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始まりは王女の名で

ほんの少しの小休止とあの晩の追想

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 それから数日後、よく晴れた日の午後。


 ゆっくりとなら歩けるようになった私は、部屋に繋がっているテラスの椅子に腰掛け、ぼんやりと庭を眺めている………というのが表向きで、そろそろここからお暇しようと逃走ルートを確認していた。

 今更だけど私の部屋は屋敷の二階にあり、まず庭まで誰にも気付かれないように抜け出せるかが難題だ。近いうちに、散歩と偽って屋敷の間取りも把握したい。

 そんなことを考えながら、少し身体をずらして見下ろせば、そこからは、ぐるりと屋敷を囲むように広い庭が見えた。きっと、どの部屋からでも四季が堪能できる設計となっているのだろう。ちなみに私がいるのは《春の間》。今の時期、一番眺めの良い場所でもある。

 この春の庭の中央には東洋の【桜】と呼ばれる木があり、もう既にちらほらと花を咲かせている。アスラリア国にも王城の庭園にこの木が植えられていた。珍しい木なので、王城でも一本しか植えられてなかったのに、ここにあるとは驚きだ。

 不安ばかりのこの屋敷での生活でも、唯一素直に喜べることは、また桜を見ることができたこと。一つ一つは小さくて可愛らしい花でも、満開になると一斉に木を埋め尽くして咲き乱れる姿が大好きで、この季節になると暇を見つけては良く眺めに行ったものだ。

 しかし今この庭は桜も五分咲きで、他の花はまだ硬い蕾のまま。移り変わる途中の静寂に包まれて寂しいもの。

「………静かだなぁ」

 そう呟いた私の声は空に吸い込まれていった。何だかんだと部屋に誰かが訪れるから、気を抜ける時間はほとんどない。ほんの少しだけと自分に言い訳をして、私は一時だけティリア王女から《スラリス》に戻った。肩の力を抜き、背もたれに身を沈めながら庭を眺める。
 
 ケイノフもユズリもこの屋敷はアスラリア国からさほど離れていないと言っていた。そう思うと、塀の向こうに見える山々は、アスラリア国から見えていたものと同じような気がする。

 そんなことをぼんやりと考えていたら、風に乗ってふわりと桜の香りが漂って来た。5分咲きの桜でも香りは既に満開のようだ。

 ───ああ、懐かしい。毎年この桜の木か満開になると、春のお祭りが近くて、皆がそわそわしていた。

 例えお休みを貰えなくても、王城の一部を一般開放されるから賑わいを増すし、お祭りが終われば慰労会と称して、深夜にこっそり使用人だけのパーティーを開いて貰えた。

 調子はずれの音楽に、料理長が有り合わせで作ってくれた大皿料理に、皆の弾けるような笑い声。そして手と手を取り合って、ステップなんか適当に皆でダンスを踊った。

 その楽しかった光景を思い出しながら私は、アスラリア国が滅びた晩であり、レナザードに助け出されたあの瞬間を思い出していた。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 あの日、ティリア王女の身代わりとして私が独り残された部屋で思ったのは、ただ一つ。『無』に戻る瞬間は、なんて静寂なのだろう、と。

 毎日、精魂込めて磨いた窓も、丹念に吹き上げた廊下も何もかもが焼け落ちてしまって、その価値も手入れをしていた時間も全てがなかったものとなっていく。

 そんな虚しさで心が押しつぶされそうになる中、紅蓮の炎に染まる部屋で、私は両手に抱えているものをじっと見つめた。
 
 私の手にあるのは、毒と短剣。どちらもティリア王女の代わりに自害するためにあるもの。少し悩んで薬瓶の蓋を開けてみる。

「っうわ、くさっ」

 つんとした刺激臭に鼻腔を刺されてしまい、慌てて瓶の蓋を締める。……恐ろしいほどに臭かった。部屋中に充満する焼け焦げた匂いを凌駕するこの刺激臭は今まで嗅いだことが無いものだった。なぜ、よりにもよってこれを渡したのだろう。ある種の嫌がらせ行為だ。

 正直言ってこれを口に含むのは無理、絶対に無理だ。ということは、残る選択肢は一つしかない。深い溜息を付いて私は、静かに短剣の鞘を抜いた。

 短剣は鞘を抜いた瞬間、きらりと炎を反射し刃は瞬時に紅色に染まった。それは美しいものだった。鞘にも柄にも国花であるウィステリアの花を忠実に模写して、花びら一枚一枚が今にも風に吹かれ揺らめきそうな程に。

 鞘を抜き、刃を見た瞬間、心は決まった。

「お別れだね、みんな」

 せめてメイド仲間が無事に生き延びてくれることを祈りつつ、静かに別れを告げた。

 別れの言葉を紡いだ瞬間、私の脳裏に、今まで共に過ごしてきた仲間や色褪せてしまったかつての家族が鮮やかに蘇った。でももう二度と、彼らに逢うことは叶わないのだ。

 じわりと目の端に涙が浮かぶ。それに気付かないフリをして、脈打つ首筋に手を当て位置を確認すると、今度は勢い良く短剣を振り上げた。その時───、

「っ痛……───……え?」

 喉元に突きたてようとした短剣を掴む腕を、背後から誰かがものすごい力で掴み上げた。あまりの痛みに短剣を離した瞬間、私は誰かに体が軋むほど強く抱しめられてしまった。

「……何も言うな」

 背後から抱きしめられているせいで、声の主は男という以外何もわからない。そう、敵か味方かも。

「ずっと貴女を探していた。無事でなによりだ」

 吐息のように擦れた低い声が、私の頭上から降り注ぐ。
 その声はまるで媚薬のようで、さっきまで火の粉に煽られていた、手足の焼ける痛みが消えていく。

 不思議なことがあるものだ。こんな状況で、自分を助けてくれる人などいるはずがないのに。そんなことを考えながら身体を捻って顔の見えない男の頬に手を伸ばす。けれども、あと僅かなのに指が届かない。

 その時合点がいった。あぁそっかそっか、私、夢を見ているんだ、と。そう思った途端、意識が遠のいていった。 


 そして一介のメイドであった私は、無事に王女の身代わりという大役を果たして、一人お城と共に業火に焼かれました………とはいかず、どういう訳か助け出されてしまい、三食昼寝付きの生活を送っている。


 人生万事塞翁が馬という諺があるけれど……本当に人生何があるかわからないものだ。
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