58 / 63
5章
3.
しおりを挟む
「あの資料……別に必要なかったんですよ」
「え……?」
言われて思い出す。
鈴が信吉と会ったのは、会議に必要だと思われる資料が秘書室に置いたままになってたから――
「責任感の強い土屋さんなら持ってきてくれると思っていました。……実際、あなたは応接室に来て信吉様と会った」
うっとりするほど綺麗な笑顔を浮かべた古賀に喉奥が引き攣る。
「信吉様はあなたに一目惚れをして――すべて思惑のとおり」
気持ちが昂ってきたのか、古賀の愉快そうな声は段々と音量を増した。
「あとは、義父上に頼むだけ。信吉様があの女に惚れてしまったから婚約を解消したい。代わりにこのデータを渡すから無理矢理でも信吉様とあの女を結婚させてほしい――」
そのときのことを思い出したらしい。
堪えきれず笑い声をもらした古賀にぞくりと背筋が凍る。
「大好きな信吉様のため、と言ったときの義父上の顔といったら。ひどく感動して頷いてくれました」
「……つまり、全部古賀さんが仕組んだんですね」
不当請求も、信吉との婚約話も。
確信を持って口にすれば、不穏な笑みが返ってきた。
「社長も副社長も徳川公との取引は慎重でした」
――それは、そうだろう。
徳川が関与するものに対しての緊張感は鈴にも覚えがある。
「でも秘書のことは信頼していたみたいですね。だから取引のデータを一部変えて義父に渡すのなんて簡単でした。こっちに残っているデータも全て改竄してしまえば、誰もわからない」
「そんなことをして……、なにが目的なんですか」
信吉のことが好きなら鈴との婚約を推すはずがない。パウロニアを潰したいならもっと他に方法がある。こんな回りくどいことをする理由はいったい。
訊いた鈴に古賀は迷いなく答えた。
「あなたの不幸」
これ以上ないほど憎しみのこもった声に言葉を失う。
鋭い視線を受け止めた体は油断すれば震えそうだった。
「社長があなたにここまで肩入れするのは想定外でしたけどね。会社の将来と天秤にかけたらすぐにでも頷くと思っていたのに……」
踵を横に引いて壁から背を離す。
思っていたより古賀は前世のことを覚えているし、自分に対して良い感情を抱いていない。
少しでも逃げ場は残しておきたかった。
「……正成さまは、昔からとてもお優しいお方です」
窺うように口を挟むと、古賀が眉をぴくりと動かした。
「――あなたのそういうところが大嫌い」
吐き出すような声は普段の冷静な古賀からは想像できないほど感情豊かだ。
ぐっと距離を詰めた古賀の怒りに燃えた瞳が鈴を映す。
「社長や副社長、専務に守られて、そしてそれを当然として受け入れている。愛される努力をしないで幸せそうにその立ち位置にいるあなたが大嫌い」
ひどい言い草に唇を噛んだ。
――そんなの。
「お言葉ですが!」
腹に据えかねて、つい語気が強くなる。
一瞬怯んだように古賀が唇を引き攣らせた。
「私は努力をしたし、幸せなことばかりじゃなかった……!」
家事や剣術、馬術。男の人らしい所作。全部織之助に拾われてから、努力をして身につけたものだ。
体には生傷が絶えなかったし、逃げ出したくなるときもあった。
「前世での私をなにも知らないまま断言しないでください」
愛されていないとは言わない。
(士郎さんも正成さまも、織之助さまも。私のことを大切にしてくれていた)
でも、それは無償の愛ではない。
命を削って織之助さまに仕えたからこその愛情だ。
その前世があって今がある。
「私は織之助さまのことが好きでした。だから、誰よりも長く生きて幸せになってほしかったから、私は水戸に行くのを頷いたんです」
握りしめた拳が震える。
織之助の命と自分の身柄を比べたらどう足掻いても後者を差し出すしかない。
別にそれは構わなかった。なんなら自分の首を差し出すことさえ厭わなかっただろう。
けれど――それを幸せとひとまとめにされたくはない。
「織之助さまのためになれたことを思えば、たしかに幸せだったと言えるかもしれないけれど――」
鈴がそっと目を伏せた。
「両親と死に別れて、拾われた先で男装をして、自分と周りを騙して。認められたと思ったらそばにいたくてしょうがなかった人と離ればなれになって」
それでもあのときは言えなかった。
好きだとも、離れたくないとも――、とても口には出せなかった。
「挙げ句の果て見知らぬ土地に着くや否や殺されて……。幸せだと思いますか」
なかったことにしたいとは思わない。
だけど同じ運命は繰り返したくない。
「だから、今世ではもうワガママになることにしたんです」
今はもう、気持ちを伝えてもそれを受け入れてくれる人がいることを知っている。
強くまっすぐ前を見据えて鈴が堂々と口を開いた。
「なにがあっても絶対あなたの思い通りにはさせない。織之助さまも、会社も、全部諦めません!」
言い切った鈴に古賀がぐっと声を詰まらせる。
「それに! 信吉さまが好きだと言うなら、なぜ私より先に信吉さまを狙ったんですか」
勢いのまま捲し立てた鈴は、古賀が右手に何かを忍ばせたことに気づいていない。
「自分のことしか考えてないのはあなたのほ――」
「こ、この――――っ!」
激昂した右腕が大きく振り上げられる。
鈍く光ったのは、と認識するより先に強い力で腕を引かれた。
「……気は済んだか」
「え……?」
言われて思い出す。
鈴が信吉と会ったのは、会議に必要だと思われる資料が秘書室に置いたままになってたから――
「責任感の強い土屋さんなら持ってきてくれると思っていました。……実際、あなたは応接室に来て信吉様と会った」
うっとりするほど綺麗な笑顔を浮かべた古賀に喉奥が引き攣る。
「信吉様はあなたに一目惚れをして――すべて思惑のとおり」
気持ちが昂ってきたのか、古賀の愉快そうな声は段々と音量を増した。
「あとは、義父上に頼むだけ。信吉様があの女に惚れてしまったから婚約を解消したい。代わりにこのデータを渡すから無理矢理でも信吉様とあの女を結婚させてほしい――」
そのときのことを思い出したらしい。
堪えきれず笑い声をもらした古賀にぞくりと背筋が凍る。
「大好きな信吉様のため、と言ったときの義父上の顔といったら。ひどく感動して頷いてくれました」
「……つまり、全部古賀さんが仕組んだんですね」
不当請求も、信吉との婚約話も。
確信を持って口にすれば、不穏な笑みが返ってきた。
「社長も副社長も徳川公との取引は慎重でした」
――それは、そうだろう。
徳川が関与するものに対しての緊張感は鈴にも覚えがある。
「でも秘書のことは信頼していたみたいですね。だから取引のデータを一部変えて義父に渡すのなんて簡単でした。こっちに残っているデータも全て改竄してしまえば、誰もわからない」
「そんなことをして……、なにが目的なんですか」
信吉のことが好きなら鈴との婚約を推すはずがない。パウロニアを潰したいならもっと他に方法がある。こんな回りくどいことをする理由はいったい。
訊いた鈴に古賀は迷いなく答えた。
「あなたの不幸」
これ以上ないほど憎しみのこもった声に言葉を失う。
鋭い視線を受け止めた体は油断すれば震えそうだった。
「社長があなたにここまで肩入れするのは想定外でしたけどね。会社の将来と天秤にかけたらすぐにでも頷くと思っていたのに……」
踵を横に引いて壁から背を離す。
思っていたより古賀は前世のことを覚えているし、自分に対して良い感情を抱いていない。
少しでも逃げ場は残しておきたかった。
「……正成さまは、昔からとてもお優しいお方です」
窺うように口を挟むと、古賀が眉をぴくりと動かした。
「――あなたのそういうところが大嫌い」
吐き出すような声は普段の冷静な古賀からは想像できないほど感情豊かだ。
ぐっと距離を詰めた古賀の怒りに燃えた瞳が鈴を映す。
「社長や副社長、専務に守られて、そしてそれを当然として受け入れている。愛される努力をしないで幸せそうにその立ち位置にいるあなたが大嫌い」
ひどい言い草に唇を噛んだ。
――そんなの。
「お言葉ですが!」
腹に据えかねて、つい語気が強くなる。
一瞬怯んだように古賀が唇を引き攣らせた。
「私は努力をしたし、幸せなことばかりじゃなかった……!」
家事や剣術、馬術。男の人らしい所作。全部織之助に拾われてから、努力をして身につけたものだ。
体には生傷が絶えなかったし、逃げ出したくなるときもあった。
「前世での私をなにも知らないまま断言しないでください」
愛されていないとは言わない。
(士郎さんも正成さまも、織之助さまも。私のことを大切にしてくれていた)
でも、それは無償の愛ではない。
命を削って織之助さまに仕えたからこその愛情だ。
その前世があって今がある。
「私は織之助さまのことが好きでした。だから、誰よりも長く生きて幸せになってほしかったから、私は水戸に行くのを頷いたんです」
握りしめた拳が震える。
織之助の命と自分の身柄を比べたらどう足掻いても後者を差し出すしかない。
別にそれは構わなかった。なんなら自分の首を差し出すことさえ厭わなかっただろう。
けれど――それを幸せとひとまとめにされたくはない。
「織之助さまのためになれたことを思えば、たしかに幸せだったと言えるかもしれないけれど――」
鈴がそっと目を伏せた。
「両親と死に別れて、拾われた先で男装をして、自分と周りを騙して。認められたと思ったらそばにいたくてしょうがなかった人と離ればなれになって」
それでもあのときは言えなかった。
好きだとも、離れたくないとも――、とても口には出せなかった。
「挙げ句の果て見知らぬ土地に着くや否や殺されて……。幸せだと思いますか」
なかったことにしたいとは思わない。
だけど同じ運命は繰り返したくない。
「だから、今世ではもうワガママになることにしたんです」
今はもう、気持ちを伝えてもそれを受け入れてくれる人がいることを知っている。
強くまっすぐ前を見据えて鈴が堂々と口を開いた。
「なにがあっても絶対あなたの思い通りにはさせない。織之助さまも、会社も、全部諦めません!」
言い切った鈴に古賀がぐっと声を詰まらせる。
「それに! 信吉さまが好きだと言うなら、なぜ私より先に信吉さまを狙ったんですか」
勢いのまま捲し立てた鈴は、古賀が右手に何かを忍ばせたことに気づいていない。
「自分のことしか考えてないのはあなたのほ――」
「こ、この――――っ!」
激昂した右腕が大きく振り上げられる。
鈍く光ったのは、と認識するより先に強い力で腕を引かれた。
「……気は済んだか」
0
お気に入りに追加
57
あなたにおすすめの小説
邪悪な魔術師の成れの果て
きりか
BL
邪悪な魔術師を倒し、歓喜に打ち震える人々のなか、サシャの足元には戦地に似つかわしくない赤子が…。その赤子は、倒したハズの魔術師と同じ瞳。邪悪な魔術師(攻)と、育ての親となったサシャ(受)のお話。
すみません!エチシーンが苦手で逃げてしまいました。
それでもよかったら、お暇つぶしに読んでくださいませ。
裕也の冒険 ~~不思議な旅~~
ひろの助
キャラ文芸
俺。名前は「愛武 裕也」です。
仕事は商社マン。そう言ってもアメリカにある会社。
彼は高校時代に、一人の女性を好きになった。
その女性には、不思議なハートの力が有った。
そして、光と闇と魔物、神々の戦いに巻き込まれる二人。
そのさなか。俺は、真菜美を助けるため、サンディアという神と合体し、時空を移動する力を得たのだ。
聖書の「肉と骨を分け与えん。そして、血の縁を結ぶ」どおり、
いろんな人と繋がりを持った。それは人間の単なる繋がりだと俺は思っていた。
だが…
あ。俺は「イエス様を信じる」。しかし、組織の規律や戒律が嫌いではぐれ者です。
それはさておき、真菜美は俺の彼女。まあ、そんな状況です。
俺の意にかかわらず、不思議な旅が待っている。
カメリアの王〜悪女と呼ばれた私がゲームの悪女に憑依してしまった!?〜
アリス
ファンタジー
悪女。それは烙印。何をしようと批判される対象。味方は誰もいない。そんな人物をさす。
私は大人気ゲームをしているうちに悪女に設定されたレイシーに同情してしまう。そのせいかその日の夢でレイシーが現れ、そこで彼女の代わりに復讐することを約束してしまい、ゲームの世界に入ってしまう。失敗すれば死は免れない。
復讐を果たし死ぬ運命を回避して現代に戻ることはできるのか?
悪女が悪女のために戦う日々がいま始まる!
カクヨム、なろうにも掲載中です。
嫌われ変異番の俺が幸せになるまで
深凪雪花
BL
候爵令息フィルリート・ザエノスは、王太子から婚約破棄されたことをきっかけに前世(お花屋で働いていた椿山香介)としての記憶を思い出す。そしてそれが原因なのか、義兄ユージスの『運命の番』に変異してしまった。
即結婚することになるが、記憶を取り戻す前のフィルリートはユージスのことを散々見下していたため、ユージスからの好感度はマイナススタート。冷たくされるが、子どもが欲しいだけのフィルリートは気にせず自由気ままに過ごす。
しかし人格の代わったフィルリートをユージスは次第に溺愛するようになり……?
※★は性描写ありです。
木漏れ日の中で…
きりか
BL
春の桜のような花びらが舞う下で、
その花の美しさに見惚れて佇んでいたところ、
ここは、カラーの名の付く物語の中に転生したことに俺は気づいた。
その時、目の前を故郷の辺境領の雪のような美しい白銀の髪の持ち主が現れ恋をする。
しかし、その人は第二王子の婚約者。決して許されるものではなく…。
攻視点と受け視点が交互になります。
他サイトにあげたのを、書き直してこちらであげさしていただきました。
よろしくお願いします。
巻き添えで召喚された会社員は貰ったスキルで勇者と神に復讐する為に、魔族の中で鍛冶屋として生活すると決めました。
いけお
ファンタジー
お金の執着心だけは人一倍の会社員【越後屋 光圀(えちごや みつくに)】
ある日、隣に居る人が勇者として召喚されてしまうのに巻き込まれ一緒に異世界に召喚されてしまう。
勇者に馬鹿にされた光圀は、貰ったスキルをフル活用して魔族の中で鍛冶屋として自ら作った武器を売りながら勇者を困らせようと決意した!?
なにがなにやら?
きりか
BL
オメガバースで、絶対的存在は、アルファでなく、オメガだと俺は思うんだ。
それにひきかえ俺は、ベータのなかでも、モブのなかのキングモブ!名前も鈴木次郎って、モブ感満載さ!
ところでオメガのなかでも、スーパーオメガな蜜貴様がなぜに俺の前に?
な、なにがなにやら?
誰か!教えてくれっ?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる