上 下
99 / 114

24日目⑥

しおりを挟む
 音を立てないように気を付けながら、カップをソーサーに戻した私は、そっとアイリーンさんを見つめる。

 レースのカーテン越しに柔らかな日差しが差し込み、アイリーンさんの茶褐色の髪を金色に変える。うっすらと口元に笑みを浮かべる彼女は、何度見てもやはり綺麗だった。そして、レオナードが隣にいれば、どんなに絵になるだろうとも考える。

 アイリーンさんは、確かに私より年上だ。でも、未婚でいることが不思議なほど魅力的な女性だ。

 そこでやっぱりこう思ってしまう。レオナードはアイリーンさんには恋人も夫もいないと言い切っていた。けれど、本当にそうなのだろうかと。

「………………アイリーンさんは、恋人はいないのですか?」 

 おずおずと問いかけた私に、アイリーンさんはちょっと驚いたように目を開いた。けれどすぐに、声を上げて笑った。

「ふふっ。いませんよ。こんなおばさんを相手にしてくれる人なんていませんからね」
「…………んなわけないですっ。それって嘘ですよね」

 ぎこちなく笑うアイリーンさんは、まるで自分自身を偽っているように感じて────気付いたら私は全力でツッコミを入れていた。

 でも、声に出してから、はたと気付く。私の立ち位置って、今どこなんだろう、と。

 私はレオナードの協力者だ。それは嘘ではない。でも、アイリーンさんにとって私は協力者でもなんでもない。だから私はアイリーンさんに対してあれこれと口出す権利はどこにもない。

 しまった。やってしまった。そんなことを思った時には、私は両手で自分の口を押えていた。時すでに遅し。そんなことをしても、声に出して発してしまったことを取り消すことなどできるわけないのに。

「ミリアさま、お気になさらず。良いんですよ。あなたの言う通り、私が嘘を付いたわ。ごめんなさい」

 アイリーンさんの声音は、しっとりと落ち着いたものだった。不機嫌さなど、どこを探しても見つからなかった。あるのは、観念した表情だけ。

 そしてその表情のまま、アイリーンさんは口を開く。溜息と共に。

「実はね、ひと月………は、経っていないかしら。少し前に、教え子ががここに来たの。いっぱしの青年のように花束なんて手にしてね。ありったけの勇気をかき集めたような顔をして、花束を持つ手なんか、ものすごく震えていてね。そんな姿を見たら、どうしても無下に帰すことができなくて、ここに招き入れたのよ」

 あ、それ私、知っている。この偽装婚約が始まってすぐのことだ。

「そうしたら、部屋に入って早々、私に跪いて花束を差し出しながら、求婚したのよ。しかも求婚だけならまだしも、なぜか駆け落ちなんていう頼んでもいないオプションまで付けてくれてね。わたくし、長い人生であんなに驚いたことはなかったわ」
「ですよね」

 …………無意識に、思わず合いの手を入れてしまった。

 そんな私にアイリーンさんは、同意するように頷いてから、再び続きを話し出した。

「でもね、私の教え子は、私に恋をしている訳じゃないってわかっていたから…………。こう言ったのよ」
「どんな言葉を?」

 今度は無意識ではなく、自分の意志で彼女に問うてみた。

 そうすれば、アイリーンさんは、ちょっといたずらっ子のように、瞳をくるりと向けてこう言った。

「あら嬉しい。では今すぐ私にキスして、と」
「…………したんですか?」
「ええ、すぐさま、あの子はしましたよ」

 恐る恐る問うた私に、アイリーンさんはさらりと答えた。瞬間、きゅっと胸を掴まれたような痛みが走った。

 なんでだろう。アイリーンさんのことが大好きなレオナードなら、絶対にそうするってわかっているはずなのに。私の心臓、ちょっと壊れたかもしれない。そんな不安がよぎった。

 両手を胸に当てて、小さく息を吐く。でも痛みは治まらない。どうしよう、私死ぬかもしれない。

 そんなふうに不安に駆られた私に、アイリーンさんは何故かくすりと笑う。そして、その余韻を残したまま、大きな溜息を付いた。なんだか急に頭痛を覚えたような表情だった。

「しましたよ。したんですけどねぇ………。彼の唇が触れたのは、わたくしの額でした」
「え?」

 そう間抜けな声を出した途端、アイリーンさんは、ありえないでしょ?そう、言って苦笑を浮かべた。

 私もつられて同じ表情を浮かべたくなる。だって額のキスは、祝福や友情を意味するもの。強い恋愛感情や欲求というよりも、どっちかっていうと愛おしさや可愛いといったような意味。ぶっちゃけ友情に近い心理からするものだ。

 あの馬鹿、なんてところにしたんだ。

 もちろんそんなことは口には出せない。出せないけれど、表情には思いっきり出てしまっていたようで、アイリーンさんは苦笑を深くしてこう言った。

「そういうことなんです。教え子は、幼いころの憧れをそのまま恋というものに置き換えてしまっただけなのです。ただの勘違いをしているだけなのです。だから私は彼にこう言ったんです。前言撤回。もう二度と来るな、と。彼は納得したか───」
「ちょっと待ってくださいっ」

 思わずアイリーンさんの言葉を遮ってしまった私だったけれど、続きの言葉が見つからない。

 もどかしい思いで目の前にいる婦人を見つめれば、その人はかつての家庭教師の表情に戻っていた。落ち着いて考えなさい。そう言っているかのように。

 そして少し時間を置いて私は再び口を開いた。自分の知っている言葉をかき集めて。

「…………でも、憧れから始まる恋だってきっとあります。どれが本当かなんて、どれが正解で不正解だなんて、そんなの誰が決めて良いことじゃないと思います。その青年は本気でアイリーンさんのことが好きだったはずです」

 私は恋をしたことがない。特別に誰かを好きになったことはない。

 ないけれど、恋をしている人を見たことはある。客観的にならちゃんとわかる。レオナードは本気の恋をしていた。勘違いなんてしていない。私は側でずっと見てきたから、そう断言できる。
 
 そんな気持ちを込めて、アイリーンさんを挑むように見つめる。そうすれば、彼女は目を細めて頷いた。

「あなたの言う通りよ。ミリアさま。でもね…………」

 そこで言葉を区切って、アイリーンさんはふっと笑った。それは今までとは違う、大人の女の微笑だった。

「私は、そういう恋じゃ嫌だった。それだけです」
「………………」

 そんなふうに言われたら、何も言い返せない。

 ぎゅっとスカートの裾を握りしめた私に、アイリーンさんは何も言わない。そして失礼しますと、短く断りを入れて静かに席を立った。

 空いてしまった席を見つめながら、私はここにはいないあの人に向かって悪態を付く。

 馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、レオナードは本当に馬鹿だ。最大にして唯一のチャンスを棒に振ってしまうなんて、大馬鹿野郎だ。救いようの無いほどに。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです

青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。 しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。 婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。 さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。 失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。 目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。 二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。 一方、義妹は仕事でミスばかり。 闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。 挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。 ※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます! ※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。

ぽっちゃりな私は妹に婚約者を取られましたが、嫁ぎ先での溺愛がとまりません~冷酷な伯爵様とは誰のこと?~

柊木 ひなき
恋愛
「メリーナ、お前との婚約を破棄する!」夜会の最中に婚約者の第一王子から婚約破棄を告げられ、妹からは馬鹿にされ、貴族達の笑い者になった。 その時、思い出したのだ。(私の前世、美容部員だった!)この体型、ドレス、確かにやばい!  この世界の美の基準は、スリム体型が前提。まずはダイエットを……え、もう次の結婚? お相手は、超絶美形の伯爵様!? からの溺愛!? なんで!? ※シリアス展開もわりとあります。

婚約破棄されたら魔法が解けました

かな
恋愛
「クロエ・ベネット。お前との婚約は破棄する。」 それは学園の卒業パーティーでの出来事だった。……やっぱり、ダメだったんだ。周りがザワザワと騒ぎ出す中、ただ1人『クロエ・ベネット』だけは冷静に事実を受け止めていた。乙女ゲームの世界に転生してから10年。国外追放を回避する為に、そして后妃となる為に努力し続けて来たその時間が無駄になった瞬間だった。そんな彼女に追い打ちをかけるかのように、王太子であるエドワード・ホワイトは聖女を新たな婚約者とすることを発表した。その後はトントン拍子にことが運び、冤罪をかけられ、ゲームのシナリオ通り国外追放になった。そして、魔物に襲われて死ぬ。……そんな運命を辿るはずだった。 「こんなことなら、転生なんてしたくなかった。元の世界に戻りたい……」 あろうことか、最後の願いとしてそう思った瞬間に、全身が光り出したのだ。そして気がつくと、なんと前世の姿に戻っていた!しかもそれを第二王子であるアルベルトに見られていて……。 「……まさかこんなことになるなんてね。……それでどうする?あの2人復讐でもしちゃう?今の君なら、それができるよ。」 死を覚悟した絶望から転生特典を得た主人公の大逆転溺愛ラブストーリー! ※最初の5話は毎日18時に投稿、それ以降は毎週土曜日の18時に投稿する予定です

運命の歯車が壊れるとき

和泉鷹央
恋愛
 戦争に行くから、君とは結婚できない。  恋人にそう告げられた時、子爵令嬢ジゼルは運命の歯車が傾いで壊れていく音を、耳にした。    他の投稿サイトでも掲載しております。

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

天才と呼ばれた彼女は無理矢理入れられた後宮で、怠惰な生活を極めようとする

カエデネコ
恋愛
※カクヨムの方にも載せてあります。サブストーリーなども書いていますので、よかったら、お越しくださいm(_ _)m リアンは有名私塾に通い、天才と名高い少女であった。しかしある日突然、陛下の花嫁探しに白羽の矢が立ち、有無を言わさず後宮へ入れられてしまう。 王妃候補なんてなりたくない。やる気ゼロの彼女は後宮の部屋へ引きこもり、怠惰に暮らすためにその能力を使うことにした。

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

処理中です...