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3.真泉海

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 大学まで徒歩四分。築二十三年、家賃三万八千円の鉄筋造り。玄関に入ってすぐの風呂場と、一口コンロだけがぽつんとあるキッチン。七畳のワンルームすら満足に冷やせない古びたエアコン。それが、おれの住むアパートだった。
「着いたか?」
『着いた。いま向かってる』
 耳に当てた携帯電話から、明るい声が響く。昨夜だって電話したのに、電波に乗って届くその声が、ひどく愛おしくてたまらない。
 暦の上で夏がはじまったと聞いてからずいぶん経って、世界はやっと、まぶしい光を受けて輝く季節へと変わっていた。半袖から伸びる素肌はじりじりと太陽に焼かれて、すっかり腕時計の痕がついてしまっている。再来週には前期の試験週間がはじまる予定だった。時の流れは、おそろしく早い。
 高校のころは、朝早くに家を出て、夕方までみっちり授業を受けて、夜になるまで部活をしていた。今では金曜の午後と月曜の午前は講義がなくて、ほとんど四連休に近い週末を過ごしている。週の半分は飲食店でアルバイトをして、学費と生活費を稼いだ。
 アルバイトとはいえ、働きながら通う大学は、決して楽ではなかった。自分が労働をしなければ、世界が明日に続かない。そのプレッシャーの重さは、経験しなければ決して知ることのできないものだった。毎日吐くほど走っていたあのつらい部活のほうがまだマシかもしれないと思う日がくるなんて、高校を卒業するたった数か月前までは信じられなかった。
 平日の講義と四連休の合間にアルバイトをして、さらにその合間に、まなとと会う。高校時代とあまりにちがうせいで最初はとまどったその時間の使い方にも、おれはあっという間に馴染んでしまった。アルバイトを数日休むために不定期に下げる頭にも、もう違和感はない。まなととの時間を得るためなら、なんでもできるような気がしていた。
『はあ、あいかわらず、坂、きついな、ここ』
「運動しないからそうなるんだろ」
 電波の向こうから、荒い息が聞こえる。まなとは会話を続けるのもやっとらしい。
 坂の上から街を見おろす。砂丘が地下に眠る住宅街の先には、またさらに家々が続いていた。陽の光を反射する屋根が連なっていて、坂を下った先は白くかすんでよく見えない。その白い街並みを降りると、小さな駅がある。おれのアパートにも、おれが通う大学にも、その駅からは息を切らして歩かなければたどりつかない。
『かい、も、あし、うごかない、あせ、やばい』
「がんばれよ、おれに会いたいだろ?」
『そりゃ、会いた、い、けど』
 しゃべらなければいいのに、息継ぎだらけの声が耳に届く。呼吸がマイクにあたって出る大きな音さえ、甘く頭の芯を溶かした。溶けた思考のまま、言葉が口から流れでていく。
「……おれは早く会いたいよ」
 あんまり真剣な声が出るから、自分でもおどろいた。歩調が乱れて、足がもつれる。だけど、その気持ちに嘘はなかった。小さく笑う声のあと、控えめな「うん」という相槌が聞こえて、それだけで、重さのあるスニーカーがぐんと軽くなる。
 早く、はやく、はやく会いたい。歩幅がどんどん広くなって、ついには身体が宙に浮く。一番調子がいいときの、一〇〇メートルの試合みたいだ。きっといま、おれの顔は目も当てられないくらいゆるんでいるにちがいない。すれちがう小学生の列が、不思議そうにおれを見ていた。
 競技からは離れても、ランニングは毎日欠かしたことがない。そこらの高校生スプリンターには負けない自信もある。だけどこんなにも揺らいだフォームでは、かつての監督に笑われてしまうだろう。
 ケーキ屋が見えてきて、とたんに甘い香りに包まれた。近くの高校の制服を着た学生が、その店の名前が入った箱を持った手をうれしそうに揺らしながらすれちがう。この高校生にも、会いたいひとがいるのかもしれない。
「いまどこ?」
 荒い息だけが聞こえる携帯電話に向かって声をかける。渇いた喉を潤すように唾を飲みこむ音がしたあと、さっきよりさらに掠れた声音で返事がきた。
『え、と、ケーキ屋が、みえる』
 届いた言葉に、足が止まる。駅からおれの家までの道中にあるケーキ屋は、今まさに目の前にあるこの店だけだ。走っても乱れなかった心臓が、バカになったみたいに暴れまわる。
 大きく息を吐いて、吸って、もう一度吐いて。走っていたことを悟られないよう、身体から力を抜いた。一歩踏みだして、ケーキ屋の角を曲がる。
「はあ、あれ、かい、きてくれたんだ?」
「……まなと」
 茶色の髪が、汗に濡れてくるくると踊っていた。おれをみとめた瞬間、栗色をしたまなとの瞳が、すっとやわらかく細められる。引き寄せられるように足が前に出て、気づいたら手を伸ばしていた。
「へへ、海だ」
 おれの肩にもたれかかって、乱れた息を整えながら、まなとがぐりぐりと額を押しつける。それまで辺りを包んでいた生クリームのにおいを忘れるほど、一気にまなとの香りが鼻に届いた。汗のせいで濃く香るマリンのにおいに、めまいがする。
「こら、ひとの服で汗拭くな」
「ばれた?」
「ばればれ」
「ふふ、ごめん。あー、部活してたときの海とおんなじにおいする」
 ふう、とひとつ息を吐いて、唇の端をあげたまなとが身体を離す。いつでもきれいにセットされている前髪が額に貼りついているのすら愛おしくて、いますぐ触れてぐしゃぐしゃに掻きまわしてやりたかった。
 まなとの顔を見た瞬間に湧き起こるこの気持ちを、「下心」以外になんと呼べばいいのだろう。おれから向けられる感情がどんなものかよく知りもしないで、まなとは簡単に距離を縮める。
 上目遣いでこちらを見る姿を見るだけで、強く、つよくまなとを感じていた。首筋を流れていく汗のしずくが、おれの代わりにまなとの肌をなぞる。
「ひさしぶり」
「……久しぶり」
 久しぶり、という言葉は、いったいどれくらい離れていたら使ってもいいのか、あとで調べてみようと思った。この前まなとに会ってから一ヶ月しか経っていないし、声はほとんど毎日聴いている。まなとのことを、いつも近くに感じているのに、それでも、高校時代のように毎日会えなくてさみしいと感じる。こうして、目の前に実体があることをうれしく思う。
 離れているのに、一瞬一瞬、まなとのことを考えている自分がいた。いつのまにか、こんなに好きになってしまった。
「なに、迎えにきてくれるとか、そんなにおれに会いたかった?」
「……べつに」
「さっきは会いたいって言ってくれたのになあ」
 そういう素直じゃないとこが好きなんだけどな、と、まなとがくしゃくしゃの顔で笑う。
「……うそ言ってろ」
 好き、という台詞に、どくんと胸がひとつ脈を打つ。ときめいたわけではなかった。まなとのこういう物言いには、出会ってから時間が経った今でも慣れない。ほんとうにその言葉を信じてもいいのか、おれはずっと、考えあぐねている。いとも簡単に紡がれる「好き」という台詞の裏に、なにかがあるのではないかと、つい考えてしまう。
「貸して。これからまた登らないと」
 まなとの荷物を奪って、踵を返す。ありがと、とちいさな声が聞こえて、後ろをついてくる気配がした。一歩踏み出す足音といっしょに、まなとがとなりに並ぶ。ちらりとそちらに目をやってから、すぐに前をまっすぐ見すえた。身体に馴染んだ立ち位置にうれしくなる。
 たとえまなとの心が、おれのもとになかったとしても。目の前にまなとがいるなら、それでいいと思えた。

 「うみにいきたい」とまなとが言った。おれの部屋に荷物を置いて、玄関で靴も脱がずにひとつキスをする。額をくっつけた状態で、熱い息がかかった。
「……このタイミングで?」
「ふふ、このタイミングで」
 ちゅ、と音を立てて唇に触れていったまなとが、いたずらっ子のように笑う。そのまま手を引かれ、ボロアパートの汚れた階段を駆け下りた。
 さっきまなとと登ってきたのとは反対の坂を下ると、そこはすぐ海だった。砂丘の頂上にある大学のキャンパスの高い棟からは、佐渡島も見ることができた。
 つないだ手のひらが汗ですべる。力を強くこめていなければ、すぐに離れてしまいそうだった。だけどおれは、まなとの手を掴むこともできなくて、ただ握られるがままになっていた。このあたりは同じ大学に通う学生のひとり暮らしが多い。こんなふうに手をつないで歩く大の男ふたりは、彼らの目にどんなふうに映るだろう。知り合いに会ったら、どんな顔をして、どんな言い訳を口にすればいいのだろう。
 おれのアパートへ会いにくるのは今回が三回目で、毎回通った砂浜へと続く道を、まなとはすっかり覚えているようだった。案内するまでもなく、おれの腕を引っぱってぐんぐんと先へ進む。おれが、どうでもいいことで思い悩んでいることなんて知りもしないで。
「ほら海、しっかり歩けー」
「わかった、わかったから手離せって」
 口に出してから、しまった、と思った。振り返ったまなとが、眉をさげて困ったような顔をしている。まなとは手をつなぐのが好きだ。高校時代も、部室棟から校門までの短い道を、指を絡ませながらよく歩いた。その指先に思うところはあっても、文句を言ったことはほとんどない。だからふいに口からこぼれた拒絶の言葉に、言ったほうも言われたほうも、お互いショックを受ける。
「……ごめん」
「いーよ、気にしてない。高校のときもそうだったし。海くんは気遣い屋さんだからなー」
 そう言って、まなとはさらに大股で歩いた。あいかわらず住宅ばかりが並ぶアスファルトは、じりじりと下からもおれたちを焼く。まなとの長いえりあしが、汗で束になっていた。まなとは、高校時代の話をすぐに持ちだす。なにか特別な思い出が、そこにあるかのように。
「あ、潮のにおい」
 急に下りがきつくなったと思ったら、住宅街が消えて林が見えた。防風林というやつだ。林のなかを貫く、曲がりくねった道をもくもくと進む。一歩前に進むたび、たしかに潮の香りが強くなった。
「出た!」
 突然、道が開けた。道路とのあいまいな境目を経て、目の前には砂浜が広がっている。その奥に横たわるのは、黒い海だ。
「海、はやく!」
 靴を脱いだまなとにならって、裸足であとを追いかける。日光に照らされてきらきらと光る海面を背景に笑うまなとは、おれに向かって笑いかけてくれているのが不思議なくらい、きれいで神々しかった。
 夏の盛り、こんな真昼でも海辺にはひとがたくさんいた。ちいさな子どもを連れた親子や、男女のカップル、騒がしく声をあげているグループが、それぞれの時間を楽しんでいる。まなとが流木に腰かけて、ぽんぽんととなりを叩く。ほんのすこしだけ周囲を見まわして、みんなおれたちのことなんて見ていないと自分に言い聞かせてから、男ふたりの距離にしては狭すぎる流木に腰をおろす。
「やっぱり日本海は太平洋とは違うなー。遠くから見るとおとなしいのに、波打ち際までくると結構荒れてる。ほんと、海のおかあさんいいセンスしてるよ」
「それは……ほめてるのか」
「ほめてるよ。海のそういう、内に秘めてるかんじ、すごく好き」
 まなとは、おれへの「好き」を安売りする。そうすることで、本心の上に幾重にも分厚い蓋をしているんじゃないかと、そう勘ぐってしまうほどに。素直に愛されていると思えばいいのに、それができないことが悔しくて、まなとにも申し訳ない気持ちになる。どうしておれみたいな人間に、まなとがまなざしを向けてくれるのか、どんなに考えても答えは出ない。
 好きと言えないおれと、好きを振り注ぐまなとは、アンバランスで危うい。
 身動ぎをして、まなとが腰を浮かせる。半袖から露出した腕が、おれの腕に触れた。
「……海、誕生日おめでと」
 触れた素肌が湿っていて、出がけに玄関で重ねた唇を思いだす。やわらかくて、しっとりしていて。まなとの身体に、ずっと触れていたい衝動に駆られる。
「ま、明日だけどな」
「何回でも祝ってあげたいんだよ。海を産んでくれた親御さんに感謝してるんだから」
 なんでも茶化してしまうまなとが、真面目な顔をして水平線を見ていた。その台詞を疑う自分と、胸の芯で受け止めて、よろこんでいる自分とが闘って、きっとなんとも言えない複雑な表情をしている。
「海のうちの砂浜、またいきたいな。あそこにいると、海にもっと深く触ってるみたいで、どきどきするから」
 おれの実家は、庭から波が見えるほど海に近いところにあった。夜になると海風が唸って、松林が激しく吠える家に嫁いできたかあさんは、つらいことがあるたび、砂浜で海を眺めたそうだ。雄々しく波立つ海を見て、こんなふうに強くなりたいと泣いたのだと、いつか言っていたことがあった。そんなかあさんがおれに「かい」という名をつけた意味を、まなとを実家に連れていくたびに考えていた。
「――誕生日、帰ってくるんでしょって、かあさんが」
 数日前、突然かかってきた電話口で、かあさんは当たり前のようにそう言った。一年前まで、十八回、欠かさずに実家で祝ってもらっていた誕生日だった。
「まなとがくるから帰らないって言ったけど」
 それは、おれなりの決意だった。そうでなければ、県内の大学に通うために家を出たりはしないし、仕送りももらわずにバイトと奨学金だけで食いつないだりはしない。
 変わりたかった。いつもうつむいているだけだった自分を、まなとと隠れてセックスしている自分を、変えたかった。
 おれは、それ以上言わないつもりだった。言わないつもりだったのに、まなとは、おれが隠していることを、しっかりと見抜いてしまう。
「……おばさん、なんて?」
 ひどくやさしい声を出して、まなとが首を傾げた。電波の奥、こちらに聞こえないように小さく落とされたため息が、耳によみがえる。かあさんの声はやわらかかったけど、それはまるで、駄々をこねる幼い子どもをなだめるみたいだった。
「いつまでも愛人くんを束縛してたらだめでしょ、あの子にはあの子の人生があるんだから――だって」
 かあさんの言うことは、なにひとつ間違っていない。まなとにはまなとの人生があって、それはおれのためにあるものじゃない。そんなこと、嫌と言うほどわかっている。
「そんなドラマみたいな台詞、ほんとに言うんだなって、笑えてきてさ」
 好きを信じない。外では手をつなぎたくない。まなとの好意を受け入れられないのなら、離してやったほうがいい。何度もそう思った。でも、考えるより深く、行動するより早く、「まなとのそばにいたい」と、身体のまんなかで自分が叫んでいる。
 ――おれたち、おんなじだよ。おんなじのがふたりも揃ってたら、それっておれたちにとってはフツーってことじゃない?
 あの日、放課後のだれもいない教室で、まなとはそう言った。あの言葉に、どれだけおれが救われたか、まなとにはきっと、一生かかってもわからない。
 まなとが水平線の遥か上に浮かぶ太陽に目を細めている。遠くを見つめているときのまなとの横顔は、どんなときよりきれいだ。高校時代、陸上部の練習中に、何度も見た横顔だった。熱っぽさと、冷静さを両方混ぜ合わせたような視線で、まなとはいつも、たったひとりを見つめていた。
 まなとの視線の先にいたあいつは、今も走っているだろうか。おれが諦めてしまった陸上競技を、続けているだろうか。
 海の果てを見つめたまま、まなとが腕を強く押しつけてくる。ふたり分の脈打つ血の流れは、同じリズムを刻みそうになっては、また少しずつずれていった。
「……おれの人生は、海と一緒じゃなきゃありえないよ。ぜったい、ありえない」
 海風にかき消されてしまいそうなくらい小さかったのに、まっすぐなその声は、おれの耳に静かに響いた。
 まなとの横顔から目を離して、ひざの上で握ったこぶしを見る。まなとをただ目で追っているだけだった頃、まだ子どものようだった手は、いつのまにか筋だらけになっていた。これからもっと皮膚が硬くなって、しわが増えていくのだ。
 まなとはきっと、おれの手が老いていく日々を、一緒に過ごしてくれる。でもほんとうにそれでいいのか、どうしてもわからない。
 この先、おれ以外にもっとまなとのことを大事にして、笑顔にできる人間が現れるかもしれない。もしかしたら、すでに出会っているかもしれない、とも思う。
 押しつけられた腕から身体を引く。触れて汗ばんでいた肌が、風で冷えていった。
「……絶対なんてないよ。これからどうなるかなんて、だれにもわからない」
 答えた声は乾いていた。一瞬置いて、うつむきながらまなとが笑う。自分のことを笑っているような、そんな笑みだった。
 こんなことが言いたいわけじゃない。ありがとうと、素直に言えたらどんなにいいだろう。まなとを目の前にすると、気持ちはいつも自分が思う数倍こんがらがって、皮肉の色に染まって口から出てくる。
 離れても大丈夫だという自信がほしい。まなとはそう言ったけれど、近くにいるほうが、おれは不安だった。まなとに触れるだけで、想いがあふれて止まらなくて、それを抑えこむのに必死で。かっこ悪い自分しか見せられないことが情けなかった。進学と同時にできたこの距離は、おれにとっては正直心地がいい。でもそれは、まなとがおれを好きでいてくれるという、確固たる自信がおれにあるからだ。やっていることと考えていることが、あまりにも自分だけに都合よく乖離している。
 そばにいたい。でも近くにいると傷つけてしまう。まなとを好きな気持ちはこんなにたしかなのに、どうしてかうまく表現できない。
 沈黙がこわくなって、勢いよく立ちあがった。
「そんな、気負わなくていいよ」
 背中にまなとの視線を感じた。そのまま、言葉を重ねる。
「友だちだろ、おれたち」
 そう、おれとまなとは友だちだ。あの日、まなとが言った「友だちになろ」という台詞は、おれたちにとって強い呪いだった。キスをしていても、セックスをしていても、おれたちは友だちで、それは、ずっと変わらない事実だった。
「な?」
 振り返って声をかける。まなとは眉を下げてうつむいた。その表情の真意はわからない。だけど、友だちという関係でい続けることを、哀しんでいるのとはちがう、それだけはわかった。もし友だちでいるのが嫌なら、四年以上もこんな名前のつかない関係を続けているわけがない。今この瞬間、「友だち」と言ったおれの言葉を、否定すればいいだけの話なのだから。
 おれたちの形そのものが、まなとの答えだ。
「帰ろう。腹減っただろ、なんか作ってやるから」
「……うん」
 まなとが、むりやり作ったような笑顔を浮かべる。なにか言ってくれるとは思っていなかった。だけどおれは今、たしかにまなとを試した。突き放すようなことを口走っても、そばにいてくれるとたかをくくって、まなとに甘えた。
 こんなふうだから、おれはまなとの気持ちを手に入れられない。それでもそばにいたいのだから、これはもう病なのかもしれなかった。

***

 東京で大雪が降ったと、気象予報士が言っていた。交通機関のダイヤが乱れたことをはじめとして、大雪被害の大きさを神妙な顔で伝えるニュース番組に、雪国育ちのおれは眉をひそめるのが習慣だった。
「東京いけばわかるよ、こっちとは根本的にちがうの」
 呆れるおれに、アナウンサーと同じ真面目な顔をしたまなとがそう言った。
 そんなものか、と、目の前の街を見渡して思う。除けられた雪が積みあげられ、車道とのあいだに障害ができている歩道を進みながら、日本は広いという、至極当然のことに思い至る。となりを歩くまなとは、雪がめずらしい土地から雪深いこの街へ帰ってきたばかりで、久しぶりの積雪に戸惑っているようだった。
 どんなに頻繁に行き来していても、季節の色がちがう場所で、おれたちは普段過ごしている。その事実に気づくには、毎日ただ生きているだけで十分だった。
 年が明けたばかりの街は、新年のにぎわいと凍えた静けさの両方が共存する不思議な空間だった。ひと気は多いのに、音という音がぜんぶ雪に吸いこまれたような、しんとした雰囲気が漂っている。今年の秋はずいぶん短くて、夏が終わってすぐにやってきた冬の気配に、最近やっと慣れたばかりだ。
「やっぱこっち寒いなあ」
「今年は雪もかなり降ったしな」
 茶色の髪をふわふわとマフラーにひっかけて、まなとが手にはあっと息を吐きかけた。はじめて見るネイビーのピーコートが、細身の身体によく似合っている。白に染まった背景で久しぶりに顔を合わせたまなとの横顔は、ひと月前に会ったときよりずっと大人っぽくなっていた。
 年末に帰省したまなとを迎えてから、おれたちは坂の上のワンルームだけでほとんどの時間を過ごした。ちいさなこたつに身体を寄せ合って、腹が減ったらコンビニに出かけて、眠くなったらセックスをして、疲れたまま眠り、おれはときどきアルバイトにいった。
 まなとは東京で派遣のアルバイトをしていて、どこかひとつの職場で長く働くことはないようだった。「効率よくお金稼いで、海に会いにくる時間も取れるから」とまなとは言った。新しく赴く先々で、ひとびとの心を掴み、うまく立ちまわるまなとの様子は、手に取るように想像できた。だれもがうらやむ容姿と性格を武器にして、まなとの人生はうまくまわっているのだ。
「まだひといっぱいいるなー。ずっと家にこもってたのに」
 おれのアパートから電車で二十分の、県内でも有名な神社は、こんな日でもそこそこの人出がある。三が日を終えてから初詣にきたのは、ひとがいっぱいいる日は嫌だとまなとが言ったからだ。避けたはずの人混みが広がる光景に、まなととの距離がぐっと縮まる。
 混雑を嫌うのは、おれと一緒にいるところを、見られたくないからだろうか。今さらそんなことを考えて、だけど実際見られたくないのはおれのほうだと気づく。
 背骨が溶けるんじゃないかと思うほどくり返したセックスの気配が、まだ身体に残っている気がして、すこし後ろめたい。外を歩くときはどんなふうに並んでいたのか、記憶と感覚を探ってみても、とっくに作業を止めた脳は正しい判断ができなくなっていた。部屋のなかで飽きるほど重ねた唇に吸いこまれそうになるたび、やっぱりいつも以上に近くにいるような気がして、悟られないようにまなとから拳ひとつ分離れる。
 流れる人波に注意しながら雪を踏んでいく。眼鏡のフレームで切り取られた世界は、冬の褪せた色のなかでもまなとがいるだけで輝いて見えた。つ、とこちらを向いたまなとが目を伏せて頬を染める。
「なんか、海と外にいるの照れる」
「なんで」
「ええ、言わせんの?」
 きれいな弧を描く唇に目を奪われて、あわてて目をそらす。おれより低いところにあるまなとの眉が、くすぐったそうに下がった。
 毎月のように顔を合わせていても、まなとは会うたびにすこしずつ変わっていくような気がした。笑うと目尻にしわが寄るところも、手の甲を隠すようにセーターの袖を伸ばすくせも、なにひとつ変わってはいないのに、毎日顔を合わせていたころとは明らかにちがうまなとが、そこにはいる。
「……さっきまでおれたちがなにしてたか、覚えてないの?」
 首を傾げて、まなとが上目づかいでこちらを見る。雪が降って明るいからだろうか。その姿がまぶしくて、目をすがめた。マフラーにあごをうずめたまなとが、ふふ、といたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「どきどきしてるんだよ。外で見る海がかっこよくて」
「……嘘言ってろ」
 出かける前も抱きあっていたのに、今すぐ抱きしめてしまいたくなる。でもひとの目がある場所で、すこし伸ばせば届く距離にあるまなとの手に触れる勇気はなかった。代わりに出た憎まれ口に、ああまた失敗したと、後悔が首をもたげる。
 大切にしたい。思いを注ぎたい。想像するのは簡単なのに、おれにとってそれはひどく難しいことだった。おれの気持ちは、言葉では正しく伝わらない。抱えている思いと、伝えたい想いが、必ずしも同じとは限らないからだ。好きで、大好きで、そばにいて大切にしたい。あたたかくてやさしい、まなとの心を包みこんで庇護するものだけが伝われば十分なのに、おれの言葉はうまく機能しない。
「あーまたそうやって信じようとしない」
「うるさい」
 いつも、いつだって、自信がない。まなとは、目に映るものをなんでも選び取ることができる星のもとに生まれてきている。中学のときからずっと見ていたから、それが痛いくらいよくわかる。今だって、すれ違うひとびとが、こんな田舎に不釣り合いなまなとの容姿に目を奪われているのが見てとれた。
 そういうまなとに選ばれていると、普通ならば有頂天になるものかもしれない。ほんの数時間前まで、狭い部屋の狭いベッドで、お互いの肌が溶けて消えてしまいそうなセックスをしていた。中学生のころ、ただ見ているだけの存在だったまなとがおれのとなりに立つようになっても、肌を触れ合わせるようになっても、おれとまなとの人間としての価値が天と地ほどにちがうという事実は変わらない。
 細い行列の果てにたどりついたお社で、まなとはなにかを熱心に願っていた。線の細い見かけに似合わない、おれよりごつごつとした手を合わせて、長いまつげを伏せて、同じく手を合わせていたおれが横顔を眺める余裕があったくらい、真剣に、なにかを願っていた。目を開けた瞬間のまなとのまなざしは、まっすぐ前に向かっていた。高校時代、その視線の先には、いつもあいつがいた。嫌と言うほど見つめてきた視線を目の当たりにして、す、と心が冷えていく。
 おれの心臓を震わせるのはいつも、同じ人間の見せる同じ光景だった。リピート再生のCDみたいに、聞き飽きたサビが頭のなかをぐるぐる巡る。
「……なにお願いしたんだ」
 参道を離れて鳥居を抜けたとき、さりげないふうを装って尋ねた声は、すこし揺れてしまった。まただ。伝えたい想いは、余計な感情まで乗せた言葉にかき消されて、その輪郭をあいまいにする。言ってから、口にするんじゃなかったと悔やんだ。まなとの伏せたまつげが、白い息に湿って震えたからだ。
「ひみつ」
 一歩足を踏み出したまなとが、くるりと身体を反転させてこちらを見る。ポケットに手を入れた無邪気な笑顔は、こうしてふたりでいるようになった頃から変わらない、なにかを隠す表情に見えた。繰り返す、おれたちの人生のサビ。
「そういえば、前に陸上部でここにきたことあったよな」
 思いだしたように、まなとが人差し指を立てる。明かしたくないのなら、まなとが隠したその思いに、おれは触れたくなかった。触れてしまったら、蓋が開いてしまう。開いたら、もう、あとには戻れない。
「……ああ、あったな」
 直前までの会話なんて忘れたふうを装って言葉を返す。まなとが、うれしそうに笑った。
「あのときの部長はそういうの好きだったもんなー」
「なつかしいな。二年生の正月だった」
「おれ部員じゃないのに、部長がこいって言ってくれて。あのときはうれしかった」
 おれの入部と同時に、陸上部の練習を眺めるだけのまなとの放課後がはじまった。最初は戸惑っていた先輩や仲間たちも、まなとの人当たりのよさや、決して見学をやめない熱心さにほだされて慣れていった。
 おまえの性格がそうさせたんだよ。その台詞は飲みこんだ。まなとだって、きっとわかっている。
 並んで待った初詣は、終わってみれば一瞬だった。神社から駅まで続く大通りを、白い息を吐き出しながら歩く。距離はかなりあるけれど、ふたりで話していればあっという間だ。雪を踏む音が、そのまま積まれた雪のなかに吸い込まれていく。
 まなとがおれのために陸上部の練習を眺めていることは誰もが知っていたし、おれたちは互いが特別な存在であることを隠そうともしていなかったけれど、周囲は茶化さずに普通に接してくれた。不思議だ。男を好きでいることに後ろめたさを感じていたのに、恐怖なんて取るに足らないものであると、男であるまなとが教えてくれた。まなとが笑うと、強くなれる気がした。
 そうだ、まなとがいれば、おれは強くなれる。それに気づいているのに、おれはこの大通りで、まなとの冷たい指先をあたためてやることができないでいる。
「一年生がすごく気を遣ってくれて、甘酒持ってきてくれたの覚えてる」
「……そう、だったな」
 後輩たちも、まなとの存在にすぐに慣れていた。先輩たちが当たり前のように受け入れていることを、後輩が認めるのはきっと簡単なことだったんだろう。まなとに軽口を叩くやつらもいたし、まなともそれを楽しそうに見ていた。
 だけど、ただひとりあいつだけは、いつまで経ってもまなとに慣れていなかった。
 まなとがそばにいれば全身を緊張させて意識していたし、普段はなににも興味がないような顔をしていたのに、まなとが笑うと目がきらきらとその姿を追って輝いていた。
 その存在を新鮮に感じて、胸を高鳴らせて、そうやって、あいつはまなとをいつも見ていた。そんなあいつを、まなともまた、誰にも気づかれないように見つめていた。
「おれは」
 そこまで声に出して、どんな言葉を継ごうか考えこむ。立ち止まったおれに、まなとが振り返った。
 神さまに、まなとはなにを願ったんだろう。一度ははぐらかされた話題を、また掘り起こしたら、まなとは怒るだろうか。
 おれは、まなとがしあわせになりますようにって願ったよ。まなとは、なにを願った? おれのことを、すこしでも考えてくれたりしたか?
「どうした、海」
 聞きたいことが浮かんでは消えを繰り返して、流れ星みたいに頭のなかを去っていく。まなとが不思議そうな顔でおれの頬に触れようとした、その瞬間だった。
「……先輩?」
 すべての音が吸収されてしまうような雪のなかで、突然聞こえたその声は、懐かしさと一緒にざらざらした感情を連れてきた。おれの肩越しにまなとがだれかを見つけて、驚きに目を丸くしている。姿を認めなくても、声の主はすぐにわかった。
 心臓がバカになってしまったのかと思うほど鼓動は早いのに、頭はやけに冴えていた。振り向いて、精いっぱいの笑顔を向ける。嫉妬でまみれた、醜い笑顔を。
「太一」
「……先輩」
 今度は、おれに対しての「先輩」だった。太一はこうして、同じ言葉にちがう感情を乗せておれとまなとに投げかけてくるやつだった。やっとおれに気づいたみたいに、視線がまなとからおれに動いて、そこから離れない。諦めと、尊敬と、すこしの嫉妬。あのころ何度も見た、すべてを抑えこむ太一の表情だ。記憶が、鮮明に溢れだす。
「お久しぶりです」
 軽くお辞儀する髪の、黒くて硬そうな印象も変わらない。まなとのやわらかい茶の髪とは正反対だった。グラウンドの砂埃のなかで、対照的だったまなとと太一の姿が目に浮かぶ。そんなふたりを見ていたときの、どす黒い自分の気持ちも、思いだす。過去に置いてきたはずのどろどろした黒い塊が、胸の隙間からこぼれてきた。
「なにしてんの、ひとりで」
 そんなつもりはなかったのに「ひとりで」の部分を強調しているような響きになった。気づいているだろうに、それにも太一は不器用な笑みを浮かべて、「塾いくとこです」と律義に答えた。
「そっか、おまえももう受験生だもんな」
「はい」
「新年早々、大変だな」
「はい」
 なんとか話をつなげて、太一をこちらに引きつけておかなければ。そう思うのに、会話とはちがう場所で、まなとと太一が互いを強く意識しているのがわかる。
「先輩たちは」
「ああ、初詣」
 神社のある方向を顎で指して答えると、太一は表情ひとつ変えずに「あいかわらず仲いいんですね」と言った。すこし笑みを含んだ声で発された台詞の裏にある思いを、まなとは感じているだろうか。
 雪を踏みしめる車の群れが、おれたちの脇を次々に走り抜けていく。あの群れからおれたちを見ても、きっと仲がいいようには見えないはずだ。会ってはいけなかった。声をかけてはいけなかった。無視しなくてはいけなかった。
 重い空気が、三人のあいだに流れている。
 まなとに目をやると、マフラーに顔を埋めて視線をそらし、おれたちの話が終わるのを待っていた。自分は関係ないとでも言いたげな振る舞いとは裏腹に、表情はひどく穏やかで、おれはその立ち姿に、高校時代を思いだした。
 毎日おれの部活の帰りを待っていたまなとが見つめていたのは、おれではなく太一だった。この時間が終われば一緒に帰るのだとわかっていても、その視線の熱っぽさにいつも嫉妬していた。
 耐えられない。いますぐ、ここを離れたい。
「……あの、もういかないと」
 太一が唐突に言葉を放つ。感情を読まれた、と感じた。太一はひとの顔色を窺うのがうまいやつだった。けれど反対に、気持ちを隠すのは下手だった。こいつは、今でもなにも変わっていない。
「そっか、引き止めてごめんな」
「平気です。――それじゃあ」
 太一は、歩きだす瞬間もまなとのほうを見なかった。代わりに、まなとは太一の後姿を目で追いかけている。まるで、見えない糸でつながっているみたいに。となりにいるのに、まなとが遠くに感じて、手を握ろうと指を伸ばす。
「あの」
 触れる瞬間、太一が踵を返して、こちらを見た。その視線は、まっすぐまなとに向けられていて、けれど太一は、ためらうように言葉を濁す。同時に、まなとは視線をはずした。まなとの視界をふさぐために一歩足を踏みだしそうになるのを、必死に堪える。それでも、黒いどろどろを乗せた言葉が転がりでた。
「どうした?」
 まなとにチラと目をやってから、太一は目を伏せた。貼りついたテープを引き剥がすような動きだった。
「……いえ、なんでもないです」
「そっか、じゃあな」
 そして、会釈をした太一は雪のなかを早足で去っていった。まなとはやはり、その黒い後頭部をずっと見つめている。
 なにも言えなかった。まなとがさっき、神さまになにを願ったのか。いま、なにを考えているのか。太一がなにを言おうとしたのか。おれにはなにひとつわからない。でもきっと、それはずっと前から同じだ。
 声がかけられなくて、沈黙が流れる。表情の見えないまなとの、ネイビーの背中を見つめる。ふわふわの茶髪が、乾いた北風に揺れた。太一の姿が見えなくなっても動こうとしなかったまなとが、しばらく経ってから口を開く。
「……また会えた」
 小さな、ちいさな声だった。宝物を両の手でそっと包みこむように、そう言ってほほえむまなとの顔は、おれが見たことのないくらい、うれしそうだった。
「……懐かしいな。あいつ、なんにも変わってなかった」
「そう、だな」
 それは、ほとんどひとり言だった。それでも黙っていることができなくて、こぼれ落ちていくまなとの言葉を、拾いあげるように相槌を打つ。
「不器用で、真面目で、仏頂面でさ」
「ああ」
「……ほんと、懐かしい」
 うつむいて懐かしいとくり返したまなとが、一瞬さみしそうに笑う。おれはそれを、ただじっと見ていた。
「いこ、電車きちゃうよ」
 歩道で立ち止まっていたまなとが歩きだすのを、後ろから追いかける。すこし丸まったネイビーの背中があんまり切なくて、となりに並ぶ勇気が湧いてこなかった。足はまっすぐ駅に向かっていて、駅に着いてすぐにやってきた電車に乗りこんだ。
 三が日も過ぎていて、帰省ラッシュも落ち着いたのか、駅構内も車内もひと気がなかった。ボックス席で向かい合わせに座って、お互い、なんとなく足元に距離ができる。暖房のよく利いた車内で、まなとがひとつ息を吐いた。
 会話はなかった。高校を卒業してから、もうすぐ一年が経つ。そのあいだ、まなととは何度も会って、何日も一緒にいた。離れていたのに、講義でしか会わない友人たちよりも、ずっとずっと長くて濃い時間を過ごした自負がある。東京で過ごすまなとの学生生活に、嫉妬したこともない。そいつらの知らないまなとを、おれは知っているとわかっているからだ。
 まなとをこんなにも遠くに感じたのは、一年ぶりだ。自分のなかの劣等感とどう闘ったらいいのかわからないまま、まなとの顔も見れずにうつむく。
 ふと気配を感じて顔をあげると、まなとと視線が絡んだ。よほどひどい顔をしているのか、ふ、と眉をさげて笑われる。
 猫のようなしなやかさで腰を浮かし、まなとがおれのとなりに座る。冷えきった指をおれの手に絡ませて、やわらかく握りこまれた。
「……おれさ、あいつに十円借りたんだ」
 それは、間違いなくおれに話して聞かせているのに、聞かれなくてもいいと思っているみたいな、静かな声だった。
「高校のとき。卒業式したあと。ぜったい返すって約束した」
 スピーカーを通したアナウンスが響いて、電車がゆっくり動きだす。雪景色のなかを、車体はぐんぐん加速しながら駆け抜けていった。
 返事をすることができなくて、触れてきた指を強く握りなおす。冷えていた手が徐々にゆるんでいって、肌と肌が馴染んでいった。安心したのか、まなとが頭をおれの肩に預ける。やわらかな髪が、首を刺激してくすぐったい。
「覚えてるんだ、ちゃんと。でも返せなかった」
「……返さなくてよかったのか」
 別れる前、なにかを言おうとしていた太一を思いだす。おれの知らないところでできていたまなとと太一とのつながりに、思ったよりショックを受けている自分がいた。まなとがすべてを話してくれていると、どうして思いこんでいたんだろう。電車がガタンと揺れるたび、内臓が動くような気分がして不快だった。
「返さなければ、また会えるだろ」
 聞いた瞬間、心臓がキンと固まった。ああそうか、やっぱりそうなんだ。疑いが、確信に変わる。身体の中心に入っていた針金が抜けたみたいに、つないだ指の力が抜けていくような気がした。
「そっか」
「うん」
「……それで、後悔しないか」
 故郷は同じ街でも、次にいつ会えるかなんて、だれにもわからない。太一だって進学すれば、まなとのようにどこか遠くへいってしまうかもしれない。もう二度と会えない可能性だって、ゼロではない。
 手を、そっと引こうとした。ここで終わりだと思った。もう続けてはいけないと、おれは、おれたちはもうわかっている。けれど引き抜こうとしたおれの指を、まなとはぎゅっと握って離さなかった。
「おれは、海が好きなんだよ」
 何度も、なんども聞いた台詞だった。覆い隠されたまなとの想いは、いったいどこにいくのだろう。伝えたい言葉は、ほんとうにそれで合っているんだろうか。
 ついさっき、神さまに願った。「まなとがしあわせになりますように」。その願いを叶えられるのは、おれじゃないかもしれないのに。
「好きだよ、海」
 密着した肌を伝って響いてくる声に、頭がしびれる。身体を起こしたまなとが、こちらをまっすぐに見て笑った。窓の外に見える雪のせいだろうか。まなとのほほえみはいつも以上にきれいで、今にも消えそうに見えた。
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