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十六夜に願うのは
前言撤回は不可能ということで
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血の付いた服を綺麗にする為には、まずは血が乾く前に水で洗い落とす。それから、洗剤を薄めて付け置き洗いをする。これが一般的な方法。
けれども、レナザードの上着のような高級品になると、型崩れや返って生地を痛めてしまうかもしれないので、上着の装飾品を全て取り外してから、ユズリから伝授された万能洗剤を使う。
ただ服に付いた血液が乾いてしまったら、高価な生地といえど元に戻すのは容易なことではないので、これは時間との戦いとなる。
というわけで、とぼとぼ廊下を歩いていたのは一瞬で、私は全速力でキッチンに飛び込んだ。けれども、そこには予期せぬ人物がいた。
キッチンの扉を開けた瞬間、ふわりと漂う美味しそうな匂い。そして大鍋の前には見覚えある大柄な男が振り向きながら、私に向かって口を開いた。
「おっスラリス。すまねえな主のこと……。驚かせちまったな」
レナザードの怪我ももちろん驚いたが、ここにダーナがいることにも別の意味で驚きだ。信じられない私は、ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返しながら、気付いたらこうダーナに問いかけていた。
「えっと………ダーナさま、どうしてここに?」
鍋をぐるぐると豪快にかき回しているのだから、どうもこうもない。ダーナは料理の途中のはずである。見たままを問いかけるなんて愚問すぎると、口にしてから思ったけれど、それでも口に出さずにはいられなかった。
「ああ、夕飯用のシチュー作り。やっぱ時間かけて煮込んだほうがうまいからな」
鼻歌交じりのダーナは気を悪くする素振りも見せず、首を捻りこちらを向いて、にぱっと笑顔で答えてくれた。
確かにダーナの言う通りだ。シチューは煮込み時間をかけてこそ、味わいが出る。そして野菜が煮崩れしないように角を丸くしてから煮込むのがミソ。……などと、言っている場合ではない。
あまりにもこのキッチンにすんなり溶け込んでいるけれど、ダーナがここに足を運ぶこと自体がありえない。何か食べたいなら、ダーナは呼び鈴を鳴らして私を呼びつける立場の人間だ。
まかり間違っても、料理談義をする相手ではない。
でも、シチューの火加減をみるダーナの手つきは、かなり手馴れている。そのことが、またまた信じられない。
「あれ、スラリスはシチューは嫌いだったか?」
無言で硬直している私にダーナは少し不安そうに、今度は体ごと私の方に向き直る。
「あっ、いいえ、大好きです」
「そっか、良かった」
慌てて返答すれば、ダーナは破顔してくれた。けれど、すぐふふん、と口端の片方を吊り上げながら吐いた言葉は幻聴かと疑うものだった。
「こう見えても料理は得意なほうなんだ」
「…………………………………」
どこの世界に、料理上手な側近がいるというのか。あ、ここにいた。
無言の間にそんなことを心の中で呟いてみた。けれど、私が口に出したのは別の言葉だった。
「………………私、洗濯してきます」
驚きすぎて真っ白になった頭に更に驚きが追加され、本来やるべきことを思い出すことができて良かった。
若干ふらついた足取りで、戸棚からユズリの特性洗剤を取り出そうと足を向けた瞬間、入口からまたもやここに居てはいけない人物の声が聞こえてきた。
「いえ、今日は洗濯も掃除も、何もしなくていいです」
そうきっぱりと言い切ったケイノフは、薬箱を片手に迷いのない足取りで、さくさくとキッチンの中へと入っていく。
「おっ、ケイノフお疲れー」
ダーナの言葉に、ケイノフは軽く眉を上げただけだったが、薬箱を作業台に置くと、ふうと溜息をついた。
「主の怪我……そんなに酷いのか?」
ダーナの口調が固くなる。その表情は今まで見た中で一番真剣だった。やはりダーナにとってレナザードは一番大切な主なんだと、改めて感じた。
「怪我はそれほどでも。それより、片意地の方が酷いですね」
目頭を押さえながらケイノフは再び大きく溜息をつく。しかし、その後、とんでもない言葉を口にした。
「あまりに駄々をこねるので、少々きつい眠り薬を調合しました。あっという間に寝てくれました。ちょろいもんですね」
……本当に、ケイノフはレナザードの側近なんだろうか。
思わずケイノフに疑いの目を向けてしまう。ちなみにダーナは、ケイノフの言葉に驚くことも無く、それが一番だと、頷いている。
これも野郎同士の会話ということなのだろうか。残念ながら女子の私は、その物騒な会話についていけない。
でも、レナザードの怪我は大したことないというケイノフの言葉にだけは、ほっと胸を撫で下ろしてしまう。ケイノフは私の主治医だったので、彼の腕が確かなのはこの身を持って知っている。
二人はそれから今日の夕飯のメニューの打ち合わせをしたり、掃除の分担でじゃんけんを始めたりと……レナザードことは一切触れることが無かった。
これまた首を傾げてしまう。けれど今はレナザードの上着を洗濯するのが先決だ。ということで、私は再び戸棚へと足を向けようとした。けれど────。
「あ、これ主の上着ですね。ったく派手に汚してくれて。スラリスこれは私が洗っておきますから、あなたは昼寝でもしてきてください」
ケイノフは、素早い動作で私の手から、上着を引ったくってしまった。
「ケイノフさままで、そんなことされては困りますっ」
ぎょっと目を剥き、手を伸ばしてケイノフからそれを取り戻そうとする。けれどケイノフは苦笑いを浮かべながら、更に上に持ち上げてしまうので、爪先立ちをしても届かない。
しびれを切らした私は息を大きく吸い込むと、大声で思いの丈をぶつけた。
「お気遣い感謝しますっ。ありがとうございます!お気持ちは十分に伝わりました。溢れんばかりに伝わりました。もう、若干零れ落ちています。これ以上のお気遣いは無用ですっ。ということで、ここからは全て私に任せてくださいっ」
「いいえ。今日は、ゆっくり休んでください」
私の思いの丈は悲しいくらいさっくりとケイノフに一刀両断されてしまった。わなわなと口を震わす私に、ケイノフは軽く笑って口を開いた。
「もう、決めていたのです。今日はスラリスにゆっくり休んでもらおうと。まぁ……主があんな馬鹿なことをするもんで……台無しですが」
「そうそう、スラリス、気付いてないかもしれないが、お前ずっと働きづめなんだぞ。一日くらい休んだって罰はあたらねえよ」
ダーナは、シチューをかき混ぜる手を止めずに、首を捻って私に笑いかける。それでも素直にはいと頷くことはできない。でも、と言いかける私を、ケイノフは片手で制した。
「そうですよ、まったく。罰当たりは主のほうです。本当なら、掃除は主が担当だというのに」
瞬間、私は高速で首を横に振った。嫌だ。箒を持ったレナザードなんか見たくない。
箒ごときで彼のイケメン度が下がるわけはないが、やはりイケメンらしくいて欲しいというのは乙女の我儘ということで、そういうものだと受け止めて欲しい。
あと、最後にちっと、ケイノフの舌打が聞こえた…………ような気がした。多分、幻聴だろう。
「でも……何かしていないと落ち着かないんです」
部屋でじっとしていれば、否が応でもレナザードの怪我のことが気に掛かってしまう。でも医療の知識ゼロの私には何もできることがない。なら身体を動かしていれば多少は気がまぎれるし、ついでに屋敷を整えることができる。
それに一日何もしないなんてそれこそ拷問だ。ティリア王女を演じていた時の禁断症状は二度と味わいたくない。
ケイノフは、私の懇願に苦笑を浮かべた。がすぐに、何かひらめいたのか、あっと声を上げた。
「では、一つお願いがあります」
「はい!何でも仰ってください」
「それではスラリス……申し訳ありませんが、今宵一晩、若に付き添って頂けますか?」
「い────」
「何でも、と仰いましたよね」
《嫌》と言いかけた私の言葉を遮るケイノフの口調は、普段通り穏かだが、その目は笑っていなかった。
背筋が寒くなるケイノフの笑顔に、前言撤回は絶対に不可能だと瞬時に理解した。
「大丈夫です。熱にうなされている主は、ただの子供ですから」
何かあったら、痺れ薬を飲ませて下さいと、にっこりと微笑むケイノフに再び、ひやりと背中が冷たくなるのを感じてしまった。
けれども、レナザードの上着のような高級品になると、型崩れや返って生地を痛めてしまうかもしれないので、上着の装飾品を全て取り外してから、ユズリから伝授された万能洗剤を使う。
ただ服に付いた血液が乾いてしまったら、高価な生地といえど元に戻すのは容易なことではないので、これは時間との戦いとなる。
というわけで、とぼとぼ廊下を歩いていたのは一瞬で、私は全速力でキッチンに飛び込んだ。けれども、そこには予期せぬ人物がいた。
キッチンの扉を開けた瞬間、ふわりと漂う美味しそうな匂い。そして大鍋の前には見覚えある大柄な男が振り向きながら、私に向かって口を開いた。
「おっスラリス。すまねえな主のこと……。驚かせちまったな」
レナザードの怪我ももちろん驚いたが、ここにダーナがいることにも別の意味で驚きだ。信じられない私は、ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返しながら、気付いたらこうダーナに問いかけていた。
「えっと………ダーナさま、どうしてここに?」
鍋をぐるぐると豪快にかき回しているのだから、どうもこうもない。ダーナは料理の途中のはずである。見たままを問いかけるなんて愚問すぎると、口にしてから思ったけれど、それでも口に出さずにはいられなかった。
「ああ、夕飯用のシチュー作り。やっぱ時間かけて煮込んだほうがうまいからな」
鼻歌交じりのダーナは気を悪くする素振りも見せず、首を捻りこちらを向いて、にぱっと笑顔で答えてくれた。
確かにダーナの言う通りだ。シチューは煮込み時間をかけてこそ、味わいが出る。そして野菜が煮崩れしないように角を丸くしてから煮込むのがミソ。……などと、言っている場合ではない。
あまりにもこのキッチンにすんなり溶け込んでいるけれど、ダーナがここに足を運ぶこと自体がありえない。何か食べたいなら、ダーナは呼び鈴を鳴らして私を呼びつける立場の人間だ。
まかり間違っても、料理談義をする相手ではない。
でも、シチューの火加減をみるダーナの手つきは、かなり手馴れている。そのことが、またまた信じられない。
「あれ、スラリスはシチューは嫌いだったか?」
無言で硬直している私にダーナは少し不安そうに、今度は体ごと私の方に向き直る。
「あっ、いいえ、大好きです」
「そっか、良かった」
慌てて返答すれば、ダーナは破顔してくれた。けれど、すぐふふん、と口端の片方を吊り上げながら吐いた言葉は幻聴かと疑うものだった。
「こう見えても料理は得意なほうなんだ」
「…………………………………」
どこの世界に、料理上手な側近がいるというのか。あ、ここにいた。
無言の間にそんなことを心の中で呟いてみた。けれど、私が口に出したのは別の言葉だった。
「………………私、洗濯してきます」
驚きすぎて真っ白になった頭に更に驚きが追加され、本来やるべきことを思い出すことができて良かった。
若干ふらついた足取りで、戸棚からユズリの特性洗剤を取り出そうと足を向けた瞬間、入口からまたもやここに居てはいけない人物の声が聞こえてきた。
「いえ、今日は洗濯も掃除も、何もしなくていいです」
そうきっぱりと言い切ったケイノフは、薬箱を片手に迷いのない足取りで、さくさくとキッチンの中へと入っていく。
「おっ、ケイノフお疲れー」
ダーナの言葉に、ケイノフは軽く眉を上げただけだったが、薬箱を作業台に置くと、ふうと溜息をついた。
「主の怪我……そんなに酷いのか?」
ダーナの口調が固くなる。その表情は今まで見た中で一番真剣だった。やはりダーナにとってレナザードは一番大切な主なんだと、改めて感じた。
「怪我はそれほどでも。それより、片意地の方が酷いですね」
目頭を押さえながらケイノフは再び大きく溜息をつく。しかし、その後、とんでもない言葉を口にした。
「あまりに駄々をこねるので、少々きつい眠り薬を調合しました。あっという間に寝てくれました。ちょろいもんですね」
……本当に、ケイノフはレナザードの側近なんだろうか。
思わずケイノフに疑いの目を向けてしまう。ちなみにダーナは、ケイノフの言葉に驚くことも無く、それが一番だと、頷いている。
これも野郎同士の会話ということなのだろうか。残念ながら女子の私は、その物騒な会話についていけない。
でも、レナザードの怪我は大したことないというケイノフの言葉にだけは、ほっと胸を撫で下ろしてしまう。ケイノフは私の主治医だったので、彼の腕が確かなのはこの身を持って知っている。
二人はそれから今日の夕飯のメニューの打ち合わせをしたり、掃除の分担でじゃんけんを始めたりと……レナザードことは一切触れることが無かった。
これまた首を傾げてしまう。けれど今はレナザードの上着を洗濯するのが先決だ。ということで、私は再び戸棚へと足を向けようとした。けれど────。
「あ、これ主の上着ですね。ったく派手に汚してくれて。スラリスこれは私が洗っておきますから、あなたは昼寝でもしてきてください」
ケイノフは、素早い動作で私の手から、上着を引ったくってしまった。
「ケイノフさままで、そんなことされては困りますっ」
ぎょっと目を剥き、手を伸ばしてケイノフからそれを取り戻そうとする。けれどケイノフは苦笑いを浮かべながら、更に上に持ち上げてしまうので、爪先立ちをしても届かない。
しびれを切らした私は息を大きく吸い込むと、大声で思いの丈をぶつけた。
「お気遣い感謝しますっ。ありがとうございます!お気持ちは十分に伝わりました。溢れんばかりに伝わりました。もう、若干零れ落ちています。これ以上のお気遣いは無用ですっ。ということで、ここからは全て私に任せてくださいっ」
「いいえ。今日は、ゆっくり休んでください」
私の思いの丈は悲しいくらいさっくりとケイノフに一刀両断されてしまった。わなわなと口を震わす私に、ケイノフは軽く笑って口を開いた。
「もう、決めていたのです。今日はスラリスにゆっくり休んでもらおうと。まぁ……主があんな馬鹿なことをするもんで……台無しですが」
「そうそう、スラリス、気付いてないかもしれないが、お前ずっと働きづめなんだぞ。一日くらい休んだって罰はあたらねえよ」
ダーナは、シチューをかき混ぜる手を止めずに、首を捻って私に笑いかける。それでも素直にはいと頷くことはできない。でも、と言いかける私を、ケイノフは片手で制した。
「そうですよ、まったく。罰当たりは主のほうです。本当なら、掃除は主が担当だというのに」
瞬間、私は高速で首を横に振った。嫌だ。箒を持ったレナザードなんか見たくない。
箒ごときで彼のイケメン度が下がるわけはないが、やはりイケメンらしくいて欲しいというのは乙女の我儘ということで、そういうものだと受け止めて欲しい。
あと、最後にちっと、ケイノフの舌打が聞こえた…………ような気がした。多分、幻聴だろう。
「でも……何かしていないと落ち着かないんです」
部屋でじっとしていれば、否が応でもレナザードの怪我のことが気に掛かってしまう。でも医療の知識ゼロの私には何もできることがない。なら身体を動かしていれば多少は気がまぎれるし、ついでに屋敷を整えることができる。
それに一日何もしないなんてそれこそ拷問だ。ティリア王女を演じていた時の禁断症状は二度と味わいたくない。
ケイノフは、私の懇願に苦笑を浮かべた。がすぐに、何かひらめいたのか、あっと声を上げた。
「では、一つお願いがあります」
「はい!何でも仰ってください」
「それではスラリス……申し訳ありませんが、今宵一晩、若に付き添って頂けますか?」
「い────」
「何でも、と仰いましたよね」
《嫌》と言いかけた私の言葉を遮るケイノフの口調は、普段通り穏かだが、その目は笑っていなかった。
背筋が寒くなるケイノフの笑顔に、前言撤回は絶対に不可能だと瞬時に理解した。
「大丈夫です。熱にうなされている主は、ただの子供ですから」
何かあったら、痺れ薬を飲ませて下さいと、にっこりと微笑むケイノフに再び、ひやりと背中が冷たくなるのを感じてしまった。
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