくはただ、静かに聞いていた。口を挟むこともなく、相槌も最低限度で、小和が話し終えるのを、ただ、じっと。

「それで、つい、逃げてしまって……」

 結局、逃げた理由はきちんと言えないままに、言われたこととしてしまったことだけを話して小和がそう結ぶと、りくは、湯飲みに注いだ菊花茶を小和に渡しながら、

「――それは、怖かったですね」

 と。
 頷いた。

 ――小和は、泣き出したくなった。

 先ほどまで、ぼろぼろ泣きながら走って、もう、とうに乾いたと思っていたのに。

 どうして。
 どうして、分かってくれたのだろう。
 そう、怖かった。
 誰かと喧嘩したことも。
 喧嘩をするのが怖いのだろうと、言われたことも。

「自分が今、ここにいるのは間違っているかも知れない、と。そう思っているのに、それを、誰にも訊けずにいるのは、怖いことです。それで間違いだと言われるのも怖いし、間違いでないと言われたところで、こればっかりは、本当の正解なんて分からないものですからね。誰かに訊いてどうなることでもない。だから、必死で平気なふりをして、見ないふりして日常を送っているのに、それを突然、人に指摘などされたら、不意に目の前に、落とし穴を掘られたような気持ちになってしまう」
「……はい」

 ああ、本当に。
 私はなんて、臆病で、弱くて、ずるくて。

「あの人は口が悪いから。それで、つい、一番悪い手を選んでしまって、余計に怖かったんですね」

 はい、と、小和は、頷くしかなかった。
 彼の言うとおりだ。一番弱虫な選択をした。一番馬鹿な選択をした。
 手の中で、菊花茶の温度が、少しずつ逃げていく。
 そこでふと、りくが小和を見据えた。

「でもね、小和さん」

 語調が変わる。

「――それくらいのことで、彼らが、あなたを嫌うと、思いますか?」

「え……」

 小和は、言葉に詰まって顔を上げた。
 りくは、相変わらず微笑んでいた。ぱちんと、囲炉裏の火が爆ぜる。その炎に照らされて、りくの影に、仄かな赤みが差している。

「よくない言い方でしたね。人の気持ちなんて、本当のところは分かりませんから。でも、信じられる部分はあります。少なくとも、僕は、そんなことで小和さんを嫌いには、ならない」

 りくは、膝に手を置いて、言い切った。

「僕がそう思うんです。碧水屋のおかみさんや姉さんたち、きっと増穂さんも、小和さんがちょっと人に怒ったくらいで、嫌いになったりしませんよ」

 小和さんだって、その程度で、みんなを嫌いになったりなんかしないでしょう?
 そう言って、りくは自分の菊花茶を、一口含む。苦すぎたかな、と眉を顰めて独りごちた。

「人の気持ちの、本当のところなんて分からなくても、これまでの日々の中で、その人柄の信じられるところが、必ずあります。その人の言葉、仕草、行動、例えそれがその人の一端でしかなくとも、その一端を、信じて良いときがあると思います。だからこそ、僕はあなたという人を好ましく思うし、碧水屋のみなさんだって、あなたがどうして怒ったのか、誰のために怒ったのかくらい、きっと分かっています。だから、御堂も、それくらいのことで小和さんを嫌ったりはしないと、僕は思います」

 小和さん、と、りくは、湯飲みを置いて小和を真っ直ぐに見た。
 囲炉裏の火が、りくの頬を照らしている。その瞳が、琥珀のように煌めいている。
 まるで月のように。

「君が、生きていることを申し訳なく思ってしまうくらい、誰かを気遣える優しい子だと、僕は知っている。奇跡は偶然にすぎない。誰にでも起こり得るし、誰にも起こり得ない、平等なものだ。だから、必然を求めなくて良いんです。怖がらないで良い。君がやりたいことを選んでも、君はきっと周りに愛されるし、もし間違えていたら、誰かが教えてくれる。それだけのものを、君は、この十年で築いている」

 ――君を、愛している人を。
 君自身を。

「もう少し、信用しても良いんだよ」

 りくは、その琥珀に煌めく瞳を細めて、笑った。

 小和は、以前りくに、恩返しなどできないよ、と言われたことを、思い出した。
 あの時りくは、本当は、これを言いたかったのかも知れなかった。恩返しなどと、気を張らなくても大丈夫なのだと。そんなことで気持ちを疑うような関係なんかじゃないと。奈緒が心配そうな顔で微笑うのも、おかみさんが小和の我が儘を楽しそうに聞くのも、栢が時折、溜息をつきながら尻尾で小和を叩くのも。

 熱の引いたはずのまなじりから、ほろりと涙が落ちる。
 渡された湯飲みを、握り締めた。悲鳴のような嗚咽が漏れるのを、今度は我慢ができなかった。こんな風に、生家で過ごしていた頃のように泣くのは、拾われてから、初めてだった。
 子どものようにしゃくり上げてしまう。

 りくは、何も言わずに待ってくれていた。
 優しく微笑んだまま。

 そうして、一頻り声をあげて、泣いた。
 囲炉裏の火が爆ぜる音と、小和の泣き声だけが、しばらく響いていた。

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