42 / 71
広がる世界
六
しおりを挟む
一方その頃、すばるにも一つの転機が訪れていた。
「なあ、やっぱ話すばっかじゃ足りねーや。外に出ようぜ。お前に町の様子を見せてやりてえ」
九朗が人の住む町へ行ったことのないすばるを外へ連れ出そうと提案してきたのである。
「外へ?」
「おう。百聞は一見に如かずって言うだろ?想像するだけじゃ限界があるってもんだ」
「それは……そうですけど」
すばるは実物を触ってみて、想像と全く違っていた夜行貝の貝殻に視線を落とす。話を聞くだけで物事を理解することは難しい。貝殻ひとつでさえそうなのだ。町全体、人の生活など想像を超えているに決まっている。
本音を言えば知りたい。この目で見てみたいと思う。けれどすばるの立場上ここで軽々しく行くとは言えない。言葉を探してうんうん唸っていると、九朗がからからと笑ってその背をひとつ叩いた。
「まあ考えてみてくれよ!案内ならいつでもしてやるから」
「あい、ありがとうございます」
九朗は色よい返事を期待していると言ってその日はそのまま答えを聞かずに神域を後にした。
その後のすばるはいつものように務めを果たし、九朗が来た日はいつもどことなく不機嫌な皓月にできた傷ひとつひとつを丹念に手当てされながら過ごす。しかも今日は獣に噛みつかれたような二の腕の傷を舐められて飛び上がるほど驚いた。
『私以外の獣の傷など』と独占欲丸出しの唸り声を上げていたのだが、すばるはすばるで羞恥に呑まれそれどころではなかったので言葉の意味を理解できない。ただただ慌てて全身を朱色に染め上げていた。
「こここ、こうげつ!も、もういいです!大丈夫です!」
「いいやまだだ。まだ血が出ている」
「そ、それは皓月が吸うから……ひっ!」
顔を真っ赤にして傷のない腕で肩を押すがびくともしない。柔らかな二の腕についた傷を舐められ滲んだ血を吸われ、徒に犬歯で傷のないところを甘噛みされてくらくらした。傷を治すのに甘噛みは必要ないはずだ。すばるに指摘する余裕はないが。
「はふ……」
傷が瘡蓋になる頃にはすっかり逆上せ上がり、巻き付けられた尻尾にくたりと身を任せきっていた。
「さあ、これでいいだろう。すばる、今日はもうお休み」
「ひゃい……」
己が舐めて癒した傷痕に満足げな皓月。一転して上機嫌な彼の手でそのまま布団に寝かし付けられたが、すっかり頭に血が昇ってしまって寝られやしなかった。
「こんなの心臓が持ちません!」
羞恥に耐え切れず布団の中で胎児のように手足を折って体を丸める。
臆病風に吹かれて閉じ込めた恋心を前触れもなく揺さぶってくる皓月。傷跡とはいえ肌を滑る舌の感触は思春期のすばるには刺激が強すぎる。羞恥心の奥に小さく灯る熱から目を逸らしたくて、ぎゅっと己の体を抱きしめた。
「何か、何か他のことを……そ、そうだ!外出!外出のことを考えましょう!」
元々夜になったらゆっくり考えようと思っていたのだ。気を紛らわせるのに丁度いいとすばるは皓月の姿をどうにか頭の隅へ追いやった。
「行ってみたいけど、一人では絶対に無理ですよね。森を出る前に迷子になる自信があります」
数少ない外出は大体が獣身の皓月に移動を任せっきりで道を歩いた記憶がない。人通りの多いところへ行ったこともないし、自分で買い物をしたこともなかった。読み書き計算はできるが金と仕事と物の価値はあまりわからない。すばるは立派な世間知らずの箱入り息子だ。
歳が近く手に職を持つ同性の人間である九朗。彼はすばるの知らないことを常識として知っていて、きっと人の世界で彼はごく一般的な若者の姿だ。
「僕、お役目以外のこと何にも知らないんですよね……」
己の無知に思わずため息が漏れた。
そもそもすばるは人でありながら人をよく知らない。自我も芽生えぬ頃から神と共に過ごし、その能力故に人から遠ざけられて育ってきた。親はおらず、親代わりも友人も神霊。神域と呼ばれる森の中の大きな屋敷に住み、守護者である皓月に厳選された人間の災いを贖って生きている。親しく言葉を交わすような人間はおらず、外出も一人では許されない。
災厄を贖うために手を伸ばせば、人々は彼をまるで神のように崇拝し額づく。他愛のない話をしたいと思っても恐れ多いと距離を置かれてしまう。決してそこいらの十代の若者のように接してはくれない。それがすばるには“お前は人ではない”と言われているように見えていた。
けれどすばるは神でもない。誰かの身代わりになる力は強いが自分自身に向けられた力に対してはただの人間と変わらない抵抗力しかない。一太刀浴びせられでもすればたちまち死んでしまうだろう。季節の変わり目に風邪をひくこともあるし蹴躓いて転んで怪我をすることもある。神のように幾千万年と生きる術も持たない。神子という生き物は人にも神にもなれない半端ものだ。
けれど九朗と出会って言葉を交わす内に自分はもっと人と近づけるのではないかと気づいた。
掌中の珠のように閉じこもって大切にされているのではなく、自ら祭壇を降りて地に足を着ければきっと。
「うん。やっぱり僕は、もっと外のことを知りたいです」
皓月たちに相談しよう。結論が出たところですっきりとした気分になったすばるは、皓月の暴挙を忘れ気持ちよく夢の世界へと旅立っていった。
「なあ、やっぱ話すばっかじゃ足りねーや。外に出ようぜ。お前に町の様子を見せてやりてえ」
九朗が人の住む町へ行ったことのないすばるを外へ連れ出そうと提案してきたのである。
「外へ?」
「おう。百聞は一見に如かずって言うだろ?想像するだけじゃ限界があるってもんだ」
「それは……そうですけど」
すばるは実物を触ってみて、想像と全く違っていた夜行貝の貝殻に視線を落とす。話を聞くだけで物事を理解することは難しい。貝殻ひとつでさえそうなのだ。町全体、人の生活など想像を超えているに決まっている。
本音を言えば知りたい。この目で見てみたいと思う。けれどすばるの立場上ここで軽々しく行くとは言えない。言葉を探してうんうん唸っていると、九朗がからからと笑ってその背をひとつ叩いた。
「まあ考えてみてくれよ!案内ならいつでもしてやるから」
「あい、ありがとうございます」
九朗は色よい返事を期待していると言ってその日はそのまま答えを聞かずに神域を後にした。
その後のすばるはいつものように務めを果たし、九朗が来た日はいつもどことなく不機嫌な皓月にできた傷ひとつひとつを丹念に手当てされながら過ごす。しかも今日は獣に噛みつかれたような二の腕の傷を舐められて飛び上がるほど驚いた。
『私以外の獣の傷など』と独占欲丸出しの唸り声を上げていたのだが、すばるはすばるで羞恥に呑まれそれどころではなかったので言葉の意味を理解できない。ただただ慌てて全身を朱色に染め上げていた。
「こここ、こうげつ!も、もういいです!大丈夫です!」
「いいやまだだ。まだ血が出ている」
「そ、それは皓月が吸うから……ひっ!」
顔を真っ赤にして傷のない腕で肩を押すがびくともしない。柔らかな二の腕についた傷を舐められ滲んだ血を吸われ、徒に犬歯で傷のないところを甘噛みされてくらくらした。傷を治すのに甘噛みは必要ないはずだ。すばるに指摘する余裕はないが。
「はふ……」
傷が瘡蓋になる頃にはすっかり逆上せ上がり、巻き付けられた尻尾にくたりと身を任せきっていた。
「さあ、これでいいだろう。すばる、今日はもうお休み」
「ひゃい……」
己が舐めて癒した傷痕に満足げな皓月。一転して上機嫌な彼の手でそのまま布団に寝かし付けられたが、すっかり頭に血が昇ってしまって寝られやしなかった。
「こんなの心臓が持ちません!」
羞恥に耐え切れず布団の中で胎児のように手足を折って体を丸める。
臆病風に吹かれて閉じ込めた恋心を前触れもなく揺さぶってくる皓月。傷跡とはいえ肌を滑る舌の感触は思春期のすばるには刺激が強すぎる。羞恥心の奥に小さく灯る熱から目を逸らしたくて、ぎゅっと己の体を抱きしめた。
「何か、何か他のことを……そ、そうだ!外出!外出のことを考えましょう!」
元々夜になったらゆっくり考えようと思っていたのだ。気を紛らわせるのに丁度いいとすばるは皓月の姿をどうにか頭の隅へ追いやった。
「行ってみたいけど、一人では絶対に無理ですよね。森を出る前に迷子になる自信があります」
数少ない外出は大体が獣身の皓月に移動を任せっきりで道を歩いた記憶がない。人通りの多いところへ行ったこともないし、自分で買い物をしたこともなかった。読み書き計算はできるが金と仕事と物の価値はあまりわからない。すばるは立派な世間知らずの箱入り息子だ。
歳が近く手に職を持つ同性の人間である九朗。彼はすばるの知らないことを常識として知っていて、きっと人の世界で彼はごく一般的な若者の姿だ。
「僕、お役目以外のこと何にも知らないんですよね……」
己の無知に思わずため息が漏れた。
そもそもすばるは人でありながら人をよく知らない。自我も芽生えぬ頃から神と共に過ごし、その能力故に人から遠ざけられて育ってきた。親はおらず、親代わりも友人も神霊。神域と呼ばれる森の中の大きな屋敷に住み、守護者である皓月に厳選された人間の災いを贖って生きている。親しく言葉を交わすような人間はおらず、外出も一人では許されない。
災厄を贖うために手を伸ばせば、人々は彼をまるで神のように崇拝し額づく。他愛のない話をしたいと思っても恐れ多いと距離を置かれてしまう。決してそこいらの十代の若者のように接してはくれない。それがすばるには“お前は人ではない”と言われているように見えていた。
けれどすばるは神でもない。誰かの身代わりになる力は強いが自分自身に向けられた力に対してはただの人間と変わらない抵抗力しかない。一太刀浴びせられでもすればたちまち死んでしまうだろう。季節の変わり目に風邪をひくこともあるし蹴躓いて転んで怪我をすることもある。神のように幾千万年と生きる術も持たない。神子という生き物は人にも神にもなれない半端ものだ。
けれど九朗と出会って言葉を交わす内に自分はもっと人と近づけるのではないかと気づいた。
掌中の珠のように閉じこもって大切にされているのではなく、自ら祭壇を降りて地に足を着ければきっと。
「うん。やっぱり僕は、もっと外のことを知りたいです」
皓月たちに相談しよう。結論が出たところですっきりとした気分になったすばるは、皓月の暴挙を忘れ気持ちよく夢の世界へと旅立っていった。
10
お気に入りに追加
57
あなたにおすすめの小説
くまさんのマッサージ♡
はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。
2024.03.06
閲覧、お気に入りありがとうございます。
m(_ _)m
もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。
2024.03.10
完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m
今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。
2024.03.19
https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy
イベントページになります。
25日0時より開始です!
※補足
サークルスペースが確定いたしました。
一次創作2: え5
にて出展させていただいてます!
2024.10.28
11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。
2024.11.01
https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2
本日22時より、イベントが開催されます。
よろしければ遊びに来てください。
獣のような男が入浴しているところに落っこちた結果
ひづき
BL
異界に落ちたら、獣のような男が入浴しているところだった。
そのまま美味しく頂かれて、流されるまま愛でられる。
2023/04/06 後日談追加
侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。
異世界に来たのでお兄ちゃんは働き過ぎな宰相様を癒したいと思います
猫屋町
BL
仕事中毒な宰相様×世話好きなお兄ちゃん
弟妹を育てた桜川律は、作り過ぎたマフィンとともに異世界へトリップ。
呆然とする律を拾ってくれたのは、白皙の眉間に皺を寄せ、蒼い瞳の下に隈をつくった麗しくも働き過ぎな宰相 ディーンハルト・シュタイナーだった。
※第2章、9月下旬頃より開始予定
その溺愛は伝わりづらい!気弱なスパダリ御曹司にノンケの僕は落とされました
海野幻創
BL
人好きのする端正な顔立ちを持ち、文武両道でなんでも無難にこなせることのできた生田雅紀(いくたまさき)は、小さい頃から多くの友人に囲まれていた。
しかし他人との付き合いは広く浅くの最小限に留めるタイプで、女性とも身体だけの付き合いしかしてこなかった。
偶然出会った久世透(くぜとおる)は、嫉妬を覚えるほどのスタイルと美貌をもち、引け目を感じるほどの高学歴で、議員の孫であり大企業役員の息子だった。
御曹司であることにふさわしく、スマートに大金を使ってみせるところがありながら、生田の前では捨てられた子犬のようにおどおどして気弱な様子を見せ、そのギャップを生田は面白がっていたのだが……。
これまで他人と深くは関わってこなかったはずなのに、会うたびに違う一面を見せる久世は、いつしか生田にとって離れがたい存在となっていく。
【7/27完結しました。読んでいただいてありがとうございました。】
【続編も8/17完結しました。】
「その溺愛は行き場を彷徨う……気弱なスパダリ御曹司は政略結婚を回避したい」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/962473946/911896785
↑この続編は、R18の過激描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
膀胱を虐められる男の子の話
煬帝
BL
常におしがま膀胱プレイ
男に監禁されアブノーマルなプレイにどんどんハマっていってしまうノーマルゲイの男の子の話
膀胱責め.尿道責め.おしっこ我慢.調教.SM.拘束.お仕置き.主従.首輪.軟禁(監禁含む)
凶悪犯がお気に入り刑事を逆に捕まえて、ふわとろま●こになるまで調教する話
ハヤイもち
BL
連続殺人鬼「赤い道化師」が自分の事件を担当する刑事「桐井」に一目惚れして、
監禁して調教していく話になります。
攻め:赤い道化師(連続殺人鬼)19歳。180センチくらい。美形。プライドが高い。サイコパス。
人を楽しませるのが好き。
受け:刑事:名前 桐井 30過ぎから半ば。170ちょいくらい。仕事一筋で妻に逃げられ、酒におぼれている。顔は普通。目つきは鋭い。
※●人描写ありますので、苦手な方は閲覧注意になります。
タイトルで嫌な予感した方はブラウザバック。
※無理やり描写あります。
※読了後の苦情などは一切受け付けません。ご自衛ください。
騎士団やめたら溺愛生活
愛生
BL
一途な攻め(黒髪黒目)×強気で鈍感な受け(銀髪紫目) 幼なじみの騎士ふたりの溺愛もの
孤児院で一緒に育ったアイザックとリアン。二人は16歳で騎士団の試験に合格し、騎士団の一員として働いていた。
ところが、リアンは盗賊団との戦闘で負傷し、騎士団を退団することになった。そこからアイザックと二人だけの生活が始まる。
無愛想なアイザックは、子どもの頃からリアンにだけ懐いていた。アイザックを弟のように可愛がるリアンだが、アイザックはずっとリアンのことが好きだった。
アイザックに溺愛されるうちに、リアンの気持ちも次第に変わっていく。
設定はゆるく、近代ヨーロッパ風の「剣と魔法の世界」ですが、魔法はほぼ出てきません。エロも少な目で会話とストーリー重視です。
過激表現のある頁に※
エブリスタに掲載したものを修正して掲載
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる