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2.王太子と王太子妃

3.故国は遠く

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 暗がりの中で、ざあああ、という音が響く。
 これはマリッサにとって馴染みの深い音。寄せては返す、波の音だ。どこから聞こえるのだろうと思いながら見回そうとした時、ふいに名を呼ばれる。

「マリッサ」

 呼ばれて振り返ろうとし、マリッサはすぐにその必要がないと気付く。声の主の顔は横にあった。良く知るその姿は最後に見た時のものよりずいぶんと若い。

「はい、お父様」

 返事をする自分の声も高かった。そもそも20歳のマリッサは片手で抱きかかえられるような大きさではないのだから、つまりこれは現実ではないのだろう。
 その考えを裏付けるように、いつの間にか目の前には青い海が遥か遠くまで広がっていた。――今はもう見ることのない、故国の景色だ。

「いいかい、マリッサ。お前は海に選ばれた者。よっていずれ、別の国へと行くのだ」

 神妙な気持ちでマリッサはうなずく。今までに何百回、何千回と聞かされたこの言葉はマリッサの一部となっている。続いてなんと言われるのか思い出す必要すらないほどだ。

「嫁いだ国こそを真の故郷とし、国と夫の幸せを願いながら生きるのだよ」

 ざあああ、と音がする。寄せては返す、波の音。

「それが――」
(それが――)

 波の音が鳴り渡る。マリッサの声と父の声が混ざり、響き合う。

『海の瞳を持つ者の宿命だ』

 でも、とマリッサは声をあげた。

(でも、お父様。私は夫の幸せを祈ることができないの)

 波の音が鳴り渡る。声は波の音にかき消される。

(夫は私のことを嫌っているの。私は夫の――ハロルドの幸せが分からないの)

 懸命に呼びかけるが、口元に笑みを浮かべる父には届かない。

「可愛いマリッサ。お前はきっと、新たな国の民にも、夫にも、深く愛されるよ」

 いいえ、とマリッサは首を振る。

(ハロルドは私を見てくれないの。私のことを嫌っているの)

 涙を浮かべて父王へ呼びかけても、声はすべて波の音にさらわれる。

「未来のお前が幸せになれるよう、良い行き先を探してあげるからね」

(でも、私では駄目なの! ハロルドの幸せが分からないの!)

「幸せになったお前が、皆を幸せにするんだよ」

(お父様、お父様! ねえ、私はどうしたらいいの!?)

 声を届けようと力を振り絞り――マリッサは目を開いた。起き上がって窓へ顔を向けると、外では風に揺らされる木々が波のような「ざあああ」という音を立てている。

(ああ……夢……)

 小さな息を吐いたマリッサは目の端に残っていた涙をぬぐう。隣で眠るハロルドを起こさないようにそっと床へ降り立ち、昨夜のガウンを纏って続き部屋の扉をそっと開けた。

 夫と夜を過ごした翌朝、マリッサは日が昇るよりも前に起きる。湯浴みをして夜の名残を落とした後、全身に香油を摺り込んでから身支度を整えるためだ。続いて化粧を施してもらっていると、後ろから侍女たちが尋ねてくる。

「王太子妃殿下。今朝はどのドレスをお召しになりますか?」
「湯上りにラヴァンドゥラの香油を使いましたから、ラヴァンドゥラの花に合わせて紫にするのはいかがでしょうか?」

 先日仕立てあがったばかりのドレスは薄い紫色をしていた。侍女たちはあれを着せたいのだろうと察してマリッサは心の中だけで微笑む。化粧をしてもらっている今、表情を動かすわけにいかない。

「そうね。あの新しいドレスがいいわ」
「かしこまりました、ご用意いたします」
「細身のドレスですから、そのぶんおぐしは華やかに結いますね」

 侍女たちも5日ごとに来る朝はいつも気合が入っている。もちろんハロルドがいるからだ。「美しい妃を見てもらいたい」と思ってくれていることがマリッサにも伝わってくる。

 しかしこの半年、侍女たちの努力が実を結んだことは無かった。

 何しろハロルドはマリッサを一顧だにせず部屋を立ち去ってしまう。無念そうな侍女たちに申し訳なくてマリッサはいつも「朝食を一緒に」と誘ってみるのだが、ハロルドが首を縦に振ったことは一度もなかった。

 それでも侍女たちは「妃をもっと美しくすれば、王太子は見てくれるはずだ」と思っているらしい。決して気を落とすことなく、手を抜くことなく、いつも特別な朝のことを考えてくれている。

(だから、私が挫けてはいけないのだわ)

 例え、夫に嫌われている妃でも。
 5日ごとに来る朝で、そのことを何度思い知ろうとも。
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