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十六夜に願うのは

私の中の醜い感情

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 パワハラによる業務改善を訴えるべく、とある策を練り出した私は、何食わぬ顔で夜着を手に持ちレナザードに一礼した。

「それでは、失礼します」
「あ、ああ」

 自分から言い出したくせに、お屋敷の主さまは若干動揺しているご様子だ。やっぱり私をからかいたかっただけなのだ。予想通りだとしても、やっぱりたちの悪い冗談に腹が立つ。

 けれど私は、あくまで仕事ですという態度を崩さずにレナザードの背後に回り、今着ている夜着を一気に脱がすと、新しい夜着をふわりと被せた。

 そして肩に手を当てながらたるんだ部分を撫で付けしわを伸ばす。次いで、背中も同じようにしわを伸ばそうとしたけれど、手を止めてしまう。改めて私との体格差を感じてしまい、目を細めてしまう。

 たくましい背中だ。ふわりと羽織っている夜着の上からでも、無駄のない筋肉に覆われているのがわかる。そして昨晩は、この大きな身体にすっぽり抱かれて思いっきり泣いたんだと、ふとそんなことを思い出し、思わず頬が熱くなる。

「おい。何、俺の背中で欲情してるんだ?」
「よっ、欲情!?」

 素っ頓狂な声が、部屋中に響いてしまう。レナザードには背中にも目があるのだろうか。もしそうだとしたら、堪らなく恥ずかしい。でも、背中は小刻みに震えている。間違いなく私を弄って面白がっているのだ。まったくたちが悪い、悪すぎる。

 でもそのおかげで我に返った私は本来の目的を果たすべく、乱暴に背中のしわを伸ばし、仕上げに背中をとんっと付き飛ばした。

「っ痛ぇ」

 大した力は入れなかったけれど、レナザードは油断していたのだろう。思いっきり傷に響いたらしく、たまらず悲鳴に似た声を上げてくれた。

 ざまあみろ、ちょっぴり罪悪感はあるけれどこれは自業自得なのだ。これで今後レナザードは、メイドに対して破廉恥な命令は控えてくれるだろう。

「……お前、いい度胸してるな」

 振り返りながら、唸るように呟いたレナザードに、私はにんまりとした笑顔を返す。彼の険を含んだ口調も視線も、もう怯えるものではない。なぜなら、レナザードは口が悪いが、本当は優しいことを知っているから。

 怒りはしないが物言いたげにジト目になったレナザードの傍らに座り、笑顔で覗き込みながら手を伸ばした。

「早く元気になって下さい。それと……只今の対応、大変申し訳ありませんでした」

 夜着の釦を留め終えると、私は表情を引き締め立ち上がり慇懃に一礼した。

 戯れはここまでだ。レナザードは私がいくら踏み込んでこようとも、きっとそれを受け止めてくれる。だけど、だからこそ私が一線を引かなければならない、今のところは。

 不思議そうに私を見つめるレナザードに、もう一度丁寧に腰を折る。けれど───。

「……レナザードさま?」

 レナザードは無言で手を伸ばし私の腕を掴む。そして、そのまま滑り落りると以前のように私の手を取った。

「スラリス、そう距離を取らないでくれ」

 瞬間、息を呑んだ。彼が何を言っているのかよくわからない。

「メイドとして屋敷を整えてくれているのは感謝している。ただ・・・・・・矛盾しているかもしれないが、他人行儀に接するのはやめてくれ。これは命令ではなくお願いだ」

 真摯に言葉を紡ぐレナザードに、泣き出したい気持ちになる。どうして、ここは命令ではなく、お願いと言うのだろう。それに、真実を告げるまで一線を引こうとすれば、強引にこちらに踏み込んでくる。

 怪我が治るまで、待ってて欲しいのに。自分のタイミングで向き合いたいのに。どうして、こう自分勝手に私の心に押し入って来るのだろう。

 レナザードの悪戯な言葉にびくりと体が震え、彼の気まぐれな態度は甘い毒のよう。それは追い詰めるように私の予定を狂わす。

「レナザードさま、私が幼い頃に出会ったティリア王女だとしたら、驚きますか?」

 気付いた時にはそう口にしていた。

 突然の私の問いに、レナザードといえば目を瞬せるだけ。でもきっと彼は今、頭の中で何度も私の言葉を反芻はんすうしているのだろう。その証拠に、その瞳は様々な感情が移り変わっている。

 まさに覆水盆に返らず。勢いに任せてほぼカミングアウトに近い問いを投げつけてしまった。青ざめる私が、ごくりとつばを飲み込んだ瞬間───

「あははっ、はははっ」

 突然レナザードが豪快に笑いだした。

「何を言い出すかと思えば、お前がティリアだと!?っはは」

 傷に響くのだろう。レナザードはひぃひぃと苦しそうに喘ぎながら、息を整えようとする。けれど、相当ツボに入ったらしく再び笑い出してしまった。そんな彼の側にいる私は、同じように笑えない。ぐにゃりと視界が歪んでいく。

「お前はティリアじゃない。まったくの別人だ」

 レナザードの言葉に心が凍りつく。

 やっぱりそうか。ごめんなさい、レナザード。私は、あなたの理想とする女性になれませんでした。本当に本当に、ごめんなさい。

「──────そう……そうなんです。レナザードさまの意地悪が過ぎるから、ちょっぴり驚かせてしまいました」

 泣きそうになるのを必死に堪え、レナザードの手から自分の手をそっと解く。

 手を引き抜いた途端、指先から温もりが消えていく。

 ああそうだ、ちょっと近づくことができたと思った途端、こうやってまたレナザードは私を突き放すのだ。勘違いするな、お前ではない、と。

 期待してはいけないと、自分に言い聞かせてきたはずなのに、彼の理想とする女性になれない自分を認めていたはずなのに。

 なのにどうして、こんなにも胸が痛むのだろう。豪快に笑うレナザードに対して苛立つ感情を持ってしまうのだろう。

 わかっている、レナザードは何一つ悪くない。思い出すのが遅すぎた私が悪いのだし、そもそも私がティリア王女と嘘を付かなければ、違う向き合いかたができていたはず。そうこれは全部、身から出た錆。

 でも今はこれ以上、受け止めきれない。

「あと、レナザードさま……私はメイドなんです。お屋敷の主さまに対して節礼を重んじるのも、お仕事の一つなんです。だから、これからも一定の距離は保たせて下さい」

 突き放す言葉を吐かれたレナザードは、表情を一変させ傷付いた子供のようにくしゃりと顔を歪めた。

 これでいい。私達の関係はこれからもメイドと主のままでいよう。そうしたら変な期待もしなくていいし、レナザードだってきっとすぐに慣れてくれるだろう。これからも彼が私に笑いかけてくれるなら、これでいい。

 だからこの屋敷での穏やかな時間と引き換えに、私は真実を胸の奥底に隠した。

「スラリス、ちょっと待て───」
「申し訳ありません、仕事がありますので、これで失礼します」

 レナザードが呼び止める声を振り切り、私は部屋を後にした。
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