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始まりは王女の名で

芽生えた気持ち

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 ほとんど衝撃もないまま、地面に降り立ったレザナードはそのままゆっくりと庭の奥へと歩き始めた。

「寒くはないか?」

 片手でレナザードの上着を抑えていた私は、平気と答える代わりに薄く微笑むことで返事を返した。

 午後の庭は花風が吹いていて、とても心地良い。レナザードとまさかの庭散策という突発的なイベントにもっとぎくしゃくするだろうと思っていたのに、すんなりと受け入れてる自分にちょっと驚く。

 でもきっとそれは自分を抱えている力強い腕が、安心して身を任すことができるから。あといきなり二階から飛び降りたせいで、色々疑心暗鬼になっていた諸々がぶっ飛んでしまっているせいなのかも。

 そんなことを頭の隅で考えながら、せっかくの機会だからと春の庭を眺める。私が庭を眺めることができるように、ゆっくりと歩いてくれるレナザードの心遣いが嬉しい。荒々しく抱き締められたのは最初だけで、彼はずっと紳士に接してくれている。

 そんな彼は笑みを浮かべたまま、桜のすぐ下で足を止めた。

 見上げた桜は、まだ5分咲きでちらほらと花は咲いているけれどまだ蕾が目立っている。けれど、その蕾も既に薄紅色に染まり、近くで見るとそれは春の到来を感じさせるものだった。

「……きれい」

 思わず、桜の蕾に手を伸ばす。けれど、蕾は微かに指先に触れるか触れないかのところ。もう少しと腕を伸ばしたら、レナザードに危ないと止められてしまった。

 そんな彼に思わず苦笑いを浮かべてしまう。こんなにしっかりと私を抱きかかえてくれているのに危ないだなんて、呆れるほどに彼は過保護だ。

 でも深窓の姫君としたら、少々お転婆な行為だったのかもしれない。恥ずかしそうにはにかむティリア王女を演じながら、レナザードに向かって口を開いた。

「ごめんなさい、私ったらつい………。ふふっ、でも嬉しいわ。私、始めてこんな間近で桜の蕾を見ました。桜は咲いてからが美しいと思っていましたが、蕾でもこんなに美しいのですね」

 花は零れるように咲くものだと、かつて誰かが言っていた。その時はよく解らなかったけれど、今ならその言葉の意味が良くわかる。

 堅く閉じていた蕾は次第に色づき、暖かな日差しを浴びてゆっくりと花びらが開く。その様は零れるという言葉が一番似合っている。

「そうだな。もっと近くで見てみるか?」

 そう言うとレナザードは、片手を伸ばして桜の枝を引き寄せてくれた。目の前のこの蕾は、あと数日で花開くのだろう。待ち遠しいと思う反面、刹那に散ってしまうのは惜しいとも思ってしまう。

 でも、桜の咲いた後には一気に春の花々が開花する。そうなったらこの庭は一気に賑やかになるだろう。

 満開に咲き乱れる春の庭を想像していたら、心地良い春風が一筋吹いた。その風になびいた私の髪が、レナザードの頬を優しく撫でた。

「ほんとうに綺麗だ」

 眩しそうに目を細めるレナザードから、ティリア王女に対しての愛しい思いが零れるように伝わってくる。そのレナザードの笑みに、私は胸に細い細い針を刺されたような痛みが走り、思わず胸に手を当てた。

「ティリア、どうかしたか?」

 突然胸を押さえ、俯いた私にレナザードの顔色が、さっと変わる。

「………いえ、何でもありません」

 小さく首を振りながらも、さっきまで自然に笑えていたのに、何故か今は顔が強張ることに動揺する。どうしてだろう、微笑むことがこんなに辛いことを私は初めて知った。

 そして、もう一つ初めて芽生えたこの気持ち。

 ……こんな気持ち知らない、知りたくない。

 不意に泣き出したくなるような、心の奥を無作為に心をき乱すような……こんな気持ちなんて知らない。

 春の風に煽られ揺れるのは髪だけではなく、私の心も。
 言葉にならない感情を散らすように唇を噛む。私はティリア王女ではないから、レナザードが王女を愛しく思う気持ちがわかるのだと思っていたけれど、それは違っていた。

 私は《スラリス》としてレナザードに惹かれていた。だから、レナザードの気持ちが良くわかったのだ。

 その証拠に、ケイノフとダーナが何を考えているのか、まったくもってわからない。
 今ならわかるレナザードから距離を置いていたのは、これ以上レナザードを好きにならないように、この気持ちに自分が気付いてしまわないように無意識に線を引こうとしていたからなのだろう。でも一人っきりになれば、決まって彼の事を考えてしまう自分がいる。

 でもレナザードと対面するのは、今日で3度目。たった3回しか会っていない人、そして彼ことを何も知らないのに惹かれてしまうなんて、そんなことあるわけない。

 ただ、一回一回の出会いが強烈で鮮明だったのも事実。

 そんなせめぎ合う気持ちを抑えつけていたのに、限界だったのだ。溢れ出るように気付いてしまった、特別なこの想い。

 私の気持ちを知らないレナザードは、歩けるようになったら夏の庭も見に行こうと残酷な言葉を吐く。その言葉が鋭利な刃物のように胸をえぐる。

 無理だよ。そんなに長く私はティリア王女を演じ続ける自信はない。そう素直な気持ちを声に出せたらどんなに楽だろうか。でも今、レナザードは私をティリア王女と信じて疑わない。なら、私はこう言わなければならない。

「……そうですね」

 嘘を付いたと自覚した途端、罪悪感で思わずレナザードから目を逸らし頷いてしまった。

 こんな気持ちを持ってはいけない。この気持ちが恋だと認める前に、桜の花びらが舞い落ちるように、自分の気持ちも散らさなければならない。

 どうして、よりにもよってこんな人を好きになってしまったんだろう。

 かつて、そんな実らなかった恋に泣いているメイド仲間を傍で慰めながら、そんなに辛いなら好きにならなければ良いのにって思っていた。

 けれど恋とはそんなものじゃなかったのだ。好きになってくれるという確証があるから恋をするものではない、これは選べるものではなかったのだ。

 誰かに気付かれる前に、どうか早く散って欲しい、と一人願う私の気持ちは、祈りにも似たものであった。


 しかしその翌日、私の願いは叶わず、この薄氷の生活は幕を閉じた。
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