春告げ

菊池浅枝

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1.水澄む

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「おかみさんから、お菓子をいただいてきたんですけど、取り込み中でしたか?」
「わあ、いつもありがとうございます。構わないですよ、入ってください」


 りくに促されて、小和は小屋の中へと入る。小さな土間の先に、六畳ほどの囲炉裏間と、その左側に縁側が、奥の襖の向こうには、四畳の書斎があった。右の壁際、箪笥の前で、猫又の栢が丸くなっているのを見つけて、小和はりくを振り返る。

「三角ですよ」
「えっ」

 小和が声を上げるのに、りくは手を払うようにひらひらと手を振った。

「いやいや、いいんですよ、ほっといて。粉薬、全部拭き取っちゃったの、自分なんですから。自業自得です」
「けっ、人間は良いよな、三角にかからねぇんだから」

 栢がふてた様子で呟くのに、そんなことないですよ、特に僕なんかは、と、りくが再び説教を始めるのを見て、小和は胸をなで下ろした。りくがこの様子なら、本当に酷くはないようだ。

 りくは、この小屋の主人である。
 尾羽の山に住む薬師で、この辺りでは、一番確かな腕をしていた。山暮らしとは思えないほど色白の、優しげな見た目をした青年で、しかしいつも草臥くたびれた藍色の袴を履いていた。歳は三十よりは手前に見えるが、言葉や仕草には、老成した落ち着きと知識が滲んでいる。

 小和にとっては、物腰の柔らかな、優しい兄のような存在であったが、その実、詳しい歳を、小和も聞いたことはない。一年前、猫又の栢が来てからは猫と人のふたり暮らしだが、少なくとも十年以上前から、りくはここにひとりで住んでいる。十年前、小和を山で見つけてくれたのも、りくだった。その頃から、外見には一切変化がないように思う。

「小和さん、どうぞ。お茶にしましょう」

 一頻り説教を終えたりくが、小和を振り返って掌で囲炉裏端へと促した。
 用意してくれた座布団に座り、おかみさんに持たせてもらった菓子包みを小和がほどくと、りくは、わ、と声をあげた。

「山水のくずですね。さすがおかみさん。今日は、山がすごく綺麗なんですよ」

 手元には、滝を思わせる銀色の葛に、滝壺に映り込む山影のような緑の練り餡と小豆餡を包ませた葛まんじゅうが、三つ並んでいた。小和は微笑む。お土産分以外に、小和の分もひとつ、おかみさんは入れてくれている。

「お山がきれいだと言ったら、直ぐにこれを用意してくださったんです」
「ああ、今日は是非、お山を見ながらお茶していただきたいですね。どうです、最近は。そろそろ、秋の茶会の時期ですよね」

 そうですね、と答えながら、小和は、栢が寄り添うように寝ている箪笥を見た。何故か開きっぱなしになっている三段目は、昔、小和が使っていた段だ。

「そろそろ、私もひとりでお客様のおもてなしをしても良いだろう、て、姉さんたちが薦めてくれたんです。だから、今回は私も、茶会の席主候補に入れていただいていて」
「ということは、琴弾の方もですよね。楽しみですねぇ。そうですか、もうそんなになるんですね」

 りくがしみじみと呟くのが、朝のおかみさんの声と重なって、小和は笑った。

 小和がりくに拾われたのは、十年前、小和が五つの時だ。
 その日、小和は、ほとんど虫の息だった。そもそもその二日前には、息をしていなかった。心の臓も止まったと思われていた。筵を被され、山に埋葬されていたのを、丸一日も経ってから息を吹き返し、土を掻いて、小和は外に這い出たのだった。

 ――苦しくはなかった。山の夜露は冷たかったが、不思議と寒さは感じなかった。痛みも空腹も、体のどこか遠くにあるようで、鈍く、鈍く、息を吐いていた。外に這い出てすぐ、村の埋葬地であったそこを下りようとしたが、足腰がたたず、山を村とは別方向に転がり落ちた。大きな木にぶつかって止まり、動けもせずに葉陰に隠れるように横たわって、更に一日。このままどうなるかも分からないまま、ぼんやりと、心臓だけが動いていた。

 か細すぎて草も揺れないような息を、もう何度目か吐き出した時。
 足音が聞こえた。

 ――……人かい?

 葉陰を覗き込んだその人は、まるで、昔話に出てくる月の人のような、白い頬で微笑んでいた。
 それがりくだった。

「――このあとは、用事が?」

 お茶と薬草の匂いをさせながら、目の前のりくがそう訊ねる。す、と鼻に抜けるような薬草の匂いは、りくとこの小屋に染み付いていて、尾羽のお茶の香りとともに、小和には馴染み深い匂いだった。

「はい、笹岡先生のところへ、お遣いに」

 一服終えたところで、じゃああまり引き留めてしまうのも良くないですね、とりくが立ち上がる。小和も腰を上げて、もう一つ、菓子箱が残っている風呂敷を抱えた。

「ふたりの様子が見れて良かったです。栢君、お大事に。また、店にもいらしてくださいね」

 ぜひ、とりくが手を振るのに頭を下げて、小屋を出る。視界の端で、栢がふりふりと二本の尾を振っていた。

 小屋の周りは山が深い。それほど遠くないところに学校と寮が建っているはずだったが、小屋の周辺では、全く人の気配が感じられなかった。小屋の裏手には井戸がわりの滝と滝壺があるが、その水音も、小屋から数歩も離れると聞こえなくなってしまう。小屋の周囲は、温度も、匂いも違うのだ。

 来た獣道を真っ直ぐ戻って、しばらくすれば、道の入り口にあった小さな置き石が見えてくる。この石は裏から見ると仄かな赤色をしていて、表から見た時とは違って、すぐにそれと分かる。その石に鴉が一羽留まっているのを横目に、小和は獣道を抜けた。明るい陽が頭上に射す。梢が途切れて、校舎から学生寮に続く、細いながらも開けた道に出た。

 三時くらいかしら、と、木々の影の角度から小和は考える。りくの小屋の辺りは山深くなっているのもあって、昼日中でも涼しいが、日の高い時間だと、まだ少し汗ばむ陽気だ。

 笹岡のいる職員寮は、本校舎の敷地外にある。学校の正門から麓町へ伸びる一本道を通り過ぎ、今は野草が根を張る田畑を横目に畦道を進めば、校舎の敷地塀が途切れて山の木々と接する辺りに、こぢんまりとした職員寮がある。

 元々は集落の村役場で、学生寮が本校舎とほぼ同じ大きさなのに比べると、職員寮は町の宿屋くらいの大きさしかなかった。木造二階建てだが、部屋は二階の三部屋だけで、一階は、生徒や客人のために解放されている大広間が、その大部分を占めている。本来は用務員や事務員のための寮で、この学校の教師のほとんどは、交通の便のいい隣町に下宿していた。乗合自動車や馬車を使ってここまで通うのが普通で、教員でここを使っているのは、笹岡だけだった。

 小和は玄関の戸を軽く叩いてから、小さく開けて中に声をかける。

「ごめんくださあい」

 少しだけ張った声を上に向ければ、二階の一室から、戸の開く音が聞こえた。

「はーい、はい、はい」

 二階から階段を降りてきたのは、中井という事務員だった。七十過ぎの、しかし壮健な老人で、闊達な体躯が猫背で少し曲がっている。もとはこの集落に住んでいた人だ。

「ああ、碧水屋あおみやさんとこの、」

 中井が小和を見て笑った。

「小和です。あの、おかみさんのお遣いで来たのですが、笹岡先生は」
「ああ、ごめんねぇ。先生今学校にいるんだよ、資料室の方」

 中井が眉を下げるのに、小和はああ、と頷いた。

「じゃあ、学校の方に行ってみますね」
「すまんねぇ、無駄足踏ませちゃって」

 小和は首を横に振って、これ、おかみさんからです、と包みを解いて菓子箱を渡す。

「職員寮の皆さんで召し上がって下さい」
「おや、いつもありがとなぁ」

 じゃあ、ご挨拶がてら先生を呼びに行ってきますね、と、小和はお辞儀をして、来た道を戻る。
 今日は休日で、授業はないはずだったが、こういうことは、よくあった。

 校舎正門から今度は敷地へと入り、教室棟を回り込んで、図書館や実験室などがある特別棟に向かう。太陽の明るい時間は、休日でも校舎に施錠はされておらず、誰でも入ることができた。さすがに教室には鍵がかかっているが、笹岡が資料室にいるというなら、資料室の鍵は開いているだろう。

 特別棟の東側、一階から二階は吹き抜けの図書館で、その隣、二階の、実質突き当たりになる部屋が社会資料室だった。
 通い慣れた教室の戸口に立ち、コンコンと戸を叩く。しばらくしても返事がないので、小和はそっと資料室の戸を開けた。



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