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プロローグ②

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 私のお見合い相手、レオナード・ロフィは御年20歳の、見目麗しい青年。癖のないさらさらとした金色の髪に、芝生の緑より深く澄んだ翡翠色の瞳。無駄のない、すらりとした高身長に穏やかな物腰。家柄、容姿共に非の打ち所がない男性だ。

 その男性から3日前、直々に私とお見合いをしたいと申し入れがあったのだ。

 我が家はもう大パニックだった。母さまは狂喜乱舞したのは一瞬で、すぐに見た目だけでも整えろと、大急ぎでドレス一式を仕立てたのだ。兄二人は何故か決闘だと騒ぎ出した。もちろんここに、無傷のレオナードがでいるので、決闘は実行されぬまま今に至る。

 私といえば、お見合いを申し込まれたことより、母さまの『金に糸目は付けない』という、生涯聞くことはないと思っていた台詞を耳にして、その衝撃でお見合いを申し込んだ理由を聞けずに、ここに来てしまった次第だ。

 貴族社会でのお見合いは、ほぼ婚約と同義になる。本当に本当に、私はこの男と結婚しないといけないのだろうか。

 不意に浮かんだ言葉は不安となり、無意識に足が止まる。

 私がこの人と結婚?
 話すらしたこともないのに?
 ずっとずっと、死ぬまで一緒に暮らすの?

 どんどん遠ざかっていく彼を見つめ、今すぐくるりと踵を返したくなる衝動に駆られる。………というか、本当に後ろ足を引いて身体を転換させようとしたその時───。

「失礼、歩くのが早すぎましたか?ミリア嬢」

 という声と共にレオナードが振り返ってしまった。内心ちっと舌打ちする。できればもう少し気付かず歩いていて欲しかった。

「いいえ、大丈夫ですわ。レオナードさま」

 にこりと笑みを浮かべて小首を傾げれば、彼はそうですかと、ほっとしたように小さく笑った。けれど、すぐに表情を引き締め、私に向かって口を開いた。

「突然、お見合いを申し入れたこと、お詫びします。さぞや驚かれたことでしょう」
「驚かなかった………と言えば嘘になりますわね。でもお気になさらないでください」

 本音を言えば『いやマジ驚いたわ、ホント。ったく、どういうつもりだよ、オイ』だ。でも、面と向かってそんなことを言えない私は、口元は笑みを浮かべ、眼だけで訴える。そうすれば彼の完璧な微笑が少々引き攣った。

 そしてそれから二人の間に沈黙が落ちる。

 時間にして1~2分。ざぁっという場違いな強い風が吹いたのをきっかけに、彼は再び口を開いた。意を決した、という感じで、拳をぎゅっと握って。

「こんな勝手は許されないと思うが………申し訳ない。このお見合い、なかったことにしてください」

 レオナードの形の良い唇から紡がれた言葉を反芻する時間を稼ぐために、くるりと無意味にパラソルを回してみる。………うん、間違いなくこの人、お見合いを断ったわね。

 つまり私は、一方的にお見合いを申し込まれ、明確な理由を述べられないまま、これまた一方的にお見合いを白紙撤回されたのだ。

 そう確信した途端、私は胸の内から溢れ出てくるのは、屈辱的なものでも羞恥的なものでもなく───歓喜だった。

 そしてその感情は隠しきれず、気付いたら私は、満面の笑みを浮かべていた。

「はいレオナード様、喜んでっ」

 元気よく笑顔で頷いた私に、目の前の金髪の青年は、翡翠色の瞳を大きく見開いた。

「えっと………申し訳ない。ちょっと聞き取れなかったのだが」
「ですから、このお見合い、ご破算にすることに、賛成です。と言いましたっ」

 今度は一言一言丁寧に区切ったから、ちゃんと聞き取って貰えただろう。

 普段なら、二度聞きなんて舌打ちする案件だけれど、今日は違う。私だって何回も口に出したいので、イライラなど全くしない。何ならあと100回位リピートしたって構わない。

 という訳で、もう一回聞きますか?と、レオナードに目で問えば、彼は静かに首を横に振った。

「なるほど。良く理解することができた」

 100回は大げさだったけれど、あと2~3回は口に出したかった私は、ちょっとだけ残念な気持ちになる。ま、でも、そんなことは些細なこと。

 そして、ここに居る理由はもう何一つ見つからない私は、もう一度くるりとパラソルを回して、レオナードに向かってほほ笑んだ。 

「では、レオナード様ごきげんよう」

 令嬢らしく、ちょっと膝を折って退去の挨拶をした私に、初夏の日差しが優しく降り注ぐ。さんざん悪態を付いたはずのお貴族様の庭の緑も眩しくて、花壇の花々も風にゆられてとっても綺麗に見える。

 ああ、生きてて良かった。今日ほど幸せというものを実感した日はなかった。

 そして、これから先に続く未来を想像すると、まるで背に羽が生えたかのように、足取りが軽い。

 グッバイ、貴族社会。そう心の中で華麗に別れを告げ、私は第二の人生を歩む………はずだった。
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