贄の神子と月明かりの神様

木島

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恋の芽生え

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 そう火の神の眷属たちが二人の未来を案じているなど露知らず、篝に渡された書物を自室へ持ち帰り早速とすばるはそれを開いた。

「磯濱物語……?」

 どうやらこれは絵巻物ではないものの一つの物語のようで、一人の貧しい女が主人公だった。
 女は海に面した小さな村で生まれ育ち、他の村の女たちと同じように貝から取れる真珠という美しい宝石を加工する仕事をしていた。女は家族や村の者たちに囲まれて細やかではあるが幸福な人生を送っている。
 そんな女に転機が訪れたのは嵐が通り過ぎた朝のこと。早くに目が覚めた女は嵐の去った浜辺へ向かい、一人の男を見つけたのだ。
 浜辺で気を失っていた男はこの辺りでは見たことのない顔で、汚れてはいるが大層高価な着物を身に着けていた。先の嵐で船から投げ出されたのだろう男を不憫に思い、女は男を家へと連れて帰る。
 暫くして目覚めた男は記憶を失っていた。
 男はなぜ海辺に流されることになったのかも、己がどこの生まれかも覚えてはいなかった。身に着けていた上等な着物は高貴な家の出身ということを物語っていたが、この村は豪氏の一人もいないような小さな村だ。男がどこの誰かを探すような伝手もない。男が自ら思い出すまでは女の下で生活するよう話し合って取り決めた。

『助けてもらった上に世話になるだけというのは忍びない。どうか私にも働かせてはくれまいか』

 男は心根の優しい人物だったようで自ら男手として働くことを申し出た。
 男はよく働いた。慣れない海の仕事も村の男たちに教えを乞いながら必死に身に着けて、日焼けの知らない白い肌は日に日に焼けていく。手に豆ができ、傷ができ、村の男の手になった。
 女は生業の真珠の加工を続けながら毎日男の帰りを待った。温かい食事と湯を用意して、慣れない仕事に疲れた体を揉んでやる。その優しさに男は安らぎを覚え、惹かれていった。
 そして女も記憶のない不安を隠して村に溶け込もうとする男を傍で支えてやりたいと思った。

『あの方を見ていると胸が苦しい。手が触れ合うだけで気恥ずかしくて堪らない。でも舞い上がるほど嬉しい』
『彼女と目が合うと胸が高鳴る。逸らしてしまいたくなるのに、もっともっと見ていたい。見つめられたい』

『もっとあの方の傍にいたい』
『彼女に触れたい』

『何かあるたびあの方(彼女)のことを一番に思い出す』

『あの方(彼女)が恋しい』

「恋」

 と、ここまで読んですばるの手は止まった。
 物語の主な登場人物である男女が胸に秘めた感情に既視感を覚えたのだ。

「恋しい。恋しい……?」

 何度も呟きながら首を傾げる。
 皓月の傍にいると心が安らぐ。どきりと胸が高鳴る瞬間があって、気恥ずかしくて逃げ出したくなる時がある。だからといって離れていたいわけではなくて、触れていたいしもっとずっと傍にいたい。
 物語の中の男女はその気持ちに“恋しい”という名前を付けた。

「すばるは皓月に恋をしているの……?」

 物語の男女に倣って己の胸に手を当てて、皓月の姿を思い出してみる。
 いつも優しく見守ってくれる金色の眼差しと頬を撫でる温かい掌。抱きしめられた時の深い安堵。剣を振るう鋭い目に鍛え上げられた逞しい体。蕩けるように甘い声。まるで目の前にいるかのようにその姿が思い描けるしそれだけできゅうと胸が締め付けられた。
 もう少し読み進めると、物語の中で男女は抱える思いを告げて口付けを交わしていた。
 また同じようにすばるは想像してみる。
 頬を皓月の厚い掌に包まれ、すばると甘く名を呼ばれ、涼しげに整ったその顔が己に口付けようと近づいてくる。

『愛しい私のすばる……』

 すばるは書物を取り落とした。

「な……そんな、そんなの無理……っ!」

 信じられないくらいに心臓が早鐘を打って、顔から火が出そうだ。すばるは耳まで真っ赤に染まった顔を両手で塞いでそのまま床に倒れこんだ。言葉にならない呻き声をあげながら体を丸め、名前の付いてしまった感情に身悶える。
 頬や額に口付けられたことは数えきれない。唇が触れ合うからといって何が違うと思っていたが、想像だけで既に何もかも違った。
 すばるは己の唇に触れ、そっと撫でる。

「すばるは、皓月が好き。恋をしてる」

 小さく震える声で言葉にすると、全てが納得できた。

「ああ、これからどうしましょう……暫く皓月の顔がまともに見られる気がしません」

 かっかと熱を持つ頬を手で仰ぎながら呟く。
 皓月が留守中にことを起こして良かったのかもしれない。心の整理をつける時間が必要だ。すばるは少しでも冷静さを取り戻そうと落とした書物を手に取って、行儀悪く寝転がったまま再び本を読もうとして。

「すばる、今戻った」
「うっひゃあぁ?!?!?」

 再び書物を取り落とした。

「ななななんで?!帰りは明日じゃなかったですか?!」
「思いの外早く片付いたので戻ってきた。何かあったか?」
「ない!ないです!なにも!すばるは元気ですよ!おかえりなさい!」
「ただいま」

 突然の帰宅という不意打ちを食らってすばるは混乱の坩堝へ叩き落とされた。
 今正に自覚したばかりの感情に全く折り合いがついていない。この状態で皓月の顔を見るのは悪手でしかなく、すばるは必死に顔を逸らして手に持ち直した書物に顔を埋めた。
 一方皓月も過剰な驚き方をするすばるに首を傾げつつ、彼の持つ見慣れぬ書物に目を移した。

「娯楽本か。珍しいものを読んでいるな」
「え、ええっと。篝ちゃんが貸してくれて」

 流石に何のためにとは言えずにそう言うと、皓月は何も言わずにすばるの隣に腰を下ろした。そのまま当たり前のように膝の上にすばるを乗せ、三本の尻尾で体を包み込んでしまう。
 勿論それに慌てたのはすばるだ。面白いように心臓が跳ねて、思わず口から飛び出してしまいそうだった。

「こ、皓月……?!」
「嫌か?」
「い、嫌なわけありません!」

 娯楽本ならいいだろうと判断したのだろう。皓月は体全体ですっぽりとすばるを包み込んで閉じ込めてしまう。よくよく見ると皓月の顔には疲れが見える。その様子にすばるの混乱は形を潜め、肩に顔を埋める彼に気遣わしげな視線を落とした。

「どうか、したんですか?」

 抱きしめる腕にそっと手を重ね問いかける。

「いや、少し気疲れすることがあってな。すまないが、もう少しこのままでいさせてくれ」

 皓月の腕の力が強まる。大の大人が子供のように甘えて縋る様が愛おしくて、その姿を見ることを許されていることに嬉しくなる。

「勿論。いくらでもぎゅっとしてください。皓月の役に立てるなら、すばるは嬉しいです」

 恋しい人に頼られている。何かの役に立っているだけでも心が満たされて、すばるは柔らかく微笑んだ。

「皓月、大好きですよ」

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